8月8日(火曜日) イスタンブール旧市街

 


 

トルコ風呂

考古学博物館

地下宮殿

海岸散策

いろんな考察

 


 

トルコ風呂

 

朝7時半に目が覚めた。

 

今日はトルコ風呂を試す予定なので、大急ぎで朝食を済ませると、早朝の空気の中をトラムでチャンベリルダシュに向かった。

 

「チャンベリルダシュ・ハマム」の場所は、すでに昨夜チェック済みである。狭い入口から階段を地下に降りたところに受付があった。料金先払いだったので、受付の奥の壁で料金表を確認したところ、標準的なマッサージコースが36YTLもする。ちょっと待った!ガイドブックでは12YTL程度になっていたぞ!急いで財布の中身をチェックしたところ、小銭も合わせてギリギリ36YTLあることが判明。なんとか支払を済ませたものの、まったく「地球の歩き方」は情報が古すぎて頼りにならんわ!

 

すると、俺の後から白人女性数名がゾロゾロ入って来た。みんな超美人の豊満ボディである。今から「混浴コース」に切り替えられないものかと、料金表を充血した目で睨んだのだが、やっぱりそんなものは無かった(笑)。イスラム圏は、道徳にうるさいからねえ。っていうか、普通はそうだろ!

 

さて、受付の青年に指示されるまま広いホールの奥へ進むと、案内人のオジサンが待ち受けていて、俺をホール左手の個室に導き、そこでバスタオルと腰巻と小さな布袋と部屋の鍵を渡した。なんだかハンガリーの温泉を懐かしく思い出す。ただ、ハンガリーよりマシなのは、この個室はかなりの広さで、簡易ベッドや小さな箪笥が置いてある点である。必要なら、ここで仮眠を取ったり適当にくつろいだり出来るというわけだ。とりあえずは風呂を試したかったので、服を脱いで箪笥にしまうと、腰巻を巻いて小さな布袋(何に使うかは不明)を手にとって部屋を出て施錠した。

 

外で待っていた案内人が、俺をホール奥の中央にある浴室入口に導いた。浴室には、手前にシャワールームや水風呂があり、そこから扉を隔てた奥にサウナ室が設置されている。この構造は、ハンガリーの温泉と良く似ているが、これは偶然ではない。ハンガリーに現在のような風呂文化を持ち込んだのは、16世紀にあの国を征服したオスマントルコ人だったからである。

 

俺は、案内人と別れると、真っ先にサウナ室に入った。早朝だけに、誰もいない完全独占状態である。10メートル四方あるだろうサウナ室は、完全な円形になっており、外周に沿って水道設備がいくつも並んでいて、それぞれの蛇口からお湯が出るようになっている。部屋の中央には、直径6メートルはあろうかという巨大な大理石の円盤が鎮座しており、ここで岩盤浴するようになっている。もちろん、「浴槽」は存在しない。本場のトルコ風呂は、完全なサウナなのである。

 

俺が面白がって浴室をウロウロ歩き回っていると、マッサージのオジサンが入口から現れた。小柄な色黒の老人は、俺の体が十分に湯だっていないのを見て取ると、円盤の上に横になってしばらく待つように指示した。このオジサンは、意外なことにあまり英語が出来ない人だったので(ここは観光用ハマムじゃなかったのか?)、会話の多くはボディランゲージで行った。まあ、俺のボディランゲージ能力をもってすれば、この程度はノープロブレムである。

 

そこで、巨大な円盤の上に横になり、ゴロゴロ転がったりして時間を潰した。途中で飽きたので、外のシャワー室を見学したが、オジサンが帰って来た時にはちゃんと円盤の上にいた(笑)。それでもさすがに全身が湯だったので、マッサージを受けるには十分である。

 

オジサンは、片言の英語で「トルコ式のマッサージは最高だよ」とか言いながら、持参してきた石鹸水入りのバケツに巨大なヘチマを沈めると、そのヘチマで俺の全身をゴシゴシと洗い始めた。それが済むと、特製の垢すり手袋(ケセ)を装着し、俺の全身をガシガシこする。続いて、体の上に乗っかって全身マッサージだ。ガイドブックには「かなり痛い」と書かれていたけど、実際にはそうでもない。このオジサンが優しい人だったからかもしれない。最後は、壁側に移動してお湯で全身洗いである。

 

なるほど、確かにこれは気持ちよいし具合がよいや。しかし、このサービスをオジサンではなく裸の女性にやってもらいたいとは、男なら誰でも思いつくことだろう。それをそのまま実行した結果が、いわゆるトルコ風呂(現ソープランド)である。日本人は、基礎研究や画期的な発明の才能はないけれど、応用して(盗用して)より良い物(?)を創出する才能に優れているのだ。特に、日本は宗教による道徳的束縛が弱いため、イスラム教徒が「破廉恥」と考えるような行為も平気で出来てしまう。そう考えると、日本経済の発展の原動力は、結局は日本人の「道徳観念の無さ」にあるのではないか?などと自虐的に考えてしまった。

 

サービスが全て済むと、オジサンは片言の英語で「満足ですか?」と聞いて来た。「うん」と素直に答えると、俺が持参して来た布袋を指差して「チップをください」と言った。ああ、そうか。入口で渡された小さな布袋は、マッサージ士に渡すチップを入れるためのものだったのか。

 

オジサンに中座を断り、ずぶ濡れのまま外に出て、荷物のある個室に戻った。財布から5YTL硬貨を取り出すと、浴室で待っていたオジサンにそれを渡した。大喜びしたオジサンは(相場より多かったのかな?)、湯浴みのコツや湯当たりを冷ます方法についてボディランゲージまじりのアドバイスをしてくれて、それから別れを告げて浴室を出て行った。

 

それから先は自由だ。このハマムは、時間制限がないので、その気になれば何時間でもいられる。ミマール・スィナンが建てたと言われる美麗なハマムの建物を見学してもよし、広間でお茶や軽食を頼んでくつろぐのもよし。おまけに、広壮な浴室には依然として新たな客が入って来ないので、完全に貸し切り状態だ。

 

とはいえ、イスタンブールにいられるのも明日までだ。本場のトルコ風呂がどういうものかは分かったので、ここは他の名所旧跡を巡ったほうが賢明だろう。

 

そういうわけで、適当なところでハマムを出た。服に着替えて戸外に出て、バヤジット方面を散歩しがてら、グランバザールの入口で1万円を100YTLに両替した。

 

それから、なんとなく「BLUE ART」に顔を出したくなったので、沿道のパン屋でチーズ入りのパンを5個買って、これをお土産にしてスルタン・アフメット地区の馴染みの店に行った。

 

 

考古学博物館

 

BLUE ART」に入ると、並木さんがいた。彼女は、例の井戸焼きケバブ屋に行った後、急に腹を壊して、この2日間ホテルで臥せっていたのだという。「羊のキンタマ食ったせいじゃないの?」などと談笑していると、ラマザンが現れた。俺がお土産のパンを渡すと、「さすがに先生は、並木とは人間の出来が違いますね!並木は、この店とは長い付き合いなのに、差し入れをしてくれたことなんか一度もないね!」と言って、大げさに俺に礼をした。

 

その後、メフメットも交えて、しばしみんなで談笑した。ラマザンと並木さんは日本語を話すけど、メフメットとは英語で話さなければならないので、頭の切り替えが面倒だった。でも、こういう経験も楽しい。

 

やがて10時になると、ラマザンは近くに商談に出かけることになった。「15分くらいで帰って来るから、ここにいてよね」と言い置いて出て行ったものの、30分経っても帰って来ない。このままでは、貴重な時間の無駄である。そこで、メフメットと並木さんに「これから考古学博物館に行きたいので、ラマザンによろしく」と告げて腰を上げた。

 

店を出て、トプカプ宮殿の方向に向かう途中で気がついた。並木さんとは、もう会えないだろう。そこで、Uターンして店に引き返し、戸外に日向ぼっこに出て来た並木さんに名刺を渡し、それとなく別れを告げた。彼女は、ラマザンがイスタンブールに日本風居酒屋を作ったあかつきには、そこの女将として働きたいと冗談まじりに言っていた。そのうち、飲み屋の女将として大成した並木さんとイスタンブールで再会する日があるかもしれぬ。

 

こうして、エミノニュへと下る坂道を行き、ギョルハネ庭園の門を潜り、2日前の早朝と同じ道順で考古学博物館の正門に達した。入口の周辺には、大理石の円柱や土台が無造作に転がっている。遺跡からの発掘品のうち、観賞に耐えないものがここに放置されているということらしい。なんだか、贅沢な話だ。

 

正門を潜って、受付で入館料(10YTL)を支払うと、いつものように所持品検査を受けてから広壮な施設に入る。この博物館は、考古学博物館(アルケオロジ・ミュゼシ)と総称されてはいるが、古代オリエント博物館と考古学博物館(狭義)とタイル博物館の3つの博物館によって構成されている。そのすべてを最初の入館料だけで見て回れるのだから、なかなか良心的と言える。上野の博物館群も、少しは見習ってもらいたい。

 

入口近くの立看板で施設の位置関係をチェックしてみると、入ってすぐ左の建物が古代オリエント博物館だった。

 

空調の行き届いた比較的新しい建物の中には、かつて大英博物館で見たようなメソポタミアやヒッタイトの石版や彫像や建築物が並べられていた。これらの展示物は、19世紀以降、イギリスやフランスやドイツが半植民地となったトルコから発掘品を盗み続ける現状を憂えた愛国的なトルコ人学者たちによって保護されたのである。

 

ひととおり見終わったので、次の目的地である考古学博物館(狭義)に向かった。この博物館は、敷地の中ほどの右側を占める大きな建物だった。古色蒼然としていて、とても趣きがある。

 

ここに入る前に、左側を占める屋外カフェが気になったのでそっちに向かった。大理石の円柱が立ち並ぶ庭園がそのまま喫茶店になっているので、なかなかお洒落である。庭園の入口付近に立つ簡易売店でミネラルウォーターのペットボトルを買うと(風呂上りだから、無闇に喉が渇くのだ)、水を飲みつつ奥の丸テーブルに座って「地球の歩き方」を読み、この施設の概要をおさらいした。ふと目をやると、ここで飼っているのだろうか。一匹の黒猫が、石像に囲まれた砂利の中で毛繕いをしていた。

 

むむむ、ガイドブックによれば、古代オリエント博物館には「世界最古の外交文書(カデシュ協約)」の原本が陳列してあったらしい。しまった、見損ねた。まあ、帰り際に見て帰れば済む話だ。

 

さて、喉の渇きも収まったので、考古学博物館(狭義)に突入した。

 

ここでは、アレクサンダー大王やローマ皇帝たちの胸像や有名な石棺を見て回った。この建物は4階建てなのだが、各フロアにオリエント各地からの発掘品が並んでいて、見ていると時間が経つのを忘れるほどだった。

 

 

感心したのは、子供用のスペースが充実していたこと。「トロイの木馬」を模ったジャングルジムなど、退屈した子供を遊ばせるのに十分なインフラが整備されていた。メルボルンの自然史博物館もそうだったが、海外の公共施設は、子供向けのバリアフリーが充実していて良い。日本も、少しは社会インフラを向上させて子供を大切にしたらどうだろう?

 

などと考えつつ、出口に飾られた巨大なアタチュルクの写真(博物館を訪れたときのもの)を横目にしてタイル博物館に向かった。

 

考古学博物館(狭義)を出て右手に位置するタイル博物館は、1フロアしかない小さな展示場だが、メフメット2世が建てた公共施設をそのまま流用しただけあって、とてもユニークで楽しい建物だった。陳列されている青いタイルや陶磁器も、言葉が出なくなるくらいに美しかった。この博物館については、当初はまったく期待していなかっただけに、実に嬉しい誤算である。

 

さて、次は再び古代オリエント博物館に戻った。もちろん、「カデシュ協約」の粘土板を見るためだ。建物の奥のほうで難なく発見したものの、意外と小さいのに驚いた。しかしこれが、紀元前4000年前の、現存する世界最古の外交文書なのだ。俺は昔から『太陽の王ラムセス』(クリスチャン・ジャック著)などを読んで「カデシュの戦い」に興味を持っていたので、そういう一読者の視点からも感慨深いものがあった。

 

 

さて、これでようやく全館制覇したぞ。「考古学博物館」、やはり凄いな。本当に来て良かった。トルコの地が、まさに歴史の十字路であることが身に染みて理解できた。

 

 

地下宮殿

 

さて、もう午後2時近いから、腹ごしらえをしなければならぬ。

 

ギョルハネ庭園で何か食べようかと思ってブラブラ園内を歩いているうちに、2日前に訪れた海沿いの展望カフェに行き当たった。おお、ここで海を見ながら昼食を取るとしよう。お昼時を過ぎていたせいか、あまり混んでいなかったので、海に面した崖沿いの席をキープ出来た。ボーイさんが来たのでチャイとキョフテを頼んだところ、パンをどうするか聞かれた。戸惑っていると、本当は、パンは別売りだけど、今回はサービスしてくれるとのことだった。ラッキーである。

 

こうして、美しいマルマラ海やボスポラス海峡を見ながら美食を味わった。

 

突然、にわか雨が襲ってきたが、その寸前に屋根つきのテーブルに移動しておいたので大丈夫だった。ラマザンや並木さんから、今日は雨が降りそうだとの予報を聞いていたので、あらかじめ空模様に注意を払っていた成果である。

 

注文したチャイは大きなポッドごと来たのだが、5杯飲むとさすがに飽きてくる。今回の旅行では、チャイはもう十分かな。キョフテは、やっぱり美味かった。パンと本当に良く合う味だ。

 

 

景色も見飽きたので、元来た道を引き返して、いったんホテルに戻ることにした。

 

さすがに、毎日これだけフル稼働していると疲れたな。俺も、もう年かな。ホテルのベッドに横になってガイドを読んでいるうちにウトウトした。すると、ホテルの従業員らしき人がドアを叩いて「寝ているの?」と聞いてきた。「起きているよ」と咄嗟に答えたのだが、なんでそんなこと聞くのだろう?ベッドメイクは、とっくに終わっている。彼は、隣の部屋(客が中にいたらしい)でもドアを叩いて同じ事を聞いたのだが、これはテロ対策か何かだろうか?

 

ともあれ、少し休んで疲れも取れたので、並木さんに勧められた「地下宮殿」に行ってみることにした。

 

「地下宮殿」は、古代ローマ〜ビザンチン帝国の時代に作られた地下貯水池のことである。イスタンブールは、もともとあまり水が湧かないので、大勢の人口を養うのが困難な土地であった。この状況を改善したのが、ローマ人お得意のインフラ整備である。ユーゴスラビア方面から延々と水道を繋げ、ヴァレンス水道橋を経由して導かれた水が、旧市街中心部の地下貯水池に溜められるというわけ。で、この地下貯水池は観光客に解放され、今では「地下宮殿」と呼ばれる観光名所になっているのだった。

 

いつものように、歩いてスルタン・アフメット地区に登ると、「地下宮殿」の入口は容易に認識することが出来た。入口は非常に混んでいて、外国人観光客の長い列は整列入場を強いられたのだが、10YTL支払って中に入ると、内部が広大であるため窮屈感はまったく無かった。なるほど、満面に水が張られた日の射さない巨大空間は、並木さんが言っていたように、ひんやりして実に気持ちよい。避暑にはもってこいの場所である。

 

140メートル、高さ8メートルの空間は、数 百本ものコリント様式の石柱によって支えられている。この柱の間にコンクリート製や木製の渡り廊下が造られ、あちこちに照明が取り付けられてある。この神秘的な空間を、観光客たちがゾロゾロと列をなして歩くのだ。石柱は、長い年月を経て苔むして緑色をしている。この色合いがなかなか美しい。 また、水の中に丸々と太った大きな魚がウジャウジャ泳いでいるのだが、見ていて飽きない。

 

 

 

最奥にある2対の「メデューサの首」が人気スポットで、大勢の若者たちがしきりに記念写真を撮っていた。「メデューサの首」は、人を石に変える魔力を持つ怪女メデューサの巨大な頭部の石像を、天井を支える石柱の礎石に用いたものである。おそらく、キリスト教が絶対権力を持った4世紀以降、ギリシャ神話などの異教の石像が次々に破壊された残骸がこれなのだろう。「一神教」の嫌なところは、異文化に対して不寛容な点である。貴重な文化遺産が、いったいどれほど破壊されたことだろうか?

 

 

 

などと考えつつも、楽しいので結局2周してしまった(笑)。

 

地表へ戻る出口付近にカフェがあり、薄暗い照明の中でとても良い雰囲気を出していたのだが、メニューを見ると無闇に高いので、今回はパスすることにした。

 

階段を登って地表に出ると、夏の強い日差しがとても眩しく感じられた。地表出口の土産屋で絵葉書を安売りしていたので、5枚ほど見繕ってレジに持って行った。すると居合わせた隣の店のオッサンが、俺に挑発的な一瞥をくれると、ラジオの音楽(トルコ民謡)に合わせて踊り始めた。この俺にダンスで挑戦するとは100年早い。俺が即興でダンスを披露すると、そのオッサンもレジのオッサンも大喜びだった。まあ、これも国際親善の一環だろう。

 

 

海岸散策

 

さて、次の目的地をどこにするべきか。時刻は、もう午後3時半である。博物館などの施設に向かうには時間が遅すぎるだろう。

 

しばし悩みつつ、スルタン・アフメット駅でトラムに乗って、とりあえず西を目指した。やがてアクサライ駅でアタチュルク通りに達したので、とりあえずここで降りて見る。

 

ここからアタチュルク通りを北に歩けば、ヴァレンス水道橋を経てスレイマニエ・ジャーミーを観光してから、大建築家スィナンの墓参りが出来る。しかし墓参りはともかく、俺は実は「現役の寺」の内部を見るのはあまり好きじゃないのだ。イスラム教徒じゃない人が好奇心でお寺を見る行為は、真面目な信者さんの邪魔になるし文化に対する侮辱に他ならないと思う。メスートと行った初日のブルーモスクだって、なんとなく居心地が悪かったくらいだ。ううむ、どうしたものだろう。

 

ここからアタチュルク通りを南に歩けば、イェニカプでマルマラ海に達する。そういえば、自動車の窓から見たマルマラ海は本当に美しかったな。自分の足でゆっくり眺めて歩きたいと強く願ったものだった。

 

そういうわけで、観光の定番メニューであるはずのスレイマニエ・ジャーミーを捨てて(笑)、マルマラ海を目指すことにした。俺の旅行は、いつもこんな感じである。

 

アタチュルク通りの沿道は、相変わらずレストランやロカンタで一杯だ。この街は、どうしてこんなに飯屋が多いのだろうか?英語の呼び込みをかわしつつ、小さな鉄道橋を南に越えたところに青いマルマラ海が広がっていた。ああ、本当に美しいな。日本の海とは、まったく比較にならない。

 

海岸を東西に走るケネディ通りを南に越えて、海岸沿いを歩くことにする。しばらくすると、イェニカプ埠頭の乗船所があったので、好奇心にかられて行ってみる。ここで船に乗れば、小アジアの北岸に行けるはずである。ああ、ロマンだぜ。しかし、乗船所の青塗りの建物の入口では、乗船券のチェックを厳重に行っていた。これもテロ対策だろうか?いずれにせよ、これで建物内部を冷やかすプランは挫折である。

 

しばらく乗船所前の庭園で休んでから、海岸散策を再開した。クムカプ埠頭を過ぎるまでは、海岸と道の間に建物や倉庫が並んでいるため景色は詰まらない。そこで、ケネディ通りの北側を、通りと平行して走る鉄道線路を観察した。オリエント急行が走るはずのこの鉄道は、随分と小柄で、しかも老朽化している。定期的に電車は走ってくるのだが、高架になっている部分など、これを支える鉄柱自体が錆びていて、大きな地震などあれば一たまりもなさそうだ。怖くなったので、「途中から国鉄に乗ってシルケジ駅まで戻る」プランは放棄することにした。つまり、海岸沿いをずっと歩き詰めに歩くことにした。

 

クムカプ埠頭を抜けると、ようやく待望の海浜公園に到着した。ケネディ通りからマルマラ海までの間が、緑豊かな自然公園になっているのだ。家族連れや若者たちで一杯だ。暑いので、屋台のアイスクリーム屋や水売りが大繁盛だ。俺はその中を歩き、眺望の良い木の根元に腰を下ろすと、のんびりと海を眺めた。ああ、心が洗われるなあ。

 

海を行きかう商船やタンカーを見ていると、この海が文明と商業の重要な交差点であることが良く分かる。歴史の中で、幾多の勢力がこの地を掌中に収めるために熾烈な攻防を繰り広げたことか。その理由、心から納得できる。そして、この地を最終的にもぎ取った勢力こそ、ケマル・アタチュルク率いるトルコであった。彼らは、イギリス、フランス、ロシアといった当時世界最強の 大勢力と外交や軍事で争い、そして彼らを打ち負かしたのだった。これをたとえるなら、日本が太平洋戦争で米英蘭中をコテンパンに叩きのめしたようなものである。それだけで、あの時代のトルコ人の凄さが思い知られる。

 

やがて太陽が西に傾いてきたので、腰をあげて海岸を東に歩いた。

 

海水浴が出来る場所もあったので、一瞬、海水パンツをホテルに置いて来たことを悔やんだものの、貴重品を陸に置き去りにすることの危険性を考えるなら、ここで泳がないのが正解である。

 

それにしても、海で泳ぐのが男と子供だけなのは意外である。女性は、母親であっても服を着たまま、父親と一緒に海で遊ぶ子供を陸からのんびり見守っている。いちおう、トルコ美女の水着姿を楽しみにしていたのに、まったくの期待はずれである。これは、おそらくイスラムの戒律の影響なのだろう。

 

もっとも、ホテルで見たTVCMでは、若いトルコ人女性が海で泳ぐ映像を流していた。これはつまり、女性が泳げる海水浴場が、限定されているという話なのだろうか?

 

 

いろんな考察

 

今回のトルコ旅行で印象的だったのは、人々の信仰心の強さである。みんな、イスラム教の道徳をしっかり胸におさめて生きている。たとえば、若い女性のガードは、これまで訪れたどの国よりも堅い。他のイスラム諸国と違ってヴェールをしていない女性が多いのだが、そういう女性であっても「知らない男は、そばに来ないでオーラ」を出しまくっているので、ナンパどころか声もかけづらいのだ。

 

日本では、痴漢が大問題になっている。もちろん、触る男が一番悪いのだが、それを誘発する女性側にも問題があるのではないか?最近の日本女性は、精神的に無防備な上に、扇情的な服を当たり前のように着ている。少しは、トルコ人女性のガードの固さを見習うべきだと思われる。俺は、「女性専用車両」とか、いかにも「官僚頭の人が自分の責任を回避するために作りました」的な付け焼刃が大嫌いなのだよ。

 

トルコ人は、イスラムの教えを胸に秘め、目上への尊敬、家族愛、ケジメなどを大切に考えている。日本では、そういった最低のことすら壊れつつある。

 

そう考えて行くと、 アタチュルク大統領がかつて「イスラム教を否定した」ように言う一部の主張が完全に間違いであることが分かる。アタチュルクは、あくまでも宗教勢力(=その多くは利権目当ての官僚化した聖職者)の政治への介入を否定したのに過ぎない。むしろ、彼は祖国の文化や歴史を大切に考え、最も純粋な形で後世に伝え残そうと考えたのではないだろうか。

 

日本では、アタチュルクを小泉純一郎と比較する向きもあるようだが、それは明らかな間違いである。政治家としても一個の人間としても、スケールがあまりにも違いすぎるのだ。もちろん、小泉氏が最近の日本の政治家の中で最も優れた一人であることは疑う余地がない。しかし彼は、構造改革の美名のもとに、日本の道徳を決定的に破壊してしまった。もちろん、これは小泉氏だけが悪いんじゃない。根はもっと遥かに深い。阿部 氏が「美しい国」とか無意味なことを口走っているけど、今さら話にならない。

 

とにかく作者としては、狭く愚かな了見で軽々しくアタチュルクを論じて欲しくないのである。

 

などと考えつつ、海浜公園の東端からケネディ通りの海岸線を歩くと、いつしかイスタンブール旧市街の半島の東端に来てしまった。この辺りからは、アジア側の陸地や建物が実に良く見える。あの美麗な四角い建物は、ハイダルパシャ駅だろうか?それにしても、あそこがアジアでこっちがヨーロッパか。ユーラシア大陸の境目にいることを思うと、それだけで感動だ。

 

 

ケネディ通りの反対側は、トプカプ宮殿の城壁が残っているので濃厚な「地霊」を感じてしまう。

 

何度か海岸で休憩を取りつつ、やがて2日前に訪れたアタチュルクの銅像のある公園に到着した。あのときは早朝で清掃夫しかいなかったのだが、今回は家族連れで大混雑だった。飴売りやバナナ売り、水売りの屋台も大繁盛。水売りは、「スー(水)、スー」と独特の抑揚で声をかけるのが印象的だ。思わず、ミネラルウォーターを1本(0.5YTLだが)買ってしまう。

 

水を飲みつつ、勝手知ったるシナゴーグ前を通り、やがてエミノニュに到着した。旧市街を、海岸伝いにほとんど一周しちゃったわけ。我ながら、アホウだ(笑)。

 

次の目的地は、エジプシャン・バザールである。ここで、お土産を仕入れなければならない。呼び込みの群れ(日本語で「お父さん」とか呼んで来る(笑))を交わしつつ、雑貨屋でナザール・ボンジュー(魔よけの目玉)を5つ買った。ガラス細工なのに、1個YTL500円)もするのだから、ぼっている。でも、土産物なのだから、こんなものでしょう。

 

次は、夕飯を食う場所を物色せねばなるまい。ウロウロしているうち、「ITIMET」の前に出た。またアイランを買おうと思って店に入ると、さすがに3日目だと顔を覚えられていて、大柄なオッサンの店長がカウンターの向こうから話しかけてきた。

 

ところが、オッサンは英語も日本語も出来ない人だったので、意思疎通が出来ない。そこで彼は紙と鉛筆を取り出すと、筆談を始めた。なにやら数字を書いていく。54/8/6とか54/8/9とか。それから、「ヒロシマ、ヒロシマ」と言い出した。

 

ああ、分かったぞ!店長は俺を日本人と見て取って、「原爆の日」を聞いているのだ。そこでオッサンに、「54ではなくて(19)45です。そして、8/6はヒロシマの日で、8/9がナガサキの日です」とボディランゲージを交えて教えてあげた。すると店長は、悲しそうな目をして何やらトルコ語で言い始めた。おそらく、お悔やみみたいなことだろう。俺は適当に相槌を打ってから、いつものようにアイランのペットボトルを買って店を出た。

 

しかし、俺は「原爆の日」なんてすっかり忘れていたぞ。2日前が、まさにその日だったのだ。あのときギリシャ人に襲われたのは、日本人のくせに「原爆の日」を忘れた天罰だったのだろうか?そして、トルコ人が日本人以上に、原爆を哀しく感じているという事実に、胸が熱くなった。俺がトルコ語を出来れば、もっといろいろと話せただろうに、そう思うと残念だ。

 

その後、付近をいろいろと歩いたのだが、適当な飯屋に行き当たらなかった。飯屋の数が多すぎて、選べなかったせいでもある。

 

そこで、2日前と同様にパン屋の「taza」に行き(あのときの美男美女の店員は不在だった)、菓子パンとゴマパンを買ってホテルに持ち帰って食べた。

 

そうそう、沿道で見かけた雑貨屋でエフェスの缶ビールを買って、これも部屋で楽しんだのだった。この雑貨屋は、中年のオジサンと幼い少年がやっていて、2人は明らかに親子の関係であった。少年が俺の応対にモタモタすると、カウンターの父親が容赦なく叱正の声をあげる。厳しいようだけど、こうやってトルコ人は息子に、学校の夏休みの間に社会勉強をさせているのだ。そういえば、早朝の散歩をしていると、朝6時に幼い少年が店の前に水撒きをしている姿を良く見かけたものだ。

 

日本の「ゆとり教育」も、こういう形で機能すれば問題なかったのではないだろうか?こういった文化や風土が無いところで、いきなり学校のカリキュラムを削減しても意味がない。そんなことをしたら、子供が怠けるか、塾に通うだけの話である。空虚な理想ばかり唱えて現場の実態を知らないのが、我が国のキャリア官僚の病根であることは、俺が他の文章(「概説・太平洋戦争」など)の中で何度も指摘したとおりである。

 

などと考えつつ、さすがに今日は疲労困憊したので早めに寝た。

 

明日は最終日だ。