第5回
―弱者救済に生涯を捧げ法華経信仰による社会改革を目指した医師―

加治時次郎さん

医学を金儲けの具とする悪徳医師やお役人が昨今話題となるが、明治末期から昭和にかけて弱者救済に生涯を捧げた法華篤信の医師がいる。安政5年(1857)1月、代々医術を家業とする福岡県香春町在住の加治時次郎である。

父元簡は他に施することを旨とし、無料診療もしばしば。結果、加治家の家計は火の車の状況が常であった。この父の方針は少なからず息子時次郎に影響したに違いない。時次郎は父の跡を継ぐため医師を目指す。

明治8年(1875)の春、上京し薬局や事務所でのアルバイトをしながら東京帝大医学部予科へと入学する。実家からの仕送りはほとんど無く苦学の日々、学資を稼ぐため度々学業に支障をきたし留年を余儀なくされる。しかし、医師となる想いは捨て難くいかなる困窮にもひるむことなく勉学を続けたのであった。上京して10年目の27歳の時、遂に医師資格を獲得し千住に開業することとなる。時次郎は開業医だけの生活に満足しなかった。日本の医学を進歩させて人々を救うのだという念いが頭をもたげてくる。医学の本場ドイツ留学を決意する。

明治21年(1888)7月8日横浜港を出航、2年半におよぶこれまた苦学の私費留学を果たす。同期の留学生には北里柴三郎・後藤新平などがいた。ベルリン・エルランゲン大学で外科・内科・皮フ科を学ぶ。ちょうどそのころ、ドイツではマルクス共産主義の嵐が吹き始め、ベルリンの街々に労働者のデモが群れていた。時次郎にとってその光景は新鮮で、労働者が生き生きしているように映った。このドイツ留学は時次郎の後に人生に大きく影響した。思想的にも、交遊関係においても。

帰国後、直ちに診療所を開設。特にドイツから取り寄せた皮フ病のぬり薬が飛ぶように売れた。そこで日本橋木挽町に本院、大阪・名古屋・横浜に5ヵ所の支院を設けることとなる。これらの病院は都市に住む低賃金労働者の救済を目的として開かれ、平民病院といった。平民とは、地位や身分にこだわらずすべての人を平等に扱い、簡素な生活をという考えのもとに社会主義によってたてられた理念をあらわしている。

生活弱者を救ううち次第に社会主義運動家と親交を結ぶようになる。幸徳秋水・堺利彦・片山潜などである。彼らを物心両面から積極的に支援し、機関誌『平民新聞』の相談役にも就任する。堺利彦が赤旗事件で検挙された後、彼の妻・道子が病死したため一人娘真柄を養育している。また、大逆事件で刑死した幸徳秋水が絶筆となる書を宛てた相手は時次郎である。時次郎は社会主義運動の良き理解者であり、彼らは時次郎に全幅の信頼を寄せていたことが窺える。

明治34年(1901)7月、叔父の紹介で浜松在住の古物商榊原谷吉の次女さき(女優榊原ルミの祖父の姉)と祝言をあげる。さきの実家は日蓮宗への信仰が篤く、夫人の法華信仰が次第次第に時次郎へ影響することとなる。

明治43年(1910)5月、明治天皇の暗殺を企てた容疑で数千名の社会主義者とその支援者が取り調べを受け、翌年1月には幸徳秋水ら12名処刑という大逆事件が起こる。当時、時次郎も取調べを受け、逮捕からも尾行された。逮捕を免れたのは、ドイツ留学中に交誼を結んだ西園寺公望や北里の嘆願があったからといわれている。しかし、妻さきは心配した。

「あなた! これからどこへ行く時も私がお供いたしますからね、いいわね」

さき夫人自らも政治や社会に目を向け、時次郎と行動を共にしたのであった。大正9年(1920)3月、市川房枝らによって婦人参政権獲得を目標として結成された新婦人会教会の評議員として名を列ねたり、大正10年3月に欧州女性社会主義者の代表サンガー女史が来日した時、夫妻が日本側容け入れ代表として活躍している。

時次郎は病院ばかりでなく、食堂や大衆演芸にも着目し経営を始める。殊に新橋に開設した平民食堂は、日本初の立食セルフサービス形式のものでいつも満員の盛況であった。医師として低賃金層への栄養供給と心身をいやす娯楽への配慮をしたのである。この他、平民パンや平民銀行を企てている。

しかし、時次郎は事業を拡大するなかで平民病院に対するいやがらせ、食堂やパン工場などでの人的確執を体験し、唯物主義だけの解決に限界があることを実感する。時次郎の悩む姿にさき夫人は信仰の世界へと誘うこととなる。大正10年秋のある日、さき夫人はこう切り出した。

「お父さん、今日は私に付き合ってくださいな」

「お前、どこへ行こうというんだ」

「たまにはいいじゃないですか。いつもあなたのお供をしているのですから」

夫妻が訪れたのは下谷蓮城寺(山田一英住職)であった。この寺を会場として週1回日蓮聖人の御遺文講義が開かれていた。講師はのちに立正大学学長を務めた清水龍山であった。初めて経験する法華経・『開目抄』の講義に時次郎は時を忘れて聴き入った。2時間の講義が終わってすぐさま興奮した様子で講師・清水のもとへと尋ねた。

「先生、日蓮聖人は佐渡で大変な御苦労をされたのですな。私の苦労など万が一にも及ばん。すべての人々を救う誓願、大したものだ。私は感服しました。私は加治時次郎といいます。どうもありがとうございました」

「おお、あなたが加治先生ですか。あなたのような方に法華経や日蓮聖人のことを理解していただくことは、ほんとうに尊いことだ」

「そうですか。私たちは必ず毎週出席しますよ」

以降、夫妻は毎週出席し、次第に友人にも勧めるようになる。そのなかには小説家・小杉天外、初代江戸家猫八や曽我廼家五郎などがいる。この後、七面山登詣や法華会への入会によって社会主義による社会革命から法華信仰による社会改革を目指すこととなる。誠に法華信仰へと導いたさき夫人の力は偉大である。大正11年11月25日には神奈川県の加治別邸で清水龍山を導師に帰正授戒式を行い、本時院医王日遠居士と逆修する。

時次郎は法華信仰に入ってから弱者救済に当たる僧侶、留学の青年僧を支援し、自らも法華経の布教に全精力を注いだ。ハンセン病収容施設の建築・維持に身命を賭した綱脇龍妙に多額の浄財を寄付したり勧募の旅に歩くための宿を提供。ドイツ留学の守屋貫教(のちの立正大学学長)、オックスフォード大学で法華経英訳に当たった加藤文雄への支援。平民病院では朝礼にお題目三唱が取り入れられ日蓮聖人御一代記の公演と講演会が催された。食堂では学生による仏教弁論大会、大衆演芸「みのる会」では活動写真『日蓮聖人御一代記』が上映されている。さらに月刊誌『凡人の力』(『平民』から改称)を刊行して日蓮聖人・法華経を紹介したり、仏教国民同盟や自由仏教団を晩年に結成して法華経精神による社会革命を目指したのである。しかし、その志半ばで昭和5年(1930)5月30日、享年七十三をもって霊山浄土へと旅立つ。

社会主義者の支援、社会革命の実践、さらに法華経精神による社会改革の先導役を果たそうとした時次郎医師。信仰に入って9年という短期間に日蓮宗内外に与えた影響は枚挙に遑がない。

時次郎は歯に衣を着せぬ言動で時には社会に寄与しない僧侶を叱責した。

法華経を唱ふる者は多いけれど、法を行く人ぞ稀なり

行動する医師時次郎を象徴する言葉であり、私たち僧侶はこの言を体して布教に励まなければならないといえよう。

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