「すべてのものは神に」 コリントT 三章一八ー二三節

 パウロは、自分の知恵を誇って、自己主張をして教会を分裂させている人々に対していうのであります。「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたの誰かが、自分はこの世の知恵ある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」。

 これはソクラテスの有名な言葉、無知の知、つまり、本当の知というのは、自分がなにも知らないということを知ることが、本当の知だという意味のことではないと思います。それと同じような事をパウロも言っております。たとえば、同じコリントの第一の手紙の八章の一節からのところで、こう言っております。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造りあげる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです」とあります。これなんかは、ソクラテスのいう無知の知こそ最高の知恵だということと似ていると思います。

 つまり自分の知性の限界を知りなさい、人間の知性の限界を知りなさいということであります。

しかし、ここではそういうことではなくて、本当の知恵者になるために愚かになれといっているのであります。これは人間の知性の限界を悟れということではないし、またこれは知性の放棄を勧めているわけでもないと思います。幼児性を奨励しているわけでもないのです。パウロはその前のところでは、「信仰に成熟した人たちの間では、知恵を語る」といっているのです。そしてパウロはすぐそれに続けて、その知恵とは「この世の知恵ではなく、、また、この世の滅び行く支配者たちの知恵ではなく、隠されていた神秘としての神の知恵だ」というのです。

 この手紙の後のほうで学ぶことになりますが、自分は知性というものを大事にしているとパウロ自身がのべているところがあります。それはコリント教会のなかで、異言、異なる言葉と書きますが、異言を語る人が出てきて、これはコリント教会だけでなく、初代の教会に流行したようなのですが、教会を混乱させたようなのです。その異言というのは、わたしにはよくわからないのですが、なにか霊にとりつかれたようにして言葉にならないことを語りだして、あたかも信仰深い神秘的なことを語りだす人がいて、教会を混乱させているのをパウロは非難して、そんなわけのわからない異言を語る者を信仰的だなどと思うな、自分は霊で祈ると共に、知性でも祈ろう、霊で賛美すると共に、知性でも賛美しようといっているところがあります。

 パウロという人は、知性というものを非常に重んじた人であります。それだけにまた人間の知性の傲慢さもよく知っていた人であります。

 ですから、ここでパウロが本当の知恵者になるためには、愚かになれ、といっている愚かさとは、ただ知性の限界を述べるとか、知性を放棄しなさいということではなくて、今までに学んできましたように、それは十字架の愚かさに徹しなさいという愚かさであります。
 神の子イエス・キリストがみずから十字架で辱められて殺されていった、神の子が栄光の座を捨てて、人間の低さに徹した、勝つことによってではなく、負けることによって、得をすることによってではなく、損することによって、人間の救いの道を示された。それによって人間の傲慢さが打ち砕かれ、人間の傲慢な知性が打ち砕かれていったという十字架の愚かさであります。

 本当の知者になるために、十字架の愚かさという知恵を身につけなさいということであります。それはわたしが葬儀のたびにたびたび引用する永瀬清子さんの詩の中にでてくる言葉にある、「これらの事はどこの田舎の老婆でも知っていることであり、女子大学で教えないだけなのだ」という知恵であります。

 もうさいさい紹介していますが、それはこういう詩であります。「女性は男性よりも先に死んではいけない、男性よりも一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない、男性がひとり後に残ったならば、誰が十字架からおろし、埋葬するであろうか。聖書にあるとおり女性はその時必要なのであり、それが女性の大きな仕事だから、あとに残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男よりも弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつり込まれることはない」といったあと、そのあとで、「これらの事はどこの田舎の老婆でも知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ」という痛烈な言葉で締めくくられるのであります。

 女子大学で教えない知恵、世間からは、だから女性は理性的でないとか世間を知らないとか、愚かだ、と軽蔑される知恵であります。

 ここで永瀬清子さんは、「男性がひとり後に残ったならば、誰が十字架からおろし埋葬するだろうか。聖書に書いてあるとおり女性はその時必要なのだ」と言っておりますが、本当は聖書では、イエスを十字架からおろし埋葬したのは、女性ではなく、アリマタヤのヨセフという男性なのです。女性ではないのです。これは永瀬清子さんの勘違いではなくて、イエスを本当に埋葬したのは、アリマタヤのヨセフではなく、ナルドの香油を注いで、イエスの葬りの用意をしたという女性のことを思い浮かべていたのはないかと思います。

 それはイエスが弟子達に、自分はこれから十字架で死ぬ、十字架で殺されることになると言っているにも拘わらず、弟子達はそのことを少しも理解しないでいるときに、イエスの一行がある家で食事の席についていたときに、そこにいきりなり一人の女が純粋で高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもって来てそれを壊し、その香油をイエスの頭に注いだのであります。そこにいた弟子達はなんでそんなもったいないことをしているのか、これを売って貧しい人々に施したほうがよほど良いのに」と非難した。
 そのとき、イエスは「なぜそんなことをいうのか。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女は前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ」といって、大変喜ばれたのであります。

 ある人がここを説明して、「弟子達がこの期に及んでなお悟れなかったことを、この女ははっきりと見ることができたのだ。人は自分の愛する者のことについては、敏感に感じるものだ。どんなに隠していても、その心を知ることができる、その運命について何かを感じこともある」といっているのであります。

 永瀬清子さんは、この女のことを思いだして、イエスを本当に埋葬したのは、アリマタヤのヨセフという男性ではなく、この女なのだと思ったに違いないと思います。

 この女のしたことは、みんなに非難されたのです。そんなもったいないことをして、なんと愚かなことだといって非難されたのです。しかしその非難の中で、この女はただイエスひとりのことを思い、その死を予感し、何とかして、イエスに感謝の思いをあらわそうとしたのであります。聖書はこの女についてはそれまで何も書いてはおりませんが、この人はおそらくイエスから罪の赦しの言葉をかけられたことがあったに違いないと思います。そうでなければ、こうしたことはできなかったと思います。

 この世の知恵は、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施したほうがいいということであります。イエスもそれを決して否定はしていないのです。貧しい人々はいつもいるから、そうすればいいだろうと言われているのです。しかしイエスは今十字架で死のうとしているのです。イエスに感謝の思いをあらわすのはこの時しかないのです。その時にこの女は世間的には愚かだと言われるかもしれないことをイエスにした。それに対して、イエスはどんなに喜ばれたか。あの弟子達が誰も自分の死を理解していないときに、ただ一人自分の死を悟り、葬りの用意をしてくれる人がいたということを知って、イエスはこういうです。「この女のしたことは、福音が語られる時、全世界で述べ伝えられるだろう」と、最大限の言葉でお褒めになったのであります。

 人を愛するということは、今死にいこうとしている人、今挫折している人の傍らに立ち、その死を悲しみ、その挫折を知ってあげるということです。自分の知性を捨てて、自分の誇りを捨てて、どんなに馬鹿にされようが、自分のもてるものを全て捨てて、その傍らにいてあげることであります。

 この女が高価な香油をイエスに注いでも、イエスの十字架の死をとめられたわけではないのです。なんの効果ももたらしてはいないのです。しかしイエスはこの女の感謝の気持ちを受けて、自分が十字架で死ぬ覚悟をさらに強くしたことはあったと思います。
 
 もう確実に死んでいくとわかっている人のかたわらにただいても、その人の死を止めることも、引き延ばすこともできないのです。しかし死んでいく者にとって、そういう人が自分の傍らにいてくれるということは、どんなに慰めであるかわからないと思います。
ですから、葬りの用意をするということは、何も死んでから立派な葬式をしてあげるというようなつまらないことではなく、その人が生きている時に、その人が挫折している時に、その人が生きていて、弱り果てているときに、その人のかたわらにいてあげるということであります。

 愛というのは、もしその愛が自分の得を考えるのではなく、愛の効果を計算するのでもなく、愛の効果を計算するということは、結局は愛の見返りを計算するということでしかないと思いますが、そういうことではなく、愛というのはただひたすら相手のことを思い、へりくだって相手のことを思いやることであります。そういう愚かな愛が人を支え、慰めるのではないか。

 本当に知恵ある者となるために愚かになりなさいというのは、愛の愚かさに徹しなさいということであります。いつもいつも計算高い生き方をするのをやめなさいということであります。
 
 パウロは続けて、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」といったあと、旧約聖書のヨブ記の五章一三節の言葉、「神は知恵ある者たちを、その悪賢さによって捕らえられる」を引用します、これは原文では、「知恵ある者はさかしさの罠にかかり、よこしまな者はたくらんでも熟さない」という言葉ですが、それを引用しております。この世の知恵、われわれのもっている知恵はみな計算づくなのです。自分だけが儲かろうとする知恵なのです。しかしその知恵は結局は最後には自分をただ破滅させるだけだということであります。
 
 コリント教会の人々は自分は知性がある、だからパウロよりは、アポロの説教のほうが知的でいいと言い出していたのであります。そうしては、アポロをほめているようでいて、結局はアポロをダシにして自分たちの知性を誇っていたのであります。そんな知性は教会を分裂させるだけだというのです。
 
 パウロはもう一つの旧約聖書の詩編の言葉を引用しております。「主は知っておられる。知恵ある者たちの論議をむなしいことを」。これは詩編の九四編の一一節ですが、旧約聖書のほうはこうなっております。「主は知っておられる、人間の計らいを、それがいかに空しいかを」。
 人間の知性とは、結局は人間の計算高い計らいなのだということであります。それがいかに空しいことか。
 
 そしてパウロはこう続けます。「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」。そのあと、「すべてはあなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの」というのです。ここでいわれている「あなたがたのもの」というのが何を指すのかよくわからない。ある人は、これは前のところで、「あなたがたは神殿なのです」という言葉があるから、これは教会のことをさしているのだといっております。それならば、もっとはっきり、すべてのものは教会にあるといってもいいと思うのですが、またある人はこう説明しております。「キリスト者はあらゆる人間、世界、運命、時間のすべてに対して主人であり、自由である」ということだというのです。この説明のほうがわかりやすいと思います。

 つまり、今コリント教会の人は、わたしはパウロにつく、アポロにつくとかいってお互いに主導権争いの中に巻き込まれている。どの派閥についたら得だろうかと右往左往しているのです。自分の得とか、名誉とか、誇りというものに捕らわれて右往左往している、そういう人々に対して、あなたがたはそんなものの奴隷になる必要はないではないか、そうしたものからもっと自由になれるはずではないかということではないかと思います。
 なぜならば、「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」なのだからというのです。
 
 一切は結局は神のものなので、神がすべをとりしきるのだから、神のみが絶対的なものなのだから、従ってあとはすべて相対的なもの、ある意味ではどうでもいいことなのであって、パウロにつこうが、アポロにつこうか、そんなことはどうでもいいではないか、パウロについたら将来のことは保証されるとか、そんな小さなことをちまちまと考える必要はない、すべては神に委ねなさい、神の裁きに委ねて生きていけばいいということをここでパウロは言おうとしているのではないかと思います。

 大事なことは、一切は神のものなのだ、すべてのものを神に委ねればいいということであります。神が最後にすべてを公平に正しく裁いてくださるのだから、その神の裁きに委ねようということであります。