「死の陰の谷を歩む時」

 「死の陰の谷を歩む時」  詩篇二三編 マタイによる福音書一○章二八ー三一節

 永瀬清子さんの詩で、「悲しめる友よ」という詩があります。これは愛する人を失って悲嘆にくれている友人を慰めるための詩という形になっています。こういう詩です。
 「悲しめる友よ、女性は男性よりもさきに死んではいけない。男性よりも一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない。男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。聖書に書いてあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男よりも弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。」

 人を本当に愛するということは、その人の最期を看取ってあげるということだというのです。ひとの死を葬るということは、これは女性の仕事、男性の仕事というのではなく、これは女とか男とかを越えて、人を愛そうとする時にしなくてはならない仕事だということなのです。といいますのは、聖書によれば、実際には十字架からイエスの死体を受け取り埋葬したのは、アリマタヤのヨセフという男性だったからなんです。しかし本当の意味でイエスの死の葬りをしたのは、イエスの頭にナルドという大変高い香油を注いだひとりの女だったのだと聖書は告げているからです。
 
 それはどういうことだったかといいますと、イエスがもう自分が十字架で死ぬ一週間前のことですが、シモンという人の家で弟子達と一緒に食事をしていた時であります。イエスはその時はもう自分が十字架で死ななくてはならないということを覚悟して、それを弟子達に告げるのですが、弟子達はそのことがひとつも理解できずにいるときに、イエスと呑気に食事をしていたのです。そこにひとりの女がその食事の席に入って来て、いきなり高価なナルドの香油を注いだのです。それを見て弟子達は非難した。なんてこんなもったいないことをするのか、これを売って貧しい人に施したほうが良いのにというのです。しかしその時、イエスはこの女のしたことに大変感動されて、「この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだ」と言われたのであります。自分の弟子達は少しも自分の死を理解してくれていない、しかしその時にただひとり自分の死を予感して自分に香油を注いでくれた女がいる、そのことがイエスにとってどんなにうれしかったかわからないのです。
 ある人がここのところこう説明してりおます。「人は自分の愛する人の運命に何かを感じるものだ、この女はイエスの弟子達がこの期に及んでも悟れなかったことを敏感に感じて、はっきりと見ることができたのだ。イエスの身にこれから何かとんでもないことが起こるということを察知してこういう行動にでたのだ」と説明しております。イエスの葬りの用意をしたのは、本当はアリマタヤのヨセフという男性ではなく、この女なのです。そのことを永瀬きよ子さんは言っているのです。
 
 ですから、死の葬りをする、死んでいくひとを看取るということは、これは女性の仕事、男性の仕事ということではない。また、実際に死んだ時にあわてて立派な葬式をしてあげるというようなつまらないことではなく、本当はその人が生きている時に、その人の死を見通して、予感して、その人の死の葬りの用意をしてあげることなのではないかと思います。

  ひとを愛するということは、その人の死を看取ってあげる、やがてその人が死ぬことを知って、その挫折を被ってあげるということなのです。人を愛するということは、相手が一番弱っている時に、その人のかたわらにいてあげるということなのだということなのです。それは弱っている人、悲しんでいる人、困っている人に何かを忠告してあげるとか、ものをもっていってあげるということではなくて、その人の傍らにいてあげるということなのです。聖書の言葉に、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみなさいというパウロの言葉があります。そしてそれが人を本当に愛することだというのであります。その人の傍らにいる、それが愛するということなのです。

 わたしは昨年息子を亡くしました。息子は三十三歳という働き盛りで死んでいきました。そのために死の不安というものに最期までさいなまれて、それを看取るということは親として大変つらいことでした。息子は悪性リンパ腫というガンに冒されて、二年の病院生活をして一時はよくなって会社にも復帰できたのですが、その後再び身体に変調を来して、ガンの再発というのではないのですが、放射線治療と抗ガン剤の大量投与ということで身体が全体的に弱っていって、死んでしまいました。

 こんな個人的なことを公の礼拝の場でお話をするというのは、どうかと思われるかもしれません。このような交換講壇の礼拝の説教で話すことをだいぶ躊躇しましたが、あえて話させてもらおうと思って今日はこの礼拝の講壇に絶っております。この息子の死については、今まで何回も機会をとらえて話してまいりました。もちろん自分の教会で話をしてきました。彼の葬儀は友人の牧師に頼んだのですが、その前夜式にはわたしが式辞をのべさせてもらって、彼のことを話しました。前夜式というのは、多少はうちわの式ということもありまして、その司式はその牧師にしてもらったのですが、式辞はあえて親であるわしたしがさせてもらいました。親があまりそうした式で話すということはよくないことだとは知ってはいたのですが、あえて話をいたしました。それは息子についてはやはり親であるわたしが一番よく知っていると思ったからです。なんとかして、みんなに少しでも彼のことを、彼の短い一生のことを記憶にとどめてもらいたいと思ったからであります。
 
 大江健三郎がノーベル文学賞をもらいましたが、その表彰式に出かける時に、彼の義理の兄である、あの自殺してしまった伊丹十三からこんなことを言われたというのです。「君がデンマークにいったとき、世界の新聞記者からきっと聞かれることがある、『あなたはどうして広島の原爆にこだわるのか。戦争で死んだ人はなにも広島の原爆だけではないのに、どうして広島の原爆で死んだ人にこだわるのか』と聞かれるだろう。その答えを用意しておいたほうがいい」といわれたそうです。それで彼はこういう答えを用意したというのです。「原爆の死というものがなぜほかの死と比べて悲惨かというのは、原爆による死というのは、死んでいく人とその人の死を記憶してあげることのできる家族も友人も知人もみな同時に一瞬のうちに死んでしまうということだからだ。自分の死を記憶してくれる人も同時に死んでしまう、自分の死を自分の生というものを誰も記憶してくれる人がいないということがどんなに悲惨であるか」、そういう答えを用意したというのです。そして実際にそういう質問を外国の記者から受けてそのように答えたということであります。
 
 わたしの息子は三十三というまだこれからというときに死んでしまった。そのことを思うとわたしは親として無念でしかたないのです。やりたいことをいっぱいあったのにという無念の気持ちがいっぱいあります。彼は社会的になんの貢献をしたわけではありません。人の記憶に残るような立派な人生を歩んだわけでははありません。それだけに彼のことを少しでも多くの人の記憶にとどめてもらいたい、一人の若者が死を前にしてどんなに不安であったか、そしてどのように死んでいったかを知ってもらいたいと思いまして、彼が死んでからあらゆる機会をとらえて彼の死について話しをしてまいりました。自分の教会の礼拝で、また彼の記念会で、そして大学の礼拝などで話をする機会が与えられたときに話をいたしました。昨年の十一月には、彼が生まれ育ったわたしの前任地の四国の愛媛県の大洲教会でも記念会してくれるというので、行ってきまして、彼の短い生涯と死について話をしてまいりました。恐らく今日この教会で彼の死について話す最後になるのではないかと思います。

 彼が死ぬ一週間は彼を見舞いにいきますと、彼は親の顔を執拗に追ってじっと見つめようとしました。それは特に面会時間が切れるころになると親の顔を代わる代わる見つめる、そうしては、もう少しいてくれ、あと十分いてくれとだだをこねました。特にそれは母親に対してそうでした。妻が病室にいきますと、彼は待ってましたとばかり待っていて、妻が洗濯をしてくるからといいますと、それでは洗濯は一分でしてきてくれ、そしてここに座ってくれと椅子を指示するようなことが続きました。
 
 彼は倒れてからはもう赤ちゃんのようになってわれわれ親に、特に母親に甘えました。その時から彼は本能的に自分の死を予感していたのではないかと思います。それでその死の不安にひとりではどうしても耐えきれない、誰かがそばにいてほしいと切実に求めたのだと思います。
 彼は病院はどうしてもいやだといって、最後は入院しましたけれど、その前のひと月前は自分の家で療養しました。その時はどんなに睡眠薬や精神安定剤を飲みましてもひとつも効かないで、夜眠れない不安のなかで、親を起こしまして、一緒に話しをしてくれといいまして、彼は自分の小さい時からのことをせきを切ったように話し始めました。それまで親が全然気がつかなかったことで、彼がどんなに悩み、傷つき、苦しんできたかということを始めて知らされたのであります。どうして自分の子について親がこんなに無知だったのだろう、鈍感だったのだろうと思わせられることばかりでした。
 
 ともかく夜はまるで赤ちゃんに返ってしまいました。夜眠れないので、一緒に手を握ってくれといったり、子守歌を童謡を歌ってくれといったり、お祈りをしてくれといったり、一緒に大きな声で「主の祈り」を祈ったり、讃美歌を一緒に歌おうと言ったりしました。彼は信仰というものをそれまであまり自覚的には自分のものにはしてきませでした。高校生の時に洗礼はうけましたが、それも牧師である親の薦めでしたようなもので、礼拝もいわば親に対する義理みたいなもので出席するという程度のものでした。就職先は静岡でしたが、そこではたぶんほとんど教会の礼拝には出席していなかったのではないかと思います。わたしも牧師でありながら、自分の子供たちには信仰をあまり強制したくないということもあって、自主性にまかせていたのです。そんなわけで、彼のそらで歌える讃美歌は「きよしこの夜」だけだったので、それを深夜大きな声で歌いました。土曜の深夜でも「お父さんドライブにつれていってくれ」と要求して、新宿の都庁のあたりを深夜なんどもドライブさせられました。彼は車が大変好きだったので、車に乗っていると安心して眠れるということがあったのです。ドライブを しますと、彼は車の中で安心して眠ったりしますので、彼を起こさないようにして朝まで一緒に車のなかで寝たことも何回かありました。
 
 このことを通して、わたしが考えさせられたことは、人はある時には赤ちゃんのようになって親の愛というものをそれこそべったりと受けられないと死ねないのだということなのです。自分は親からそのようなべったりとした愛を受けているんだという確信をもてないと人は死にきれないのだいうことでした。そうした動物的ともいえるかも知れないべったりとした愛をわれわれ人間は赤ちゃんだけでなく、大人にも必要なのだということです。赤ちゃんの時にそうしたべったりとした親の愛を必要とすると共に、人が死んでいくときにも、やはり誰かからそのようなべったりとした愛の支えがないとわれわれは大人でも死にきれないのだということであります。
 主イエス・キリストの言葉に、「人は心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできない」という言葉があります。息子は最後にみずから幼子ような幼児性にもどってしまって、天国にいこうとしたのではないか。その具体的なものとして親の愛を兄弟の愛を家族の愛を切実に求めていたのではないか。
 
 つい最近ある牧師から聞いたことですが、その甥っ子がやはりわたしの息子と同じくらいの年齢の若者だそうですが、舌ガンになってその手術を受けたそうです。舌の一部を切り取って、おなかの皮膚から移植するという大変な手術で、一二週間は顔は固定されて身動きできない状態がつづくのだそうです。もちろん口はきけないわけです。面会時間が終わって、母親が帰る時に、なにかほしいものはないかと聞きますと、彼は母親の手のひらに、もう少しいてくれ、と筆談で書いてきたということです。その若者は一時はよくなって退院しましたが、つい最近ガンが転移したらしく大変な苦しみのなかで先日なくなってしまったことを聞きました。
 
 前にある新聞に看護婦さんが安楽死について書いていて、本当の安楽死というのは楽になる注射をうつとか施設をよくするとかということではなく、本当の安楽死というのは、病人にとって、その病人を愛している者が傍らにいてあげることだ、それが真の安楽死なのだと書いておりました。そして、病人がもう苦しいからいっそのこと楽に死なせてくれる注射を打ってくれと看護婦に訴える時、病人はそう訴える看護婦さんをちゃんと選別しているというのです。病人からそう訴えられて、はいそれでは医者に頼んでみますというような看護婦には絶対にそんなことは訴えないというのです。そう訴えられて、困惑し、病人と苦しみを共にしてくれる看護婦に訴えるのだというのです。だから患者がそう訴えるのは何も注射をうってくれということではなく、自分の苦しみを共にわかってくれる人を欲しっているのだと書いてあったのです。そのように書いて、本当の安楽死というのは、楽になる注射をうつとかということではなく、その人を愛する家族とか、それまで献身的に彼のことを診てきた医者とか看護婦がその傍らにいてあげることなのだと書いているのです。もう医者がそばにいても、もう何も できないのです。しかしそれでもそれが死んでいく者にとってどんなに支えになるかわからないというのであります。
 
 わたしの息子もそれと同じようなことをしておりました。看護婦のなかには冷たい看護婦さんもいて彼はその人を嫌っていて、婦長さんを呼んで担当をはずしてくれと要求しておりました。そして息子は若い優しい看護婦さんをつかまえて、もう死にたいから楽にする注射を打って下さいと訴えておりました。その看護婦さんはしばらく困った顔をしていて、それはできないのよね、がんばりましょうね、と息子にやさしく言っておりました。
 
 河合隼雄という心理療法家がある本に書いておりましたが、アメリカで講演を頼まれた時に、その講演の冒頭にこんなことから話を始めたというのです。「今先進国といわれている国々を見ると、そこには人間がいない」という話をした。その講演は英語の講演でしたから、英語では人間のことをヒューマン・ビーイングといいますので、「今先進国ではヒューマン・ビーイングがいない、いるのは、ヒューマン・ドゥーイングだけだ」言って、聴衆を笑わせてその講演を始めて、その講演は大変はうまく言ったというのです。ご承知のように、ビーイングというのは、「ある」とか「いる」という意味の動名詞です、ドゥーイングというのは、「する」「行う」という意味の動名詞です。
 河合隼雄が言いたかったことは、今日われわれは何かをすること、つまりヒューマン・ドゥーイングに忙しすぎて、ただそこにある、そこにいるという意味のヒューマン・ビーイングする人間が少なくなっているということを言いたかったわけです。英語では人間のことをヒューマン・ビーイングと表現しているように、人間の本来のあり方はそこにじっと存在しているというところにあるのではないかといいたかったようです。河合隼雄がいうには、心を病んでいる人に対しては、何をするべきかと考えたり、私が何かをしてあげるとかということではなく、私がただそこにある、私がただそこにいるだけということが非常に大切なのだというのです。
 
 それは赤ちゃんにとっての母親という存在もそうだとある小児科の先生が書いております。母親にとって一番大事なことは、何かをするということよりは、そこにいるということなのだというのです。子供が外から遊んで帰ってきて、「ただいま」といって家に入った時に、そこに母親がいるということが子供にとって一番安心がいくということだというのであります。それが母親の一番大事な役割だというのです。こんなことを今のお母さんにいったら、それは女性差別だとしかられかもしれませんが。

 特にそれはわれわれが死んで逝くときには、誰かが自分の傍らにいて欲しいと切実に望むのではないかと思います。死んで逝く者に取っては、自分を愛してくれる者が一時でもながく傍らにいて欲しいということを切実に望んでいるということなのです。
 わたしの息子の場合、われわれ親はそれはできませんでした。面会時間がくれば、さよならといって病室に彼をひとりを残して帰ってきたのです。医者から彼のすべての臓器が下降線をたどっていて、いつ逝ってもおかしくない状態です、といわれたのは、彼が死ぬ前の日の夜でした。その日は彼との面会時間が終わって「さよなら、明日またくるから」と、別れを告げてから、医者の面談があったものですから、医者からそう聞かされても、彼のもとに引き返すわけにはいかなったのです。そんなことをしたら、彼を何事かと不安に陥らせることにならわけで、またそれでもまさか翌日息を引き取るなどとは思ってもみませんでしたから、その日も病室を彼ひとりにして、去りました。
 
 もし彼が本当にその翌日息を引き取るということがわかっていたらもちろん最後まで彼と一緒にいることはできたのです。しかしわれわれはその日の翌日まさか逝ってしまうなどとは夢にも思いませんでしたから、そうしなかったのです。息子が別れ際にみせた目、その悲しそうな寂しそうな目をわれわれ親はいまだに忘れることはできません。もし彼が病院で息を引き取るのでなく、自宅で息を引き取るということだったならば、そういう息子の目を見ないですんだかもしれません。最後まで親は彼と一緒にいることができたからです。彼の最期を彼の手を握りながら、彼を死に逝かせてあげることができたかもしれません。
 
 しかし、考えてみますと、そんなことが本当に彼のしあわせになったかどうか。死の陰の谷を歩んでいくということは、そんなことで乗り切れるものだろうか。そんなことで死の陰の谷を歩むという本当の厳しさをあいまいにし、ごまかしてしまっていいのだろうか。

 ずっと前にある牧師の説教でこんな話がありました。その人が北欧に旅行した時に、汽車のなかで一緒になった婦人からこんな話を聞かされたというのです。われわれの国では子供に対する教育で一番大事な教育は、親は頼りにならないということを小さいうちに教え込むことだというのです。夜寝る時間がくるとどんなにそれまで親と楽しい時間を過ごしていても、子供を子供の寝室につれていく、そして子供がどんなに夜の闇のなかで怖がって泣こうがわめこうが、親は子供の寝室にはいかないというのです。そのようにして、夜の闇のなかで子供は親なんてものは、真に頼りなるものでないことを知るのだ、本当に頼りになるのは親ではない、神様なんだということを体験させる、それがわれわれ親にとって子供を教育する上で一番大切なことなのだと聞かされたというのであります。本当にそんなことが行われているかどうかわたしにはわかりません。
 
 息子の最期のことを考えた時に、わたしはその話を思いだしました。 彼が最期の日々を親から切り離され、一人病室のなかで過ごすことによって、そのような経験を彼は味わったのではないか。やはり本当に頼りなるものは人間ではない、死の孤独を乗り越えさせるのは、親ではだめだ、人間ではだめだ、神に祈るしかない、そのことを彼は思い知らされて、彼は最期は神に祈り神にすがることを学ばせられて、逝ったのではないかと今思うのです。彼は親には信仰的な姿はみじんもみせたことはなかったのですが、またわれわれ親もそうした信仰的な話は家のなかではしたことはなかったのですが、彼は死ぬ三ヶ月前くらいから、夜寝れない時にはまるで幼児性にもどって、祈って欲しい、と赤子のように親に甘えながらいうようになりました。そして夜眠れないままに大きな声で一緒に「主の祈り」を祈りました。そして最後の二、三日はしきりに祈って欲しいと親に訴えていたのであります。

 先ほど読みました聖書の言葉に「たとえ死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが、神様が共におられるからです」と、詩人が歌っているのです。
 死の陰の谷を歩むときは、われわれは誰かが共にいて欲しいと切実に望みます、それはもちろん家族の人がともにいてほしいと望むでしょう。しかし人間がどんなにその傍らにいても、それで死の陰の谷を歩むという厳しい道を歩みきれるだろうか。その時にはやはり人間ではだめで、神がともにいてくだされなければわれわれはとうてい死の陰の谷を歩むことはできないのではないか。
 
 主イエスはわれわれの死には、どんな死にも神が関わってくださっているから恐れることはないといわれました。その神はわれわれのすべてを知っておられる、われわれの髪の毛一本一本までも数えつくしておられるかた、われわれのよいところだけでなく、悪いとこも弱いところも、醜いとこころもすべてをご存じのかたであります。そのかたがわれわれを多くの雀よりもまさったものとして、われわれを受け入れてくださっておられる。そして主イエスはこういわれるのであります。「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」といわれるのです。神はわれわれ人間のすべての死に関わっておられるというのです。それは自殺者の死にもかかわっておられるということであります。自殺する人は、自分で自分の命を絶ったと思っているかもしれません。絶つことができるんだと思っているかもしれません。しかしその死にも父なる神の許しがなければ死ねないということであります。そのようにして神がわれわれひとりひとりの死にかかわり、われわれが死ぬ時にともにいてくださるというのであります。
 
 そしてそれはただ死ぬ時だけでなく、本当はわれわれは生きている時にも神がともにいてくださらないならば、われわれは自分の人生を歩めないのではないでしょか。ただ人間の支えだけでは駄目で、人間を超えたかた、神様の支えをどんなに必要かということであります。「たとえ死の陰の谷を歩む時にもわざわざいを恐れません。あなたが共におられるからです」ということであります。

 昨年、彼の故郷の大洲教会で彼の記念会をしてくれた時に、その教会の牧師が彼のことを「きよしこの夜」と「主の祈り」だけで、天国にいくことのできた青年ですと言ってくれました。牧師は冗談で言ったのかもしれませんが、本当にそうだったのです。彼は何も社会に貢献するような仕事もひとつもしませんでしたし、信仰的にも人に誇れるような証ができるような者でもなかったのです。しかしその人間が死を前にしてどんなに不安であったか、そしてどんなに切実に神の支えを求めて死んでいったか、そういうひとりの若者の生涯を皆様の記憶にとどめていただきたいと思いまして、今日は大変個人的な息子の死にふれさせていただきました。