GARDEN of GAIA Page-2


 ガイアの庭

独断と偏見で書きなぐれ!ご意見無用のたれ流しコメント集!!

ガイアの庭
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恐怖の超戦隊!(1998.11.22)

第12話「野獣包囲網」(脚本:川上英幸 監督:原田昌樹)

うーむ、意図の見えないエピソードでした。脚本家が何を見せたいのか分からないままドラマを作っちゃったって感じで、コメディなのかドラマなのか…生煮え、作りかけの料理を喰わされた様な感じです。単純な「イイトコどり」はダメよ(いやはや…)。

今回のエピソードって多分従来の「ウルトラ」向けのフォーマットなんだと思いますよ、完全に。従来はオールマイティーの特別チーム1班構成だったから、こういう展開にしても、違和感の抱き様がなかった訳ですけど、XIGの特化部隊編成が枷(かせ)をはめまくって、何でライトニングが出て来なければならないのか、全然必然が感じられないんですね。この使い方なら分野別にチーム編成してる意味がないじゃないですか。しかも梶尾リーダーは結局麻酔注射しにファイターで飛んで来ちゃうし(いやはや…)。無意味なコメディ描写が更に空しさに輪をかける展開…こんな素人集団に守られているのですか、地球は?

これってXIGのイメージダウン以外の何物でもないです。親しみやすさと情けなさは違います。この辺の基本的なライン位は外さない様にしないとね。イメージの崩壊は既にかなり進行してる感がありますけど。

どうも「ガイア」、苦戦が目立ちます。アグル、藤宮の使い方もかなり不満です。折角ライバルとして設定されたのに、思わせ振りに出て来はしますが、立場や意見の相違こそあれ、やってる事がガイア、我夢と一緒なんですよね、基本的に。「初心者ウルトラマン」は一人で充分なんで(いやはや…)。これだと話の展開がまどろこしくなるだけで、あんまりメリットのない使い方ですね。怪獣と戦う時も結局ピンチに陥っちゃうでしょ。まだシリーズとしては最初の方ですから、この時点では完全無欠、絶対的な存在として描いておいた方が話としては盛り上がる気がします。正直アグルは出てくる度にどんどんメッキが剥げてる状態で…このままズルズルとガイアと連立政権樹立の可能性アリだったら悲しいなぁ…

取り敢えず制作者の方々にお願いしたいのは、もう一回自分達が何を描きたいのか、何処に興味があるのか、その辺を整理して考えて欲しいってコトですね。どうも今迄観てきていると、作ってる方もその辺が良く分からないまま走ってるんじゃないか…そんな気がします。ストーリーもまだドラマを描く処まで流れに乗れてないし、ひょっとすると放送開始直後からの批判メインの評価に、内部ではいきなり路線変更の嵐が巻き起こっているのかも知れませんが(いやはや…)、辛辣なファンの声とて、決して従来の「ウルトラ」を最良とする、偏見や固執から出ている訳ではないと思います。多少異色でも制作者側に一貫した思想、主張、そして物語に対する熱意が感じられれば、それは必ず画面から視聴者に伝わるのです。

まず何より自分達の価値観を信じて、自分達の観たい世界を作って下さい。自分が楽しめない作品を、誰が楽しめるのですか?少なくとも「ガイア」の作品群はまだ「人の為に作らされてる」様に思えるんですよ。とりあえずファンの評価を聞くのは、それからでも遅くはないですから…



タカシくん、ハイ!(1998.11.29)

第13話「マリオネットの夜」(脚本:長谷川圭一 監督:根本実樹)

久しぶりに脚本が自分の土俵でドラマを描けたエピソード。ヘンになった街の人が集団で徘徊しちゃうトコとか、細かい描写はちょっと古い感じがしてあんまり好きではないんですけど、一見普段と変わらない世界に静かに忍び寄る恐怖みたいなものは上手く描けてましたね。「ガイア」の中でもちゃんとドラマ的に完結できた久々のエピソードになりました。「誰かに頭ン中覗かれてる様な」って最初の方の回で田端さんが行ってたセリフが、今回のエピソードの伏線になってる辺りもイイです。

田端さんは久しぶりの登場でしたけど、相変わらずアツいです。今回の作品が佳作であるのは、やっぱり話の視点をKCB側に持ってきてる処が大きいみたいですね。XIGの設定はどうにも身動きがとれないって事が、シリーズの中でも段々露呈してきて少し心配になってます。XIGの様な細分化された組織体系だと、特定の人間が何処にでも顔を出すって展開が説得力を欠いてしまい、話を作りづらいんじゃないでしょうか。「ちょっと気になるんですけど行ってもいいですか?」っていう、今回の我夢の行動にしても、非常に窮屈な感じがします。こんなに縛られた設定だと、身動き取れんなぁ(いやはや…)。XIGが自然に活躍するためには、毎回地球規模の事件が起きないとちょっとツラいんでしょうね(でもそれじゃ予算が〔いやはや…〕)。今回みたいに、極東の1国のそのまた1地方の街の出来事に一々からむのって、難しいんですよね。地上には地上で別部隊がいるから、今迄みたいに定期パトロールをしてて事件にバッタリって展開もやりにくいし…

藤宮やアグルの描き方は長谷川さん、ツボを心得ててうまかったですね。今回は結構安心して観てられました。小中さんはどっちかっていうとロマンティックな描写をしつつも根本はかなりのリアリストで、キマる場面とか、分かっていながら自分からあえてポイント外しちゃう様なトコがあるんですけど、長谷川さんの場合、おもいっきりストライク取りに行っちゃうトコが、逆に快感だったりします(いやはや…)。

SF&ホラーの感覚を楽しめてちょっぴり嬉しい一作でした。



ヴィジャーでゴーゴー!(意味不明)(1998.12.06)

第14話「反宇宙からの挑戦」(脚本:武上純希 監督:根本実樹)

うーむ、今回もいわゆるガイアの悪い面が顔を覗かせたエピソードでしたね。勿論イイとこもそこそこあったし、特に根本監督の緊迫感ある映像世界を楽しめたって部分では結構満足した部分もあるんですけど…でもやっぱりもどかしいです、とっても。日本語で言えばいいのに、敢えて英語で言って本意が伝わらなくなってる様な、そんなもどかしさ。反物質を安易にドラマに持ち込んだはいいが、消化不良で番組内で科学講座を開かねばならない始末。もうエピソードの中で起きる出来事総てに科学的講釈をしなくてもいいと思うんですよ。「我夢は黙ってろ!」っていうそんな感じ(いやはや…)。そういう補足説明するより、そこで起きている事件だけを追って行った方が、まどろこしくないし、かえって情報量としては増える筈です。アンチマターはひょっとしたら「エヴァ」の「使徒」的世界を指向したのかも知れませんが、意外に「エヴァ」ってそういう科学的講釈ってしてなくて、理解不能な不条理なものとして捉えてた様な気がしますけど。

ドラマ的にも前半部分の、理解不能な反物質生命体に対するXIG首脳陣の圧倒的な無力感は一体何でしょう?毎回の様に我夢の言葉をひたすら待ち続ける参謀、コマンダー(特に今回はもうまったく対処不能で、殆ど思考停止状態…)。この辺りはもうちょっと脚本的にうまく処理して欲しいです。現状の使い方だと、彼等は我夢の指示で動く命令伝達マシンになってしまいます。今回で言うと参謀の避難指示がそうじゃない動きって位で…

今回はチーム・ファルコン関連の描写で辛うじてドラマが成立してるっていう危うい状況でしたね。あの部分になると、明かにドラマのテンションが上がるっていうのは、エピソードのシチュエーションを制作側も持て余しているって証拠でしょう。

ガイアとアグルはやっぱり最終的には同じ目的に向って歩みを共にしてゆくのでしょうか?だとすれば、あまりに勿体ない使い方ですね。非常に中途半端な対立状態で、コントラストをもって描く処まで行っていません。それが「リアル」だと言われてしまえば、ひょっとするとそうなのかも知れません。「lain」での小中的ドラマ世界を観ていると、そういうあえて今迄の王道的なツボを外した部分に、ネオ・リアルな世界を見いだして行こうという指向が強い様に感じるのですが、「ガイア」にもそんな意志を感じます。「ガイア」の不完全燃焼感は、説明しないと理解出来ないような敵、わざと動きづらく設定された人物や組織によってドラマに踏み込む前にカラー・タイマーが点滅しちゃう、その部分に起因する様な気がします。制作者側の意図では、その虚無的な中にこそ、ネオ・リアルなヒーロー世界があるのかも知れませんが、それでは私は思い込めない…

アンチマター君はデザイン的には結構面白くて、エフェクトのかかりまくった画面の中でモゴモゴ動いてる分には得体の知れなさが爆発して、仲々味があったんですが、それだけに、ガイアと普通の怪獣の様に戦って欲しくはなかった(いやはや…)。毎日放送のガイアページには「ヒトデが抱き合ったような」って表現がありましたけど、なんか好きですコレ(いやはや…)。でも、抱き合うヒトデって一体…



見ていたのは愛…かな?(1998.12.13)

第15話「雨がやんだら」(脚本:右田昌万 監督:北浦嗣巳)

ついに「ガイア」にも登場の右田脚本。「ダイナ」では自作に素面で出演も果たし、アクターとしても大爆発してしまった(いやはや…)右田氏、行き着くところまで行ったこの先、「ウルトラ」への登板は果たしてあるのか?と危惧されていただけに(いやはや…)、予想外の登板であります。

話的には今回もKCB側の玲子をメインに据えた布陣。どうも最近の「ウルトラ」が大きなテーマ(?)としてきた、「一般人の日常に怪獣がからむ」って展開はXIGの組織では扱えないって事が制作側でも明確化してきたのか、最近こういう展開はKCBにおまかせ。さながら「ウルトラQ」の3人組と化しております(いやはや…)。それならそれでもいいかな?って感じはするんですけどね。XIGとしての必要性って、おそらくシリーズ中盤の前後編エピソードと最終回付近の大規模侵略編位しか、予算面、時間面から描けるチャンスってないでしょうからね。やっぱりあんまり規模の大きな組織って、現状の「ウルトラ」の制作条件じゃ無理があるんでしょう。結局各話のテーマって一般市民の日常にまで降りなければ描けないのが現状ですからね。

防衛組織の機構の問題から言うと、「セブン」がその辺りを上手く処理できたのは、ウルトラ警備隊を極東基地の配下にしてしまった事と、施設が日本国内の地上(地下)に設置されている部分が大きいでしょうね。この辺りの設定は非常に良く考えられています。地球防衛軍が国際警察機構の様な描き方をされてもおかしくなく、かつ地球の特定地域をテリトリーにしていて、基地も地上にあるため地域密着型の行動も取りやすい。隊員が日本人ばかりでも、現地法人だと思えばそれほど不自然でもない(いやはや…)。しかも一番の装備を持つため宇宙人の攻撃目標になりやすい(これは住んでる地元民にとっては大問題なワケですけど)。…っと言う訳で、日本が必然的に「宇宙人銀座」になるべく仕組まれてる訳ですね(いやはや…)。「ガイア」に限らず、近年の「ウルトラ」はこの辺りの「言い訳」が弱いんじゃないでしょうか。

後、スケール感の演出の面からすると、脚本の視点が近年の作品よりもうちょっと鳥瞰(ちょうかん)的な位置にあったって部分も大きいでしょうね。後半になるとさすがに大分視点が下がりますが、基本的に一般市民レベルまでは殆ど降りてませんからね。地球規模の危機を描くにしては、近年の「ウルトラ」の視点は余りに低いのです。これはもう「ホームドラマ」の呪縛というか…

ちょっと脱線しましたが、今回も非常にミクロな世界の話ながら、うまく危ない部分に触らない様にまとめてあって、比較的安心した感じで観られました。この辺りはさすが、数をこなした右田脚本だけの事はあります。でも相変わらず説教してましたけど(いやはや…)。あと、身体鍛えながら我夢にテレビ電話してくる藤宮はギャグ以外の何物でもないと思うゾ。もうちょっとイメージを大切にして欲しい気もするんですが(いやはや…)。

個人的には「キノコ嫌いのレオ」こと二家本辰巳氏のヨッパライに再会できたのが、なんか嬉しかったんですが。ここまできたら、ぜひ「平成の大村千吉(注)」目指して頑張って欲しいもんです(いやはや…)。

ディーンツは妙なキモチワルさが爆発してておもしろい怪獣です。ヤな感じの鳴き声もイイです。北浦特撮のアップテンポなカッティングと大胆な合成(倉庫の爆発はいいゾ!)で対決シーンも楽しめました。

(注)大村千吉(おおむら・せんきち):

東宝特撮映画の名脇役。なぜか犠牲者役が多く、絶品ともいえる断末魔の演技で多くのファンを魅了した(いやはや…)。「地球防衛軍」で山火事にやられる木こり、「美女と液体人間」で液体人間の犠牲となる漁師、「ウルトラセブン」(緑の恐怖)でワイアール星人に襲われるサラリーマン等が有名か?




最近はハムスターが「悲しいマラソン」するらしいの巻(1998.12.23)

第16話「アグル誕生」(脚本:吉田 伸 監督:北浦嗣巳)

すっかり掲載が遅くなってしまってすみません。ビデオがトラブったりしてたもんで、舞台裏は大騒ぎになってました(いやはや…)。

さて、いよいよ物語の本筋に触れるアグル誕生の物語だった訳ですが…個人的には好きな雰囲気のエピソードではあります。やっぱり謎に迫る話って訴求力がありますから、それなりに緊迫感みたいなものも出ますしね。ただ、設定としてはなんか肩透かしを喰らった様な曖昧さが残ってしまいました。まだこの段階では総てを明かすのは早過ぎるとはいえ、(ガイアの他に)なぜアグルが必要なのか?という部分では、納得できる答えは感じられませんでした。せめて断片でもいいから、その部分に謎なりヒントなり蒔いてくれればね。

ガイアとアグルの関係の曖昧さが、シリーズを不完全燃焼させる一因となっている点は否定できないのではないかと思います。現時点の描き方からすると、明確な対立も和解もない、非常に中途半端な関係なのです。今の段階での解釈だと、アグルは本来、スーパーコンピュータ、クリシスの予想した、人類の排除による地球存続を実践すべき立場にあるはずなのですが、そんなに(人類にとって)悪い奴じゃないのが哀しい(いやはや…)。従来の特撮番組で見られた「対立と和解の構図」はガイアとアグルの関係には、最早当てはまりません。互いの利害が一致すれば協力するし、対立すれば戦うという、非常に本能的な関係。互いに憎み合う訳でもライバル視する訳でもない。まぁリアルと言えばリアルではある関係なのかも知れませんが、果たしてここからどれだけドラマティックなシチュエーションを生み出せるか?ちょっと疑問ではあります。

藤宮がアグルとなる理由も、我夢のそれと同様、イマイチ必然性に欠けてる様な気もしますが、「ウルトラ」としてのその弱点は今に始まった事じゃないしね(いやはや…)。とりあえずいきなりパソコンのディスプレイにアクセスしてくるだとか、自分の名前を英語で教えてくれる様な強引な展開にはイエローカード(いやはや…)。

エピソード全体の雰囲気とか、断片的な描写とか、結構力の入ったエピソードです。「ガイア」全体の中でも見応えという点ではかなり上位にランクされるエピソードではないかと思います。ただ、根本的な部分の問題は結構大きく、スタッフも視聴者ものめり込む処までは行けないのも事実。このピンチをどう打開する「ガイア」!(いやはや…)

アルギュロスはアパテーに比べるとデザイン的にも大分こなれていて、それほど違和感なく見られました。



果たして"的場 徹"は時代劇、プロレスファンだったのか(敬称略)(1998.12.27)

第17話「天の影 地の光」(脚本:古怒田健志 監督:村石宏實)

いよいよ「ガイア」も本年最後の放送。…ってここで前後編ですか?予告ではそんな展開をおくびにも出さず、始まってみたら終わらないという(いやはや…)。とりあえず今回は前編ってコトであんまり深入りするのはやめて、簡単に(いやはや…)。

全体としては前後編的盛り上げかたが足りず、さしたる危機感もないままアレアレという感じで後編になだれ込む展開なのが残念でしたが、エピソードとしてはよくまとまった部類ではないかと思います。XIGと我夢の描写、ガイアとアグルの描写もツボを心得たもので比較的危なげなく観ていられましたし、古怒田脚本に共通する「安定感」が今回も発揮された1本でしたね。ただ、オペレータ2人が同時に昼食しちゃうのは、いくらなんでも不用心でしょう。ちゃんと交代要員はいるんだよね?(いやはや…)こういう細部の描写ってちゃんと描いておいた方がいいですよ、それでなくてもチームクローは言うに及ばず、XIGって素人っぽいんだから(いやはや…)。

枝葉末節はともあれ(いやはや…)、古怒田脚本って結構王道指向だと思うんですよ。基本的に幼児期に体験した「ウルトラ」の世界を再現したいっていう想いがベースに感じられますからね。今回もガイアとゾンネルの戦いぶり、特に気合でゾンネルを抱え上げるガイアの描写なんかにそういう想いが感じられました。そういえば、今回みたいな肉弾戦的戦闘シーンって妙にクールな他のライターでは殆ど観られない描写です。こういうの見ると、やっぱりウルトラマンには的場 徹氏が取り入れてた様な、格闘技的カタルシスってのが必須要件なんだなって思いますね。確かにスマートさってのも必要ではあるんですが、観てる側のハートをグッと掴むような、そういう根源的な部分での共感ってのも必要ですよね。まぁコレをあんまり追及すると「スペクトルマン」になっちゃうから、過ぎたるはなんちゃらなのかも知れませんが(いやはや…)。

特撮はディグローブの巨大感が全然表現できてないのがすっごく残念。あれじゃモロにギニョール(手踊り人形)じゃないですか(いやはや…)。大きく作れないなら、せめて3倍程度のハイスピードで撮影して欲しかったです。それだけで全然重量感が違うはず…セットは今回かなり丁寧な作りで、山間部のセット等、ちゃんと床面が作り込まれているのは嬉しかったですね。民家や町並みの作り込みも仲々。ガイアとゾンネルの戦う山間部の原野(いやはや…)も意外と広いのにはびっくり。結構贅沢なスタジオ取りです。

そんな訳でようやくストーリーもうねり始めたか?来年に期待の「ガイア」であります。

的場 徹(まとば・とおる)(1920-1992):

大映、円谷で活躍した特撮監督。大映の特技監督として日本初のカラー特撮映画「宇宙人東京に現わる(1956)」、初の70mmカラー特撮大作「釈迦(1961)」等の特撮を手掛ける。1965年円谷プロと特技監督契約を結び、「ウルトラQ(1966)」~「怪奇大作戦(1968)」までの特殊技術を担当。「ウルトラQ(1966)」でのガラモン演出ではプロ野球(国鉄スワローズ~サンケイスワローズ)金田正一投手の投球モーションをヒントに演出したといい(ホントか?)、「ウルトラセブン(1967)」第19話「プロジェクト・ブルー」ではバド星人とウルトラセブンが凶器攻撃も飛び出すプロレス技で格闘、第26話「超兵器R1号」では黒澤 明「椿三十郎」に触発されたという血しぶき飛び散る衝撃的な演出を行い、特撮ヒーロー作品に格闘技的カタルシスを積極的に取り入れた演出を展開した。円谷プロ退社後はピープロの鷺巣富雄と組んで「スペクトルマン」を企画、初期話数ではみずから特撮演出も行っていたらしい。1972年日本映像研究所を設立、晩年はドキュメンタリー映画を手掛けていた。(敬称略)




マックス号応答…あれ?応答しちゃった(1999.01.10)

第18話「アグル対ガイア」(脚本:小中千昭 監督:村石宏實)

さてさて年末年始を跨ぐ前後編の後半。今年初めてのオンエアでもありまして、みなさま本年も本コーナーをよろしくご贔屓に。

あんまり細かいコト言わなきゃ、今回のエピソード、普段結構視聴者には冷たい(いやはや…)小中脚本としては、かなり意識して視聴者サービスに徹した回じゃなかったかな?と感じました。丁度「セブン」の「マックス号応答せよ」的な。単純に観てる分には等身大ウルトラマンの対決なんかは、結構新鮮で面白かったし、藤宮と我夢、そして玲子のドラマなんかも、ようやく動きだした感がありましたしね。新年一発目の回らしい賑やかさって奴かも。

ただ、今回の前後編の組み立てって、なんだろか(苦笑)。結局前半で古怒田サンが必死こいて描いてた内容、ものの見事に小中サン、いなしちゃってたし(いやはや…)。どうも二人のライターの視点(興味って言ってもいいや)、全然違う処にあったみたいで、なんか我夢と藤宮の図式を彷彿としたゾ(いやはや…)。結局、惑星怪獣ディグローブは遠路はるばるご苦労様って感じでしたし…もうちょっと各要素が有機的に連携してないと、ドラマにならないッス。用意した駒が動かせないから途中で捨てちゃうのって…それは視聴者だってバカじゃないんだから、失礼ですよ、ちょっと。前編の展開はちゃんと受けてあげなきゃ(いやはや…)。小中サン、根源的破滅招来体の息がかかってりゃ、ディグローブは隕石でも何でも良かったんでしょ、別に。

まぁそんなに背伸びしなくても、もうちょっと陳腐でも王道でもいいから、ちゃんと盛り上がって前後編の中で起承転結するエピソードにして欲しいですね。2倍に薄まったテンションで倍時間やられても、ありがたみも薄いってモノ。

映像的にはさすが村石監督、うまいことまとめてます。各カット、かなり丁寧にライティングしながら撮ってるし、特に飛行シーンの合成が結構丁寧で、今迄不満の多かったパースの不一致も、今回はあまり気にならない処まで行ってました。

手動開閉機構のない自動ドアや、「スターウォーズ」に影響を受けた様な手摺のない断崖絶壁メインコンピュータ、バックアップの全くない制御系等々、かなり強引に強行突破してしまった舞台設定をはじめとして、もうちょっと練り込んで欲しい部分というのは多いんですが、まぁ、今後に期待…したいです。いっその事、二人で共作ってのも面白いかも。二人で全体のシチュエーション決めて古怒田さんがガイア側の動き、小中さんがアグル側の動きを描いたら結構ソレっぽくなるんじゃないかなぁ。

ってなワケで、今年も言いたい放題だったらごめんなさい(いやはや…)。



悪魔ッ子(いやはや…)(1999.01.17)

第19話「迷宮のリリア」(脚本:長谷川圭一 監督:原田昌樹)

長谷川圭一脚本による恒例(?)サイコメザード編。異色作ではあったんですが、佳作とまでは行けなかった様です。

エピソードとしての雰囲気はそんなに悪くなかったんですが、どうもしっくり来ませんでした。ちょっとご都合主義的に敦子周りのシチュエーションが決められてしまっていて、なんだかなぁといった感が先行しちゃいました。梶尾リーダーとのいきなりな急接近とか、今回のエピソードを成立させるための「手段」でしかないし…ファンタジーっぽいといえばそう言えない事もないんですけど、敦子の視点にしてはエピソード全体があんまりにも子供っぽく、それが物語の世界について行けない要因になってる様な気がしますね。もうちょっと大人の視点で冷静に描いてみた方が、リリアの不気味さとか怖さって描ける様な気もします。脚本の視点が一緒に降りちゃうと、その辺りってなんかボケちゃう気がするんですけど。

敦子が操られるまでの過程もイマイチ説得力のある展開がなくて、結構不満ではあります。せっかくキャラクターの内面に迫ろうとするエピソード。もうちょっと畳みかけるような展開が観たかった処ですね。誘導ミスでライトニングが接触事故を起こし、梶尾が詰め寄るシーンなんかは、今回のエピソードにおける一つのドラマ的山場だったわけですが、もうちょっと緊迫感のあるドラマが観たかった処。なんか腰砕けになってて残念でした。MATの上原節までやっても良かった気はするんですが…(いやはや…)

そういえば、今回オペレータが交代してるシーンがあるんですけど、残念ながら敦子の時より緊迫感って数段あがって感じられましたね。オペレータってやっぱり多少クールなシャベリの方がソレっぽいしね。ちょっと考えさせられました(いやはや…)。

特撮に関しては今回はそんなに派手なシーンもなかったんですが、最近飛行シーンのレベルアップが着実に進んでて嬉しいですね。「ティガ」以来不満の多かった、飛行機がカメラに向かって接近してくるシーンのパースの狂いや動きの不自然さ、この頃のエピソードでは殆ど気にならないレベルまで向上してきてます。こういう些細な描写って、実は作品世界に自然に入っていけるかどうかの大きなポイントだけに、地道な改良は嬉しいですね。



変身と変心或いは火を噴く右田昌万(敬称略・いやはや…)(1999.01.24)

第20話「滅亡の化石」(脚本:川上英幸 監督:原田昌樹)

なんかようやく落ち着いて観てられるエピソードの登場って感じでした(いやはや…)。ドラマ的にはむしろオーソドックスな描写に終始していたと思うんですが、やってる事とか言ってる事とか、そんなに消化不良でもなかったし、理解しやすかったって点は評価できるんじゃないでしょうか。ただ、川上脚本って出来不出来の差が結構激しいって気も(いやはや…)。佳作も出るんだけど、ノッてない時のおざなりな展開はかなりのモノ。その辺りの振幅は今後もうちょっと縮めてほしいですね。コレは幸いイイ方の部類だった様で(いやはや…)。

今回のドラマ的なポイントって藤宮君の変心なんでしょうけど、この展開を観てるとやっぱり最後の最後で改心しちゃいそうですね。なんだか早くもステロな展開の予感が(いやはや…)。今まであえて視聴者にソッポ向きながらも(いやはや…)独自の境地を模索して来ただけに、なんか不完全燃焼のままの消火って残念だと思うんですが…我夢と藤宮、ガイアとアグル、従来のライバルの図式から抜け出して新たな方向性を目指すかと思われたのですが、結局従来の図式すら越えられないでガイアとアグルの葛藤の構図は終わってしまうのか?2人のウルトラマンは何のために設定された(単に中盤の強化策として合体する為なら怒るゾ!)のか、その部分には何らかの回答を用意して欲しいですね。

もうちょっと設定を有効活用しないともったいないです。確かに使えないってのはあるのかも知れないけど(いやはや…)。枝葉末節の設定が多すぎたのと、まるで従来の方向性を否定するように、わざと枷をはめたフォーマットとか、一人の脚本家が自らに課した制限の中でシリーズを描いていくのならともかく、認識や理解レベル、ストーリーテリングの能力もバラバラな複数のライターチームの競作というシリーズの中で、こういう「書きづらい」環境を作ってしまうというのは、やはり相当キツいという事なんじゃないでしょうか?

SF的な発想って、実は結構難しいと思うし、そういう発想が得意なライターというのもかなり限定されてくると思うんですよ。特に最近のビジュアル重視の傾向の中で、物語の中に意外性を込めようとする姿勢のあるライターって殆どいなくなりつつあるんじゃないか?「ガイア」で描かれるドラマの数々を観ているとそんな気がします。夢や驚きのないSFというのは、なんとも荒廃した空虚な世界なのです。

<おまけ>

関東では同週放送の小中脚本「ファンファンファーマシィ」、結構良かったです。「ガイア」での窮屈な書きようとは打って変わったセンスオブワンダーに溢れた世界。小中脚本の持ち味って、こういう小粒なメルヘンチックな世界でこそ、その輝きを放つものなのでしょうか?「ファンファン」は毎週佳作揃いで、(ちょっと語弊はあるけど…)「ガイア」よりずっと心を込めて大切に書かれているのが、観てる側にも伝わってくるのは、ちょっと悲しくもあり、うらやましくもあります。




「ウルトラマン」は「正義の味方」?(1999.01.31)

第21話「妖光の海」(脚本:大西信介 監督:根本実樹)

エピソードの雰囲気自体は結構好きな話でした。物語の中で緊迫感がグーッと盛り上がってくる感じが仲々快感。根本監督ってこういう話の中での緊迫感の盛り上げ方って仲々巧みで好きなんですけど、今回はそういう持ち味がうまく発揮されたエピソードでしたね。

ドラマとしても最近になってようやく動き始めたって感じで、ここまで動くのに随分話数を消費しちゃいましたね。最初の数話でここまで来れてれば、世間の批評も今ほど厳しくはなかった様な(いやはや…)。ただ相変わらず藤宮の存在は脚本も持て余しちゃってる様で、今回なんかもかなり中途半端な存在になっちゃってます。思わせぶりに我夢を挑発したりする割には、最後の最後で「一発」決められずに腰砕けになっちゃうし(いやはや…)。後で寝返るにしろ(いやはや…)、現段階ではもっと明確に「悪い奴」(我夢の立場から見てですけど)として、描いちゃっていい様な感じはずっとあります。たぶんその辺の中途半端に悪い奴なトコが、藤宮が未だにアイデンティティを確立できないでいる大きな原因じゃないでしょうか?視聴者が主人公と一緒になって怒れるからこそ、敵役はその存在を認められるんでしょう。

藤宮にその辺りの感覚が弱いのは、彼が「本音の代弁者」という設定になっちゃってるからでしょうね。一人の人物の葛藤表現に良く使われる「天使と悪魔」っていう描写。我夢と藤宮ってまさにその関係なんでしょう。両者の言い分はそれぞれの立場で正論な訳ですけど、どっちかっていうと、藤宮の言ってる方がより本音に近い訳です。図らずも今回親友の「藤宮的」発言に我夢がムキになって怒る場面がありましたが、そういう勧善懲悪的熱血感覚に冷や水ぶっかける様な感覚を視聴者にも抱かせてるんだと思うんですよ、藤宮クンは(いやはや…)。

良くも悪くも「ウルトラマン」って勧善懲悪的世界において初めて成立する物語です。多少独善的ではあっても自らの行動を思いこみで正当化する事が、「正義の味方」というあいまいな存在を具現化するのです。そういう世界であんまり相手方の事情を考慮しちゃうと、世界そのものが成立しなくなってしまう。極端な話、怪獣の「生きる権利」を認めて野放しにしたり、宇宙秩序のために人類を抹殺するウルトラマンだって、究極的には「正義の味方」の範疇(はんちゅう)に入るのかも知れません。「ガイア」はまさにそのきわどいラインを歩いている様に思えます。シリーズ全体を覆う得も言えぬ不完全燃焼感。それはその足下の「おぼつかなさ」から来ているのではないでしょうか?

特撮は佐川監督がノリノリで、格闘場面なんかは結構おもしろかったですね。調子がいい時に出るアップテンポなカッティングも快調。こんなにダイナミックに格闘するガイアってなんか久しぶりに観た気がするんですが(いやはや…)。

藤宮クンのいう「見せたいモノ」って結局は地球や他の生物の存在を踏みつけにして輝く、自分勝手な人類の存在だったワケですけど、勿体ぶった割にはちょっとインパクトに欠けてましたね。せめて決めゼリフに重たいのでも一発かましてくれればねぇ(いやはや…)。それが出来てれば、傑作になってたでしょう、今回は。



タイプチェンジだゲキメーションだ!テレビの世界はキケンがイッパイ!!(意味不明)(1999.02.07)

第22話「石の翼」(脚本:太田 愛 監督:根本実樹)

サイドストーリーとしてはいい感じのエピソードだったんじゃないでしょうか?太田さんらしい子供の目を通した視点がいいですね。太田脚本の良さって、子供を単純に、大人を模倣する「こまっしゃくれ」た存在としてではなく、ちゃんと一個の人格を備えた人間として描こうというポリシーが現れてる部分かも知れません。子供が主人公のエピソードって、ともすると「大人のイメージする最近の子供」的な視点で描かれる事が多くって、辟易してしまう事も多いんですが、比較的そういう感覚が弱いんですよね、太田脚本って。

千葉参謀、このエピソードでちょっとは失地回復できたかな(いやはや…)?ようやっと現場をテキパキと(肝心なトコでセリフ噛んでる気はしたけど…)仕切る参謀のお姿が画面で観られました。制作側もようやくGUARD首脳陣と我夢のパワーバランスの乱れに気がついたのか、最近のエピソードでは、この辺りの不満も徐々にではありますが改善されつつあるようです。それはそうと石室コマンダー、最近コスチュームが変わって、目指すは和製ストレイカー司令官ですか?無表情で何考えてるかわかんないトコはマンマなんですけど、このまんまエスカレートしてプラチナブロンドのカツラ被ったりとかはダメだよ(いやはや…)。

パズズはなんか下品な怪獣だなぁ(いやはや…)。いや、別に姿形が直接的に下品ってワケじゃないんですが、なんかねぇ(いやはや…)。

そういえば中村ウルトラマン、またちょっとふっくらと…パワータイプとか明確に設定されてるならともかく、同じウルトラマンが毎回こうも体型違うんじゃ、納得できんです。格闘場面のパワフルさは好きなんですがね。ガイアはアクターが全然固定されてないんですけど、いいんですか、こんなんで?

やっぱり同じ人が1年通してキャラクターを演じたヒーローって、印象深いですよね。それってアクターの個性が生み出す一貫性だと思うんですよ。歴代ウルトラでいうと、複数のアクターが担当した「エース」、「エイティ」なんかはキャラクターの印象度ってやっぱり弱いんですよね。「セブン」で一回だけ菊池英一さんが担当したキングジョーの回なんかは全然セブンじゃないでしょ?でも「帰ってきたウルトラマン」は菊池ウルトラマンでしかあり得ない訳です。そういうもんなんだと思います。

【おまけ】

関東だと金曜日に放送してる庵野監督の最近作「彼氏彼女の事情」、今週放送分では「猫目小僧」もビックリの「劇メーション」やってました(いやはや…)。結局今回はいわゆる「セル画の人物」は一カットも登場せず!19話にして早くもスケジュールキツいのか(それはそうでしょうけど破綻にはまだ早いゾ!)と思えば来週は普通のセル画に戻る様です。エンディングクレジットでは使ったセル(撮影の都合でセルには貼ってあるらしい)燃やしちゃうし(いやはや…)。「映像に対する飽くなき探求心」っていうか「窮鼠猫を噛む」っていうか、「奔放な表現力」っていうか「火事場の馬鹿力」っていうか…やっぱりああいう表現が許されるのは庵野監督だけなんでしょうね。






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