第6回
―画壇を憂え、弟子を思い、日本画に新風を送った日本美術院の雄―

橋本雅邦画伯

中世のヨーロッパにあって、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチ。日本にあっては本阿弥光悦。洋の東西を問わず自らの信仰を芸術の世界へと見事に昇華した偉人がいる。殊に光悦は法華信仰を絵画に、陶器に、庭園にと表現し、京都鷹ヶ峰に芸術村を開いた。

ふって250年。東京木挽町4丁目絵所狩野家に、天保6年(1835)7月27日、明治日本画壇に新風を送った法華信仰の画家が誕生する。幼名を千太郎、のちの橋本雅邦画伯である。

父・橋本晴園養邦は、元淀橋の米殻商の子として生まれたが、長じて日本画の流派・狩野三家の一家を継ぐ狩野養信に仕え川越藩主・松平周防守のお抱え絵師となった人である。雅邦は幼いころから絵の手ほどきを受けていた。13歳の時、養信の子・雅信の門下に入って修業に励み、次第に才覚を表すようになる。雅信の門下には、後に「悲母観音」を描いた狩野芳涯もいた。雅邦は20歳で狩野塾の塾頭となり、芳涯と共に狩野派を担っていくと評された。そして26歳の時に独立を許され、留子をむかえて雅信の邸内に居を構え、子・保邦をもうける。

しかし、時は幕末から明治維新。幕府や藩から財政支援を受けていた絵師たちの生活は、困窮をきわめた。雅邦も例外ではなっかた。さらに明治3年(1870)には大火で類焼にあい、家財をすべて焼失してしまう。雅邦・留子夫婦は失意のどん底にあえいだ。

「そうだ。父が住んだことのある川越にいこう。川越にいってやりなおそう」

2人は一時川越に移ったが、苦しい生活は続いた。生活費を稼ぐため、中国などに輸出する団扇絵を描いたり、三味線の駒造りをしたのである。

37歳の時、海軍兵学校の製図係に就職して生活は少し安定するが、内職をしなければならない家計の情況は相変わらずであった。そのような時に不幸が起きる。妻・留子が病に臥してしまう。雅邦は看病の間に気を紛らわすために本郷にある碁会所に姿を表した。

「ひとつ打ってもらえませんか」

「いいですとも。おてやわらかに」

「橋本さんといいましたな。いっちゃなんだがあなたの打ち方はちょっと変ですぞ。心の乱れが碁に表れておる」

「そうですか。良くわかりますな。乱れておりますか。失礼ですが、ひょっとしてあなたはご住職ですか」

雅邦の相手をしたのは、深川玉泉院住職・井上唯然であった。唯然は雅邦の打つ手から精神状況の乱れを見事なまでに読みとったのである。以降、唯然と雅邦の親交は深くなり、絵のこと、生活のこと、そして妻のことを唯然に語るようになる。

妻・留子の病状は悪化し、明治12年(1879)4月11日、36歳で他界してしまう。唯然は慈徳院妙操日善信女と法名を授与し、玉泉院に遺骨は葬られた。ちなみに、30年(1897)6月5日には留子との間にできた長子・保邦も20歳の若さで逝っている。

留子を失った後、雅邦は後妻に春をむかえ、間に二男一女をもうける。この春をめとったころから画業が順調に推移していく。明治15年(1882)に開かれた第1回内国絵画共進会へ出品した「琴棋書画図」が銀牌第一席となり雅邦の名は全国に及んだ。

ちょうどこのころ、アメリカのハーバード大学を終えて来日し、東京帝国大学(現・東京大学)で哲学や経済学を講じるかたわら東洋美術研究に従事したフェノロサとその教え子・岡倉天心との出会いがある。雅邦より18歳年下のフェノロサ、27歳年下の岡倉。ある日、この2人が将来の日本画壇のあり方を熱っぽく語る姿に心うたれたのであった。

「このままでは日本画は廃れてしまいます。どうか雅邦先生、力をお貸し下さい。日本画壇に新風を送って下さい」

と説かれた雅邦は行動を共にすることを決意し、これに狩野芳涯も加わった。この四者によって新日本画の創造団体である「鑑画会」を設立する。

明治21年(1888)には東京美術学校(現・東京芸術大学)が開かれ、校長に岡倉が就き、雅邦は教授として迎えられた。しかし、同31年(1898)に騒動が起こり、岡倉校長は職を追われ、雅邦も職を辞した。しかし、日本画へ新風を送る熱意は以前にも増して燃え上がった。新たに日本美術院を設立するのである。

美術学校、美術院で雅邦や岡倉に従った教え子には、明治の日本画壇に煌星のごとく輝く人がいる。横山大観、下村観山、菱田春草などである。

ある日、雅邦は菩提寺・玉泉院を訪れた。

「ご住職、今日は相談があってやってまいりました」

「いや、お元気ですか。お忙しいようで。ところで何事ですか」

「実はお墓が欲しいのです」

「ええ、橋本家のお墓はあるじゃないですか。奥さんと保邦さんが入っている。ちょっと欲ばりですぞ」

「いや違うのです。古来、兄弟や一族を、志を同じくするという義によって連枝の墓へ葬るとのことですが、私も連枝の墓を建てて弟子たちを入れてやりたいのです。志半ばで逝ってしまった者たちを葬ってやりたいのです」

「ほう、そうですか。誠にいいところに気がつかれましたな。しかし、雅邦さん、供養することを続けるのを覚悟しなければなりませんぞ」

「結構です。よろしくお願い致します」

今も玉泉院にある橋本家先祖代々の墓の左隣に連枝の墓が建っており、菩提寺の法会ごとに葬られた人々への供養が続けられているという。この墓を建てた雅邦の心のなかには、自身もあの幕末から明治初期の混乱、困窮情況にあって生命を落としたかもしれない、あるいは目的を果たせず逝ってしまったかもしれない、同じような境遇の者たちを弔ってやりたいという思いがあったに違いない。

明治36年(1903)に雅邦は「出山釈迦図」を描いている。69歳の時である。インドのガヤー苦行林から出てきたお釈迦さまの姿を絵としている。晩年となり、絵によって真理を求める姿を表現したかったという。自身も真理を得たかったのであろうか。このころには、朝夕に仏壇の前で法華経を読誦(どくじゅ)する姿が見られたという。この信仰意志は子にも引き継がれ、画業を継いだ秀邦は法華経一部八巻を書写している。「出山釈迦図」は、雅邦が亡くなる前、「奉納玉泉院」と認めて菩提寺へ寄贈することを遺言したという。

「龍虎図屏風」「白雲紅葉図」など日本画の名作を数々世に送り、明治画壇に大きな影響を与え、弟子を思いやった橋本雅邦は明治41年(1908)1月13日、七十四をもって霊山往詣する。法名は謙徳院勝園雅邦日譲居士。

さぞや今ごろ、霊山浄土で、大作「日蓮聖人御一代記」を描いているのではなかろうか。玉泉院では毎年5月に、「出山釈迦図」のお風通し展示が行われている。

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