第25回
―福沢諭吉にすすめられ、米国名門エール大学へ。日蓮宗海外留学第1号―

柴田一能(しばたいちのう)上人



とにかく今の世、猫も杓子(しゃくし)も海外留学とやらで大盛況のようだ。
その大半は遊びで、いや失礼、『遊びは人生の肥(こ)やし』との価値観からすれば、良しとしなければならないのだろうか。

第2次世界大戦までの海外留学は今とは違い、背負っているものが大きかった。
日本の国益・日蓮宗(にちれんしゅう)の将来を託されての留学であったのだ。

明治34年(1901)5月28日、アメリカに向かう留学生を乗せた金州丸(きんしゅうまる)3,900トンが横浜から出港した。
そのなかに1人の日蓮宗僧侶(そうりょ)があった。
慶應義塾で福沢諭吉翁(おう)の膝下(しっか)に侍して倫理学・社会学を学び、さらに研究を進めるため、アメリカのコネチカット州にある名門エール大学へと留学、後に日蓮宗宗務総監を務めた柴田一能(いちのう)師である。

柴田師は明治6年(1873)11月10日、京都府丹後宮津(たんごみやづ)に生まれる。
宮津は日本海に面し、近くには名勝「天橋立(あまのはしだて)」があり、優美な海岸を有した観光都市である。
幼いころ、柴田師はその海岸で波にさらわれ溺(おぼ)れてしまう。
漁師に助けられ、一命はとりとめたものの意識不明の日々が続いた。
母は祈った。
わが子を助けたい一心、わらにも縋(すが)る思いで菩提寺(ぼだいじ)・経王寺(きょうおうじ)に詣でた。
  お祖師(そし)さま、どうかわが子松蔵をお助けください。
  もし、生命(いのち)を戴(いただ)けるならこの子をさしあげます。

と。松蔵は3日後に意識を回復、母は約束どおり出家させた。
師匠には経王寺住職・堀日温(ほりにちおん)師がなり、得度(とくど)して名を一能と改めた。
その後、間もなく堀師は越前妙法寺(みょうほうじ)へと移り、兄弟子の及川真能(おいかわしんのう)師が経王寺住職を襲い、柴田師は真能師の弟子となった。
さらに真能師は請われて東京八王子本立寺(ほんりゅうじ)住職となり、柴田師もそれに同行した。

八王子の小学校に入って勉学に励み、ことに海外のことに興味を持った。
学業成績はすこぶる優秀だった。
本立寺の前住職であり新宿常円寺(じょうえんじ)住職・秋山日解(にちげ)師はその才覚を見抜き、自身で法華経(ほけきょう)の英訳をするほどの僧であったことから、英語を学ばせるため明治学院中等部に入れ、慶應義塾へと進ませた。

慶應義塾は幕末、福沢翁によって蘭学(らんがく)塾として開かれ、明治に入って他の私立学校に先鞭(せんべん)をつけて大学部を設け新時代をリードした。
ことに、明治32年(1899)から私立学校として初めて海外留学制度を創設した。

卒業を目前にしたある日、柴田師は福沢翁の部屋に呼ばれた。
  柴田君! 君はたしか坊さんだったな。これからは坊さんも海外のことを知っていた方が良い。
  西本願寺(にしほんがんじ)の僧は、明治の初めに欧州諸国を具(つぶさ)に観て影響を受けておる。
  日蓮宗、いや慶應、日本のためにも見聞を広めてはいかがか。

とエール大学への留学を申し付けられる。
早速、その報を真能師に告げると、わが事のように喜び、留学資金を捻出するため、勧募帳を手に本立寺の檀家廻りをした。

エール大学への正式な留学が決定すると、宗内で『柴田一能師告別演説会』が開かれ、留学費用を支援することが決せられた。
この会場で第13代日蓮宗管長・岩村日轟猊下(にちごうげいか)より法華経と折(おり)五条が手渡された。
日蓮宗の期待がいかに大きかったかがうかがえる。

横浜港から出た金州丸には、慶應同期生の田中一貞・曹洞宗の山崎快英が同乗し、ともにエール大学へと向かった。
当時、日本からの留学生は23名、後の日本を支えた若き頭脳が下宿をともにしながら語り合った。
このなかには鈴木大拙(だいせつ)師の姿もあった。

大学では主に哲学や倫理学を専攻し、その権威であるラッド教授に師事して西洋的思考をたたきこまれた。
エール大学はアメリカで3番目に古く、ハーバード大学と並び称せられる屈指の名門校である。
その校風は異文化にも理解を示し、4月8日に大講堂で釈尊灌仏会を催すことも許された。
灌仏会は、柴田師が中心となって田中や山崎、そして京都妙心寺宗学林(しゅうがくりん)教頭・宝山良雄等に呼びかけて開催にこぎつけた。

明治35年(1902)6月、エール大学よりマスター・オブ・アーツの学位を受ける。
渡米してわずか1年後の偉業である。
翌年、多くの収穫を携え、1回り大きくなった柴田師は帰国の途に着く。

帰国後、日露戦争に従軍、腹部貫通銃創を受けてしまうが、仏祖のご加護で一命をとりとめる。
復員後、日蓮宗大檀林(だいだんりん)の改組に取り組む。
慶應・アメリカで培った経験と幅広い交遊人脈を生かして目的を遂げていった。
そして、教育現場に立って学生を指導した。
日蓮宗大学林で倫理学・英語を担当し、母校慶應義塾大学文学部で心理学・倫理学を講義した。

改組した日蓮宗大学林、日蓮宗大学での功績の一端をあげると、建物の新築に当たり、当時、設計界の第一人者である辰野金吾(たつのきんご)博士(東京駅・日本銀行本店の設計者)の設計依頼に成功したこと、後に法華会(ほっけかい)を興(おこ)し、大著『法華経大講座』(平凡社刊)を世に送った小林一郎博士を招請したこと等にあろう。

柴田師には大きな夢があった。それは日蓮宗病院の開設である。
キリスト教は、明治初期から布教戦略の一環として医療事業に着手し、ことに都市部にその輪を広げていた。
柴田師はアメリカでその原型と手法を目(ま)の当たりにしていたのだった。

仏教の死と直結した暗いイメージ、病院運営は難しいとの常識に敢(あ)えて挑戦状を叩きつけた。
兄弟弟子(きょうだいでし)である山田一英師(後の山田日真(にっしん)日蓮宗管長)とともに病院開設を企て、昭和7年(1932)10月、宗祖650遠忌(おんき)記念事業として東京南千住に立正診療院を開き、年末には弱者救済無料診療を行った。
診療に当たった医師のなかに後の日本医師会会長武見太郎氏、そして柴田師の長子実(みのる)氏がいた。
柴田師は長男を慶應義塾大学医学部に入れ、卒業後、立正診療院に奉職させた。
大きな夢を子どもに託したのだった。

第2次世界大戦前まで、宗門の援助によって数多くの留学生が海を渡り、帰国して日蓮宗や仏教界を動かした。
守屋貫教(もりやかんきょう)・加藤文雄(ぶんが)・久保田正文といった先師である。
背負ったものが大きかっただけに土産の質も頗(すこぶ)る良かった。
目先の利益・促成栽培を求めることなく、長期展望に立ち、人を教育した宗門の懐(ふところ)は誠に深く、留学した人々もその時代に応えるべく懸命の努力を惜しまなかった時代であった。







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