9月3日(水曜) クラコフとアウシュビッツ

 


 

朝の散歩

クラコフへの車窓の旅

ホテル・クラウン・ピアスト

アウシュビッツ博物館

 


 

朝の散歩

 

 

携帯アラームが鳴る5分前に目が覚めた。

 

最近は、「○時に起きなければ!」と念じて寝ると、必ずその5分前に目が覚める。人生経験を重ねると、体内時計の精度も上がるということか?「だったら、目覚ましをセットする必要無いじゃん!」という突っ込みは止めましょう。万が一の寝坊ということが有り得るので(笑)。

 

さて、6時半なので、朝のバイキングに行く前に散歩に出るとしよう。旧市街方面はすでに飽きたので、ホテルの南側、すなわちワジェンキ公園を目指すことにした。

 

ホテルの入口から外に出ようとしたら、回転ドアのところで、陽気なポーランド人のオジサンに日本語で「おはようございます」と声をかけられた。この国に来て以来、日本語を聞いたのも愛想良くされたのもこれが初めてなので、妙に感動した。そこでしばらく、回転ドアの外で、オジサンと英語で立ち話をした。この人の息子さんが渋谷で働いていて、しかもその嫁が日本人女性だという。この夫婦に赤ちゃんが生まれたので、オジサンは先月まで渋谷に出かけて、生後8ヶ月の初孫を抱いてきたばかりだという。それで、ここワルシャワで、日本人の俺を見つけて懐かしくなったというわけ。「私の孫は、本当に可愛くて!」とオジサンは実に幸せそうだった。

 

朝っぱらから、こういう幸せな話を聞くと、こっちの心も浮き立ってくる。幸せ気分で胸を張ってワジェンキ公園を目指したのだが、予想以上に遠かった。

 

ようやく公園の北側に到着し、美しく剪定された庭を見て回るうちに7時半になった。またもや雨がパラついて来た上に、さすがにタイムオーバーである。池に横たわる謎の怪獣(?)のオブジェを撮影してから、足早にホテルに引き返した。

 

 

途中で教会の風景なども撮影したので、帰り着くまでに予想以上の時間を食ったのだが、8時30分にはホテルでの朝食を終えた。噂通り、ポーランドのソーセージやベーコンは美味いな。パンとスープも素晴らしいな。だけど、飛行機で女学生に聞いていた通り、この国のコーヒーはすごく不味いことが判明した。口直しに飲んだティーバックの紅茶のほうが、遥かにマシだった。

 

全般的に、ポーランド料理の味つけはチェコ料理に良く似ている。「まったく同じ」と言っても良いくらいである。さすがは、西スラブ系の兄弟民族だ。ただし、チェコのコーヒーはこんなに不味くなかったぞ!

 

などと思いつつ、部屋で荷物をまとめると、急いでフロントに降りてチェックアウトした。中央駅で、9時5分発のEC特急に乗らなければならないのだ。

 

重い荷物を抱えてホテルの前の地下道を抜けると、昨日の早朝と同じルートでワルシャワ中央駅に入った。1階の電光掲示板を確認すると、予約の電車は予定通りの出発である。このEC特急の行き先を見ると、「BUDAPEST KELTI」。おおー、ブダペストの東駅か!なんと懐かしい響きだろうか!クラコフで途中下車しないで、終点まで乗って行きたい気分になったぞ。7年前の温泉ハシゴ旅行が懐かしいなあ。

 

発車までしばらく時間があったので、駅の構内をしばらく散歩した。

 

この中央駅は、3階構造になっている。

 

1階(地表階)は、切符売り場と待合室、そしてインフォメーションセンターと軽食堂と電光掲示板がある広壮としたスペースだ。

 

ここをエスカレーターで一つ降りると、地下1階はショッピングモールになっている。パン屋、雑貨屋、本屋、古本屋、両替屋などが並び、ここからトラムやバス停への連絡通路も延びている。俺は、両替屋で10,000円を150ズロチーに替えた(空港よりもレートが悪かったのが謎だ)。それから、本屋でクラコフ市周辺の詳細な地図を買った。クラコフのホテルへのアクセスに、必須と思われたからである。

 

ここからさらにエスカレーターで一つ降りると、地下2階がようやくプラットホームだ。中央駅には全部で6番線まであり、俺は2番線からの発車だった。

 

以上、駅の構造は、初心者にも分かりやすくて、しかも便利である。東京も、少しはこれを見習ったほうが良い。新宿駅や渋谷駅なんか、東京に慣れた人でも迷うものな。

 

この駅には、バスやトラムと同様に、切符の改札口が存在しない。特急列車の場合は、検札はすべて車内で行う方式だ。鈍行列車の場合は、おそらく市内の公共交通機関と同様に、検札官が定期的にチェックするまで、切符は各自が自主管理なのだろう。

 

ただ、ワルシャワ中央駅は、とにかく昼でも暗い。1階からしてすでに暗いのに、地下2階なんか、もう真っ暗だ。省エネは良いけれど、ここまで電気を落とされると怖いくらいだ。この街の治安が良くなければ、さすがの俺も電車に乗りたいと思わないだろう。

 

 

その点、プラハやブダペストの中央駅は、照明抑え目でありながら、明るくてお洒落な空間だった。プラハ中央駅なんか、外観も内装もアールデコ、アールヌーボーって感じで、構内をウロウロするだけで楽しくなる。ポーランド人には、どうやらそういった芸術的な感性というか遊び心が足りないようだな。良くも悪くも「社会主義」って感じである。

 

もっとも、そういう意味では日本も同じだ。日本の施設は、構内は明るいけど(無駄に電気を使うから)、機能性ばかりを追及して美しくないし、心も安らがない。これは、日本社会が実質的に「社会主義」だからだ。まあ、革命を起こして政府を転覆させないかぎり、改まることはないだろうね。

 

 

クラコフへの車窓の旅

 

 

などと考えている間に、EC特急がホームに入って来た。ちょうど、自分の目の前に目当ての6号車が来たのでラッキーである(ある程度、停車位置を予想していた結果だが)。

 

客車に乗り込む人々は、平日の昼間のせいか、みんなビジネスマンタイプの人が多い。なのに、スーツ姿の人があまり見当たらないのは、この国のビジネスマンにスーツを着る習慣が乏しいためだろう。これは、日本も見習うべきである。

 

駅構内が暗いので、自分のコンパートメントを探すのがたいへんだ。この列車は、二等車であってもコンパートメント方式になっている。すなわち、客車の左半分が廊下、右半分がいくつもの個室になっている。ただし、個室といっても各部屋に座席が6つ入っているので、少々狭い。成田空港で旅行会社に渡された指定券には、コンパートメント名と座席名が併記されていた。まずはコンパートメントを見つけ、その中で自分の座席を見つけなければならないのだから、暗闇の中では少々面倒くさい作業だ。

 

ようやく自分の席を見つけたら、そこにはすでにポーランド人の青年が座っていた。意外に思っていると、青年は「この席ですか?(ポーランド語だけど、こんな感じ)」と言って立ち上がり、そそくさと廊下に出て行った。どうやら、自由席の客が、空いている指定席に潜り込もうとしていたようだ。日本人も、良くやるよね、こういうこと。

 

自分の席は、窓際の進行方向を向いた良い場所だった。阪急交通社、偉いぞ!やがて発車時刻が近づくと、同じコンパートメントの他の席も埋まってきた。俺の正面に座ったのは小太りのオバサン、その隣が私服姿の青年、その斜め前(俺の2つ左)が、ラフなスーツ姿の青年だった。つまり総勢4名だから、座席は2つ余ったことになる。さっき出て行った青年、逃げることなかったのに()

 

定刻どおりに出発した列車は、薄暗いトンネルを抜けると、すぐに陽光の下に飛び出した。しばらくすると、正面に座っていたオバサンが、人懐こい笑顔で俺に話しかけて来たのだが、「英語しかできません」と返すと、意外そうな表情を浮かべて黙った。ちょっと残念。まあ、デブのオバサンだから別にいいか(笑)。

 

その隣の青年は、カバンからPCを取り出すと、これを忙しく弄りながら、誰かと携帯で会話を始めた。ITベンチャー系の社長ないし社員なのだろうか。ここで気づいたのだが、このコンパートメントは全座席の横にPC用のプラグがあって、ネットも出来るようになっていた。日本では、新幹線ですらこんな便利な機能は無いので、やはりEUがネット先進国であることが痛感された。

 

なお、俺の2つ隣のサラリーマン風の青年は、本を読むか寝ているかしていた。どうやら平凡なサラリーマン君らしい(笑)。

 

そういう俺は、MDウォークマンで自作の「David Bowieベスト」を聴いたのだが、「ワルシャワ」というインストルメンタル曲(アルバムLow収録)を久しぶりに聴いて、「なるほど」と妙に納得した。ワルシャワという街の雰囲気は、確かにこんな感じである。さすがBowie師匠は天才だなあ。

 

音楽に飽きると、日本から持参してきた「闇の子供たち」(梁石日)を読み始めたのだが、冒頭から予想以上にえげつない内容だったので嫌になり、読みかけの「アンナ・カレーニナ」に切り替えた。これからアウシュビッツに向かうというのに、「闇の子供たち」は失敗だろう。

 

車窓の風景は、未開の森林らしき土地が多いのに驚いた。この国は、日本と国土面積がほぼ同じなのに、総人口が4000万程度なのだから、これも当然か。森林地帯を抜けると、後は牧場か畑が延々と続く。さすがは農業国だ。牧場ではよく牛を見かけたが、黒と白の縞々ボディのホルスタイン種が中心のようだ。人家はほとんど見かけない。

 

総じて、車窓は単調である。一面の平野の中に、畑か牧場か森しか無いのだ。丘陵が多くて起伏に飛んだチェコの車窓が懐かしいな。

 

 

出発して1時間で検札が来たので、切符にハサミを入れてもらった。それから順調に2時間ほど走ったところで、いきなり急停車した。なにか、事故があったのかもしれない。場内アナウンスはポーランド語だったので良く分からなかったけど、周囲の同道者たちがそれほど慌てていないから、大したことないのだろう。30分くらいして走行再開し、結局、予定よりも10分遅れでクラコフ中央駅に到着した。3時間30分の旅であった。

 

さて、今は1210分だけど、アウシュビッツ行きバスツアーの集合時間は1420分なので、あまり時間がない。とりあえず、駅の構内をウロウロして便所で用を足してから(1.5ズロチー)、駅舎の外に出た。

 

 

ホテル・クラウン・ピアスト

 

 

駅前広場は、予想以上に大きくて綺麗なところだった。隣接する巨大ショッピングモール「ガレリア」も、一見したところ良い感じである。観光客は少なくて閑散としている。まあ、平日の昼間というせいもあるだろう。

 

 

 

 

まずは、クラコフの街の公共交通機関無料券を調達し、ついでにホテルへのアクセスをチェックしなければならぬ。その前に腹が減ったので、駅舎に戻って餌を探すことにした。

 

駅舎の奥のほうに「KEBAB」の看板を出しているレストランがあったので、「まあ、ケバブでも良いか」と思いつつ入口でメニューを見たら、チキン料理もあるらしい。じゃあ、チキンにしようか。

 

なお、ポーランドで最も良く見かけるファストフード店は、意外なことにマックでもケンタッキーでもなく、「KEBAB」の店である。どうやら、この国ではトルコ料理が大人気のようだ。トルコファンとしては、嬉しい限りである。それでも俺は、あえてKEBABの店でチキンを注文しちゃうんだけどね(笑)。

 

がら空きのこの店は、小さなカウンターで料理を注文する形態だった。17ズロチー払ってから、木彫りの質素なテーブルでクラコフ市街図を見ながら待っていると、カウンターの無愛想なオバサンから声がかかったので皿を受け取りに行った。うわー、骨付きチキンが、丸々一羽分乗っているよ!付け合せのサラダも、すごいヴォリュームだよ!さすがに、これには意表を付かれた。

 

食べ終わるまで20分くらいかかったので(美味かったけど)、時刻は1240分。のんびりしている余裕は無いぞ。とりあえず駅構内で、公共交通機関無料券をゲットしようか。

 

インフォメーションセンターには、学生風の2人の女の子が座っていた。赤毛で色黒の方に「クラコフ・ツーリスト・カード」の2日券を頼んだら、50ズロチーもした。「地球の歩き方」によれば、このカードは公共交通機関のみならず、市内各施設が割引になるらしい。でも、買ってから思ったけど、50ズロチー分の元を取るのはたいへんだ。これは失敗だったかもしれぬ。などと悩んでいると、赤毛の女の子はカードの特典や利用方法について、小冊子を見せながら英語で説明してくれた。こいつ、ポーランド人にしては、なかなか親切で丁寧な娘じゃないか!もっとも、こいつは説明に詰まると、小冊子のURLを指差して「詳しくはネットで調べてくださいね」とか逃げを打つのだったが(笑)。

 

甘えついでに、ホテルへのアクセスを教えてもらうことにした。

 

クラコフでの宿泊先は、5つ星ホテルの「クラウン・ピアスト」になっているのだが、日本でネットで調べたところ、このホテルは駅からは4キロも離れていて、しかもホームページにはバスやトラムの案内も載っていなかったのである。いちおう、ワルシャワ中央駅で今朝買った市街地図によって、4番トラムと8番トラムがホテルの近くを通ることが分かっている。だけど不安なので、とりあえず(ポーランド人にしては)愛想の良いこの娘に、マッチベターなアクセスについて聞いてみたのであった。

 

ところが、その娘はホテルの場所を知らなかった。相棒の金髪の娘も知らなかった。おいおい、こんなんでインフォメーションセンターの機能を果たせるのかね!自分がホテルのクーポンを出して住所を教えると、パソコンを叩いていろいろと調べてくれたのだが、やはり分からない。

 

「じゃあ、いいよ。タクシーで行くから」と、俺は匙を投げた。

 

すると、赤毛の娘は済まなそうに、さっき俺に渡した小冊子(クラコフカードの説明用)に自分の名前とこのセンターの名前をマジックで書き込むと、「これをタクシーの運転手に見せてください。割引になると思います」と言った。ふむふむ、Olaちゃんか、良い名前だね。親切だし。

 

彼女がタクシー乗り場の場所を教えてくれたので、駅前広場に出てそっちの方に歩いて行った。すると、スポーツ新聞を読みながら広場を歩いていた初老のオジサンが、「タクシーですか?」と話しかけてきた。一瞬、不良タクシーじゃないかとの悪い予感が脳裏を霞めたが、オジサンは優しそうだし、Ola嬢のお墨付きもあるので、油断してこの人のタクシーに乗ることにした。

 

案の定、白塗りのライトバンは、どう見ても個人タクシーだった。まずいなあ。車はわざわざ大通りを避けて、狭い路地をすいすい抜けて行く。そのせいで渋滞は回避されたわけだが、ホテルの入口の前で「58ズロチー」を請求された。

 

高え!

 

俺が、「クラコフカードを持っているので、割引になるはずだ!」と言ったら、オジサンは運転席の機器を指して、「この車にはカードの読み取り機が付いてないだろう?だからダメだ」と返しおった。なるほど、「個人タクシー」だよ。優しそうなオジサンの外見に騙されてしまった。Olaちゃんの厚意が無になったわけか。っていうか、インフォメーションセンターで、「不良タクシーに注意」とか教えてくれたら良かったのに(泣)。

 

なおも交渉しようと思ったら、いきなり俺が座っている側の後部座席のドアが外から開いて、ホテルのボーイさんが英語で話しかけてきた。うわあ、2方向から英語が飛んできて面倒くさい。考えてみたら時間もないわけだし、今回は妥協することにした。そこで60ズロチーを渡したら、オジサンはお釣りを寄越そうとしない。チップのつもりなのか?すごく悔しいけど、高級ホテルのボーイの前で2ズロチーを巡って口論するのは日本人の沽券にかかわるので、黙ってタクシーを降りた。

 

みなさんは、ポーランドの不良タクシーには気をつけましょうね。もっとも、60ズロチーを日本円に換算すると2,700円なので、日本で同じ距離(約10キロ)を走ったと考えれば、そんなに大した損でもないのだが。

 

さて、「ホテル・クラウン・ピアスト」だ。高級ホテルらしく、ぱりっとした青い制服を纏うボーイさんは、「荷物をお持ちしましょうか?」とか聞いてくる。それを遠慮してフロントでチェックインの手続きをしつつ、最寄りの交通機関について受付嬢に聞いてみた。

 

「最寄りの交通機関はありません」金髪の可愛い眼鏡っ子は、すました顔で応える。「旧市街まで歩きたいですって?ここから旧市街までは8キロあるので、歩くのは無謀ですわ。必要ならホテルでタクシーを呼んで差し上げます」

 

タクシーを呼べば済む話なら、最初から聞かねえよ。っていうか、8キロってどういうことだ?日本でチェックしたホームページによれば、駅から(すなわち旧市街から)4キロって書いてあったぞ。これって詐欺じゃないか!

 

まあ、ここへ来る時の不良タクシーの中でも、「駅から4キロにしては遠い」と思ったんだけどね。

 

それでも、あんまりケチくさい貧乏人だと思われると、日本人の威信が落ちることになるので、これ以上食い下がるのは止めておいた。ホテルから途中の街道まで歩いて、そこで4番ないし8番トラムを拾うことにしよう。

 

そう考えていると、もう一人の受付嬢が白い封筒を「預り物です」と言って俺に渡した。それは、「クラコフ・ツアー」からの最終案内状で、今日の1420分からのアウシュビッツツアーの概要が記してあった。時計を見ると、もう1330分だ。そこで、少し部屋で休んでから、またこのロビーに降りてくることにした。

 

俺の部屋は2階だったのだが、青い服のボーイくんが案内してくれるのでエレベーターで上がった。うわ、エレベーターホールも廊下も薄暗い。昼間から真っ暗じゃん!さすがはポーランドだぜ!(笑)と思っていたら、俺が進むに連れて、廊下の照明がだんだんと点いて行く仕掛けになっていた。赤外線感知かな?後ろを振り返ると、逆に電気は消えて行く。これって、紅海を杖でぶち割るモーゼの心境である。この粋な演出は、廊下を通る人が少ない深夜帯を考えるなら、かなりの省エネに繋がるはずである。さすが、高級ホテルは違うぜ。っていうか、日本のホテルも見習え!

 

部屋の中は、アットホームな色彩で暖かい雰囲気に満ちていた。5つ星ホテルは、やっぱり違うな。大きな窓の外には、ホテルの広大な中庭が広がる。庭師さんが、樹木の剪定をしたり水を撒いている様子が良く分かるぞ。この庭の一部は、オープンエアのレストランになっているようだ。余裕があれば中庭を散歩したり、オープンエアで飯を食いたいところだが、あいにく今回は余裕が皆無だな。

 

部屋でゴロゴロしながら、TVの歌番組やクイズ番組(「ミリオネラ」とそっくりな番組がやっていた(笑))を楽しんでいるうちに14時になったので、手荷物を纏めてロビーに降りて行った。

 

高級感のあるソファーに座って待っていると、1420分を過ぎても誰も来ない。おかしいな、そんなはずは無いのだが、と悩みつつ、さっきフロントで渡された案内を見ると、集合場所の欄に「NOVOTEL」と書いてあることに気づいた。しまった!ここじゃない!てっきり、このホテルに誰かが迎えに来るものと思い込んでいたのだが、考えてみれば日本で申し込んだ8,000円のツアーが、そこまでしてくれるはずが無いのだった。俺は、市内に出向いて、ノボテルのロビーで持っていなければならなかったのだ!

 

慌ててフロントに行って、さっきの眼鏡っ子に事情を説明し、旅行会社に電話してもらうよう依頼した。「もしかすると、明日に回されちゃうかもしれませんね」と眼鏡っ子は同情しつつ、何度も電話してくれたのだが、誰も出んわ!(と、駄洒落でも書くか)。

 

来たあー。逆境だあー(島本和彦「逆境ナイン」より)!まあ、たまにはこういうスリルが無いと面白くない。こういうのを乗り切るのが、個人旅行の醍醐味でもある(と、負け惜しみ)。

 

いちおう、眼鏡っ子に「クラコフ・ツアー」の電話番号を教えてもらい、自室からかけ直すことにした。万が一ダメだったら、明日にでも自分で電車かバスかタクシーで行くしかない。そうすると、明日予定していたクラコフ市内観光がパーになるわけだが、それも仕方ないだろう。

 

悩みつつ、自室に帰って電話をかけると、今度は通じた!どもり気味に事情を説明すると、直ちに了解した旅行会社は、「今からタクシーで、市内のクラコビッツホテルに来てください。1515分集合です」と明瞭に指示して来た。どうやら、当初予約していたその次のツアーに割り込ませてくれるらしい。

 

やったぜ!リカバー成功だ!

 

急いでフロントに降りると、受付嬢たちにタクシーを呼んでもらった。彼女たちに事情を説明したら、眼鏡っ子たちは俺が無事にリカバー出来たので嬉しそうだった。こうして見ると、ポーランド人は愛想が悪いだけで、それなりに優しい人たちなのだろう。

 

5分ほどでタクシーが来たので(黒塗りの無線タクシーだ)、クラコビッツホテルまで急いでもらった。実直そうなオジサンが運転するタクシーは、俺が明日以降に利用しようと考えていたトラム路線の近くを通った。よしよし、地図の上で想像していた通りだぞ。ホテルからトラム路線まで1キロ弱ってところか。自分の目で確認できたのはラッキーである。

 

タクシーは、10分ほどでクラコフ旧市街の西に位置するクラコビッツホテルに到着した。料金は20ズロチー(900円)だから、無線タクシーはやはり良心的だな。

 

 

アウシュビッツ博物館

 

 

古めかしい由緒あるホテルのロビーで、しばしくつろいで時間を待つ。1515分になると外がざわついたので、出てみると何台もの「クラコフ・ツアー」の名がついたバスが停まっていて、人でごった返していた。どうやら、何種類もの郊外ツアーの集合が、ここで同時に行われているようだ。

 

手近に立つ係員らしき人にクーポンを見せて事情を説明すると、奥まった場所に停まったバスに向かうよう指示された。そのバスの入口で、責任者らしい青年にクーポンを見せると、委細承知といった感じでバスの中に通してくれた。

 

大型のリムジンバスの中には、運転手のほかには白人観光客が10名程度だけだ。おいおい、こんなんで採算が合うのかよ!他人事ながら、心配になる。おそらくクラコフといえど、昨今の旅行者の激減に苦しめられているのだろうな。

 

やがて時間になったので、英語ガイドの青年が「これはアウシュビッツ行きです!気が変わった人や乗り間違えた人は、外に出る最終チャンスですよ!」と、冗談めかして言った。重い雰囲気のツアーかと思っていたら、そうでもないんだね。同道する白人観光客たちは、白髪の老夫婦が大半だったのだが、中には若いアベックが2組いて意外だった。アウシュビッツが、適当なデートコースとは思えないけどなあ(汗)。

 

それにしても、自分はただ一人の日本人だし(というより、ただ一人の有色人種だし)、ツアーのクーポンも他の人のと形が違うし、思い切り周囲から浮いていたぞ。まあ、こういうシチュエーションには慣れっこだけどね。

 

やがて、ガイドの青年が「クラコフ・ツアー」のワッペンを全員に配ったので、俺はそれを胸に張った。現地で迷子にならないための用心だ。

 

バスは、クラコフ西方の街道に入り、それから農地に囲まれた狭い道を延々と走る。たまに、前を走るトラクターに邪魔されて鈍足になるのがご愛嬌だ。さすがは、農業国!牛に邪魔されてしばしば車がストップするモンゴルを、懐かしく思い出してしまった。

 

このバスの前部には、テレビモニターが付いている。ガイドの青年は、それを用いてアウシュビッツに関するドキュメンタリーフィルム(ポーランド製作の英語版)を流してくれた。これは1時間程度の番組だったが、ヒトラーの台頭からはじまりヨーロッパが戦争に突入していく過程、そして最初の餌食となったポーランドの悲劇、ついには絶滅強制収容所の建設からその中で行われた狂気の蛮行について、しっかりと描かれていた。

 

この番組が終わるころ、バスはようやくオシフィエンチム(ドイツ名アウシュビッツ)村に入った。クラコフ市街からかなりの距離なので(約1時間半)、やはりバスツアーに参加したのは正解だったな。近くに鉄道駅もあるけれど(バスは駅前を通り過ぎた)、自力で来るのは時間的に非効率だったに違いない。

 

あちこちに看板が出ていて、駐車場もたくさんある。なんだか、普通の観光地みたいだ。バスは、がら空きの駐車場にゆっくりと入り、アウシュビッツ博物館入口のすぐ近くで乗客を降ろした。しばしトイレ休憩してから(俺は小用をした)、博物館受付やショップの置かれた赤レンガの建物内のロビーで集合する。

 

「クラコフ・ツアー」のガイドの青年は、メンバーの人数確認を終えると、この博物館専属ガイドと思われるオバサンに我々を引き渡し、自分は外に出て行った。ある意味、楽な仕事だな。

 

ガイドのオバサンは、注意事項を丁寧に説明すると、さっそくみんなを引率して施設に入って行った。戸外は気持ちの良い陽光に照らされ、空気が本当に美味い。鉄条網に囲まれた木造のバラックが見えて来たけど、ここからは陰惨な感じはまったく受けない。同道の老人ツアー客たちは、普通の観光地にいるかのように笑顔でいるし、若いカップルたちは子供のようにはしゃいでいる。

 

やがて、オバサンは収容所入口の鉄門の前に立ち止まり、最初の解説を始めた。

 

鉄門の上には、有名な文字が飾られている。ドイツ語で「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由をもたらす)」。囚人たちは、この文字を見てわずかな希望を繋いだことだろう。しかし、この文字は真っ赤な嘘なのだ。アウシュビッツは、囚人を殺すための施設なのだから。

 

 

実を言うと、俺はアウシュビッツを10年前から訪れたいと思っていた。ようやく、この門を生で見ることが出来たか!と感無量である。

 

今から10年前、『千年帝国の魔王』というヒトラーを主人公にした小説を書いた。その中で当然のようにアウシュビッツを描いたのだが、その夜、部屋中に非業にして死んだ人たちの怨霊が跋扈しているように思えて怖くて眠れなかった。「これは一度、アウシュビッツに出かけて黙祷を捧げなければならない」と決意して、それから早10年なのであった。

 

実は、過去に海外旅行を思い立つたび、必ず「ポーランド」にチェックを入れていた。だが、なかなか都合の良い内容と料金のプランが見当たらず、そのたびにチェコやハンガリーやモンゴルに行き先を変更しちゃうのだった。

 

今年は、航空燃料代がバカ高くなったので、海外旅行そのものの実施について大いに悩んだのだったが、俺もちょうど40歳になったことだし、「ケジメ」として10年来の宿願を果たすべく、とうとうこの地に立ったというわけ。

 

ARBEIT MACHT FREI」の文字は、照りつける優しい陽光の中で、穏やかに観光客を迎える。その様子は、不気味といえば不気味である。門の脇には、小高い監視塔もある。往時は、ここに銃を構えたドイツ兵が立ち、構内を見張っていたのであろう。

 

門を潜ると、ポプラの美しい並木道が碁盤目状に並び、その中に赤レンガ造りのバラックが並んでいた。これがかつて、囚人が押し込められていた収容所であるのだが、今ではそれぞれのバラックの内部は、博物館仕様に改装されている。

 

ガイドさんは、写真撮影は屋外のみオーケーだと言う。屋内での撮影は、犠牲者に対して失礼に当たるとか。どうして、屋外撮影だと失礼に当たらないのか、謎と言えば謎だ。

 

我々はまず、処刑展示室である4号棟と5号棟に入った。リノリウムが貼られた屋内は、一本の狭い廊下を中心にして、左右に小さな小部屋が設けられる形だ。先行の別のガイドツアーの後に続いて、ムカデのような行列を作りつつ奥へと進む。

 

最初の展示は、ナチスドイツの勃興と最初の収容所建設に関する説明だ。一見すると辺鄙なところに位置するアウシュビッツは、ナチスの勢力圏のちょうど中心に位置し、しかも鉄道網の配置から、輸送に便利な場所だった。そして、クラコフ地区で最初に築かれた収容所が、ここだったのである。

 

ここは、最初のうちは政治犯や戦争捕虜を収容する場所だったのだが、やがて1942年にナチスのユダヤ政策が変更されたことにより、都市部のゲットー(隔離地区)などに押し込められていたユダヤ人が大量に送り込まれて来るようになった。それで手狭になったから、ここから6キロ離れた場所に第2アウシュビッツ(ビルケナウ)や第3アウシュビッツを建設することになり、それでも間に合わないものだから、囚人の大量殺戮が始まることになる。以上が、4号棟1階の展示であった。

 

狭いコンクリートの階段を上がって4号棟の2階に移動すると、大量殺戮に用いた毒ガスの解説が始まった。以前、写真で見たことがある毒ガスの空き缶が、巨大なガラスケースの向こう側に大量に積まれていた。また、その隣の小さなガラスケースの中には、空き缶の中身である白い小さな錠剤のサンプルが展示されていた。これ一粒で、数十名を20分以内に殺害する能力がある。これこそ、悪名高き「チクロンB」なのだが、ガイドさんはこれを英語で「サイクロンB」と発音していた。そうか、ドイツ語のチクロンは、英語のサイクロンに当たるのか。知らなかった!

 

3階に移動すると、もっと凄まじい光景が目に入った。幅10メートルはあろうかという巨大なガラスケースの中に、刈り取られた人間の髪の房が山積みになっているのである。これも以前に写真などで見たことがあったけど、やはり現物の迫力は凄まじい。女性の囚人は、虱対策ということもあって、入所してすぐに髪を切られてしまう。この髪は、捨てずにカーペットやヘアネットなどに加工されたという。だから戦後になって、ナチスが貯蔵していた髪の毛が倉庫の中から見つかり、この博物館で展示されているのだ。実際、髪から加工されたカーペットなどの展示も近くにあったが、素材が金色だし、見事な細工だったので、これじゃあ原料が人間の髪だと気づかないだろう。

 

4号棟の残りと5号棟は、こういった展示が延々と続く。義手義足の山や洋服の山、貴金属の山、トランクの山が、嫌になるほど展示されている。

 

ガラスケース一杯に詰まれたトランクの山(=囚人が着替えや日用品を詰めて来た)を見て痛ましいのは、その全てに白いチョークで住所と名前が大きく書かれていることである。囚人たちは、いつかはトランクを返してもらえると信じていたのだろう。「早く家に帰りたい」との想いが、チョークの字面からひしひしと伝わって来るのだ。そのうちの一つに、「プラハ在住のカフカ」の名があった。もしかすると、あの大作家フランツ・カフカの縁者の持ち物かもしれない。彼自身は戦争が始まる前に病死したのだが、プラハ在住の彼の家族は、みなナチスに捕らえられ二度と戻って来なかった。ユダヤ人だったからという、それだけの理由で。

 

最も見ていて辛いのは、子供の展示だった。幼い子供は、労働力にならないという理由で入所してすぐに殺されてしまうか、あるいは人体実験に使われた。そんな彼らが着ていた子供服や人形や壊れた哺乳瓶が、信じられないほど大量にガラスケースの向こうに積まれているのだ。これだけの数の子供が計画的に殺されたかと思うと、子供好き(ロリコンともいうが)としては平静ではおれない。

 

実際、この時点でツアーの仲間たちは、みんな暗い顔でうつむいていた。女性は、ガイドさんを含めてみんな泣いていた。確かに、こんなのを見せられて泣かない奴は、女じゃないやな。でも、ガイドさんは明らかにベテランなのだが、毎回こんな風に泣きながら解説しているのだろうか?と、少し気になった。

 

ガイドのオバサンは、独特の語り癖がある人で、最も重要で印象的な言葉を、解説の最後に低く小さく呟くように話すのだった。だから、列の後ろに立っていた場合、たまにそのキーワードが聞き取れないことがある。でも、この湿っぽい重い雰囲気の中で、「もう一度言ってください」と頼むのも気がひけるので、少し残念だったが諦めた。ガイドさんってば、感情が高ぶると英語が妙にポーランド訛りになるし。良く泣くし。でも、きっとこういう場所のガイドとしては適任なのだろう。きっと、彼女の縁者がアウシュビッツの犠牲者だったのだろうな。

 

6号棟からは、囚人の生活に関する展示が始まる。

 

ここで説明すると、アウシュビッツの囚人は、必ずしも入所してすぐに殺されるわけではない。入所日に門の中で軍医がチェックして、労働力になりそうな者はバラック小屋に押し込めて働かせるし、役に立ちそうも無い人をガス室送りにするのである。つまり、6号棟は、体が丈夫だったために強制労働をさせられた人の展示なのである。

 

このバラック内では、囚人の食事や労働環境などが展示され、戦後になって元囚人が描いた収容所生活に関する絵などが飾られていた。囚人たちは、わずか1000カロリーの食事で朝から晩まで肉体労働をさせられた。もちろん、栄養失調と疫病で、次々に死者が出たのだが、これはナチスにとって望むところだった。なぜなら、ドイツ軍の占領地域が拡大するにつれ、移送されてくる人の数が増える一方だったので、既存の囚人を早く処分して空きスペースを確保するのが正解ということになる。

 

そう考えれば、アウシュビッツというのは、まさに「工場」だった。仕入れの手配や入荷検収、在庫管理、副産物の生産まで行う。歩留まり管理や効率性アップのための企画会議を行い、適確な方策を立てる。しかし、ここで扱われたのは工業製品ではなく、生きた人間なのである。生きた人間を虐待し、そしてなるべく早く効率的に殺すのが、この工場の目的である。すなわち「殺人工場」なのだ。

 

だから、アウシュビッツを原爆や南京事件と比較することは出来ない。原爆も南京事件も、戦争中の戦闘行為としての出来事である。程度の差はあれ、似たような事件は歴史の中にいくらでもある。しかし、アウシュビッツは違う。戦場を遠く離れた平和な農村の一画に殺人工場を建設し、何の罪も無い普通の人々を4年間にわたって継続的に殺戮し続けた場所なのである。だから、その恐ろしさを後世に伝える意義があるし、この地が世界遺産になった意味がある。

 

さて、10号棟は、人体実験の展示である。人間がどこまで寒さに耐えられるか、どこまで飢えに耐えられるか、などの実験を行ったのである。ガリガリに痩せた子供たちとか、痛ましい写真がたくさんあった。もっとも、我々日本人も、戦争中は満州などで似たことを散々していたのだから、ドイツ人の悪口を言う資格はない。ガイドさんは、「この実験を指揮したメンゲレ博士は、戦後も南米に逃げ延びて、1970年代まで生きて天寿を全うしたのです」と、涙に怒りをこめて語った。なるほど、彼女の怒りは良く分かる。俺も怒っているぞ。これぞ「天網恢恢・・・」というのは嘘だという好例であろう。哀しいことに、悪は強いのである。

 

10号棟と11号棟の間にあるのが、「死の壁」である。銃殺刑になった囚人が、この無骨なコンクリートの壁の前に立たされたのだ。その近くには、木製の拷問器具なども置いてあり、実に陰惨極まりない雰囲気だ。壁の前には、多くの花束が飾られている。俺も、余裕があれば花束でも置きたいところだったのだが、今回は買う暇がなかった。っていうか、博物館の入口に花屋くらいあれば良かったのに。

 

11号棟は、拷問の展示である。ここは、実際に囚人を押し込めて拷問を加えた場所であった。狭い部屋に閉じ込めて飢えさせたり、立ったまま眠らせなかったり。有名なコルベ神父は、他の囚人の身代わりとなってここで死んだ。

 

囚人たちの写真が大量に貼られた壁を抜けると、主要な展示は終わりである。さすがに暗然たる気分で11号棟を出る。

 

その後、ツアーは、施設の反対側に列をなして移動し、巨大なコンクリート製のガス室に入った。ここでは、「シャワーを浴びられる」と騙されて連れ込まれた囚人たちが、例のサイクロンガスをシャワー口から浴びせられて20分以内に絶命したのであった。折り重なった彼らの死体は、それに隣室した巨大な竈に巨大なシャベルで放り込まれて焼かれる。道理で、この「シャワー室」には巨大な煙突が付いているわけだ。

 

 

外に出ると、周囲は傾きかけた淡い陽光に照らされ、実に平和である。平和な中で自由に生きられて、自分たちは幸せだと心から思える。

 

今の日本には、自殺したり、キレて無差別殺人をする人が非常に多いのだが、ぜひ、愚行をおかす前にアウシュビッツを訪れて欲しいと思う。世の中には、生きたくても生きられなかった人が大勢いたことを実感して欲しいものである。そして、命の大切さを想像して欲しいものである。もっとも、「誰でも良かった」と称して殺人をする手合いは、そもそもまともな想像力を持っていない可能性があるので、無駄かもしれないけど。

 

とりあえず、これでアウシュビッツ観光は終わりである。次は、元のバスに乗って第2アウシュビッツ(ビルケナウ)に向かうのだ。その前に、俺は数人のメンバーとともに雑貨屋にジュース(アップルティーだが)を買いに走った。

 

バスは、しばらく走ってから、元の道を左折して西進した。やがて、アウシュビッツから6キロに位置するビルケナウに着く。実は、こっちの方が、規模が大きくて犠牲者の数も多かったのである。赤レンガの入口には、鉄道線路が入り込んでいる。ここに囚人を満載した列車が、出入りしていたのだ。バスを降りた我々は、同じガイドさんに連れられて構内に入った。

 

ビルケナウは、アウシュビッツと違って、博物館用に改装されていない。往時の姿を、そのままに留めるというコンセプトの施設なのである。その目的のために、終戦間際にナチスが破壊した施設でさえ元通りに修復したという。

 

悪の施設を修復するのは、きっと辛い作業だったことだろう。だけど、「人類は、二度と同じ過ちを犯してはならない」という強い想いが、ポーランドの人たちの中にあったからこそ出来たのに違いない。

 

だが、実際には、その後もボスニア紛争やアフリカ諸国の内乱でホロコーストが行われた。人類は、あまり学習能力がないのかも知れない。

 

なお、ナチスとユダヤ人の関係については、拙著『千年帝国の魔王』などを参照してください。さすがに、この項の中で説明するのは無理です(汗)。

 

夕焼けの中、広大なビルケナウ収容所を歩く。この施設は、地平線が見えなくなるまで続くほどの巨大さだ。バラックは往時のままに保存されてあり、中には藁葺きの粗末なベッドや、石造りの共同便所(用を足すための丸い穴がたくさん開いているだけの大きな石版)が並ぶ。度肝を抜かれたのは、地平線まで延々と続く焼却炉の列である。いったい、どれだけの人が焼かれたのか想像を絶する。

 

 

俺は思わず、両手を合わせて黙祷を捧げた。

 

もう夜6時を回ったので、ツアーはここまでとなった。ガイドさんと笑顔で別れた我々メンバーは、小用をしたり付近を散策したりしてから施設を出た。

 

本当は、もう少し一人で見学したかったな。まあ、ガイドツアーなのだから仕方がない。次回来ることがあれば、ガイドを頼らずに自力で回るとしよう。

 

再びバスに乗り込んだメンバーは、真っ暗な夜道をクラコフに向かって走る。帰路のビデオ上映は無かったので、俺はひたすら物思いに沈んだ。やがて、ガイドの青年が「どこで降りたいですか?」と聞いてきたので、「クラコフ駅前が良いけど、どこでも良いですよ」と応えておいた。他にも、何人か駅前を希望する人がいたので、このバスの最終目的地はクラコフ駅前になった。

 

やがて市内に入り、いくつかのホテルを回ってツアー客を降ろしつつ、バスが駅前に着いたのは9時少し前。さすがに腹が減ったので、駅前のショッピングモールに入った。同行メンバーのカップル一組も、「わあい、まだ開いているー」とか喜びながら入って行った。

 

なかなか、想像以上に、大きくて綺麗で立派なモールだ。ワルシャワのデパート以上に立派なんじゃないか?とりあえずフードコートに行き、いくつもの店を物色する。マックやケンタッキーじゃ芸がないので、ポーランド料理店の前に行ったところ、「あと30分で閉店です」とレジの姉ちゃんに断られてしまった。「30分で食うよ」と言い返したけど、「それでも駄目です」との返事。仕方ないので、隣のマックでチーズバーガーのヴァリューセットをお持ち帰りにしてもらった。ケンタッキーは、チキンを昼に大量に食ったばかりなので却下だ。

 

さて、問題は、ホテルまでの帰路である。タクシーでぼられるのは懲り懲りなので、冒険ではあるが、予定通り4番(または8番)トラムを試すとしようか。そこで、駅前の乗り場で4番トラムを待ち、これに乗って西進した。こいつ、予想通りの道を走っていると思うのだが、なにしろ周囲が真っ暗なので不安になる。

 

それでも、目当ての立体交差路はすぐに分かったので、この上でトラムを降りた。この四差路から歩いて北上すれば、ホテルの前に出られるはず。よしよし、完全に読み通りだぞ。これこそが、最も効率的で合理的なホテルと市内との往復ルートに違いない。明日からも、これを使うとしよう。

 

このルートをホテルの姉ちゃんたちに教えてあげようかとも思ったけど、「この貧乏人め」という眼で見られるのは嫌なのでやめておいた(笑)。

 

こうして無事に「クラウン・ピアスト」に入り、部屋でテレビを見ながらマックを食い(ピクルスが美味だった)、それからシャワーを浴びた。このホテルの浴室は、バスタブの無いシャワーだけの仕様だった。さすがはヨーロッパ。5つ星ホテルでも、バスタブには興味ないのね(泣)。

 

明日は、朝からクラコフ市内観光の予定だし、もう午後11時なので、さっさと寝た。