GARDEN of GAIA Page-4


 ガイアの庭

独断と偏見で書きなぐれ!ご意見無用のたれ流しコメント集!!

ガイアの庭
〜Page-4〜



やっぱアルテスでタイムなロマンスカーッスね!(意味不明)(1999.07.04)

第43話「銀色の眼のイザク」(脚本:太田 愛 監督:根本実樹)

「ガイア」では今回が最後のエピソードらしい太田脚本ですが、何だかいつもと随分作風が変わってハードなストーリー。もうちょっと絶滅動物への哀惜の念に満ちた話(いわゆる太田ワールドって感じですかね?)を期待してたファンも多かったとは思うんですが、その辺りを見事に裏切ってくれる予想外の展開ってのも、これはこれで太田脚本らしいのかも(いやはや…)。

ストーリーの根底には、かなり脚本家の思い入れ的な部分を感じましたね。劇中で何度も登場するキーワード「銀色の眼のイザク」「アルテの虎」「原油まじりの水を飲み…」何かのセリフにはかなり強烈な思い入れがあるみたいなんですが…第三者的には結構唐突(いやはや…)。

なんでそこでそんな言い回ししなきゃならんのって感じでした。何だか無理矢理自分の好きなセリフを登場人物に吐かせたいが故、セリフを歪めちゃってる(いやはや…)。どうしてイザクが銀色の眼じゃなきゃならんのか、観てる側には全然そんな必然性って感じられんし、因縁も見えないよ。ちょっと脚本家の内的テンションの高さに引いちゃったって感じですかね?

アルテスタイガーって多分創作なんでしょうけど、タイトルの「アルテスタイガー怪獣」ってのはなんかあんまりな別名(いやはや…)。イザクは旧約聖書からとったんでしょうか?

まぁ内容的にはそれなりにハードな展開ではあるのかも知れないですが、個人的にはストーリー展開の主要部分を、殆どセリフのみで解決してる作劇法には賛同しかねます。我夢も藤宮もなんでもかんでもベラベラベラベラ全部感情吐露セリフで済ますんじゃないッ(いやはや…)!しかも我夢クン最後は藤宮クンになぐさめられてるし(いやはや…)。結局今回のエピソードがテーマ的には重いものを内包しながら、結果的には非常に表層的な、希薄な感銘しか与えられなかった背景には、そういう安直(あえて言っちゃおう!)な思想があるからだと思います。「ガイア」の脚本家陣にはもっと沈黙の重さって奴を会得して欲しい気もしますが…

特撮は佐川監督ハッスルするの巻(いやはや…)。いやぁリアルで火炎放射する怪獣って凄い久しぶり。あいかわらず口の中には石綿貼ってるのかなぁ?なんか良く燃えてます(いやはや…)。 格闘シーンに関しては、確かにエピソードカラーとの乖離がなかった訳じゃないですが、カッティングのテンポの出し方とか、変速フィルムスピードとか、ベテランの技が色々観られてこれはこれで楽しめました。

ワンカットの中でスローモーションから倍速までフィルムスピードを連続変化させる演出って、同枠のバンダイ「ゴーゴーファイブ」のCFでもやってますが、この辺りはビデオ編集になって随分やりやすくなったんですかね?ワタシがコレを観た最初って「大戦隊ゴーグルV(1982)」辺りからだったと思うんですが、最初にコレ観たときには凄い新鮮でしたね。

多分フィルムでコレをやろうとすると、最初に全部ハイスピードで撮って、ラボでテンポつけながらコマ抜きしていくんでしょうが、良くやりますよね(いやはや…)。さすがにあんまり手間がかかるのか、だんだん使わなくなっちゃいましたが…80年代の戦隊シリーズって、時たま凄い斬新な映像が出てきて楽しかったなぁ…最近のはどうもルーチン化が進行しちゃって…(いやはや…)

ま、そんなこんなで色々と複雑な一作でした。

【おまけ】

昨日のNHK「スタジオパークからこんにちは」ご覧になりました?マスターテープが失われて二度と視聴できないと思われていた、懐かしのNHK少年ドラマシリーズ第一作「タイムトラベラー(1972)」ですが、本放送当時、最終回をオープンリールのビデオデッキに録画・保存されてる方がおられて、その一部(5分間程度らしいですが…)が放送されたそうです。私は…ビデオの予約時間を1時間間違えて「すずらん」を録画しました(いやはや…)。

いや、あるところにはあるもんですね。これで今後の「懐かし番組集合系」番組にはまた新たな楽しみが…

その一方特撮ファンには「ウルトラQ」や「ウルトラセブン」でお馴染みだった小田急ロマンスカー(3100型NSE車)が今年で引退との事。私、最近でも結構利用してただけに、ちょっと寂しいですね。7/17にダイヤ改正があるようなので、その辺りで消えるんでしょう。現在でもあんなに夢のあるデザインの車両ってちょっと見あたらないですね。さすがに車内のシートとかは狭くてあんまり快適じゃなかったし、いつの頃からか座席まで飲み物や軽食を運んでくれるサービスもなくなっちゃってたけど、やっぱり僕らのロマンスカーはアレでしょう(いやはや…)。どっかで保存してくれるのかな?あ、「ありあけ」の「ハーバー」ももう食べられない…




「アンギラス ていさつ してこい!」「OK、OK!」(1999.07.11)

第44話「宇宙怪獣大進撃」(脚本:武上純希 監督:根本実樹)

色々な意味で考えさせられるエピソードでしたね。タイトルと内容の乖離に関しては、まぁ確かにそれはあるんだけど、特撮シーンに限って言えば、再登場怪獣で安くあげた分、費用をセット関係に回せたみたいで(いやはや…)、久々に娯楽編かつ大盤振る舞いって感じで、個人的には結構楽しめました。いやぁやっぱり怪獣映画の魅力は建物破壊にありって感じですね(いやはや…)。ビルのひとつも壊せずして何が怪獣か!と、ワタクシ的には思っちゃうワケですな。2、3個ビル壊すだけで怪獣の印象ってこうも変わるもんかと、今回の映像観ながら改めて驚いた次第。長い尻尾はいいなぁ(いやはや…)。

まぁ色々問題はあったにせよ、最近のガイア、ようやっとではありますが、制作側の「描きたい事」ってのが、出てきてるんじゃないでしょうか?少なくとも以前より、自分達のやりたい事をやってるって感は強くなってる気がしますね。エピソード間の連携についても、徐々にではあるけれど改善されてきてるみたいですし。今回のストーリーなんかも、結構お子様を無視した理屈っぽい展開で、「いいぞもっとやれー」とか思っちゃいました(いやはや…)。相変わらずかなりの部分をセリフに頼ってるのは残念ですけれど…多分ウルトラマンが会話しちゃうとか、派手なタッグバトルとか、その辺でエピソードとしてのバランスをとる作戦に出たんじゃないでしょうか?

ま、最近の展開って、結構鬱々たる要素を含んでるんで、個人的にはちょっと苦手な部分はあるんですけど、ヒーロー番組の根源に迫る様なテーマが続出、制作側の問題意識も結構高まりを見せてる様で、ちょっと嬉しく思ってます。やっぱり問題意識のない処から良い作品って生まれないもんだと思うんですよね。

今回のエピソードも、完全に傍観者と化してしまう藤宮の扱いには不満があるし、すっかりウルトラ兄弟と化したガイアとアグルの会話バトル(さすがに「ガイア、変身だ!!」には「うさぎちゃん、変身よ!」を連想してちょっぴりヒイちまったワタシ)、げんなりしてしまったりとかは、まぁあるんですけど…ウルトラマンに神秘性がないってのは、最早正体が地球人だから仕方ないのかな?えーいもうしゃべれ、しゃべれ!、しゃべれ!!二人で漫才でも、ののしり合いでも何でもしろー!!(いやはや…)…っとまぁ、そんな感じでとやかく言ってはみるものの、根底にある熱気ってのには、やっぱり期待せざるを得ないと思うんですよね(いやはや…)。特撮ファンのかなしい性(サガ)ってヤツですかね。



今回はタイトル思いつかないので各自適当に考える事(となりの山田君風)(1999.07.18)

第45話「命すむ星」(脚本:古怒田健志 監督:原田昌樹)

なんかちょっとヘンな展開になってきた第45話。「ガイア」って「三大怪獣地球最大の決戦」なの(いやはや…)?あんまり「地球に住む生物が一致団結!」とか、声高にクローズアップしない方がいいと思うんだけど(いやはや…)。伝説のフェアリーでも出て来やしないかとドキドキでした(いやはや…)。

どうも古怒田脚本もすっかり「解説ゼリフの呪縛」に陥った様で…だって、普通他人にあんなに理路整然と自分の思いを打ち明けたりするかぁ?しかも語ってる内容は非常に抽象的(いやはや…)。それってとってもヘンな奴だぞぉ。「ガイア」の登場人物ってどいつもこいつもそんな奴ばっかりで、なんかうんざりです。キミたち、少しは黙りなさい(いやはや…)。

どうして何でもかんでも言葉で説明しないと気が済まないの?「ガイア」のエピソードに深みとか余韻とかがあんまり感じられない大きな原因は、全部しゃべっちゃう興ざめな登場人物にあり!

ストーリーとしては、それなりに緊迫感もあったし、盛り上がる展開ではあったんだと思うんですが…それにブリッツブロッツってあんまり好きじゃない(いやはや…)、デザインも性格もね。破滅招来体って結局悪の組織で、烏天狗は幹部クラスってコト?此処へ来てそういう展開って、なんだかなぁ…アグルのカラータイマー(ライフゲージ)むしったりするのもドロボンみたいだからやめようね(いやはや…)。アグルがペッタンコにならなくて良かったけど(いやはや…)。

元々弱点モロ出しで戦ってるのはお約束だから、そこを攻撃しちゃうのは最終回にしか使っちゃいけない禁じ手です(いやはや…)。あんなに戦闘に最適化されてるウルトラマンに、むき出しで点滅するカラータイマーが付いてる(しかもそこを攻撃されるとやられちゃう)なんて、元々不自然でしょ?その辺の矛盾を視聴者にあえて感じさせる様なコトしちゃイカンって。

なんか今回は全然ノらないんで、これ位で…

【おまけ】

谷崎潤一郎っていうと一般に格調高い純文学の大御所ってイメージが強いですが、結構怪奇小説っぽいものとか書いてるらしいです。「人面疽(じんめんそ・大正7年作)」とか、なんか非常にエグそうで、怖いものみたさで読んでみたい気はするんですが、夢みそうだなぁ(いやはや…)。この谷崎、大正期には映画会社の脚本部に籍を置き、映画の脚本を書いていたとも。脚本に関してはかのノーベル文学賞作家、川端康成も執筆経験ありとか…巨匠と呼ばれる作家達にも知られざる一面がある様です。




原始さんシンリョク!(1999.07.25)

第46話「襲撃の森」(脚本:長谷川圭一 監督:原田昌樹)

今田耕治ゲスト出演による、自然コントロールマシンシリーズ終結編(いやはや…)。この3部作は平成ウルトラには珍しく、おんなじテーマを複数のライターが分担して執筆する手法が取られてましたね。「地球の洗濯(第7話)」の吉田脚本、「熱波襲来(第28話)」の川上脚本、そして今回の長谷川脚本と、三者三様のドラマが展開されたワケなんですが、前2作って、篆書(てんしょ)体の文字ってキーはあるにせよ、実質的には独立エピソードに近い雰囲気でしたから、「シリーズ」って観点ではちょっと印象薄いのが残念ですけどね。

エピソードとしては長谷川脚本の持ち味がうまく発揮されて、安心して観ていられる手堅い仕上がり。「ガイア」に関しては、妙に奇をてらってしまう小中脚本より、安定感としては長谷川脚本の方が上といった印象もありますね。シニカルな味わいの「小中ギャグ」さえ腹中に取り込み、長谷川味のギャグに変化させて視聴者に投げ返しちゃう辺りは、まるでブリッツブロッツの様で怖いです(いやはや…)。他のエピソードとの連携って部分に、ようやく気を使い出した(…ってもう46話ですけどね)辺りも嬉しいし。

長谷川脚本の良さってやっぱり「分かりやすさ」でしょうね。登場人物が何を考えているのか分からないって状況が、長谷川脚本においてはあんまりない様に思います。一見単純そうに思えるけど、それってとっても重要な事なんですね。物語のシチュエーションが複雑になればなるほど、視聴者は自分の実体験からその状況を想像する事が難しくなります。結局自分の体験から想像できない言動に、人は共感できないですからね。ここ何話か、我夢が何を考えているのか良く分からない様な話があった事を思うと、そのシンプルさって大切ですよね。主人公の言動に共感できないストーリーって、シリーズ的には失敗でしょうから。

今田さんは結構熱演してたんじゃないかな?意外と(失礼!)演技はお上手でいい味出てましたね。

特撮は満留演出が快調。ガイア版「原始さん(注)」をうまく映像化してました。スティンガーとシンリョクの交戦シーンなんかはハイスピード撮影バリバリのスペクタクル爆発ショットが1カット位あると満足出来たんだけどなぁ(いやはや…)。やっぱりスティンガーのモデルはサイズが小さすぎるのか、重量感のある描写って殆ど無理みたいです。「空の大怪獣ラドン(1956)」のソニックブームで吹っ飛ばされて岩に激突するジープのミニチュアが、ワンカットしか登場しないのに実は1メートル以上の大きさの金属(ブリキと鉛だそうです)製で、ラジエーターから煙も吹く仕掛けを内蔵してて、二人がかりで岩に投げつけて撮影されたなんて故事を忘れちゃイカンですね(いやはや…)。殆ど硬直した動きなのが悲しいゾ。自転車倒したりとかのアイディア描写は好きなんですけどねぇ(いやはや…)。お願い、一度でいいから一抱え位あるサスペンション付きの地上メカ作って下さい(いやはや…)。絶対凄い効果が出せるはずだから。この辺りの描写は東映の佛田監督が心得てますね。

さてさて来週は特殊メイクの「恐怖の大王」が登場。おまけに最近めっきり安心できない(失礼!)右田脚本らしいし、破滅招来体がくれた怪しい幻覚ワインでみんな悪酔いしちゃうとか、ヘンな展開にならない事を祈るばかりナリ(いやはや…)。

【注】

原始さん:「ゲゲゲの鬼太郎(1971・カラー版)」の1エピソード(脚本:辻 真先・演出:白根徳重・作画監督:我妻 宏)。ダイダラボッチを連想させる巨人妖怪「原始さん」(どうやら環境を保全しようとする地球の意志が巨人の形を成したものらしい)が、自然を破壊する人間達の身勝手さに怒り、古代植物のタネを蒔いて東京中を太古の森林と化してしまう水木作品らしい文明風刺劇(基本的に「鬼太郎」は1971年版までは全エピソード原作付きである)。なお、「鬼太郎」は本放送中にリピートが行われた関係で、放送話数についてはリピート話数をカウントするかどうかで諸説あり、「原始さん」も第40話〔カウントせず〕、第45話〔カウント〕双方の記述がある。ちなみにこの1971年版では第5話「あしまがり」(脚本:柴田夏余・演出:高畑 勲・作画監督:森 利夫)が欠番扱いとなっている。

原始さん 原始さん 原始さん
特別付録:これが「原始さん」だ!(いやはや…)
いやぁ探したらありました、我が家のビデオライブラリーに(いやはや…)。十数年前にフジテレビで再放送された際の録画です。結構痛烈な文明風刺になってて今見てもストーリーとかは結構面白いです。社会派的視点って観点からみると、志の高さは今回の話より上かも(いやはや…)。いやぁ恐るべし辻 真先脚本(いやはや…)。

突如出現した原始さんはビルを壊し、大地を耕して種を蒔き、東京の環境改造を始めます(おおっ!)。美しい森林都市と化した東京を見て、やがて人々と原始さんは理解しあい、山手線の内側を森林都市として残す事で合意しますが、これを面白く思わないゼネコン企業の総帥はねずみ男をそそのかし、原始さんを山手線の外に連れだして防衛隊に攻撃させようとします。しかし人間の策略に気付いていた原始さんは鬼太郎の機転で難を逃れ、「環境破壊が進み、人間達が自然のありがたさに気付いたらまた来る…手遅れにならなければよいが…」という言葉を残し、静かに海に消えて行きます。原始さんが姿を消した後、人間達は森林都市が不便だと、再び元の喧噪に溢れた都市を再建してしまいます。人々はそれを「復興」と呼ぶのですが…




おおしま壊滅!(いやはや…)(1999.08.01)

第47話「XIG壊滅!?」(脚本:右田昌万 監督:北浦嗣巳)

いやぁすんません、録画失敗しちゃった(いやはや…)。右田脚本ガイア最後の輝きだったらしいんで残念ですね。展開的にも色々と激動があったみたいですけど、空中基地はどっかで酷い目に遭う運命なんでしょうか?やっぱり基地は地上に作んなきゃね(いやはや…)。

円谷の次回作は「快獣ブースカ」っすか。初代「ウルトラマン」とも共通項を持つハートウォーミングな初代ブースカの世界を、この変に現実主義的な世情の現代でどこまで継承できるのかは結構疑問ですけどね。予算はかかってないけど夢に溢れたストーリーって、子供の頃にどれだけ素敵な体験をしたかって部分で作れるかどうかが決まっちゃうと思いますよ。きっと「ガイア」のスタッフがスライドして行くんでしょうが、ファンタジーはシリアス以上に難しいぞ。手垢のついた陳腐なお子様ランチだけは作ってくれるなよ!!

…ってなワケで今週はこれにて(トホホ…)。



古怒田氏のコラムに関して(1999.08.03)


みなさんこんにちは。特撮に関心のある方なら、「ガイア」の脚本家であり、雑誌「宇宙船」の編集にも携わっておられる古怒田健志氏のサイト「コヌタラボラトリー」で去る8月2日、ネット上での作品評論のあり方に関わる意見が掲載されたのはご存じの事と思います。

直接的ではないにしろ、本コーナーのコメントの書き方が、古怒田氏の文中でいう処の「憤りを感じる」文章に抵触しそうなのは、作者としてもそこはかとなく感じる処があります。

個人的にはあくまでも出来上がった作品に関して、その作品から受けた印象についてコメントを述べているに過ぎず、別に脚本家諸氏の人間性や人格を否定しているつもりは毛頭ないのですが、確かに制作時に於ける事実関係を総て掌握した上でコメントしている訳ではありませんので、「勘違い」「穿った意見」と言われてしまえば反論のしようがないのもまた、事実であります。

脚本家に言及する際には自分なりにストーリーやセリフ回し等、脚本家の仕事の範疇と想定される部分に限る等、気をつける様にはしていたのですが、それとて作者の思い違いの可能性は否定しきれません。どのような形であれ、特定の個人がネット上で批判(ではなく「意見」として受け取って頂きたいのですが…)される状況は問題がありましょうし、事実を総て掌握していない視聴者が責任ある発言ができる訳もなく、制作者サイドから不快感を訴える意見が出た以上、このまま従来のスタンスでコメントを述べる事は作者自身としても甚だ難しい状況となりました。その様な次第で、誠に突然、かつ勝手ではありますが、本コーナーのコメント掲載は、今回をもちまして終了させて頂きたいと思います。

毎週ご覧いただいたみなさまには本当に申し訳ありませんが、個人的には現在のスタンスを貫けない様であれば、本コーナーの存在意義はないと考えています。中途半端な路線変更でお茶を濁して不本意なままコーナーを続けるのであれば、これを区切りとすべきではないかと考えた次第です。

ただ、古怒田氏も述べておられる様に、作品を批評してはいけないといった「事なかれ主義」的な風潮が横行してはならないと思います。そもそもこの様なコーナーを始めたのも当時多かった「あばたもえくぼ的感想」に、「この作品であなたは本当に満足なのか?」という問いかけをしたかったという部分があります(それは制作サイドに対してもです)。

個人的には「魂のない脚本に花は咲かない」と思っておりますので、勢い脚本に対して文句を付ける事が多くなってしまったのは仕方のない事かも知れません。作品として不満があるなら、それはどんどんネット上で公にすべきです。少なくともスポンサー以外の人々にとって、番組は玩具を売るために存在している訳ではないはずです。

その様な訳で、「ガイア」の最後までみなさまにおつきあいする事は出来なくなりましたが、これからは気楽な一視聴者として、この「大河ドラマ」の大団円を見守っていきたいと思います。

おおしま



その後の展開...(1999.08.06)


実は上のコメントを出した後、古怒田氏ご本人よりメールを戴きました。「憤りを感じる文章に抵触している云々…」の部分に関しては、作者の側に勘違いもあった様で、逆に古怒田氏にはすっかりご迷惑をおかけしてしまい、恐縮至極な状態となっております(いやはや…)。ただ、今回の件に関しては、「批評」と「誹謗」のあいまいな境界に作者の側も色々考えさせられる処があり、その辺りをもうちょっと考えたいと思います。上のコメントのままでは、またまたご迷惑がかかりそうなので、とりあえず現状報告まで。



本コーナーの今後の予定(1999.08.08)


いよいよ最終ステージに突入した「ガイア」ですが、最終4部作については各話コメントの形でなく、シリーズ完結後に総括的なコメントを掲載する事を考えております。しばらく夏休みをいただく形になりますが、どうかご了承くださいませ。



さらば平成ウルトラマン(1999.08.28)

第48話「死神の逆襲」(脚本:川上英幸 監督:北浦嗣巳)
第49話「天使降臨」(脚本:吉田 伸 監督:村石宏實 八木 毅)
第50話「地球の叫び」(脚本:小中千昭 長谷川圭一 監督:村石宏實)
第51話「地球はウルトラマンの星」(脚本:小中千昭 監督:村石宏實)

いやぁ、遂に完結しましたねぇ。さすがに1年間のシリーズをしめくくるラストエピソード、力の入った映像にはスタッフの意気込みがひしひしと感じられて嬉しかったですね。私も今月は視聴者に徹してましたんで、ちょっといつもより純粋に楽しめたかな?って気はしてます。やっぱりこういう作品、コメント書くために些末なツッコミポイント探しながら観る(まぁ、そんな見方をしてたってワケでもないんですが、潜在意識下ではきっと影響があるでしょうね)ってのは、邪道かなぁって気もします。

結局平成ウルトラ3部作(「ティガ」「ダイナ」「ガイア」)に関しては、全シリーズ何らかの形でコメントを続けて来た訳なんですが、近頃改めて、もっと全体の渾然一体感みたいな総合的な味わいを、気軽にミーハー的感覚で楽しむっていうのが、本来的な平成ウルトラの味わい方ではなかったか、なんて事を考えたりしました。ちょうどファミレスで日替わりランチ食べて、それなりに旨いなって感じる様な感覚。逆説的な言い方をしてしまうと、平成ウルトラに、ミクロな、情緒的な部分での味わいを求めるというのは、最早制作者側もあまり重要視していないんではないか、って事に改めて気づかされたというか…正直少し寂しい結論ではあるんですが…

「ガイア」はシリーズ開始時にドラマ的な視点を重視しているという様な情報が流れた(スタート時には、きっと制作側もそういう意図があったんだと思いますし、出来上がった映像を観ても、芝居的な充実度ってそこそこ高いシリーズだとは思いますが…)ために、勢いファン層の期待も高まったんだと思いますね。平成ウルトラの総決算的なシリーズになるだろうって事で。

にも関わらず、実際には物語細部の整合性だとか、シリーズの全体の論理的な組立てや、エピソードを越えた有機的結合の伏線挿入等々は、「ひょっとしたら」「もう少ししたら」と裏切られつつも淡い期待を抱き続けていた一部視聴者の想いをあざ笑うかの様に、最後の最後まで殆ど表面に現れず、結果的に「大河ドラマ」というふれこみに反して、枝葉末節のストーリーばかりが目立つ従来のバラエティ路線に終始してしまった。こういった部分の不満というのは、ファン層にも強かったと思います。下手にそういう充実を期待させられた分、落胆、不満は一層強烈なものになったと言わざるを得ません。一年間の放送を総括すると「シリーズとしてのきっちりした構成(=ストーリー重視)」と「複数ライター各人の個性を最大限に発揮した作劇」、「ガイア」はこの反目する命題にあえて挑み、その矛盾に最後まで苦しんだシリーズと言えるのでしょうか?…まぁあえて群衆ドラマとして設定された世界観による混乱という点にも、大きな要因はあると思いますが。ちょっと一遍にいろんな要素を消化しようとして、消化不良を起こしちゃったんでしょうね。

今回の最終作(一部には「XIG壊滅!?」以降という事で全5部作との見方もある))ですが、個人的には死神編はプロローグではあるかもしれないけど、最終編からは外したいですね。結構ストーリー的にも独立してるし、結局死神って最終的に破滅招来体とどう関係するのか、その辺りの図式が全く見えませんでしたしね。シリーズ全体を通しても何だか非常に異質な存在です。悪い言い方をしてしまうと、最終決戦の舞台を地上に限定させる事と、「人間ウルトラマン」の部分をもう一度視聴者に認識させるためだけの、極めて便宜的な存在という事も言えるでしょう。

さて、本題の最終3部作(以下ワタシ的にはこの呼び方で行きます)、何となく物語が不完全燃焼っていうか、イマイチ燃焼しきれなかった原因って、やっぱりウルトラマンと人間の関係ですね。この3部作、「人間ウルトラマン」の構造的限界を自ら露呈している辺りがなかなか複雑なエピソードなのですが…

第50話でKCBがウルトラマンの正体を放送してしまうとか、ウルトラマンが人間だと知って落胆する群衆、ウルトラマンの「正体」として我夢を追う取材陣等々、確かにこういうシチュエーションであれば当然発生しうる状況ではある訳なのですが、この瞬間(というか、もっと以前、コマンダーに正体がバレた時点と言っても良いかも知れないですが)ウルトラマンは非常に卑近な存在に成り下がってしまった訳です。こんなのを観たかった訳ではないと思うんですよ、みんな(まぁ非常にクールな現実主義的視点ではあるのかも知れないですが…)。

最後のエピソードって観る側も高揚した気分の中で大団円を迎えたいって願望はあると思うんですが、それすらも許されないんでしょうか?この一連の描写で冷や水かけられた様な気分になった方は多かったと思いますよ。

結局「人間ウルトラマン」の構成をとる以上、構造上この部分は避けて通れない点になる訳ですね。しかも平成シリーズの最終章では正体がバレた後の主人公と周囲の人々という図式にスポットが当てられる傾向が強くなっていた訳ですから、「ガイア」もこの呪縛からは逃れられなかったという事になるのでしょうか?今回、主人公とヒロイン(?)の別離という定番シチュエーションも、それなりに盛り込まれてはいた訳なのですが、結局主人公は異邦人でもない只の人間な訳で、片やヒロインの方も二転三転千変万化のストーリー流転の末、ついこの間くっつけられた急造ですから、切迫度も自ずから下がろうというもの。

ウルトラマンは人智を越えた神秘的な、超然たる存在であって欲しいというロートルファンの思いというのは、最早ウルトラマンには届かぬ想いなのかも知れません。「帰ってきた」でなんかだらしなくなっちゃった(失礼!)ウルトラマンは、平成の世においても、やっぱりそこら辺に住んでるみたいな、ちょっとでっかい気のいい兄ちゃんなのかなぁ(いやはや…)。やられてる時でもクールでカッコよくてこそ、私のウルトラマン像なのだが…幻想かな(いやはや…)?

まぁ、グダグダ書いてしまいましたが、その部分をのぞけば、今回の3部作、なかなか楽しめました。最終回の迫力大怪獣のパワフルな描写なんかはワクワクしましたしね。地球怪獣の力を得て再びウルトラマンになるという描写には、小中氏なりのアツい想いが感じられて嬉しかったし。第2期からウルトラマン物語、エイティ、さらには合作路線と、最早円谷プロにはかつてのトータルクオリティを求める事は不可能だと、個人的に思った時期もあったのですが、平成ウルトラはその不満をいい意味で裏切ってくれました。最新の技術でスケールアップした特撮や精緻を極めた怪獣造形等々、ファンの我々が享受できた新たな感動というのは多かった。その事でも復活した価値は十分にあったと思います。まだまだ映画の方がある様ですが、テレビはこれでしばらくお別れ。また新たなウルトラマンが我々の前に現れる日を期待しましょう。

物語のラストで我夢クンが使っていたのと同型のPowerBook1400にて記す

おおしま





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