RPGリプレイ小説 『ナイトメア・バスターズ』

夢心理研究会日誌 ファイルNo.3


ゴルディアス


原案:武田 明宏

脚色:東江戸川大学夢心理研究会

文章:恵紋 春人


プロローグ

 その部屋には、古い大きな掛け時計があった。
 数十年の齢を経ているその部屋よりもなお古く、しかしその機構は確実に動き続けている。
 深夜。二つの針が十二の所で重なる。
 しかし、深く響くはずの鐘の音は、ない。ただ、チッチッチッ、と歯車が空を切るノイズのみ。この部屋に眠る主人の、最後の安らぎを乱さぬように、鐘が止められているのだ。
 時計は、流れる時を刻む。
 いや、果たして本当にそうだろうか?
 果たして流れているのか、時は? もうすぐ止まる老いた生命にとって、それまで刻まれた時に、何の意味があると言うのだ?
 ここに休む老人こそ、その問いに対する答えを手に入れることを許された、数少ない選ばれた者だったはずなのだが。

 隣りの部屋には、親族と教え子たちが詰めていた。
 突如、叫び声が上がる。
「筆じゃ、筆を持って来い! 儂をアトリエへ…」
 その叫び声には、老人が若い頃、癇のきつい暴君として恐れられながらも慕われた頃の力を思わせるものがあった。
 驚いた親族たちが部屋に駆け込んだ時、目に入ったのは、老衰で首を持ち上げる力すら残っていないはずの老人が、床から半身を起こし、片手を虚空に伸ばし、そこにある筆を求めるような動作をしている姿だった。
 だが、老人の力は長く続かなかった。すぐに激しく咳き込み、老人の身体は再び床に倒れ込む。
 しかし、その落ちくぼんだ目は、なおも強く宙を見つめ、紙よりも薄く痩せこけた頬は張りつめ、口は何かを叫ぼうと動いていた。
「あのはなを…」
 その唇の動きを読み取れたのは、しかし、いち早く駆け寄った、一人の孫のみだった。
 老人は、息を引き取る。
 画家として、版画家として、美術教師として、花と自然を描くことに捧げた、九十八年の生涯の、終わりであった。
 そして、時計もまた、主人に殉ずるかのごとく、動きを止めた。

 明けて葬儀の日。
 親族たちが、老人の棺の中に、老人が愛した花たちを次々に捧げて行く。
 その中に、老人の最後の言葉を読み取った孫の姿もあった。
 しかし、全ての親族たちが老人に別れを告げ終えてから、最後に孫が棺の中に入れたのは、他の親族が入れた豪華絢爛な花々に比べると、どう考えてもそぐわない、何かの枝一本きりであった。
 枝の先に、キラリと何かが光る。それは木の実だったのか?
 だが、誰がそれに目を止めることもなく、棺の蓋は閉じられた。

第一章 版画

「…なーんか調子狂うんだよな…」
 妙にぼんやりした口調で、石見は呟いた。
「…うん…」
 亜梨沙も、気が抜けたような返事をする。
 石見のアール・グレイは、ほとんど口をつけられないまま、とうの昔に冷めきっていた。亜梨沙のアイス・ココアはと見れば、こちらはすっかり氷が融け切って、グラスの上の方で水の層になっている。
「…何かこう、手応えがないと言うか…」
「…うん…」
「…歯ごたえがないと言うか…」
「…うん…」
「…メリハリがないと言うか…」
「…うん…」
「でえーい、うっとーしいっ! 貴様ら、ちっとはシャキッとしろ、シャキッと!」
 黙っていた知場が、突然怒鳴った。
 しかし、それでも石見と亜梨沙の気の抜けた表情は直らない。
「そうは言うけどなあ知場、お前だって調子狂わないか?」
 知場は、ぐっと言葉に詰まる。
「いや、それは…」
 はあ。
 亜梨沙が、いかにもせつなそうに嘆息をついた。
「…紀田先生ったらさ、会議から帰ってから、ちっとも構ってくんないんだもん。つまんない」
 そう。彼らの沈滞ムードの原因は、紀田助教授だった。
 三人がこれほど暇を持て余すことなど、普通ならありえない。なぜなら、紀田が必ず現われて、
「『仕事』だぞ」
 無表情にそう告げるのが常だからだ。
 ここは彼らのたまり場、喫茶店『獏』…ここで、彼らは午後のひととき、やくたいもない駄話に興じ、そうこうするうちに紀田が現われて、平和な時間が終わりを告げる、というのが、いつものパターンなのだった。
 ところが、ここ数日、それがないのである。
 三日ほど前、『国際雑学会議』、略称ICA(International Conference of And so on) の臨時総会から帰って来た紀田助教授は、妙に忙しそうだった。
 そして、三人の顔を見ると、
「依頼人が来たら、『獏』へ行くように伝える。お前たちは『獏』で待ってろ」
 それだけ言うなり、何かを懸命に調べたり電話を掛けたりしている。
 それでは、と三人は、特に事件大好き娘の亜梨沙は、暇さえあれば『獏』へ来て、うだうだと時間を潰しているのだが、待てど暮らせど肝心の依頼人が現われないのである。日頃好き好んで『仕事』をしているワケではない知場や石見であったが、いざそれがまるでないとなると、妙にしっくり来ないのだった。
「…なーんか調子狂うんだよな…」
 妙にぼんやりした口調で、石見は呟いた。
「…うん…」
 亜梨沙も、気が抜けたような返事をする。
 振り出しに戻った。
 コロン。
 少し篭ったベルの音が響いた。
 三人は一斉に振り返った。そして、がっかりした表情になった。入ってきた客は、石見たちが会ったこともない男性客で、紀田ではなかったからだ。しかも、石見たちに依頼がありそうな、困り切った、あるいは焦燥したような様子がまるで見られない。身なりといい雰囲気といい、どれを取ってもどこぞの金持ちのボンボンといった感じで、何の悩みもなさそうに見える。
 三人は、再び座り直した。
 だが、客は三人の方を見ると、スタスタと歩み寄り、声を掛けてきた。
「失礼ですが、東江戸川大学夢心理研究会の方々ですね?」
 三人の目の色が変わる。
「ひょっとして、御依頼ですか?」
 妙に気合いの篭った声で、石見が聞く。男は頷いた。
「紀田先生にうかがったら、こちらということでしたので…」
 石見と知場、それに亜梨沙は、無言で掌を打ち合わせた。
「失礼ですが、お名前は?」
「あ、申し遅れました。私は、皆さんと同じヒガ大の学生で、武田明宏と申します」
 名乗って、武田は慇懃に一礼し、三人の座っていたテーブルに着いた。スラッとしたスタイルの結構ハンサムな男で、態度や物腰は柔らかいが、それがかえって鼻につく。ハッキリ言ってしまえば、キザなヤツだ。
「私は現在ヒガ大の四年生で、工学部化学史化学哲学科に在学していますが、まあそっちは趣味みたいなもので、将来はフルート奏者として身を立てようと思っています。まあ、私自身のことはともかく、依頼の話を致しましょう。
 私の祖父は武田由兵衛と申しまして、岐阜高山の生まれで、雅号を由平という版画家でした。非常に頑固かつ厳しい人ではありましたが、よい意味での芸術家でした。祖父は去年亡くなりましたが、今わの際に申したことが、『絵筆を持って来い、あれを描かにゃならん』というもので、いかにも一生を芸術に費やした者の最期の言葉として、悲しい中にも私は祖父のことを誇りに思ったものです。
 その祖父が晩年よく口にしていた言葉が、『金の花の絵が宝のもとじゃ』というものでした。しかし祖父の死後、アトリエを調べたのですが、金色を使用した版画は見つかりませんでした。
 ところが、昨日のことです。ちょうど祖父の一周忌を迎えたので、遺された版画を整理しようと額のひとつを開くと、裏板との間に別の版画が隠されていたのです」
 そう言って武田は、一枚の版画を取り出した。
 三人は我勝ちにその版画を覗き込む。
「…なるほど、確かに金ですね。ただ、花というよりは実のようですが。これは何の植物だか、お判りですか?」
 石見が言う通り、それは何かの植物に、金色の実がなっている様を描いたものと思われた。だが、武田は首を横に振る。
「いえ、申し訳ありませんが、そこまでは…しかし、これ以外に金を使った版画が見つからない以上、おそらくこれが祖父の言っていた『宝のもと』であることは疑いもありません。ですが残念ながら私には、その謎が解けません。もちろん、版画としてこれを売れば何百万かの金にはなりますが、そんなはした金では、とても宝などとは呼べません。
 そこで、あなた方を学内一の謎解きのプロと見込んでお願いします。この謎を解いていただけませんか?」
「謎解きのプロ…ねえ…」
 石見は知場と顔を見合わせた。
『こいつ、俺たちを何だと思ってやがるんだ? おまけに何百万円が「はした金」だって…?』
 だが、武田はそんな二人の思惑を無視して続けた。
「もし宝が金銭的な物だった場合、その半分を報酬として皆さんにお支払いします。もし芸術的な品だった場合は、経費プラス百万円をお支払いして、発見した物は私が管理します。どうでしょう、この条件でお願いできませんか?」
 その時、近くをウエイトレスが通りかかる。
 石見と亜梨沙の眼が、あることに気づく。
 だが、そのことはお首にも出さずに、石見は知場と亜梨沙の顔を平然と見比べた。
「亜梨沙ちゃんの答えは顔に書いてあるからいいとして、知場、お前はどうする?」
 無表情に知場が答える。
「いいんじゃないか?」
 石見は武田の方を向き直った。
「承知しました。お引き受けしましょう」
 途端に武田の表情が明るくなった。
「そうですか! いや、ありがとうございます! あなたがたならきっとこの謎を解いてくださるに違いありません。よろしくお願いします。それではまず前金として…」
 いきなりバッグから札束を取り出そうとする武田を、石見は遮った。
「ただしお断わりしておきますが、我々は決して金で動いてる訳ではありません。特にぼくは、謎そのものに興味があるだけです。ぼくに関しては報酬は無用。必要経費さえいただければ、それで結構です」
 知場と亜梨沙が、早速文句をつける。
「おい石見、勝手に決めるなよ」
「そうそう。もらえるもんはもらわなきゃソンよ」
 石見は苦い表情になった。
「亜梨沙ちゃんも天下の大財閥、瀬賀コンツェルンの御令嬢の割にはいじましいんだから…いいさ、勝手にしろ。ともかく、俺は要らん」
 武田は三人の会話の様子を見計らっていたが、再び口を開いた。
「まあそうおっしゃらずに、どうか遠慮なさらず受け取ってください。まずは当座の経費として、五十万置いて参りますので」
 武田は結局、金を取り出した。そしてそれをテーブルの上に、ポン、と無雑作に置くと、そのまま立ち上がった。
「版画も、このままお預けしておきますので、ご存分にお調べになってください。それでは、よろしくお願い致します。ああ、それから何か解りましたら、こちらに知らせてくだされば結構ですので」
 そう言って、武田は名刺を取り出し、石見に渡した。
 この名刺ひとつ取っても、紙の質といい印刷といい、一介の学生が持つ名刺ではない。金がかかっているのだ。
 うんざりした表情で、石見は名刺を受け取った。
 武田が店を出て行ったのを見届けてから、三人は顔を寄せ合った。
「ちょっと変なことに気がついたんだけど」
 石見が言うと、亜梨沙は驚いたような顔をする。
「あれえ、石見さんも? あたしもよ」
 ただ一人だけ、知場はキョトンとした。
「なんだなんだ? 俺は何も気づかんかったが」
「いや、武田君の側をウエイトレスが通った時、ウエイトレスの持っていた皿の上のフォークの先端から、武田が目をそむけたような気がしたんだ」
「え、フォーク?」
 今度は亜梨沙がキョトンとする。
「違うのかい?」
 石見が聞くと、亜梨沙は頷いた。
「うん、石見さんが気づいたのとは違うみたい。あたしが気づいたのはね、やっぱウエイトレスさんが通った時なんだけど、ウエイトレスさんがケーキを持って通ってったら、武田さん顔をそむけてたみたいよ」
 知場は首を傾げた。
「フォークにケーキ? それから目をそらしたからって、どうしたってんだ?」
 石見も考え込む。
「いや、どうって…だから彼は、尖端恐怖症で甘い物が嫌いだということじゃないのか?」
「それで? それが何の役に立つんだ?」
「あ?…そりゃまあ、そうだが…」
 知場は面倒臭げに言った。
「まあ、んなこたどうでもいい。ともかくとっとと図書館にでも行って、岐阜高山の事とか版画の植物の事とか、いろいろと調べてみようぜ」
「図書館って、どこの図書館に行くの?」
「どこって、そりゃ普通、ヒガ大の…」
「いや、あそこはまずい。『ピグマリオ』の事件で、俺たちは目をつけられてるからな。下手にまた行くと、何をどう疑われるか解らんぞ」
 石見の言葉に、知場も亜梨沙も頷いた。
「うむうむ、それは言える」
 続けて、亜梨沙が言う。
「じゃあ、どこへ行く気なの、石見さん?」
 石見は腕組みをした。
「そうだなあ…ま、ノーマルに考えて、情報が一番しっかりしてそうな所といったら、やっぱり国会図書館しかないだろう」
「決まりだ」
 知場は短く結論した。



 三人は『獏』を出て、その足で国会図書館へと向かった。
「さて、まずは何から?」
 植物事典を調べてみたところ、版画のモデルではないかと思われる植物は見つかった。知場が読み上げる。
「和名、イノチグサ。学名はゴルディアス・セマントロニクス、英名はリヴァーブレイドか…。『ササ科。一年生の常緑草目。主に温帯地方に生え、日本では本州山間部に自生する。その実には軽度の強壮効果がある為、すり潰して漢方薬として使用される。但し、その周辺の地力を枯らしてしまうので、栽培には向かない。変種多数。』だとさ」
 石見が考え込む。
「イノチグサ、か…何とも不思議な名前だな。しかし、自生地が本州山間部ってことになると、可能性としては…」
「岐阜高山か」
「それだな」
 岐阜周辺の地図、それに岐阜県の名所や有名人などを記した県別事典を引っ張り出す。
「この版画に図形的な意味があるとすれば、単純に考えれば地図…だよな?」
 石見の問いに、知場は頷く。
「とりあえず、岐阜の地形と重ね合わせてみるか」
 武田から預かった版画を、いろんなサイズに拡大したり縮小したりしてコピーし、岐阜の地図と重ね合わせてみる。
 うまくいかない。
 縦にしても横にしても斜めにしても、これはと思えるほどピッタリ重なる地形は、ひとつも見当たらないのだ。
「おかしいな…」
 知場は首を傾げる。
「ダメだ」
 一人で県別事典をめくっていた石見がネを上げた。
「伝説とか昔話の類が残っていれば、手掛りぐらいにはなるんじゃないかと思ったんだが、それはないらしい。やはり、その版画だけが頼りってことか」
「ねえ、ひょっとしてそういうんじゃなくて、版画そのものに何か仕掛けがあるんじゃない?」
「うーむ…ダメでもともと、やってみるか」
 ダメだった。
 さすがにあぶり出しは万一のことがあると怖いのでやらなかったが、陽に透かしてみたり、紙を横から眺めたりしてみたものの、何も仕掛けがあるようには見えない。
「やっぱ、違うな。これはその手の謎じゃない。これは地図だ、それは間違いないと思う。ただ、何か引っ掛けがあるんだ。それさえ判れば…」
 だが、その引っ掛けの鍵が判らぬまま、閉館時間は刻々と近づいていた。途方に暮れて、三人は版画を眺めた。
 その時、なおもじっと版画だけを見つめていた知場は、ふと気づいた。
「この『由平』って雅号、縦書きにすると左右対称なんだなあ………あ!」
「それだ!」
 石見も思わず叫ぶ。
「版画は裏返しに印刷されるものなんだ!」
「だとしたら地図も…!」
 慌てて版画のコピーを裏返しにし、手描きでトレースする。
 トレースし終えるのももどかしく、岐阜高山周辺の地図と重ねて比べてみる。
 植物の茎の形と、川の流れの形とが、ピッタリ一致する。
「正解!」
「やったね!」
「すぐ武田君に知らせよう!」
 閉館時刻ぎりぎりの図書館を飛び出して、近くの公衆電話から知場が電話を掛けると、すぐに武田明宏が出た。
 まず、謎が解けたことを知らせる。嬉しそうな声が返って来た。
『そうですか、それはよかった! ありがとうございます!』
「それで、我々は明日にでも岐阜高山へ向かおうと思ってます」
『そうですか、でしたら幸い明日は土曜ですし、私も御一緒しましょう。JRに話を通して、列車の手配をさせます。時間はいつにしましょう?』
「時間をどうするか聞いてるが」
 知場は二人の方を向く。
「早い方がいいだろう。朝イチの新幹線だったら東京駅を午前六時発だと思うが」
「六時ぃー? そんなに早起きすんの!?」
 亜梨沙がぼやく。知場は無視した。
「朝一番の新幹線をお願いします」
『判りました。そうすると、ええと…午前六時ですね』
「それと、向こうではかなり歩き回ることになると思いますんで、山歩き用の装備一式を人数分、お願いします」
『はい』
「ついでにレンタバイクも頼んでくれ」
 石見が割り込む。
「OK。それから石見がレンタバイクの手配を頼むそうです」
『お安い御用です』
「それではまた明日の朝」
 知場は電話を切った。
「これで明日は岐阜高山行きだな」
「ああ、何だかワクワクするな」
「旅行かあ…しかも宝探し。うーん、ロマンチック! あたし、ドキドキしちゃう」
 暇だった反動のせいか、亜梨沙は妙にはしゃいでいた。
「とりあえず、明日は早いんだ。帰ってとっとと寝ちまって、明日に備えよう」
 知場の意見に、石見も頷いた。
「そうだな。亜梨沙ちゃん、はしゃぐのはいいけど、今夜はちゃんと早く寝るんだよ」
「はいはい、解ってます」
「じゃ明日、東京駅で」
 三人はその場で解散した。
 そして、その夜は三人の誰もが、それぞれ思い思いに明日の事を頭に描きつつ眠りについた。平和な眠りに…

第二章 罠

 翌朝、午前五時四十五分。文句を言っていた割にはキッチリ現われた亜梨沙を含め、三人は東京駅に揃っていた。
「やあ、お待たせしました」
 武田が現われる。
「切符は既に用意してあります。全席グリーン車を取っておきました。どうぞ」
 武田が三人に差し出したのは、袱紗だった。
『どういう趣味だ? 今どき袱紗とは』
 知場は腹の中で呆れたが、無表情に受け取った。
「どうも」
 受け取った袱紗の紐をほどこうとする。
「あれ?」
 ほどけない。
「おかしいな…よっ…はっ…とっ…このっ…あれ?」
 いくらやっても、いや、やればやるほど、結び目はいよいよこんがらがって、固くしまっていくばかりだ。
「あ、すみません。私のは、すぐ結び目が固くなるくせがあるんですよ」
 武田が袱紗を引き取る。その指先が目にも止まらぬ早さで動く。
「どうぞ」
 どこをどうひねくったのか、一瞬にしてあっさりとほどき、武田は改めて切符を知場に渡した。知場は目を白黒させながらそれを受け取る。
「ど、どうも…」
『何なんだ? 今のは』
 急に亜梨沙が声を上げた。
「あれっ? あの人、確か…」
「どうした?」
 亜梨沙が気づいて指差した方を、石見は見た。
「…馬場さん?」
 『タンタロス』事件の依頼人、馬場きみこが、なぜか東京駅に現われたのだ。どうやら身体も以前の調子を取り戻したらしく、すっかり健康そうな様子である。
 馬場きみこはニコニコ笑いながら三人に近づいて来た。
 相手が近づいて来たのを見て判ったのだが、その視線はなぜか、石見を中心に捉えている。しかも、ほとんど動かない。
「紀田先生におうかがいしたら、今日みなさんでどちらかへ旅行なさるということだったので…これ、みなさんで召し上がって下さい」
 そう言って、馬場きみこは持っていた箱を石見に手渡す。その視線が妙に熱っぽい。それに比べて石見が受け取った箱は、ひんやりと冷たかった。中身は何となく想像がつく。
「は、はあ、どうも、ありがとうございます」
 困惑した表情ながらも、石見は箱を受け取った。
「みなさん、そろそろ乗らないと…」
 馬場きみこが現われた時に、少し三人から離れていた武田が、声を掛ける。
「それじゃ、失礼します」
 三人は馬場きみこに挨拶すると、足早に新幹線の乗降口に向かった。
「行ってらっしゃーい!」
 馬場きみこは三人の後ろからしきりと手を振った。
「ずいぶんとモテるようになったもんだなあ、え、石見? 手のひとつも振り返してやらんでいいのか? こぉの色男が」
 知場がひやかす。石見は本当に困った顔をした。
「勘弁しろよ! 俺は…」
 言いかけて石見は口ごもる。
「ん? 俺は、なに?」
 亜梨沙が聞きとがめた。
「あ…いや、別に。ただ、馬場さんにはボーイフレンドがいるんだし、向こうもそういうつもりじゃないだろう」
「どうだかなー。あの様子は、すっかりお前に乗り換えたって感じだぜ」
「しつこいぞ、知場!」
 石見は知場を睨みつけた。
 その眼が本気だ。
 思わず知場はたじろぐ。
「か、軽い冗談だろうがよ。そんな本気で睨むなって。解った。オレが悪かった!」
 石見はしばらく知場を睨み続けていたが、やがてプイと視線をそらし、そのまま新幹線へサッサと乗り込んだ。
「…あーおっかね。よっぽどデブ…あ、いや、馬場さんが嫌いなのかねえ…」
 知場がため息混じりに言う。
「どーだか。あれは他に理由ありと見たね」
 亜梨沙がすまして言う。
「他にって?」
「さーね」
「さーね…って、おい、亜梨沙! 教えろよ!」
 さっさと乗り込む亜梨沙の後を追うように、知場も乗り込んだ。少し間を置いて、その後ろでドアが閉じる。
 新幹線はホームを滑り出した。



 切符の座席番号を見ながら、知場が席を探してそこへ行くと、石見たちは既に座っていた。空いている席に知場が座ると、亜梨沙が石見に言った。
「ね、それ、何が入ってんだろ? 早く開けてよ」
「えっ、これ?」
「そ。まあ、馬場さんのことだから、大体想像はつくけどさ。だったらなおさら、早い方がいいんじゃない? せっかくだから、みんなでいただいちゃいましょ」
 石見はちょっと考えたが、何も言わずに箱にかけてあったリボンをほどき、箱を開けた。
「…やっぱり」
 亜梨沙は呟いた。
 大方の予想通り、中身はとっても甘くておいしそうなパイである。
「ぱ…パイ…パイはこわいよぉぉぉぉぉ!」
 知場が突然、叫び出した。
「いかん! 発作か!?」
「ぱ…パイは…むしり取った衣笠だ。食おう」
「へ?」
 呆気にとられた石見と亜梨沙を尻目に、知場はパイに手を伸ばす。
「うおおおお、パイなんか、パイなんか食ってやるー!」
 恨み重なるパイを、知場はむさぼるように食い始める。
 石見は呆れ顔で呟いた。
「なるほど…『まんじゅうこわい』だったか」
「意外と早く立ち直ったわねー。あ、こら知場さん、あたしの分残しといてよね」
 亜梨沙も肩をすくめたが、すぐに自分もパイに手を伸ばし、パクリと頬張った。
 眉をひそめて武田が聞く。
「パイに何か、暗い思い出でも?」
 知場はパイを食う手を…もとい、口を休め、遠い目をして呟いた。
「ええ、ちょっと…すごく。顔面に食らったことがありまして」
「ほお…そうですか。それは何とも…お気の毒に」
 よほど知場の話がおかしかったのか、武田は口許を両手で押さえて笑いをこらえている様子だ。知場は仏頂面をして、武田にケーキを勧めた。
「あんたの分もあるようだから、ひとつどうです?」
「いえ、私はダイエットしてますから」
 武田はさりげなく断る。その間も、口許を押さえた手は離さない。
『どうもあやしいな』
 知場はよほどパイを武田の口許に突き付けてやろうかと思ったが、さすがにやめた。
「ウッ!」
 亜梨沙が突然、喉元を押さえた。
 その額に汗がにじみ、顔に苦悶の表情が浮かぶ。
「どうした!?」
「クッ…」
 何も言わずに席を立ち、駆けて行く亜梨沙。
「つわりか?」
 知場がそれを見送って言う。石見が眉をひそめた。
「…冗談が悪質すぎないか?」
 だが、亜梨沙はすぐに戻ってきた。
「あー、苦しかった」
「大丈夫? 亜梨沙ちゃん」
 まだ少し心配そうな石見に、亜梨沙は笑顔で答える。
「うん、だいじょぶだいじょぶ。パイが喉につっかえただけだから」
「ずるっ…あのね」
「いやー、せめて牛乳でも買ってからにすればよかったわ」
 亜梨沙はケラケラと笑った。



 しばらくすると、ビュッフェが開いた。
「よぉーし、今度は本番の飯だ」
 知場が即座に立ち上がる。
「行きましょうか。武田君も、何も食べてないでしょう?」
 立ち上がりながら石見が言うと、武田は頷いた。
「御一緒します。もちろん、食事代は私が持ちますので、御遠慮なく」
 ビュッフェに入ると、あまり客は混んでないようだった。
「あたし、和風の朝食セット!」
「俺も」
 亜梨沙と石見が続けて言う。知場は一人だけ別のものにした。
「オレは、洋風」
「武田さんは?」
 亜梨沙が聞くと、武田は首を横に振った。
「いや、私は朝は食べない習慣なので、コーヒーだけ」
 知場が洋風を頼んだのには、訳があった。
 昨日、石見から聞いた、『フォークの尖端から武田が目をそむけた』という話を、自分の目で確かめたかったのだ。
 だが、考えることは皆同じらしかった。
「ところで武田さん、岐阜に行ったことあります?」
 言いながら亜梨沙は、箸の先を武田に向ける。
 武田は目を窓の外に向けて答える。
「ええ、小さい頃、祖父に連れられて、何度か」
「どんな所です?」
 今度は石見が同じことをする。
 武田は窓から目を動かさない。
「素敵な所ですよ。合掌造というんですが、古い家並みが立ち並んで、何とも言えない雰囲気のある所です」
『ふうーん…』
 確かに、武田は顔をそむけているようだ。
 やがて、新幹線は名古屋に着いた。ここから乗り換えて、岐阜へ向かうのだ。
「まだちょっと時間があるな」
 時計を見て、石見が呟く。
「よおし、本場のきしめんでもガーンと食うか!」
 知場の言葉に、武田が目を丸くした。
「またお食べになるんですか?」
「いけませんか?」
 振り返った知場に、武田は慌てて首を横に振った。
「いえ、別に」
「ほう。ならば当然これも、出していただけるんでしょうな」
 知場は平然と言う。武田も今度は頷く。
「ええ、それはもちろん」
 それでは、と一同は駅構内の立ち食いそば屋に行った。
「おいしーい!」
「さすが本場もんはコシが違う」
 亜梨沙と知場は、きしめんをうまそうに食っている。だが、石見は一人だけ首を傾げる。
「そうかあ? いつも食ってるのとそんなに変わらない気がするけど」
 武田はやや呆れた様子で、三人を見ている。
 やがて乗り換えの列車が到着した。一同は乗り込み、いよいよ岐阜高山へ近づいて行く。
 高山へ入る少し手前で、列車は『宮トンネル』という名のトンネルに入った。
 窓の外が暗くなる。
 暗い。
 暗い。
 長い。
 長い。
 長すぎる…
「このトンネル、こんなに長いんですか?」
 知場が聞く。
「いや、これは…」
 武田が答えようとした途端。
 あたりが闇に包まれる。
 車内の電気が、一斉に消えたのだ。
「何っ!?」
「どうしたの!?」
「♪はっぴばーすでい、つーゆー…」
「知場っ! ふざけてる場合かっ!」
「いや、緊張感に耐え切れず、つい…」
 バカをやっているうちに、やがて灯りが点き、あたりに明るさが戻った。
 だが。
「おい、何だ、あれは?」
 石見が指差した先にあった灯りの元は…
「…ランプ?」
 そこにあったのは電球でもなく蛍光燈でもなく、油で灯るランプだった。
「…武田は?」
 知場はハッとして、あたりを見回した。
 武田の姿は、ない。
 武田だけではなかった。他の乗客の姿も、一人も見当たらない。まるで煙となってしまったかのごとく、忽然と車内から消えている。
「いや、それよりもここは…いや、これは一体何なんだ? 少なくとも、俺たちが乗っていた列車でないことだけは確かだが」
 石見の言う通り、車内の様子が一変していた。
 板張りで、古ぼけていて…
「…おい、こりゃSLだぞ!」
 知場が叫ぶ。
 そればかりではなかった。
「知場、何か感じないか探ってみてくれ」
 あたりを警戒しながら、石見が言う。
「おう」
 石見の要求に応じて、知場は精神力で気配を探った。
「…ここは、夢…誰かの夢の中だ」
 石見は本格的に身構えた。
「気をつけろ…何が出て来るか判らない」
 そう言って、石見は印を結び、口の中でぶつぶつと呪文を唱え始めた。
「…我が不屈なる鋼の魂よ、刃となりて我が手に…いでよ、タケミカヅチ!」
 石見の両手が、ぼおっ、と光を放ち、次の瞬間、その手にはきらめく日本刀が現われる。一方、亜梨沙も精神集中を試みた。
「…闇を照らす光を下さい…懐中電燈、出ろ!」
 亜梨沙の手には、大きめの、単一電池八本くらいで使うタイプの懐中電燈が現われた。亜梨沙はすぐにスイッチを入れて、それを窓の外へ向ける。
 だが、何も見えない。真っ暗だ。
「他の車輌の様子を見てみよう」
 石見はまず、後ろを見に行った。が、すぐ戻ってきた。
「この後ろには車輌がつながってない。つまり、今俺たちが乗っているこの車輌が、列車の最後尾というわけだ」
「じゃあ、前は?」
 恐々といった様子で亜梨沙が問う。
「行ってみるか」
 三人は十分気をつけながら、ゆっくりと前の車輌につながる扉に歩み寄った。
 知場が扉に手を掛ける。
「開けるぞ」
 一気に開く!
「…この車輌も無人か」
 少し緊張を解いて知場は言った。
「油断禁物だぞ。もうひとつ前を見てみよう」
 さらに前の扉を、開ける。
 そこには既に客車はなかった。
「なんだ、もう先頭の機関車か…ぶわっ!」
 知場が突然、奇妙な叫び声を上げた。
「知場さん、どうしたの!?」
 慌てて亜梨沙は知場の方を懐中電燈で照らす。
 懐中電燈の明かりに照らし出された知場の顔を見た途端、亜梨沙と石見は吹き出した。
 蒸気機関車の煙突が吐き出す真っ黒な煙が、知場に吹きつけられ、知場の顔が真っ黒に染められてしまったのだ。
「パイで真っ白の次はすすで真っ黒か…お前もよっぽど化粧好きなんだな」
 やっとの思いで笑いをこらえながら、石見は言う。
「やかましいわ、このイヤミ信介が!」
 腕で顔を拭いながら、知場がやり返した。どうやら前回の学習効果はないらしい。腕も煙で汚れてるんだから、そんなんで拭ったって無駄だってのに。
「ええい、いまいましい機関車め! こうなりゃ火を消してくれる! 消火器、出ろ!」
 知場はいきなり消火器を『製作』した。
「ちょ、ちょっと知場さん、いくら汚されたからって、そんな機関車に八つ当たりしなくても…」
 亜梨沙が慌てて止めに入ろうとする。
「だれが八つ当たりなんぞしとるか! ただこのままじゃ、どこへ連れて行かれるか解らんだろう。だから列車を止めてやるだけだ!」
 知場は消火器を構え、石炭の燃え盛る釜に向かって放出した。
 一瞬、消火器の泡に抵抗するかのごとく、炎はゆらめき、もがいた。しかし、それは空しい抵抗だった。瞬くうちに炎は泡に押さえ込まれ、包まれ、やがて消えた。
 それと同時に、機関車はゆっくりと速度を落とし始めた。徐々に、徐々にそのスピードは下がり…ピタリと止まった。
「…よし、まずオレが降りてみる。お前たちはちょっと待ってろ」
 言うが早いか、知場は下に飛び降りた。
 線路に敷き詰めてある砂利に足を取られてちょっとバランスを崩し、知場は危うくコケそうになった。しかし、何とか踏みとどまってあたりに気を配った。
「…大丈夫だ。降りていいぞ」
 続いて石見、亜梨沙が機関車から飛び降りる。こちらはコケそうな様子も見せず、すんなりと地面に降り立った。
「…で、どうする?」
 石見は知場に聞く。知場はちょっと驚いた。
「オレが決めるのか?」
「今回に関しちゃ、最初っからお前が謎解きの主役だったろ? どうも今回は、お前の方が俺より冴えてるような気がする。判断は、まかせるよ」
 妙に謙虚なことを言う石見に不気味なものを感じながらも、知場は考えた。
『謎は後ろにはない』
「前進だ」
 知場は、列車が進んでいた方に向かって歩き出した。石見と亜梨沙も、すぐ後に続く。
 しばらく歩いていると、やがて前方に光が見えてきた。
 光は次第に大きくなり、やがて視野一杯に広がる。
 知場は目を細めた。
 明るさに目が慣れると、知場はあたりを見回した。
 表の風景は、現代のものとは思えなかった。
 恐らく、SLが走っていたのと同じ時代…大正末期か昭和初期、少なくとも戦前の風景であることは間違いない。そして、線路の向こうの盆地に、合掌造りの家々が立ち並ぶ村落らしきものが見える。
「とりあえず、あの集落に行ってみるか」
 知場は振り返り、石見に言う。石見は肩をすくめた。
「まかせる、と言ったろ」
 三人は、集落に向かって歩き出す。
 突然!
 地表を突き破って何かが飛び出す。
 かわしきれずに、知場はすっ転んだ。しかし、すぐに立ち上がる。
「な、何だ!?」
 突き出してきたのは植物の茎らしい。
 一本、二本、三本…次々に突き出してきた植物は、三人を完全に取り囲む。
「な、何よこれ!?」
 亜梨沙は思わず後ずさる。
 ポキポキ。
 足許で、乾いた音がした。
 思わず三人は足許を見る。
「キャアアアア!」
 亜梨沙が悲鳴を上げた。
 骨。
 無数の人骨が落ちている。
 三人を取り囲んだ植物から枝が伸びて、シュルシュルとこすれ合いながら、三人を絡め取ろうと、まるで無数の蛇のように伸びてくる。
「一体これは、どういうことなんだ!?」
 石見はタケミカヅチを構えたまま、叫んだ。
「知るか! とにかく脱出するぞ!」
「植物なら焼き払えば何とかなるかも…松明、出ろ!」
 亜梨沙は火のついた松明を作った。
「なるほど、ならば…焼酎、出ろ!」
 亜梨沙の松明を見て、知場はとっさに焼酎の一升ビンを作り、中身を植物に振り掛けた。そこへ、知場の意図を察した亜梨沙が、火を放つ。
 一瞬、植物は燃え上がった。
 しかし。
『雨よ、降れ』
 どこからともなく声が響き、降り出した雨に火は消されてしまう。
「…何だ、今の声は?…うわっ!」
 声に気を取られたせいか、知場は枝に腕を取られた。
「このっ!」
 力任せに引っ張る。が、切れない。
 石見が駆け寄り、切る。知場は腕の自由を取り戻した。
 石見が枝を切り裂いたために、わずかに穴が開く。
 その向こうに、人影があることに、知場と石見は同時に気づいた。
 武田明宏。
「武田君!」
 伸びてくる枝を剣で払いながら、石見は声を掛ける。
 だが、武田は答えない。
 ただ、高々と笑うばかりだ。
 その時、三人は初めて気づいた。あまりにも遅かったが。
「! 罠だったのか…!」
 石見は唇を噛んだ。
「ぐっ!」
 またも知場が絡め取られた。しかも今度は全身をぐるぐる巻きにされ、身動きならない。
「スコップ、出ろ!」
 亜梨沙はスコップを作った。植物を掘り起こそうというのだ。
 だが、伸びてくる枝に脚を取られてしまい、動きを封じられる。そればかりではない。
 ビュルッ!
「あっ…」
 亜梨沙の身体がよろけた。急激に顔色が悪くなっている。
「こ、こいつら血を吸うわ…気をつけて!」
 足に巻きついた枝をスコップで切り払いながら、亜梨沙は叫んだ。
 石見が呪文を唱え始めた。
「我が内なる熱き怒りよ、炎となりて邪悪を討て…」
 タケミカヅチを呼ぶ時のとは明らかに違う。知場も亜梨沙も、聞いたことのない呪文だ。
 石見の手がぼおっと光る。白い光は、やがて赤く染まり、燃え上がる。
「…羅炎(ラエン)!」
 石見の手から、燃え盛る火の玉が知場の側を目掛けて飛んだ。
 だが、狙いが逸れたらしく、知場を直撃してしまう。
「あちっ!」
「あっ、知場、すまん!」
「気にするな、血を吸われるよりましだ!」
 焼け焦げて弱った枝を、知場は力任せに引きちぎった。
「あーん、こいつらしつこい!」
 亜梨沙は、自分に絡み付いてくる枝を払い除けるのに精一杯になってしまっている。
『火がダメ、切ってもダメ…薬なら?』
「除草剤、出ろ!」
 とっさに思いつき、知場は除草剤を作る。だが、またも枝に絡め取られて動けなくなった。
「くそっ、このくらいで!」
 それでも、手先だけで除草剤のビンの蓋を開けようとする知場。
 それを見た武田は、銃で狙いをつけるようにフルートを構えた。
 バシュッ!
 知場の手に鋭い痛みが走った。フルートの先から発射された弾丸のようなものが、知場の手を貫いたのだ。
 だが、それより一瞬早く、除草剤は地面に撒かれた後である。
 除草剤が地面にしみこんだあたりだけ、植物が少し茶色になり、枯れた。しかし、全体として勢いが衰えた様子はなく、なおも激しく蠢いて三人に絡み付いてくる。
 ビュルッ!
「ぐっ…」
 遂に知場も血を吸われ始めた。
「知場さん!」
 亜梨沙は自分が絡まれているにも関わらず、知場を自由にしようとスコップで枝に切りかかる。
 ビュルッ!
「あっ…」
 亜梨沙の身体がピクン、と震えた。
 その身体から見る見る血の気が失せていく。
「亜梨沙ちゃん!」
「亜梨沙!」
 石見と知場が、ほぼ同時に叫んだ。しかし、既にその叫びは、亜梨沙の耳には届いていなかった。
 亜梨沙は血を吸いつくされ、息絶えてしまったのだ。
 だが、死んでなお、亜梨沙の身体は変化を続け、次第に干からびていく。
 パサリ。
 完全に精気を失い、ミイラ化してしまった亜梨沙の身体が、乾いた音を立てて地に倒れた。
「………………!」
 瞬間、茫然とする二人に向かって、勝ち誇ったように武田が語り出す。
「疑いもせずノコノコ罠に掛かりに来るとは、平井先生のおっしゃった通り、ヒガ大恐るるに足らずだな。
 いかに君たちが愚かでも、もう判ったことだろう。そう、私はヒガ大の学生などではない。西荒川大の悪夢研究会に所属する、闇バスターだ。
 君たち愚か者どもは、限られた者にしか与えられぬ自分たちの能力を、より一層愚かな普通の人間たちのために無駄に使っている。だが、我々は違う。我々の力は、我々のためにのみ存在するのだ。そして、この世界の全てもまたしかり。
 これまでにも同じ方法で、早稲田大学の早オ同(筆者注)を始めとする多くのバスターどもを葬ってきた。そしてその生命エネルギーは、イノチグサの実の形で蓄えてある。
 なあに、心配は要らないさ。君たちのエネルギーは、決して無駄にはしない。我らが大計画のために役立ててやるからな。ありがたく思いたまえ。
 さあ、おしゃべりはこのくらいにしておこう。そろそろ君たちも観念して、我らが大計画の肥やしとなりたまえ!」
 だが、初めて仲間を失った悲しみと怒りにうち震える石見は、武田の話など耳に入っていなかった。
「亜梨沙ちゃん…! くっそおおお!」
 怒りに震える石見の手が、赤く光る。
「食らえ、羅炎!!」
 怒りに任せ、再び火球を放つ石見。狙いは、武田ただ一人。
 今度は狙いあやまたず、火球は武田を目掛けて一直線に飛ぶ。
 武田はよけようともせず、腕を軽く揮った。
 その手には、組み紐が握られている。
 パシッ!
「な…!?」
 愕然とする石見。
 石見が渾身の怒りを込めた羅炎は、武田の組み紐で一蹴されてしまったのだ。
「ハッハッハッハ…私に弱点などない!」
 嘲笑う武田。
 見事な体術で枝をかわし続けていた石見だったが、増える一方の枝を次第にかわし切れなくなり、刻々と追い詰められていく。
 一方、知場も完全に動きを封じられ、血を吸われて、その命ももはや風前の灯であった。
「くそ、このままじゃ全滅だ!」
 知場は夢空間からの脱出を試みた。が、できない。
「おやおや、死ぬのがそんなに怖いかね? 生憎だが、逃がしはしないよ。あきらめたまえ。往生際が悪いというのは、美しくない」
 武田は、さも軽蔑したような笑みを浮かべて言う。
 知場は、反論しなかった。
 いや、したくてもできなかった。既に知場は、次第に意識をなくしかけていたのだ。朦朧とした中で、知場は思った。
『万事休すか? ヤツに一矢報いることもなく、オレたちはここで死ぬのか? 亜梨沙の仇も討てないまま…』
 遂に石見が絡み付かれた。
「くっ!」
 石見は枝を切り払おうと剣を振り上げる。白刃の切先が光った。
 その時。
 石見の剣の輝きを見た瞬間、薄れかけた知場の意識は急速に戻った。
 記憶が甦る。
 喫茶店『獏』での会話。
 列車の中での光景。
 さっきの武田のセリフ。
 弱点…!
「尖端恐怖症だ!」
 知場は、苦しい息の下で必死に叫んだ。
 ハッとして、自分の手を見る石見。
 そこには、馴染みのタケミカヅチが握られている。
 だが、その瞳に迷いが走る。
 これを投げるか?
 しかし、もしかわされるか、はずすかしたら、今度こそ万事休すだ。
「悩んでる暇はない! やれ、石見!」
 瀕死の知場の叫びが、石見に決意させた。
「南無三!」
 石見は祈りを込めて、タケミカヅチを武田に向けて投げた!
 果たして、祈りが天に通じたのか、切先はあやまたず武田目掛けて飛ぶ!
「うわぁぁぁ、刺さる刺さる刺さるぅぅぅ!」
 切先が自分目掛けて飛び来るのを見た途端に、武田は急に情けなく叫び声を上げ、避けようともせずに両腕で顔をかばった。
 シュバッ!
 鮮血がほとばしった。
 途端に、植物の動きが変わる。
 血と共に流れ出した生命エネルギーに惹かれて、植物は知場と石見を開放すると、ワサワサと武田の方へ向かい始めた。
 植物の牢獄が、解けたのだ。
「今のうちだ! 知場、しっかりしろ! 立てるか?」
「あ…ああ、何とかな。それより、亜梨沙を…」
 石見は亜梨沙の倒れている方を振り返り、あまりにも無残なその姿に、再び目をそむけた。そして、上着を脱ぎ、それで亜梨沙を包むように掛けると、そのまま抱き上げた。
「…行こう」
 亜梨沙の亡骸とともに、二人はその場を急いで離れた。
 背後からは、なおも蠢き続ける植物の気配が伝わって来ていたが、二人は後ろを振り返らずに走った。その脚が次第に遅くなり、歩く速度になり…やがて二人は疲れ果てたように、がっくりと座り込んだ。
 なんとか無事に逃げ延びた。
 だが、二人の心は重かった。
「こんなことで…こんなことで、今まで一緒に戦ってきた大事な仲間を失ってしまうなんて…!」
 知場は拳で大地を殴りつけた。その拳に、うっすらと血がにじんだ。
「望みは、まだある」
 悲痛な表情で、しかしきっぱりと石見が言った。
「奴の言っていたイノチグサ…その実があれば、亜梨沙を生き返らせることができるかも…」
「ヤツなんかの言うことを、信じるのか?」
「信じなければ!…信じなければ…辛すぎる」
 石見は、知場に背を向けた。
 気持ちは、知場も同じだった。
「そうだな…信じなければ、辛すぎるな」
 石見は振り返った。その頬に、悲しげな笑みが浮かぶ。
「…行ってみよう」
「…ああ」
 かすかな最後の望みに賭けて、二人は再び集落を目指し、歩み始めた。



 やがてたどり着いた村の中央に、広場があった。
 そしてその広場には、一人の老人が立たずんでいる。
 一枚のキャンバスを前にたたずむその老人が見つめているのは、キャンバスの向こうに咲いている、美しすぎるほど紅い一輪の花。
 二人は老人に歩み寄る。
 石見は静かに話し掛けた。
「…武田由兵衛さんですね?」
 老人はゆっくりと石見の方を振り向いた。そして、答えた。
「そうじゃが」
 知場が吐き出すように問う。
「俺たちを殺そうとしたのか?」
 唐突な質問に、老人は驚いたような目をした。
「…何のことじゃ? 儂ゃ知らんぞ」
 なおも詰め寄ろうとする知場を止めて、石見は聞く。
「これはイノチグサですね?」
「そうじゃ」
 由兵衛老人は語り始めた。
「…儂は六十年前、牧野富太郎先生と共に岐阜高山の山野を探索中、ある隠れ里を発見した。その里は恐ろしい所じゃった。時折迷い込んだ旅人を、イノチグサの花の活け贄に捧げるという風習があったのじゃ。
 儂らも一度は村人に捉えられ、犠牲にされかかったが、何とか命からがら逃げ出したんじゃ。その時、そのイノチグサの実が死者を甦らせる力を持つことを知ってな。何でもあの村の長老は、実の力で何千年と生き延びておったらしい。で、儂らは逃げ出す時、行き掛けの駄賃にと、その実を一個失敬してきたんじゃ。牧野先生は、あれを新種として学会に発表しようとしたんじゃが、種だけではどうにもならんでな。何せ、土にただ植えたのでは、この種は芽を出さんのじゃ。
 …ただ、儂には一つだけ心残りがあった。実のなっておる様子はスケッチできたんじゃが、花の咲いている様を描きそびれてのう…それで死に切れず、里から持ち出して来た実の力で生き返り、こうしてスケッチしておったんじゃ。明宏はよい孫での、この花が枯れんようにいろいろしてくれとる」
 この老人は、本当にそう思っているらしい。
「武田明宏…あの男は、自分の祖父の妄念すら冷たく利用する男だったのか…!」
 石見が、老人に聞こえないような声で呟くのが、知場の耳には聞こえた。
「なら、とっとと絵を完成させたらどうだ」
 知場が言うと、由兵衛老人は首を横に振り、答える代わりに手に持った筆を見せた。
 筆の穂先が縛ってある。
 知場は、東京駅で列車に乗る前の袱紗の件を思い出した。おそらく、ほどこうとしても無駄だろう。
 知場は老人に言った。
「筆があれば描けるのか?」
「うむ。あるのか?」
「ある。いや、作る」
「まさか」
 知場はそれ以上何も言わず、意識を集中した。
 その手が光を放ち、そこに一本の高級な筆が現われる。知場は筆を老人に手渡した。老人は、にっこりと笑った。
「おお、これはかたじけないことじゃ」
 由兵衛老人は筆を受け取り、キャンバスに向かった。
 筆を持ったその手が、とても老人の動きとは思えない滑らかな動きで、キャンバスの上を素早く走る。
 す、と筆がキャンバスを離れた。
 キャンバスには、真紅の大輪の花が見事に咲いていた。
 由兵衛老人は満足気に微笑んだ。と同時に、由兵衛老人の姿が薄れていく。
「妄念が晴れたんだな」
 石見はホッとしたように呟いた。
「おい、それより見ろ!」
 知場は花を指差して叫んだ。
 老人が成仏していくと同時に、咲いていた花にも変化が起こっていた。
 急速に萎み始めたのだ。
 息を飲んで見守る二人の目の前で、花は萎んで消え、やがて紅みがかった金の実になった。
「…これが、イノチグサの実?」
 手を伸ばした石見を、知場は止めた。
「待て! 用心に越したことはない。まず、オレが試してみる」
 知場はその実を取り、ほんの少しけずり取って口に入れた。
「…どうだ?」
 心配気に、石見が知場の顔を覗き込む。しばらく気分を確かめてから、知場は答えた。
「…少し楽になったみたいだ」
 石見はホッとため息をつく。
「そうか…確かに見た目にも、血の気が戻ったように見える」
「だが、これで死んだ者まで生き返るかどうかとなると…」
 知場がそう言うと、石見も頷いた。
「賭け、だな」
 石見は知場から実を受け取ると、祈りを捧げるかのように、それを額に押しいただいた。
「奴らの卑劣な罠に落ち、散って行った多くのバスターたちよ。あなたたちの生命、使わせていただきます…」
 石見は呟いて、亜梨沙の遺体の口にイノチグサの実を含ませる。
 石見と知場は、固唾を飲んで見守る。
 二人の目の前で、干からびていた亜梨沙の遺体が少しずつふくらみ始め、やがて…



「…しっかりしろ、お前たち! 大丈夫か?」
 聞き覚えのある声で、知場は目を覚ました。
「…ここは?」
 知場は身体を起こした。瞬間、目まいがするが、必死にこらえてあたりを見回す。
 トンネルの中だ。石見も既に起き上がっているが、目がうつろだ。精神エネルギーを使いすぎたらしい。
 知場を起こした声の主は、紀田助教授だった。ひどく心配気な表情だ。
「先生…どうしてここに?」
 知場が尋ねると、紀田は少しホッとしたような表情になって答えた。
「お前たちが東京を立った後、妙な胸騒ぎがしてな。知り合いの超人的ハッカーに頼んで、ヒガ大の学生リストをチェックしてもらったんだが、すると、武田明宏という学生のデータは、何者かが外部から侵入して書き換えたものだと解ったんだ。それで、お前たちの身が心配になって、追って来たというわけだ」
「そうですか。助かりました…そうだ、亜梨沙は!」
 知場は思わず叫んで、あたりを見回した。亜梨沙の名が出た途端、石見も意識が少しハッキリしたらしく、目に光が戻る。
 亜梨沙は、二人から少し離れて横たわっていた。二人はほぼ同時に飛び起きて、亜梨沙の側に駆け寄る。
 亜梨沙の身体には、夢の中と同じように、石見の脱いだ上着が掛けられていた。
 だが、亜梨沙は起き上がらない。
『ダメだったのか…?』
 瞬間、絶望が二人を襲った。
「あー、よく死んだ」
 いきなり起き上がりざま、亜梨沙がギャグを飛ばす。
「ずるっ!」
 二人はずっこけながらも、ホッとした笑みを浮かべる。
「何があったんだ? 詳しく説明してみろ」
 助教授の問いに、一同は再び暗い表情になった。
「申し訳ありません。罠に引っ掛かりました」
 知場はそれだけ言って、口をつぐんだ。
「全く、ドジな話です」
 石見も悔しそうに言う。
「一体、敵は何者なんだ?」
「確か、西荒川大の悪夢研究会とか言ってました」
 西荒川大と聞いた途端に、助教授の表情がサッと変わった。
「西荒川大…そうか、平井先生が…」
 唇をかみしめる助教授。
「御存知なんですか、先生?」
「ああ…しかし、詳しい話は後だ。とにかく今は、お前たちの治療が先決だ」
 確かに、休息は必要だった。
 知場は、例の植物に血を吸われて死ぬ寸前まで追い込まれ、今や立っているのがやっとの状態である。石見はかろうじて血を吸われずにすんだものの、精神エネルギーの消費が思った以上に激しいらしく、今にも昏倒しそうな表情だ。
「とにかく、岐阜まで行って病院に入ることにしよう…トンネルの外に俺が乗ってきたレンタカーがある。そこまで何とか頑張れ」
 紀田助教授が、知場と石見に肩を貸す。やっとのことで、二人はよろよろと立ち上がった。
「亜梨沙、立てるか?」
 紀田が声を掛けると、亜梨沙は見つめていた掌から顔を上げた。
「えっ?…あ、はい」
 亜梨沙は掌を握りしめ、スッと立ち上がった。他の二人に比べれば、かえって元気そうな様子だが、その亜梨沙にしても、復活したとはいえ、一度は完全に死んでいたのだ。イノチグサの実の影響か、唇だけが異様に紅く、顔色の青さが余計際立っている。
 疲れ切った身体を引きずるようにして、三人は紀田とともにその場を後にした。
 とりあえず、三人は生き残った。
 だが、この戦いが、さらに恐ろしい戦いへの序曲に過ぎないことを、三人はひしひしと感じていた。



(筆者注)早オ同…早稲田大学オカルト同好会。東江戸川大学における夢心理研究会と同じように、早稲田大学に存在するナイトメア・バスターの組織。『ゴルディアス』事件において壊滅。

あとがき

  知場 法久

 恵紋じゃないか。よくここが判ったな。そうか、アンディと一緒に来たのか。
 なにい? 今回の事件の話を聞かせろだと。
 冗談じゃない! こっちは危うく死ぬ目に遭ったってえのに、そんな話をベラベラしゃべれるか!
 …ったく、ちったあオレたちのことを心配してくれたのかと、貴様のことを見直してやる気になったってのに、貴様はそういう野次馬根性しか持ち合わせてねえのか!
 どうしても聞きたきゃ石見にでも聞け。眠りこけてて話にならん? そんなもん、オレの知ったことか。
 あ、こら、亜梨沙、こんなやつにしゃべってやる義理なんぞないって!…しょうがねえな。
 あ、ちょうどいいとこに来た。紀田先生、何とか言ってやってくれよ。恵紋の野郎、見舞いの品ひとつ持ってきやがらねえで、話だけ聞こうってんだぜ。
 見舞いは持ってきた? だから、オレが言ってるのはそういうことじゃなくて、貴様の態度に問題があると言ってるんだ! 大変でしたねとか、大丈夫ですかとか、一言くらい言ってから切り出したらどうなんだ?
 いまさら遅いんだよ、このボケ! 言われてやったってしょうがねえだろが。
 おい! ちょっと待て。この音は何だ?
 恵紋! 貴様、どこへ行く気だ? そのショルダーバッグの中から聞こえてくる、微かなモーターの回転音はひょっとして…
 あっ、こら待て逃げるな恵紋! オレの声をこっそり録音してどうする気だ!? 待てと言ったら待たんか、この野郎ーっ!!…
 
 
 
第4話に続く
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