「罪人を招くために来たのである」マルコ福音書二章一ー一七節


 イエス・キリストがある家で話をしている時、ひとりの中風の者がその友人達に担がれて、天井からつりおろされて、イエスの前に運びこまれたのであります。するとイエスは彼らの信仰を見て、「あなたの罪はゆるされる」といわれたのです。

 中風という病をいやそうとしないで、「あなたの罪はゆるされる」、口語訳聖書では「あなたの罪は赦された」となっておりますが、そういわれたのであります。そうしますとそれを見ていた幾人かの律法学者が心の中で論じた。「この人はなぜあんな事をいうのか。それは神を汚すことだ。神ひとりのほかにだれが罪をゆるすことができるか」と論じたというのです。

 イエスは病気をいやそうとしないで、ただ「あなたの罪はゆるさる」と宣言した、それは一体何なのか。「あなたの罪はゆるされる」などと言う事は見た目には何もわからないのです。もしわかったとしても、そんな事よりも中風という病のいやしの方が先決ではないか、もっと大切ではないか、もっとわれわれ人間にとって必要ではないか、われわれはみなそう思うのではないでしょうか。

 そういうわれわれの思いが、「中風のものに『あなたの罪はゆるされる』というのと、『起きよ、床を取り上げて歩け』というのと、どちらが易しいか」というイエスの問いかけを引き出しているのであります。

 「たやすさ」という事から言えば、律法学者はさすがに「罪のゆるし」の宣言の方が難しいとは思っているのであります。何故なら、それは神おひとりのほかにできない事を知っているからであります。しかし別の意味では、「罪のゆるし」はただ口で宣言すればいい、その具体的なあらわれはなくてもいいという事から言えば、病のいやしよりも、よほどたやすいと律法学者も考えていたのだろうと思います。

 ですから、律法学者も、そしてまわりにいる人々もみな二重の意味でイエスに不満をもったのだろうと思います。それは神だけができる「罪のゆるし」の宣言をイエスが不遜にもしたという事、しかも病そのものをいやそうとしないで、口先で「あなたの罪はゆるされる」と言ってお茶を濁しているという事であります。
 
 ここにいた人々はみな病のいやしをイエスに期待していたのであります。何故ならそれまでイエスはことごとく病をいやしておられるからであります。しかしこの時イエスは病をいやそうとはしなかった。少なくとも始めは病をいやそうとしないで「あなたの罪はゆるされる」と宣言しただけだった。イエスはこれで充分だと思った。これでこの病人を救ってあげたとお考えになった。しかし人々はそうは思わなかったのであります。

 ここでイエスが言われた「あなたの罪は赦される」とは、なにを意味しているのでしょうか。この中風の者が今まで罪をいろいろ犯して来て、その事で悩み、それがストレスになってこのような病気になったから、まずその病気の原因を取り除くために、今日でいう心理療法として、あるいは精神分析として「罪のゆるし」を宣言したのでしょうか。もしそうだとしますと、イエスの意図も目的もやはり病気のいやしであったと言う事になるのであります。

 しかしイエスは後で、「わたしが地上で罪をゆるす権威をもっている事があなたがたにわかるために」といって、中風の病をいやしているのであります。ですからイエスにとっては病のいやしは、罪の赦しを目に見えるようにわかってもらうためにするのであって、あくまで目的は罪のゆるしにあると言われたのであります。

 イエスが「あなたの罪はゆるされる」と言われたのは、どういう意味なのでしょうか。ここでいう罪は、この人が何か今まで悪い事をしていた事をイエスが見抜かれて、その罪について言われたのでしょうか。そうではないのです。

 病気の原因は様々であります。犯した罪に対する良心の呵責から精神的におかしくなる人もいるでしょうし、暴飲暴食という不摂生から病気になる事もあるでしょうし、そういう意味では、本人の罪が、わがままが、その人を病気にしたと言えるかも知れませんが、しかし親の遺伝で病気になる事もある事から言えば、それはもう本人の責任ではないわけですから、罪の結果病気になったなどとは到底いえないわけであります。

 それでは病気と罪との関係はなんでしょうか。こう考えたらどうでしようか。病気になると、われわれは不安になる、思い煩う、望みを失う、もうこの世に神も仏もないのじゃないかと自暴自棄になるのではないでしょうか。そうしてはひねくれたり、ゆがんだりするのであります。そして周りの人を恨み、ただ自分の事しか考えられなくなっていくのであります。ですから、病気の原因が罪だというのではなく、病気になるとみな罪人になるという事であります。望みを失うという意味で、神を信じられなくという意味で、そして人を信じられなくなるという意味で、罪人になるという事であります。

 キェルケゴールという人が「死にいたる病」という本を書きましたが、その死にいたる病とは、望みを失うという事、希望をもてなくなること、それが死にいたる病気なのだというのであります。

 病になるとは、大なり小なりみな望みを失いかけるのではないでしょうか。そして病気の一番の問題は、痛みであるかもしれません。しかし痛みということを除けば、病気の一番の問題は、希望を失う、この病気は死につながるのではないか、もう自分は生きていけないのではないかと望みを失うということではないか。そういう意味では肉体の病気は、大なり小なりみな死に至る病だと言えるかも知れないのであります。

 そのことに対してイエスは「あなたの罪はゆるされている」といわれる。それは「神は決してお前を見捨ててはいない」ということであります。
 マタイによる福音書では「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言ったと記されております。新共同訳では「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」となっております。この「しっかりしなさい、元気を出しなさい」という言葉の宗教的な表現が、「あなたの罪は赦される」ということなのであります。

 「あなたの罪はゆるされる」という事と「起きよ、床を取り上げて歩け」という事と、どちらがたやすい事だと、われわれは考えているでしょうか。あるいは、どちらが大事だと考えているでしょうか。どちらが必要な事だと考えているでしょうか。
 もし病のいやしという事だけをイエスに追い求め、神に願うならば、そういう奇跡だけを願うならば、われわれは「奇跡」だけが欲しい人間になってしまって、神さまなんかどうでもよくなってしまうのではないでしょうか。

 そうは言っても、われわれが病気になった時は、やはりなんと言っても一番神に望む事、祈り願う事は、この病気をいやしてくださいという事なのであります。もう後の事はどうでもよくなってしまうのであります。それこそ「罪のゆるし」などはどうでもよくなってしまうのであります。

 イエスもそのわれわれの弱さをよく知っておられるのであります。それでイエスは「人の子は地上で罪を赦す権威をもっていることが、あなたがにわかるために」と言われて、中風の者に「起きよ、床をとりあげて家に帰れ」と言われたのであります。その中風という病をいやしたのであります。

 ですから、われわれの病気をいやして欲しいという願い、そういう祈りをしてはいけないと、イエスは言わないし、そういう祈りをするわれわれをイエスは決して軽蔑したりはなさらないのであります。われわれが病になるという事は、この病気が治らない限り、もう自分の人生はないと考えてしまうという事であり、そういう人間の愚かさもひっくるめて、イエスはその人間を救おうとなさるのですから、イエスは具体的に病気そのものをもいやすという奇跡を起こして、その人間を救ってくださるのであります。

 パウロも病気になった時、必死にこの病をいやしてくださいと祈り続けたというのです。しかしその結果、神から与えられた答は「わたしの恵みはお前に充分注がれている。病気であるそのままのお前に注がれている。わたしの力は弱い所に現れるからだ」と言われたのであります。
 それを聞いて、パウロは恐らく生涯その病を背負いながら、病気はなおらないままです、「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言ったのであります。「なぜなら、わたしは弱い時にこそ、わたしは強いからだ」というのであります。病気は治らないまま、しかしいっそう神の恵みを信じて生涯を力強く生きたのであります。(コリント人への第二の手紙一二章七ー)

 さて、一三節からみますと、イエスはまた海辺に出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らに教えられた。また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従ったというのであります。

 当時の徴税人、税金取りは、ユダヤの社会の中でみんなから嫌われていたのであります。罪人扱いされていたのであります。

 そのレビが収税所に座っていた。収税所の玄関の前に座っていたのであります。そうして、道行く人をぼんやりと見ていたのではないかと思われます。その前をイエスの一行が通り過ぎようとしたのであります。みんなはそんなレビに何の関心も示そうとしないのであります。レビも、もうその人々は自分とは別世界の人になってしまったと見ていたのかも知れません。
 恐らくレビもイエスの評判は知っていたと思われます。できる事ならみんなと一緒にイエスについて行きたいと思っていたかも知れません。しかしもうその人々は別世界の人々になってしまったと思っていたのだろうと思います。

 ルカ福音書にでてまいりますあの徴税人ザアカイはみんなの後から一人おくれて、イエスを見に行きましたが、レビはただぼんやりと眺めていただけでした。そこにレビの孤独がありました。罪を犯している人間は一人になっている時が一番寂しいのではないでしょうか。仲間がいる時、同じ徴税人がいる場合には、お互いに自分達の罪を弁明したり、開き直ったりして、ごまかす事ができますが、一人になった時、自分の罪が自分の前にあらわにつきつけられのであります。

 イエスはその一人になっているレビに声をかけ、「わたしに従ってきなさい」と言われたのであります。

 イエスは、後に「自分が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」のだと言われますが、それではイエスは悪の巣窟と言われている所に積極的にでかけていって、伝道したのかと言えば、どうもそういう事はしていないようであります。たとえば、たとえが悪いかも知れませんが、今日で言えば暴力団の事務所にでも積極的に出かけていって伝道したのかと言えば、どうもそうではなかったのであります。収税所に入り込んで、悔い改めを迫りにいったという事はなかったのであります。

 イエス・キリストは、確かに「罪人を招くために」この世に来られたのであります。しかしその罪人とは、自分の罪に気づいた人、自分の罪に悩み苦しんでいる者、あるいはそこまで行かなくても、自分の罪に寂しさを覚え、悲しんでいる人のことです。そういう人をイエスは招いておられるのです。

 「重荷を負うて苦労している者はわたしの所に来なさい」と、罪の重荷を感じている人をイエスは招いたのであります。その人が自分の罪に気づくまでは、イエスはその人の心の外に立って、その人が自分の方から自分の心の扉を開くまでじっと忍耐強く待っておられたのであります。
 
 レビが収税所の玄関の前でひとりで座っているのをイエスは見て、そのレビに「わたしに従って来なさい」と声をかけられたのであります。

 人は一人になった時、自分の罪に気づくのではないでしょうか。仲間と一緒に罪に気づくという事はないのであります。そのグループにいる時はなかなかそのグループの罪に気づく事はない。軍隊の中にいる時には、その罪の恐ろしさに気づく事はできない、会社という組織の中にいる時には、もし会社が何か悪い事をしていても、自分達の犯している罪に気づく事はないのではないでしょうか。

 しかしそれでは一人になりさえすれば、罪に気づくか。一人の時われわれは確かに罪に気づくかも知れませんが、しかしまた同時に一人の時と言うのは、罪を隠しやすい時なのではないでしょうか。自分ひとりならばいくらでも罪は隠せる、人に知られない限りどんな罪を犯していても大丈夫だという思いがわれわれの中にあるのではないでしょうか。一人の時というのは、自分の罪に気づく時でもあるし、またその罪に気づいた時、すぐそれを隠してしまいやすい時でもあります。

 そうしますと、ただひとりになれば自動的に罪がわかり、罪を悔い改める事ができるかと言えば、そうではなく、そこにイエスが、神が、登場しなくてはならないのであります。神という絶対的な他者、自分の都合で自分のいいなりにさせる事のできる他者ではなく、神という絶対他者、自分のいいなりになってくれない他者、そういう絶対的な他者の存在、そういうかたが自分の前に現れないと、われわれは自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改める事はできないのであります。

 レビの前に、イエスが現れたのであります。イエスから「わたしに従って来なさい」と招かれたのであります。だから彼は、イエスに従って、収税所を後にして、収税所を離れることができたのであります。収税所を離れてイエスと一緒の食事の席についたのであります。
 
 その後レビが徴税人という自分の職業を変えたかどうかわかりません。あのザアカイもイエスに会ってから、これから正しい税金の取立をしますとは誓っても、取税人をやめた形跡はないのであります。恐らく徴税人という職業を続けたたのだろうと思います。そして本当はその方がもっと厳しい事だし、もっと真剣な悔い改めの道ではないかと思います。仲間は、不正な取立をしないザアカイやレビをあざわらったりする、そういう中で生き続けるのであります。これは大変厳しい事であります。

 あの弟子達のように一切を捨ててイエスに従う道の方がよほど楽かもしれない。伝道者の道とか牧師の生活の方が、この社会の荒波の中で生きる事よりもずっと楽かも知れないと思うのであります。

 悔い改めるという事は、今までの職業を変える事でもなく、今までの環境を変える事でもなく、言葉に出して何かを誓う事でもなく、イエスと共に食事をする事、イエスを自分の心の中に入れる事であります。

 レビの家でイエスが食事の席についておられると、多くの徴税人や罪人たちも、イエスや弟子達と共にその席について一緒に食事したのであります。レビはひとりで収税所の玄関の前に座っている時に、ひとりになっている時に、イエスに招かれましたが、イエスと出会った後は、もう一人ではないのです。一緒に食事する仲間がいるのです。もう一人でいてはいけないのです。一人の方が気楽でいいなどと言ってはならないのです。仲間ができれば、イエスを信じている仲間だと言っても、色々と面倒な事が起こることはわれわれもよく知っている事であります。しかしそれを避けて、一人の方がいいと言ってはならないと思います。別に社交家になる必要はありませんが、仲間を避けてはならないのであります。聖徒の交わり、教会の交わりは必要なのであります。

 そこにパリサイ派の律法学者たちがやって来て、イエスの弟子達に「なぜイエスは徴税人や罪人などと食事を共にするのか」と非難したというのであります。それをイエスは聞いてこう言われました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」、大変分かりやすい言葉であります。

 イエスはここでご自分のメシヤとしての使命、救い主としての使命を医者にたとえて「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と言っております。しかしイエスの救い主としての歩みと医者の立場とは少し違うのではないかと思います。と言うのは、医者が丈夫な人はいらないという場合には、丈夫な人には医者は必要としないという事ですが、イエスを必要としない義人という人がいるのでしょうか。

 第一に、この世に義人がいるのかという事であります。パウロがいうように「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」というのが本当でであって、義人はこの世にいない、少なくともイエスを必要としない義人というような人がこの世にいるはずはないのであります。

 そうしますと、イエスが「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、」という意味は、義人は招く必要がないというのではなく、わたしは義人は招かないというイエスの強い意志表明、断言なのではないか。義人はわたしの所に来なくてもいいのだというような事ではなく、義人はわたしの所に来ても、わたしは受け入れない、わたしは断固拒否する、そういうイエスの強い意志をあらわした言葉なのではないか。
 
 イエスはあのパリサイ人律法学者、自分を義人だと自任して取税人を見下げているパリサイ人律法学者に対して、どんなに厳しい言葉で、彼らを拒否しておられるか。義人が義人のまま、自分の正しさにあぐらをかき、自分は「見える」と言い張り続ける限りは、イエスは断固拒否するのであります。もしわれわれが義人のまま、自分の正しさをほんのちょっぴりでも、引きずってイエスの所にいこうとするならば、イエスから拒否されるのであります。

 「わたしが来たのは、義人を招くためではなく」というイエスの言葉は、非常に厳しい、非常に激しいイエスのわれわれに対する裁きの言葉なのであります。

 「わたしは罪人を招くために来たのである」とイエスは言われました。罪人とは誰の事でしょうか。罪人とはどういう人のことでしょうか。

 渡辺信夫という人がこういっているのです。「罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだ」と定義しております。

 何か大罪を犯した人が罪人でもないのであります。人を殺したりしないと罪がわからないというのではないのです。第一、人を殺したからと言って罪がわかるわけではないと思います。平気で人を殺すことのできる人は罪が一つもわかっていないから、人を殺せるのではないでしょうか。

 罪人とは、キリスト以外からは受け入れてもらえない人のことだという罪人の定義を心に刻んでおきたいと思います。

 自分の事を考えて見れば、われわれもまた、やはりイエス以外に受け入れてもらえなかった人間ではないでしょうか。世間の人がなんと言おうと、あるいは、あなたのような人がどうして教会に悔い改めに行く必要があるのですか、と言われるかもしれないし、そのように見られるかもしれないけれど、そういう見た目の世間の評価とは別に、われわれはひとりになって、自分自身のことをよくよく考えたときに、「ああ、自分はイエス以外に受け入れてもらえない人間だ」と思うのではないでしょうか。

 他人がどう思おうが、少なくとも自分では、自分はイエス以外に受け入れてもらえない人間だという事を自分自身よく知っているのではないでしょうか。そんな事を大きな声で証したりする必要はありませんが、自分ではその事をよく知っているのではないでしょうか。だからわれわれはこうして教会にきて、こうして日曜日ごとに礼拝をまもっているのではないでしょうか。そしてこのイエスの言葉「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」という言葉を本当に有り難い言葉だと思うのではないでしょうか。tsumibitoo.html へのリンク