ロボットアニメの歴史


目次

ロボットの誕生

ロボットアニメの黎明

永井豪と長浜忠夫

機動戦士ガンダム

太陽の牙ダグラム

超時空要塞マクロス

80年代大ブームの深淵

新世紀エヴァンゲリオン

総  括


 

ロボットの誕生

 

ロボットという概念は、それほど古いものではない。1920年に、チェコスロヴァキアの偉大な作家カレル・チャペックが、戯曲『R.U.R(ロッサム社のユニヴァーサルロボット)』で用いたのが最初である。

チャペックの着想に影響を与えたのは、チェコに中世から伝わる「ゴーレム伝説」である。ゴーレム、すなわち「ラビ(ユダヤ司祭)の魔法の呪文で動き出して働く泥人形」が、ロボットの原型になったのだ。

ロボットという言葉自体は、チェコ語の「賦役労働(ラバタ)」から思いついたらしい。

ただし、彼の作品に登場するロボットは、機械仕掛けでも泥人形でもない。遺伝子操作によって造られた人型生命体なのである。1920年の作品にしては、なかなか現代的な着想だ。さすがは天才作家のチャペックと言うしかあるまい。

この作品は、ストーリーの上でも、日進月歩の科学の発展に警鐘を鳴らした名編である。

(あらすじ)

大西洋の孤島に本社を置く多国籍企業ロッサム社は、遺伝子操作による人造人間を廉価製造することに成功する。この人造人間はロボットと呼ばれ、世界中に輸出されて各種労働に従事する。

しかし、感情を持たない道具であったはずのロボットたちは、世界戦争で兵器として使われたことが原因で自我を持ち、人間に対して反乱を起こす。

激しい争いの後、人類は滅亡し、ただ一人生き残った技師の老人は、ロボットの捕虜となり、ロボットの寿命を延ばす研究を強制される。ロボットは、数年の耐用年数で機能停止するよう造られており、また、生殖の習慣がないため、時が満ちれば自動的に滅びてしまうのだ。このままでは、地球の知的生命体は死に絶える。

研究に行き詰った技師は、しかし新たな希望に直面する。若いロボットの男女の間に、恋愛の炎を見て取ったからである。ロボットは進化し、ここに新たな人類となったのである。

この作品のデストピア・イメージは、多くの作家に影響を与えた。ドイツのフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』は、明らかにチャペックのイメージに支配されている。

この後、ロボットという概念は、アメリカのSF作家、アイザック・アシモフを通して一般化した。アシモフが創造したロボットは、機械仕掛けで人間の意志に従順な労働者であった。

 

ロボットアニメの黎明

さて、戦後日本の漫画とアニメは、手塚治虫によって創始されたといって良い。

手塚氏は、チャペックやラングやアシモフに大きな影響を受けて育った世代の人だから、彼の初期作品『鉄腕アトム』や『マグマ大使』が、人間の意思を持ったロボットヒーローの物語であるのは、むしろ当然といってよかろう。

また、手塚氏は「虫プロ」という会社を設立し、日本型のアニメーションの発展に尽力した。ここで製作されるのは、必然的に彼の作品、すなわちロボットものがメインとなる。

つまり、日本の漫画やアニメでロボットが重視される原点は、大御所・手塚治虫のロボット志向にあったというわけなのだ。

手塚氏の敷いたレールというのは、我々の想像以上に根深く、我が国の漫画やアニメに影響を与えている。例えば、日本のアニメは、欧米製に比べると動きが大雑把で、あたかも紙芝居のように見える。この事実は、この同時期に世界を席巻していたディズニーアニメ(白雪姫など)や本家チェコの人形アニメ(イジー・トルンカの作品が有名)と比較した場合、驚き入ってしまうほどに歴然としている。その理由は、手塚氏の「虫プロ」の資金繰りにあった。この会社は、慢性的な資金不足に陥って自転車操業に明け暮れていたため、セル画におカネを掛けられなかったのである。だから、紙芝居のような大雑把な動きのアニメしか作れなかったのである。

「虫プロ」が慢性的に貧乏だった原因は、手塚氏の経営者としての才能にも問題があったのだろうが、それ以上に、当時の日本社会全体が、アメリカやチェコに比べて貧しかったことにあるだろう。アニメなどという娯楽に、カネをかけていられる人が少なかったのである。

日本は、その後、急激に豊かになった。しかし、日本のアニメーターは、未だに手塚のこの真似をしているのである。日本社会というのは、基本的に保守的であって、「大御所」の意向を伝統的に守りたいものであるらしい。これは、文学や芸術や学問の世界でも同じことが言えると思う。ただ、日本のアニメが不遇である理由は、社会構造や経済の仕組みにも原因があるのであるが、あまり突っ込むとキリが無いので議論は省略する。

宮崎駿氏や大友克洋氏のアニメは、幸運な例外に当たる。彼らは、たまたま、カネになる作品を作れたので、多くのスポンサーが味方してくれたのである。

その他の一般的な日本アニメは、相変わらず「紙芝居」のままで在り続けた。しかし、それだからこそ、低コストで多くの作品を作ることが出来、様々な冒険的な技法やストーリーに、リスクを恐れずに挑戦できたのだ。しかし、これは逆に、粗製濫造ということに容易に結びつく。日本のアニメというのは、「画期的な冒険」と「粗製濫造」という両局面の間を、常に微妙に揺れ動き続けた。

この事実は、これからの議論を理解する上で実に重要なことなので、銘記していただきたい。

さて、手塚治虫のロボット志向によって、お茶の間では、かなり早い時期からブラウン管にロボットが飛び回っていた。その手塚氏の描くロボットは、後期のロビタを見ても分かるとおり、非常に生物くさい、人間と等身大の存在であった。

それを、いわゆる戦闘ロボに変貌させたのは、漫画家の横山光輝である。彼が創造した『鉄人28号』は、旧日本陸軍の秘密兵器という設定であった。これは、リモコンによって操作される兵器であるから、感情を持たぬ冷たい鉄の塊であり、リモコンを用いる者の意思によって、善にも悪にもなる存在なのだ。横山氏の描くロボットは、『ジャイアント・ロボ』、『バビル2世』、『マーズ』を通して、全て同じイメージが貫かれているから、これが彼のロボット観なのだろう。

『鉄腕アトム』や『鉄人28号』の大ヒットによって、日本のロボットアニメの発展は、その将来を約束された。そして、優れた後継者が次々に登場する。

 

永井豪と長浜忠夫

 

さて、手塚と横山のロボット観を、天才的なセンスで大発展させたのは、永井豪である。永井氏は、画期的な2つのアイデアで、ロボットアニメを新展開させたのである。

まず第1に、ロボットを巨大化し、そこに人間を搭乗させた。その記念すべき作品の名は、『マジンガーZ』である。この系譜は、『グレートマジンガー』、『UFOロボ・グレンダイザー』と発展していく。『グレンダイザー』は、今でも欧米の子供たちに愛されているらしい。

第2に、複数の戦闘機が合体してロボットになるという、いわゆる合体ロボを創出した。その記念すべき作品の名は『ゲッターロボ』である。この路線は、『ゲッターロボG』や『鋼鉄ジーグ』へと発展する。

現在の日本のロボットアニメは、今でも永井豪のこの路線を踏襲しつづけていると言える。永井氏の業績は、もっと高く評価されて良い。

ただ、これらの作品群は、ストーリー的にはあまり見るべきものがない。どれも同工異曲である。要するに、「異世界からの侵略者が、毎週1体か複数体の戦闘ロボットを送り込んで来る。それを、正義の主人公ロボットが迎え撃って倒す。最終回には、敵のアジトに攻め込んで敵のボスをやっつける」という内容なのである。まあ、この当時のロボットアニメの視聴者は、年端も行かぬ少年たちだったので、この程度のストーリーで十分だったのだ。

それでも、永井氏の基本アイデアだけでは、日本のロボットアニメは、次第に飽きられて衰退していっただろう。ここに、中興の英雄が現れる。その名は、長浜忠夫。彼は、『超電磁ロボ・コンバトラーV、『超電磁マシン・ボルテスV』、『闘将ダイモス』らを通して、いわゆるロマンロボを提唱した。単なるロボットプロレスではなく、豊かな人間ドラマを織り込んで、大人の観賞に耐えうる作品を目指したのである。

例えば、超電磁シリーズは、5つのマシンが合体してロボットになるため、主人公は5人である。そして、5人には、子供や女性が混ざり、それぞれの複雑な個性が強調される。また、敵の指揮官にも理知的で人間的な者がいて、敵味方の愛憎劇が全編に渡って展開されるのである。例えば、『ダイモス』では、敵将の妹と主人公が恋愛関係にあったりする。

この中で最も人気の高い『超電磁マシン・ボルテスVは、非常に複雑で深みのあるストーリー構成になっていた。

(あらすじ)

近未来、ボアザン星は、地球への侵略戦争を開始した。これを迎え撃つ合体ロボ「ボルテスV」は、密かに地球に亡命した正義感の強いボアザン星人が建造した究極兵器だった。このエリートは、地球人・峰博士になりすまし、地球人女性との間に三人の子を成した。この子供たちが、本編の主人公なのである。

しかし、ボアザン星には、峰博士の先妻の息子がいた。亡命者の息子であるハイネルは、ボアザン星の指導者に強いられるままに、地球攻略の尖兵として主人公の前に立ち塞がるのだ。ここに、血を分けた兄弟同士が、互いにそれと知らず、それぞれの祖国のために争うという悲劇が起きる。

戦局は次第に、ボアザン星内の穏健派と連合した地球側に有利となり、最後はボアザン星での決戦となる。主人公たちは、父の故郷を破壊し、実の兄を失い、深い悲しみのうちに勝利を迎えるのだ・・・。

 

なかなか、人間関係の組み立て方がドラマチックな作品であった。

彼の作品は、未だに色あせない。東南アジアや欧州で放映される人気アニメのリストには、必ず長浜アニメが挙げられるほどである。彼の業績も、もっと高く評価されるべきであろう。

 

機動戦士ガンダム

 

長浜氏の後継者は、富野喜幸(現・由悠季)である。彼こそが、80年代アニメ大ブームの火付け役と言っても良いだろう。『勇者ライディーン』、『無敵鋼人ザンボット3』、『無敵超人ダイターン3』は、長浜氏のロマンロボを忠実に受け継いだ作品である。だが、富野氏の作風は、次第にリアリズム志向への胎動を見せていく。こうして生まれた作品が、歴史に残る名編『機動戦士ガンダム』である。

 1979年にブラウン管に登場したこれは、80年代アニメブームを巻き起こした問題の作品である。放映後20年経った今でも根強い人気を堅持する、いろいろな意味で驚異的なロボットアニメなのである。

(あらすじ)

 近未来。人類は地球連邦という統一国家にまとまり、その生活圏を宇宙へと移していた。月と地球の間に横たわる7箇所のラグランジュポイントに、巨大な円筒状のスペースコロニーをいくつも浮かべ、それぞれのコロニー群をサイドと呼び、緩い自治権を与えていたのである。

 宇宙世紀0079年、地球から最も遠いサイド3は、ジオン公国を名乗り、地球連邦政府に対して独立戦争を挑んできた。ジオン軍は、新兵器モビルスーツ(要するにロボット)を用いた奇襲戦法で優勢に戦いを進め、地球人類の半数を死滅に追いやった。

 劣勢の地球連邦軍は、中立コロニーのサイド7で密かに秘密兵器の開発を進めていた。すなわち、モビルスーツ「ガンダム」である。しかし、シャア少佐率いる特務部隊の強襲にあい、軍関係者は壊滅状態となってしまう。その場に居合わせた民間人の少年アムロ・レイは、やむなくガンダムに乗り込み、ジオン軍の2機のモビルスーツ(ザク)を倒した。その後、避難民を収容した新型宇宙空母ホワイトベースは、アムロとガンダムを乗せて地球への旅へ出る。士官候補生ブライトに率いられた人材不足のホワイトベースで、アムロはガンダムの専属パイロットに任命されたのである。

 執拗に追撃してくるジオン軍と戦いながら、母と別れ、友と死別したアムロは、いつしか一人前の戦士へと成長を遂げていた。

 やがて、資源地帯オデッサの奪回に成功した連邦軍は、主力部隊を宇宙に送り出して反撃を開始した。ホワイトベースは、囮部隊として陽動任務を任される。アムロは、苦しい戦いの中で、ニュータイプと呼ばれる新人類(離れた人の心や事象を読み取れる超能力者)への覚醒を始めていた。やがて、ライバル・シャアと、ニュータイプの少女ララアを巻き込んだ宿命の対決が始まるが、アムロは、自らの手でララアを倒してしまう。

 最終決戦地、宇宙要塞ア・バオア・クーの戦い。両軍総力を挙げての必死の戦いは、連邦軍の勝利となった。アムロは、シャアとの決戦に勝利するも、ガンダムは大破してしまう。敵中で負傷し孤立した彼が諦めかけたとき、その耳に、彼を案ずる仲間達の声が聞こえてくる。生還を果たしたアムロは、仲間達の胸に飛び込むのであった。

 宇宙世紀0080、地球連邦軍とジオン共和国の間に、終戦協定が結ばれた・・・。

 

 あらすじからも分かるとおり、『ガンダム』の基本構造は、『スターウォーズ』と長浜ロマンロボの混合であって、オリジナリティはあまり感じない。それが、あれほどまでのブームを巻き起こしたのは、旧来のロボットアニメをSF戦争ドラマに置換した富野氏の作家性によるものである。

 この物語の最も重要なテーマは「戦争と人間」であって、ロボット自体にはあまり興味の重点が置かれていない。つまり、ガンダムやザクがロボットでなくても(例えば戦車や飛行機であっても)、物語の進行にはまったく支障が生じないのである。例えば、ガンダムは試作型ゆえ1機しか登場しないのだが、連邦軍もジオン軍も「量産型」というのを繰り出してくる。資源豊かな連邦軍は、廉価品を大量投入してくるが、資源の乏しいジオン軍は、高性能機を少数づつ投入する傾向があるのが興味深い。これは、第二次大戦の、連合軍と枢軸軍の状況を参考にしたのだろう。つまり、『ガンダム』という作品の中では、ロボットは純然たる兵器として位置付けられており、物語の主人公は、あくまでも「戦争という異常事態に翻弄される人間」に他ならない。

 中立地帯で平和な生活に慣れ親しんでいたアムロと仲間たちは、突如として戦争に巻き込まれ、理不尽な状況に苛立ちながら、生き延びるためだけに戦う。彼らは戦争の大義も信じていないし、連邦政府の高官たちの能力にも懐疑的だ。だから、仲間同士も仲が良いわけではなく、何となくしらけている。また、彼らの必死の奮闘は、戦争という狂気の中では、状況の一部にしかならないのである。

 これは、長浜アニメなどと比較した場合に顕著な特徴だ。長浜アニメの世界では、主人公達は正義のために喜んで戦うし、また、ロボットを操縦することで状況の支配者になれるからだ。

 富野氏は、『ガンダム』の発表によって、従来の「ドラマを重視したロボットアニメ」を刷新し、「ロボットが出てくるSF戦争ドラマ」を創始したのである。

 富野氏の描く戦争は、暗くて重い。愛すべき人は大勢死ぬし、結末も必ずしもハッピーエンドではない。その理由は、彼が戦争を、正義と悪という単純な視点で語らないからである。敵対する両勢力に大義があり愛があるために、どちらにとっても愚かしく恐ろしく不幸な状況となる。これが、富野氏の描く戦争の本質なのだ。大人の観賞に耐えうるこの作家性は、実に多くの人々の共感を呼び込んだ。

 この路線は、様々な形態に分化し、80年代アニメ旋風を巻き起こす原動力となったのである。

 

太陽の牙ダグラム

 

私の高校時代には、一週間に何と40本のアニメ作品がテレビ放映されていたのだが、そのほとんどが、ロボットアニメだった。

 その中から、私が最も気に入っていた作品をいくつか紹介しよう。まずは、『太陽の牙ダグラム』である。

 1982年のこの作品は、富野氏が提唱したリアルロボ路線の壮大な実験である。すなわち、ロボットアニメの中で、リアリティをとことん追求したらどうなるのか、という冒険心に溢れる一作であった。当時は、このような冒険が堂々と行なえる時代だったのだ。

 監督は、高橋良輔。彼は、この時代を代表する優秀な作家であった。

(あらすじ)

 地球が統合され、地球連邦政府が樹立された近未来。人類は、人口の増加に悩まされていた。そんなとき、宇宙空間にワームホールが発見された。これを利用すれば、外宇宙への短時間での航行が可能となるのだ。こうして、ワームホールを抜けた探検隊によって、デロイア星が発見された。この星は、二重太陽にさらされた灼熱の大地だったが、人間が生活するのに十分な水と空気に恵まれていた。

 そして、移民が始まった。低所得者から多く構成される移民団は、デロイアを第二の故郷と定め、その地に骨を埋め、子孫を残していった。しかし、地球上の資源は底をつきはじめ、連邦政府によるデロイアへの搾取は熾烈を極めるばかり。

 ついにデロイアで反乱が起きた。デロイア人から構成される連邦軍第8軍の指揮官フォン・シュタイン大佐が、来訪中の地球連邦評議会議長ドナン・カシムを人質にとって、デロイアの独立を要求したのである。

 ドナンの息子クリンは、地球の士官学校生であったが、父の苦境を知ってデロイア派遣部隊に志願する。コンバットアーマー(つまりロボット)ソルティックのパイロットとなったクリンは、激戦を乗り越えて、父が監禁された首都カーディナルへの突入作戦に参加した。しかし、首都の防備は思いのほか手薄であり、人質は簡単に奪還された。そして、官邸に突入したクリンを出迎えたのは、フォン・シュタインと握手する父の冷たい視線であった。ドナンは、フォン・シュタインとの話し合いで、事態は解決されたと宣言した。この後、デロイアは、地球連邦の一州に昇格したのである。

 実は、この人質事件は、狂言だった。ドナンはもともと、デロイアを州に格上げすることで住民の不満をそらそうと考えていた。しかし、その効果を高めるために、出世欲の強いフォン・シュタインを抱きこんで、「デロイア人の努力による政治成果」を演出したというわけである。

 地球連邦による搾取は、その後ますます激しさを増した。狂言を見破って蜂起したデロイア人は、残虐に処罰され処刑されていった。純真多感なクリンは、デロイア人の友人も多かったために心を痛め、父に弾圧を止めさせようとした。しかし、ドナンは冷たく言い放つ。「政治とは、多数のために少数を切り捨てることなのだ」、と。

 懊悩するクリンは、街路での連邦兵士の横暴に我慢ならず、これを止めようとして殺されそうになる。彼を救ったのは、在野のデロイア人科学者サマリー博士であった。その正体は、デロイア人ゲリラの影の指導者であった。温厚な老博士は、「政治は、少数の人を幸せにするために、絶え間なく努力することだ」と優しく語る。クリンは、博士の言葉に共鳴し、協力を約束した。

 クリンの純真さに惚れこんだ博士は、ドナンの息子である彼を、敢えて新型コンバットアーマー「ダグラム」のパイロットに推薦する。しかし、クリンは父のスパイに追けられていたのだ。ダグラムの秘密工場に踏み込んだ連邦軍は、ダグラムを押収し、サマリーを捕らえる。クリンは、ドナンの息子ということで、その場で釈放されるが、様子を見ていたゲリラの友人たちに裏切り者だと思われて殺されそうになり、命からがら逃げ延びた。

 屈辱にあえぐクリンは、父への怒りを胸に、連邦軍基地に潜入してダグラムを盗み出した。脱走の途中でゲリラ仲間と合流し、誤解をといてもらったクリンは、今やゲリラ集団「太陽の牙」の一員となって、共に逃避行に出発したのである。

 10代の若者たちから構成される「太陽の牙」は、連邦軍の残虐な傭兵部隊の執拗な追撃に苦しみながら、ゲリラの拠点ボナール市に辿り着くが、ここは既に連邦軍に制圧されていた。当ても無く逃避行を続ける途中で、一行はサマリー博士の所在を突き止め、これを救出することに成功し、ともに海を渡ってパルミナ大陸に拠点を移す。

 しかし、新天地でも連邦軍の力は強く、一戦して敗れたゲリラたちは、山間の鉱山地帯に潜んで時期を待つしかなかった。

 しかし、日増しに厳しくなる連邦政府の圧政に、デロイア人の怒りの炎は激しく燃え上がった。その怒りは、第8軍に所属するデロイア人兵士に伝播し、ついに大規模な軍隊の反乱が起きるに至ったのである。反乱軍と合流したサマリー博士とゲリラは、「解放軍」を結成し、パルミナの首都ドガ市を目指す。迎え撃つ連邦軍とスタンレー高原で激戦となるが、ついに解放軍が勝利。ドガは無血開城され、パルミナ大陸はデロイア人の国となったのである。

 だが、サマリー率いる解放軍の目的は、デロイア星の完全独立であった。そのためには、地球との唯一の連絡港である北極ポートを落とさなければならぬ。クリンたち解放軍は、怒涛の勢いで進撃を開始した。

 急転する情勢を前に、ドナンが心臓発作で倒れ、連邦軍の足並みは崩れた。ドナンの秘書官ラコックは、これを契機にデロイアを牛耳ろうと野心を燃やし、同じく野心家のフォン・シュタインとの間に不協和音を奏で始めた。フォン・シュタインは、第8軍(デロイア人のみから構成される)に増援を寄越さないラコックを詰るが、ラコックの真意が、デロイア人同志を殺し合わせ、地球人が漁夫の利を得ることにあると知って逆上する。彼は、独断で解放軍と和平交渉しようとするが、ラコックの策謀によって暗殺されてしまうのである。こうして、ラコックの独裁体制が始まった。

 連邦軍の混乱に乗じて、解放軍は連戦連勝を重ね、ついに北極ポートを至近に臨んだ。もはや、デロイア独立は時間の問題と思われたそのとき、突然の停止命令が下った。解放軍穏健派のカルメルが、ラコックに唆されてサマリーを幽閉し、独断で停戦条約を締結してしまったのだ。

 この一瞬の隙をついて、ラコックは、地球に待機していた第6軍を北極ポートに送り込んできた。こうなったら、もはや解放軍に勝ち目はない。ラコックの態度は硬化し、カルメルは騙された事を知った。

 デロイアは独立を勝ち取った。しかし、それは名ばかりの独立だった。相変わらず搾取は続き、人々の顔は曇った。怒りに燃える「太陽の牙」は、幽閉中のサマリー博士を救出し、再び逃避行に出る。しかし、今度は、味方のはずの解放軍が彼らに襲い掛かった。戦場を抜け出したサマリーは、重傷を負った一命を犠牲にしてカルメルに矛を収めさせるが、ラコックは承知しない。しかし、奇跡が起きた。ラコックに侮蔑されたスパイのデスタンが、逆上して彼を射殺してしまったのだ。

 クリンたちは、こうして助かった。しかしクリンは、ダグラムを偽善的な政府に渡す気になれなかった。彼は、自らの手でダグラムを爆破する。

 若者たちは、こうして新たな人生に向かって旅立っていった。

 

 あらすじからも分かるとおり、アニメとは思えない地味で高度なストーリーである。果たして、筋立てをきちんと理解できた人は、当時、どれくらいいたのだろうか。ただ、筋の基本構造は『ガンダム』に良く似ている。演出家が、『ガンダム』と同じ(星山博之)だからであろう。違う点は、主人公が反政府ゲリラに味方するという部分くらいか。

 ただ、この作品のテーマは、「戦争と人間」などという生易しい(?)ものではない。「政治」の本質なのである。そのため、劇中の戦争は、政治の添え物としてあしらわれている。

 それゆえに、主人公であるクリンとヒーローメカであるダグラムは、ロボットアニメ史上類例を見ないくらいに低い地位に追いやられてしまっている。クリンは、血気盛んなガキに過ぎないし、ダグラムは状況に無関係な単なる一兵器なのである。

 この作品の本当の主人公は、ドナンとサマリーである。どちらの掲げる政治理念が優れているのか。これがテーマなのである。クリンと仲間達は、二人の政治家の掲げる理念に動かされる、ちっぽけな存在に過ぎない。それゆえ、物語終盤の山場は、背広姿のオジサンたちの角逐となってしまい、主人公の活躍は非常に影が薄くなる。「あれ、いたの?」という感じである。ロボットアニメで、このストーリーを語る必要は無かったのではないか?と、誰もが思うところであろう。

 物語のラストについても、賛否両論分かれるところであろう。ゲリラ(解放軍)は、けっきょく敗れたのだろうか?答えは、否である。サマリー博士は、歴史を絶え間ない努力と小さな進歩の積み重ねとして理解していた。解放軍は、形式的とはいえデロイアの独立を勝ち取ったのである。三歩前進、二歩後退といったところか。例え小さな一歩でも、前進することが勝利だというのが、この作品の政治観であり、メインテーマなのであろう。

 それでは、「太陽の牙」の若者たちの奮闘は、いったい何だったのだろうか。誤解を恐れず言わせてもらえば、彼らは脇役だったのである。政治に翻弄される庶民を代弁する道化だったのである。彼らの情熱は、60年代安保の学生闘争を想起させる。あの学生たちの情熱は、権力の前に潰された。クリンたちの情熱も、非情な政治論理に潰されたのである。しかし、これが現実というものであろう。クリンたちは、独立のことだけを思い、その具体的内容について何も考えていなかった。若さに任せて突っ走る若者の無鉄砲な情熱は、時として美しい。一見すると虚しいクリンたちの奮闘も、こう考えれば、いとおしく思えてくるのではないだろうか。

 『ダグラム』は、私が最も好きなロボットアニメである。

 

超時空要塞マクロス

 

1983年のこれは、『ガンダム』に匹敵する人気作品となった。物語の基本構造は、既成品のごった煮だが、その中に溢れる極めて現代的なメッセージが、80年代の若者達の心を一撃したのである。

 文中で紹介してきた長浜忠夫、富野喜幸、高橋良輔は、いずれも全共闘世代である。程度の差はあれ、みな左翼の反政府活動の中で青春を送ってきた人々であった。だから、彼らの創作には、どうしても左翼的なバイアスが見え隠れする。『ダグラム』のクリン、『アリオン』のアリオン、『Zガンダム』のカミーユは、いずれも若さに任せて闇雲に行動し、多くの人を殺すくせに、結果的に責任を取ろうとしない人物だ。しかし、作家たち(高橋、安彦、富野)は、そんな若者を賛美して美化している。これは、彼らが60年代の過激派学生にシンパシーを感じていたからだろう。しかし、80年代の若者たちは、そんな人間には共感できなくなっていた。富野たちは、優れた能力を持つ作家であるが、この点で古い世代の人間であったのだ。

 『マクロス』を製作した人々は、出淵裕、河森正治、美樹本晴彦といった、当時20代から30代の若者であった。彼らは、全共闘の呪縛から離れ、現代の若者の視点から作品を創れる立場にあった。これが、『マクロス』の最大の成功要因であった。

(あらすじ)

 近未来、南太平洋の孤島アタリア島に、巨大な隕石が落下した。調査の結果、隕石は地球外生命体が建造した巨大な宇宙船であることが判明。しかし、不思議なことに、まったくの無人船であった。

 ここに、はじめて異星人の存在を認識した地球人類は、地球連邦政府を樹立するとともに、統合宇宙軍を結成し、「マクロス」と名づけられた異星の宇宙船をその指揮下に置いたのである。

 それから10年の歳月が流れた。宇宙船マクロスは復旧され、処女航海に乗り出そうとしていた。そのとき、地球軌道に入った謎の宇宙船団に対して、マクロスは自動的に砲撃を開始した。マクロスは、ブービートラップ(罠)だったのだ。

 宇宙では、監察軍とゼントラーディー軍の二大勢力が、数世紀の長きにわたって星間戦争を繰り広げていた。マクロスは、監察軍がゼントラーディーに対して、その進撃路にあたる地球に仕掛けた自動砲撃地雷であった。地球人は、そうとは知らずにマクロスを宇宙戦艦に改造して使おうとしたため、星間戦争に巻き込まれてしまったのだ。

 奇襲攻撃に怒ったゼントラーディー軍は、さっそく上陸部隊を派遣してマクロスを攻撃した。マクロスは、監察軍のテクノロジーを用いて開発した可変戦闘機バルキリー(ロボットに変形する)を繰り出して戦うが、多勢に無勢で追い込まれる。苦悩のグローバル艦長は、テスト未了の空間転移装置を使って月軌道への脱出を図った。しかし、装置は暴走し、マクロスをアタリア島の市街もろとも冥王星軌道に送り出してしまったのである。

 途方にくれるマクロスは、何とか地球に帰還しようとするが、空間転移装置が消失してしまったため、通常航行で家路を辿ることになった。アタリアの市民たちは、マクロス艦内に移住して、空いているスペースに市街を作り、従来と変わらない生活を送り始める。宇宙を彷徨うこの難民船は、しかし絶え間ないゼントラーディー軍の攻撃にさらされるのであった。

 たまたまアタリア島に遊びに来ていた曲芸パイロットの一条輝は、元の先輩であるフォッカー少佐の勧めで軍に入隊し、敵と戦うこととなった。彼は、市街のアイドル歌手リン・ミンメイや管制オペレーターの早瀬美沙と心を通わせながら、先輩や部下との死別を乗り越えて、歴戦の勇士へと成長していった。

 対するゼントラーディーは、地球人の5倍の身長を持つ巨人族であり、文化を持たない純粋な戦闘種族であった。しかし彼らは、地球人との戦いや接触を通して文化を知り、動揺する。彼らの中で、失われた文化に対する憧憬が首をもたげつつあった。

 艱難辛苦の末に地球に帰着したマクロスを待っていたのは、統合軍本部の非情なあしらいであった。連邦政府は、星間戦争に巻き込まれるのを恐れ、マクロスを見捨てて敵への生贄に捧げようとしていたのだ。

 母星に棄てられ孤児となったマクロスは、再び地球を後にして、行く当ての無い旅に乗り出す。しかし、文化に目覚めたゼントラーディー軍のブリタイ司令は、マクロスに救いの手を差し伸べた。武器を捨てて、共存したいというのだ。

 だが、ゼントラーディーは一枚岩ではなかった。ブリタイの上司にあたるボドルザーは、ブリタイを裏切り者と認定し、直卒の大艦隊を駆って地球やマクロスごと抹殺しようとする。地球は一瞬にして滅亡し、全人類は死滅した。追い込まれたマクロスは、ブリタイの助言に従い、起死回生の策に出た。ミンメイの歌を電波回線で敵の全艦隊に送り込み、生まれて初めて文化に触れて動揺した敵の隙をついて、ボドルザーの旗艦を撃破したのである。

 マクロスとブリタイ艦隊は、廃墟と化した地球に降り立ち、復興作業に従事する。内部分裂を乗り越えて、ようやく見え始めた希望。輝は、ミンメイと別れ、美沙とともに新たな未来を生き抜く決意をするのであった。

 

 物語の筋立ては、『宇宙戦艦ヤマト』と『ガンダム』の混合である。異星のテクノロジーを満載した戦艦に翻弄されるマクロス乗員たちの慌てぶりは、『ヤマト』の良質なパロディとなっている。また、バルキリーの流麗なフォームとスピーディーな戦い振りは、『ガンダム』の魅力を拡張発展させたものとして高く評価できる。『ガンダム』の続編(『Zガンダム』など)が、明らかに『マクロス』に影響されて創られていることからも、この作品の偉大さが良く分かるのである。

 この作品の最大のオリジナルは、「文化」が戦争をなくす武器として描かれる点である。これは、なかなか面白いメッセージである。『ガンダム』の世界では、ニュータイプが戦争をなくす概念とされながら、アムロやシャアといったニュータイプが、嬉々として戦争に打ち込む姿に大きな矛盾があった。しかし、『マクロス』の世界では、文化の代弁者はアイドル歌手のミンメイであり、彼女は戦争を憎む非戦闘員なので、矛盾を感じることはない。まあ、アイドルの歌が文化か?という疑問はあるが、それくらいは大目に見てあげよう。

 しかし、見るべきは、その世界観の大きさと楽天性であろう。まず、宇宙を二分する星間戦争という設定。そして、巨大戦艦マクロスが、異星人に仕掛けられた単なる地雷だったという発想の大きさを思い見るべきである。次に、その地雷をそのまま宇宙戦艦として使おうという能天気さ、宇宙を漂流する戦艦の中でアイドルオーディションをやるという気楽さ、生きるか死ぬかの瀬戸際で、三角関係に悩む主人公の呑気さを思い見るべきであろう。そして、この楽天性こそが、80年代の若者スピリットを直撃する最大の要素であった。

 これからバブル経済を迎えようとする80年代初頭の世界で、若者たちの関心は恋愛や音楽、そしてファッションであった。もはや、全共闘世代の熱血は、彼らにとってダサいものであった。二人の美女の間でドギマギする一条輝の能天気な姿勢こそ、80年代の若者たちの代弁者として、もっともふさわしかったのである。この当時の人気漫画、『きまぐれオレンジロード』、『めぞん一刻』の主人公が、いずれも輝と良く似たキャラクターであることは偶然ではない。

 また、輝を取り巻くヒロインたちも、極めて80年代的であった。アイドル歌手のリン・ミンメイは、当時最も人気の高いアニメヒロインであったが、極めて現代的な女性として描かれていた。視野が狭く、感情的で、即物的で、我がまま。こう書くと、鼻持ちならぬ悪女に思えるが、実際に見るとそうではない。リアルで等身大の女性の可愛らしさが、画面から溢れてくるのである。・・・考えてみたら、女性って本質的にそういう生き物だよね(これって、偏見?)。また、もう一人のヒロイン、早瀬美沙も、地味で暗い軍人士官として描かれるが、おとなしい女性の情念の深さが滲み出ていて興味深かった。

 これらのリアルな女性像は、現実逃避気味の全共闘世代には、決して描けないものであった。全共闘世代、例えば宮崎駿や高橋良輔、押井守らは、女性を極端に理想化する傾向があった。男の帰りを健気に待って、逆境にも泣き言を言わずにひたすら耐える・・・。こんなのは、はっきり言って封建時代の女性像である。これに比べれば、少女漫画に出てくる8頭身の王子様の方が、まだリアリティがある。

 それはさておき、『マクロス』の終盤は異常に詰まらなくなる。ボドルザー艦隊を壊滅させた後は、地球に帰って地味な復旧作業をやる話になるのだが、物語の興味が、「輝は結局、ミンメイと美沙のどちらを取るのか?」に集約されてしまい、単なるラブコメに堕してしまうからだ。そもそも、『マクロス』は、ボドルザーを倒す第27話で終結するはずであった。しかし、高視聴率に気を良くしたスポンサーが、無理やり延長させたのである。「少年ジャンプ」などで一般的なこの現象は、アニメの世界でも日常茶飯事であったわけだ。

 そして、このスポンサーの動向こそが、80年代アニメブームの最大のキーであった。

 

80年代大ブームの深淵

 

どうして、80年代に入ってロボットアニメがこれほどまでにブレークしたのか?

答えは簡単だ。カネになるからである。

 もともとロボットアニメは、玩具屋がスポンサーとなることで成立する。多くの場合、設定段階から玩具屋が介入し、メカのデザインにまで口出しするのである。アニメロボットのデザインが、比較的シンプルで定型的なのは、プラモデルや超合金人形として商品化しやすいように設定されるからである。大河原邦彦は、この時代を代表するスターデザイナーであった。

 さて、『ガンダム』以前は、ロボットアニメの視聴者は、小学生以下の子供とその親であったから、玩具メーカーにとって、それほど利の厚い市場ではなかった。それゆえ、人気の出ないアニメは、横槍を入れて打ち切らせることが多かったのである。実は、あの『ガンダム』も、初回の視聴率が最悪だったので、途中で打ち切りになったのだ。もともと全52話が予定されていたのに、43話で最終回となってしまった。『ガンダム』の後半で、やたらと敵の新兵器が出てくるのは、スポンサーを喜ばせるためのスタッフの方策だったのだろう。しかし、努力も空しく打ち切りが決定されたため、物語終盤の展開が妙にバタバタしているのである。だが、スポンサーにしてみれば、この当時はこれが最善の選択であったろう。彼らだって、遊びでやってるんじゃないのである。

 ところが、予想外の事態が起きた。『ガンダム』の再放送が、異常な大ブレークとなったのだ。驚くべきことに、従来はロボットアニメを見なくなっていた中学生や高校生を中心としたムーブメントだった。彼らは、争って『ガンダム』のプラモデル(ガンプラと呼ばれる)を買いあさった。玩具メーカーのバンダイは、必死に増産をかけたが、需要に供給が追いつかず、ついには行列を作ったガンプラマニアが、押し合いの末に転倒して重傷を負うという事態にまで進展したのである。

 ロボットアニメは、儲かるぞ!

 玩具メーカーは、争ってこの「新規」市場に参入しようとした。アニメ製作者も、このブームに便乗した。玩具屋におもねれば、いくらでも作品を発注してもらえるからだ。無聊をかこっていた新進気鋭の作家たちも、息せき切って駆けつけた。80年代のロボットアニメ大洪水は、こうして生まれたのである。

 しかし、しょせんは商業主義に流されたブームであった。作家たちは、スポンサーの呪縛から逃れることができなかったのである。例えば、『ダグラム』や『マクロス』の世界は、登場する兵器がロボットである必然性が乏しい。戦車とヘリを組み合わせたイメージのコンバットアーマー(ダグラム)はまだ分かるけど、宇宙空間で戦う戦闘機バルキリー(マクロス)が、ロボットに変形する必然性がどうにも掴めない。これは、「ロボットのほうが売れる」「変形や合体する方が売れる」というスポンサーのごり押しの結果でそうなったのであろう。不自然なロボット兵器の登場は、せっかくの良質なSF作品を損なう事が多かったと思う。

 もっと大きな問題は、「打ち切り」や「延長」である。物語というものは、起承転結を念頭において最初に骨格が決められるから、途中で変えても良いのは、肉付けの部分だけなのである。ところが、自分のカネ儲けしか頭に無いスポンサーは、儲からないアニメは容赦なく途中で打ち切らせるし、逆に、儲かるアニメは延長させるのだ。つまり、骨格を裁断したり、接ぎ足したりするのだ。『ダグラム』が途中で中だるみしたのも、『マクロス』の終盤がふやけたのも、プラモデルの売れ行きが良すぎたための悲劇であった。

 また、調子に乗ったスポンサーが、アニメーターの尻を叩いて濫造させたため、作家もスタッフも疲れきり、作品の質が日増しに低下するという事態に陥った。あれほどの大ブームが、85年に入ると崩れ落ちるように倒れたのは、そのためである。

 80年代の日本のSFアニメは、世界的に見て非常に高水準にあったと思う。しかし、心無い商業主義者たちによって歪められたのは、なんとも悔やまれる。本当の芸術は、商業主義の中からは決して生まれてこないという教訓を見るべきであろうか。

 

新世紀エヴァンゲリオン

 

80年代バブルが弾けたロボットアニメ界は、しばし低迷する。濫造しすぎたツケが回ったのだ。多くの才能が枯れ果て、その後に製造されるアニメの多くが、80年代アニメの焼き直しとなってしまった。例えば、『ガンダム』や『マクロス』などの人気ブランドは、今でも続編が製作され続けているらしい。

 客観的に見て、飽和化して行き詰まったことは明らかであった。永井豪や長浜忠夫のようなパイオニアは、もはや自信を喪失したこの国では育たなくなったのである。

 ただ、90年代半ばになると、かなり斬新な手法で大ヒットを飛ばす作品が登場した。すなわち、『新世紀エヴァンゲリオン』である。ただ、これはかなりアクロバティックな「奇襲」とも言える作劇法によって造られたため、次代のスタンダードになれなかった。それでも、その後の日本アニメやSF映画に、かなり大きな影響を与えている。怪獣映画『ガメラ3』やロボット特撮『鉄甲機ミカヅキ』は、明らかに『エヴァンゲリオン』を意識して創られている。

 それでは、ロボットアニメ最後の光明とでも言うべき『エヴァンゲリオン』について見てみよう。

(あらすじ)

 2015年の近未来、地球は、20世紀末に南極で起きたセカンドインパクトと呼ばれる謎の大異変によって、多くの陸地を水没させていた。

 生き残った人類は、今度は「使徒」と呼ばれる謎の巨大生命体の襲撃を受ける。「使徒」は、なぜか日本の第3新東京市(かつての箱根強羅あたり)の地下都市を執拗に狙ってきた。

 この「使徒」を迎撃するために結成されたのが、日本政府の特務機関ネルフである。そして、ネルフが造った巨大な人造人間が、エヴァンゲリオンなのであった。全部で3体のこのロボットの搭乗者は、厳重な審査の末に抜擢されたチルドレンと呼ばれる14歳の少年少女であった。

 主人公の少年、碇シンジは、父が所長を勤めるネルフによって、エヴァンゲリオン初号機のパイロットに抜擢された。気の弱いシンジは、恐怖感と戦いながらも、断続的に襲い来る「使徒」を次々に倒していく。

 しかし、ネルフには、シンジの知らない別の顔があった。ネルフの本当の目的は、衰えた人類を全く別の生命体に作り変える「人類補完計画」の遂行にあった。「使徒」は、この計画を未然に防ぐためにネルフを攻撃する、異種生命体だったのである。

 最後の「使徒」が倒されたとき、「人類補完計画」が始まった。人々は、新たな世界の住人となる。

 

 以上のことからも窺えるように、アクションドラマとしての雰囲気は、『ガンダム(当時のスタンダード)』より、むしろ『ウルトラマン』に近い感じである。これは、監督の庵野秀明が、ウルトラマニアだからであろう。

 私が初めてこの作品を見て感じたのは、全編に漲る「不安感」である。主人公のシンジはもちろん、視聴者たちも、最後までこの世界の全貌が掴めない。この作品は、最後の最後に至るまで、主人公が、未知の異常な状況の中で未知の奇怪な怪物と戦う物語なのである。重要な情報が提示されない状況ほど、人を不安にさせるものはない。

 それでも視聴者の多くが、この作品を見捨てないで最後まで付き合った理由は、登場人物(特に、主人公のシンジ)がたいへん魅力的に描かれていたからであろう。多くの視聴者は登場人物に思い入れし、主人公と同じ視点で「不安感」を味わうことが出来たのだ。

 これ以前のロボットアニメでは、必ず世界観の説明や状況の理由付けがなされていた。だからこそ、視聴者は安心してその空想世界に没入し、ロボットの活躍を楽しむことができるのだ。『エヴァンゲリオン』は、こうした常識を覆した点で画期的と言える。

 視聴者の不安感をさらに煽るのは、登場人物の多くが「人格異常者」か「偏った人間」だという事実であろう。特に、大人はひどい。

 ネルフ局長の碇ゲンドウは、目的のためなら手段を選ばない冷酷非情な男である。息子のシンジが苦境に陥っても、ニタニタと薄ら笑いを浮かべていたりする。この親子の間には、最後まで人間的な情愛が通っていなかった。こんな父親を持って不良にならなかったシンジは偉いと思う。

 その片腕である科学者、赤木リツコは、美貌の裏側に、マッドサイエンティストの素顔を隠し持っていた。

 ヒロイン(?)の葛城ミサトは、ネルフの作戦指揮官であるが、主人公たちに理解を示す肝っ玉姉ちゃんとして活躍する。しかし、この人も過去のトラウマに縛り付けられたアルコール依存症であることが徐々に明らかになる。

 大人の中で唯一マトモなのは、加持リョウジ青年であるが、この人は、マトモであるがゆえ(?)物語の中盤で殺されてしまうのである。

 エヴァンゲリオンのパイロットたちも酷い。シンジの同僚は、14歳の二人の少女であるが、どちらも人格に問題がある。

 綾波レイは、自分自身の意思や考えを全く持たない少女である。つまり、大人の言うなりに行動する、人形のような自我しか持たない奴なのだ。それゆえ、最も危険な任務につかされることが多いのだが、本人はいつもポーカーフェイスで引き受けているから、精神力はなかなか強いのだろう。何となく、新興宗教の信者みたいな奴だから、私はこいつが嫌いだった。どうしてこんなのが、あんなに人気があったのだろうか?オタク青年たちの女神みたいになっていた。なにしろ、等身大の綾波人形(3万円以上!)が売れまくっていたのだそうな。そんなもの買って、何に使うのだろうか?恐いなあ。まあ、それだけ、世の中が病んでいるという一例かも知れぬ。

 惣流・アスカ・ラングレーは、綾波とは全く逆で、自我とプライドの固まりみたいな少女である。常に自分が一番でないと気が済まず、いつも同僚たちを見下している。でも、意外と芯が弱く、ちょっと挫折したくらいでガタガタになり、最後は廃人みたいになってしまう。東大出のエリートの中には、社会に適合できずに自殺しちゃう人もいるらしいが、アスカというのは、要するにそういう種類の人間なのである。私は、綾波よりはこの子の方に共感できた。まあ、どっちもどっちではあるが。

 そういう意味では、主人公のシンジ少年は、驚くほどにマトモでバランスの取れた少年である。気が弱くて、物事に消極的なのが玉に瑕。まあ、脇役が異常者ばかりだから、ことさら、マトモに見えるのだろうけど。

 作品世界の全貌が掴めず、しかも登場人物が異常者ばかりのこの物語は、謎と不安に満ち満ちている。

 『エヴァンゲリオン』という作品があれほどヒットした最大の原因は、全編に漲るこうした「不安感」にあるのだろう。

 90年代半ばの日本は、バブルが崩壊し、不況が連鎖反応を起こし、しかも先行きが見えない苦境に追い込まれていた。また、少年少女の非行も大きな社会問題になっていた。『エヴァンゲリオン』は、こうした社会の不安感を的確に表現し、いわば「時代性」の波に乗ったのである。

 私が、この作品の成功を「奇襲」と呼んだのは、こういった理由である。

 それにしても、80年代の『マクロス』は、能天気で軽薄な世界観で「時代性」を獲得した。それが、わずか10年程度で崩れ去ったというわけだ。日本社会の異常な急変振りが、ここに良く現れている。

 しかし、『エヴァンゲリオン』の大ブームから5年以上が経過した今でも、こうした社会状況には変化が見られない。あのような「奇襲」的な作品の時代性が未だに色あせないのは、ある意味でとても悲しいことだと思う。

 

総  括

 

 以上の記述を総括すると、日本でロボットアニメが大盛況となった理由は、次の通りである。

 @  戦後の漫画とアニメの「大御所」手塚治虫がロボット好きで、自作の漫画やアニメの中で、多くのロボットを活躍させた。

 A日本製アニメは、伝統的に低コストで生産できるため、多くの冒険的な作品が次々に生み出される土壌があった。

 B横山光輝、永井豪、長浜忠夫、富野喜幸といった素晴らしいクリエイターが、次々に画期的なアイデアを導入し、この世界を活性化させた。

 Cこの市場に、多くの玩具メーカーが参入し、活発な資金提供を行った。そのため、多くのクリエーターが、実験的な試みを行うことが出来た。

  この中で、最も重要な要素はCであろう。しかし、そのために「ロボットが登場しないSF作品」の発展の余地が制限されてしまったのは残念なことである。

 それでも、日本のロボットアニメは、今や世界に誇れる「文化」になっている。そもそも「文化」というのは、こうやって作られていくものなのかもしれない。

 だから、たかがロボットアニメと笑うなかれ。この論文を読んで、この世の様々なものの中に歴史と伝統、そして文化が溢れている事を感じていただけたら、筆者としては、これに勝る喜びは無いのである。

 

終わり

 

★この論文は、1998年に別の目的をもって書き始めたものの増補改訂版である。