第7回 ―武家出身。能書家の顔を持つ、法器育成に取り組んだ日蓮宗僧侶― 深草元政上人 時は元和9年(1623)2月23日、洛陽一條に能書家で詩文や和歌を詠じ、芭蕉や新井白石から高い評価を受けた日蓮宗僧侶が誕生する。父・石井元好は石州(島根岩見国)の一城主であったが、後に毛利輝元の旗下に入り、さらに後年任を辞し妻と京都に退隠した。そして、元好52歳、妻43歳の時、五男として生まれたのが幼名俊、さらに源八郎、長じて元政と名乗った深草元政上人である。 元政上人は生涯を通じて薬と附合う病弱な体質であったが、文人としての才覚は幼いころから発揮されていた。2歳で京大文字精霊送りの文字を覚え、6歳で中国の四書のひとつ『大学』を習ったという。 8歳になって親もとを離れ彦根に赴く。彦根には長兄と長女がいた。長兄元秀は城主井伊直孝に仕え、姉春光院は直孝の側室となっていた。父元好は元政上人の才覚を見抜き、武芸・行儀作法・漢学を修得させるために彦根の兄姉のもとへと送ったのであった。10歳の秋からしばらく京に呼び戻され大阪で儒家(じゅか)の指南書四書五経を習うが、13歳になって再び彦根に行き井伊侯に仕えることとなる。 父はまことに教育熱心、母は法華信仰に篤い女性であった。両親は末っ子の元政上人を慈愛に満ちて養育し、それに応えて元政上人は生涯を通じて両親に孝養を尽くすのであった。19歳の時、人生の転機が訪れる。直孝について江戸在勤中に病を得、京都に住む両親のもとで1年間療養することとなる。この1年、京の自然に親しみ、詩文や和歌を作る一方、母と共に寺へ詣でた。病気平癒を願って、しばしば詣でたのが大阪泉州和気の妙泉寺であった。妙泉寺に奉安されている日蓮聖人像の前にぬかずくと母と元政上人は自然に心落ち着くのであった。 この妙泉寺で法華経講話が開かれた。元政上人は門前に宿をとり連日聴講した。講師は泉涌寺の雲龍院如周律師。最終日、元政上人は講話に感激のあまり涙し、ある決意をして律師の控え室を尋ねた。 「本日も素晴らしい講話をお伺いして私は倖せ者でございます」 「あなたは若いのにいつも熱心に聴いて下さる。何か私に相談事でもあるかな。遠慮なくいって下され」 「はい。実は出家したいのです。私は病弱でご祈願のためこちらへ参りました。そして、奉安されているお祖師さまの像を拝観して3つの誓いを立てました」 「ほう、3つの誓いですか。それは尊いことじゃ」 「はい。1には出家したい。2には父母に孝養を尽くす。3には天台三大部を閲読する。この誓いを叶えて下さいませ。律師、お願いいたします」 「うむ、堅い決意のようですな。だがあなたはまだ若い。もう少し機が熟すのを待ちなされ」 如周律師の言に従い、病が治った後、彦根に帰ることとなるが出家への想いは捨て難かった。 26歳となり、彦根侯に近侍を辞す許しを得て洛中妙顕寺に入り、第16世鷲峯院日豊上人について髪を落とすことになる。日豊上人は身延中興心性院日遠上人の高弟であった。出家した元政上人の名は、その持ち合わせた才覚ゆえ、瞬く間、洛中に知れわたったという。 明暦元年(1655)、師日豊上人は池上本門寺へ晋山、これを機に元政上人は洛南深草へと隠棲する。しかし、俗にいう隠棲ではなかった。この頃、日蓮宗僧侶を養成する機関、檀林が関東や関西、身延に開設され始めていた。元政上人も日蓮宗僧侶の将来に危機を抱き、いわば私塾を開くための隠棲であった。 子弟を育成するために土地を求めた。一説によれば、井伊侯が金百両を寄進したという。そこで洛南旧極楽寺薬師堂跡の畑に草庵、称心庵を結び寮舎を設けた。深草の庵は元政上人を慕う人々によってお題目を唱える声、読経の声であふれ、講義が続けられた。そこで仏道を志す心得と要旨をまとめた名著『草山要路』が出された。 称心庵は寛文元年(1661)に仏堂が完成し、中正院日護上人作の釈尊像を安置し瑞光寺と公称する。そして、そばに養寿庵を設け、母を迎えたのであった。深草に集った著名門人には宜翁日可・慧明日燈・慈観日静等がある。殊に特筆すべきことは、女性弟子の存在であろう。母の妹妙怡、その娘素円と慈観、慧明の母日玉、その妹孝淑等である。彼女らの多くは養寿庵で元政上人の母と共に暮らしたという。 元政上人の交遊関係は実に幅広い。他宗を批判する折伏主義をとったのではなく、内省・観心を重視したことから仏教各宗の僧と交わった。妙心寺第十五世太嶽禅師・智積院宥遍・建仁寺長老通憲等である。文化人や商人、医師たちも数多く元政上人の人徳を慕い足繁く深草を訪れている。儒者の傑人熊沢蕃山・明国の書家・陶芸家であり拳法を日本に伝えた陳元贇。京の文人や商人たちは庵を尋ね、詩会を開き話を交わした。このなかには医師青木元澄があり、元澄の次男は出家して六牙院日潮(身延第36世)となる。 深草に集う弟子たちの日常生活を細目にわたって定めた規則に『草山清規』がある。6章からなり、家訓章の一節には 看病は是れ八福田の最なり。深く惻隠を懐うて赤子を安ずるが如くせよ。 とあり、病人が出た時には赤ん坊を介抱するように看病することを指南している。ある沙弥が病に1カ月伏した時、元政上人自ら昼夜の看病をした。その時、他の沙弥が替わることを願い出ると、「私も病の辛きことはよくわかる」といって看病を続けたという。僧堂の和合を重んじ、弟子たちに細心の心遣いをしていたことが窺える。 万治2年(1659)8月、母の願いにより、前年12月18日に逝去した父の遺骨を納めるため母を連れて初めて身延へ詣でた。8月13日に深草を発ち、東海道を東上、22日に興津に着き、身延街道を北上して25日に身延へ到着する。翌26日に身延の諸堂を参拝、27日には奥ノ院思親閣へと登詣する。八間四面の本堂を拝観した後、日蓮聖人の父母への孝養を偲んだ元政上人、 「そうだ。孝恩のあかし、宗祖の弟子としてのあかしにこの地に父の遺骨を埋めることとしよう」 と意を決し、本堂裏の大木のもとに遺骨と出家の時に切った髪を納め、和歌を詠んだ。 いたづらに身をばやぶらで法のため わが黒髪を捨てしうれしさ つつみ紙に書きつけたものだが、髪を切って出家し、父の遺骨を身延に葬った喜悦を表現したのであった。 数多くの僧俗の文人と交わり、直向きに法器を育て、後の日蓮宗の歴史に大きな影響を与えた孝養の元政上人は、母を送った翌年の寛文8年(1668)2月18日、46歳の生涯を閉じる。亡くなる前、 「吾墓には石を建てるな、竹両三竿を立てよ」と厳命し、この遺言により今日に至るまで瑞光寺の南方には墓標代わりに竹3本立った元政上人の墓がある。決して名誉を求めることなく、書や詩に親しみ清貧に生きた元政上人の生きざまを象徴したあかしの墓といえよう。 |