RPGリプレイ小説 『ナイトメア・バスターズ』

夢心理研究会日誌 ファイルNo.4


ラグナレク


原案:武田 明宏

脚色:東江戸川大学夢心理研究会

文章:恵紋 春人


プロローグ

「…武田が、しくじったか」
 ややしわがれた、しかし明晰な響きの老人の声。
「はい」
 応えたのは、若い男の声だ。やや甲高く、性急な感じが声からうかがえる。
「武田さんともあろう人が、よりによってあんな落ちこぼれどもにしてやられるとは何ともはや、実に美しくないですねえ」
 別の男の声。坊っちゃん風の、やや間延びした感じだが、それがかえって彼のプライドの高さを如実に表している。
「恥だわ」
 女の声が言う。短い言葉にも、ぞくぞくするほどの色気と同時に、背筋を凍らすような毒気を含んだ、妖しい声だ。
「この上は、ぜひ私に奴らの始末をおまかせください! 必ず奴らの首を持ち帰り、先生を御安心させて御覧に…」
 さっきの性急な感じの声が言いかけるのを、また別の声が遮った。今度の声は、性急さに関しては前の声にひけを取らないが、やや品のよさがある。
「待ちたまえ! それは僭越というものだろう。我々上級生を差し置いて、功名にはやるとは、賞められたことではないよ」
「しかし、それは…」
 言い争いになりそうなところに、もう一人の男の声が割り込んだ。理知的…と言うよりは、およそ人間的な暖かみのない、冷たい響きのある声だ。
「静かにしたまえ! 先生の前で言い争いをするとは何事だ!」
 一喝されて、二人は黙り込んだ。
 再び、老人の声がゆっくりと、優しげにしゃべりだす。
「…まあよい。言い争いも、わしに対する忠誠心あればこそのこと。その気持ち、嬉しく思うぞ。しかし、その必要はもうない」
 ハッとしたように、二つの声がほぼ同時に言った。
「それはひょっとして…」
「では、いよいよ…」
 老人は少し間を取り、やがてゆっくりと、かみしめるように言った。
「次の新月を迎える日、『ラグナレク』計画を遂行する」
 おお、というため息のような声が五つ、同時に洩れた。
「お前たちは来たるべきその日に備え、都内各所に散って準備を怠らぬように!」
 初めて老人の声が、威圧的な響きを帯びた。
「はっ!」
 五つの声が同時に応え、気配がひとつひとつ消えて行く。
 やがて、その場に残る気配は老人のものだけになった。
「…さて、順一よ。お前の教え子たちは、どの程度わしを楽しませてくれるかの?」
 老人はくっくっと噛み殺した笑い声をたてた。
 いつしかその笑いは、哄笑に変わっていた。

第一章 急変

 日本へ戻ってすぐに紀田助教授からの伝言を受け取って、アンディが岐阜の病院へ駆けつけたのは、その翌日の深夜のことだった。
「来たか」
 病室に入ったアンディを、椅子から立ち上がって迎えたのは、紀田助教授だった。
「ミンナハ?」
 答えの代わりに、紀田はベッドに目を向けた。
 石見、知場、亜梨沙…三人とも昏々と眠っている。
「よほど疲れたんだろう…石見などは、病院に入って安心したのか、以来一度も目を覚まさん。知場は、かなりの輸血を必要とする状態だったんだが、悪くすると輸血した血液に対する拒否反応が起こるかもしれん。そういう意味では、亜梨沙が一番元気とも言えるが、どうも精神的なショックが大きかったらしくてな。私も詳しいことは聞けなかったが、石見と知場の話によれば、亜梨沙は一度死んだのだそうだ」
「What!?」
 アンディは思わず目を剥いた。
「それが夢の中でのことなのか、それとも現実のことなのか…いずれにせよ、三人が回復するのを待って聞くより他に真実を知る手はない。それよりアンディ、アメリカからの長旅に続いてこっちに駆けつけたんだ、さすがに疲れたろう。お前も少し休んだらいい」
 アンディは首を横に振った。
「No,thank you。私ヨリ紀田先生コソ、休ンダ方ガイイノデハナイデスカ? 三人ノ看病デ、カナリ疲レテイルデショウ。シバラク私ガ代ワリマスカラ」
 紀田はふっと笑った。
「無用の心配をするな。これくらいで参るほど、私はヤワじゃないし、年寄りでもない」
 そう言って紀田は、三人の方に向き直り、亜梨沙や石見の額の汗を拭ったり、知場の氷枕を取り替えたりして、やがて再び椅子に座った。
 アンディは病室の隅にあった椅子を取ると、紀田の隣に寄せ、自分も座った。
「あまり無理をするな」
「ソレハ私ノ言ウコトデス」
 紀田はまた、ふっと笑った。そして、チッチッチッ、と短く舌打ちをすると、いつもの態度で言った。
「アンディ、日本語にはそういう場合のために、こういう慣用句があるんだ。『それはこっちのセリフだ』というのがな」
「Thanks」
 そのまま、二人は黙り込んだ。
 静寂が訪れると、強烈な眠気がアンディを襲った。
 必死に眠るまいと頭を振り、耐えていたが、そのうちすぐに目を開けていられなくなる。
 やがて、ふっと意識が途切れた。



 アンディが目覚めた時、隣の椅子に紀田はいなかった。
 既に窓の外は明るい。鳥のさえずる声も聞こえている。結局、アンディは朝まで眠ってしまったのだ。
 三人はと見ると、こちらはまだ眠っている。ただ、昨晩よりは容態がよくなったのか、三人とも汗をかいていたり苦しんだりした様子はない。アンディはホッとした。
「起きたな」
 ふと、アンディの後ろに紀田が立っていた。
「一体…」
 いつの間に後ろに立ったのか、と聞こうとして、アンディはやめた。どのみち答えはもらえないということが、最近になってアンディにもようやく解ってきたのだ。
 紀田は知場のベッドにスタスタと歩み寄り、知場の額に手を当てた。そして、ホッとしたように呟いた。
「熱は下がったようだな…どうやら、この分だと拒否反応も心配したほどではなかったらしい。これでこっちは一安心だな」
 その時、亜梨沙が目を覚ました。
「…紀田先生…」
 紀田は亜梨沙の方に近寄り、微笑みかける。
「お早よう。気分はどうだ?」
 亜梨沙は、眠そうな目で、しかし少し笑って頷いた。
「そうか…顔色も大分よくなってきたし、もう大丈夫そうだな。後は、石見か…少し聞いた話では、敵の罠にはまった時、かなり精神的に無理をしたらしいが…」
 顔色がいい割に、昏々と眠り続けて目を覚まそうとしないのが、石見だった。
 精神エネルギーを著しく消費した場合、出てくる症状は二通りある。ひとつは、錯乱気味になって暴れたり、そこまで行かなくても不機嫌な状態が続く場合。もうひとつは、眠り込んだままなかなか目を覚まさない場合。石見はどうやら後者のようだ。
「一体、石見は何をやってあんなに消耗したんだ? 『ピグマリオ』事件の時もかなりひどかったようだが、どうも今回はちょっと違うようだな」
「火の玉を作ったんですよ」
 知場の声がした。
「起きていたのか」
「今起きたんです」
「…なるほど。しかし、火の玉だと? エネルギーの塊を発生させるとは、無茶もいいところだ。よく精神エネルギーを使い果たさなかったもんだな」
 石見の瞼がピクリと動いて、ゆっくりと開く。
「やっとお目覚めかね、お寝坊くん」
「…どのくらい、眠ってました?」
 紀田の顔を見て、石見は言った。
「まるまる二晩だ。目玉が溶けてるんじゃないかと心配したぞ」
 よほど安心したのか、紀田はいつもの調子に戻り、笑った。
「そんなことより聞かせてくれないか、先生? あんた、闇バスターのことを知ってるみたいだったな。ヤツら、一体何者なんだ? 先生とどんな関わりがあるんだ?」
 問い詰めるような知場の口調に、紀田は沈痛な表情に変わった。
「…解った。全て説明しよう。おそらく、お前たちが対決した武田は、西荒川大学の教授、平井太郎の配下の人間だろう」
「平井太郎? 何者ですか、そいつは?」
 石見が聞くと、紀田の表情はさらに曇った。
 紀田は、いったん目を伏せた。そして、意を決したかのように再び開くと、一息できっぱりと言った。
「平井先生は…いや、平井太郎は、私にとっては師であり、同時に、共に夢魔と戦う同志でもあったのだ」
 四人の間に、沈黙と戸惑いが走る。
 紀田は、さらに続けた。
「…だが、ある事件で共に傷つき、それ以後は互いに後進の育成に力を注ぐことを誓い合って、私たちはそれぞれ東江戸川大と西荒川大とに別れ、活動を続けていたのだ。しかし、その後何が彼の身に起こったのか…ともかく、今や彼はすっかり変わり果ててしまったらしい…一体、彼は何を考えているのか…」
 黙り込んだ紀田に、亜梨沙が聞く。
「紀田先生、あたしたちが出発する前ずいぶん忙しそうでしたよね。それと今回の事と、何か関係あるんですか?」
 紀田は頷いた。
「このところ、国内の各大学に存在するナイトメア・バスター組織が、何者かによって次々に壊滅させられていたので、その原因と敵の正体を調査していたんだ。今や、その『何者か』が西荒川大の闇バスターであると判明した訳だがな…実を言うと、先日開かれたICAの臨時総会も、こうした事態を憂慮し、対策を立てるために開かれたものだったのだが」
「それで、何か判ったことは?」
 石見が真剣な表情で問う。紀田は手帳を取り出し、ページを開いた。
「敵については、おおよそ次の様なことが判っている。これはほとんど、壊滅される直前に早稲田オカルト同好会が残した記録による情報だが、平井配下の闇バスターの顔ぶれは、フルートを武器に使う男…これがお前たちが倒した武田だろうな…こいつを中心として、総勢六人。それぞれ得意の楽器を武器とし、その楽器を使わせると、凄じく強いのだそうだ。各大学のバスターたちの中には、運よく罠をくぐり抜けた者もいたようだが、彼らの楽器による攻撃の前に倒れていったらしい。だが同時に、六人はそれぞれ何かに対する恐怖症を有しているという。従って、そこをうまく突いて攻めれば、彼らを打倒することも可能だろう」
「ICAの方では、何か判らなかったんですか?」
「残念ながら、会議が本格的に始まる前に、世界各地で異常が発生してな。主要メンバーのほとんどが事態を収拾するため各々のエリアに帰ってしまったので、あまり実のある話はできなかった。ただ…」
 言いかけて口をつぐんだ紀田を怪訝に思ったらしく、石見は聞き返した。
「ただ、何です?」
 紀田は一瞬、迷うような色をその目に浮かべた。だが、その色は石見たちが気づく前に消えた。
「…いや、今はまだその時ではない。それより、もう少し休め。朝食の時間には、まだずいぶん間があるぞ」
 紀田の、いつも通りの有無を言わさぬ口調に、石見は口をつぐんだ。それ以上聞いても答えてくれる人ではないということを、石見も経験的に知っているのだろう。替えの氷枕を取りに行く紀田を視線で見送ってから、石見は目を閉じた。



 武田の罠から三人が辛くも生還してから、一週間が過ぎた頃、三人の肉体と精神もようやく全快と言える状態になった。
 その間、アンディは紀田とともに三人の看護をしていたが、少なくともアンディの起きている間に、紀田が睡眠を取った様子はなかった。もし、実際に一睡もしていないのだとしたら、正に恐るべき体力と精神力だと言わざるを得ない。
「少シハ休ンダラドウデスカ?」
 アンディが勧めても、紀田はこう答えるばかりだった。
「他人の心配をしてないで、来たるべき決戦に備えて、お前こそ休んでおけ」
 そしてその日、紀田は遂に言った。
「東京へ戻るぞ」
 四人は緊張した。東京に戻るということは、平井をはじめとする闇バスターたちとの対決を意味するのだ。
 朝一番の列車に飛び乗って、五人はまず名古屋へ向かった。そして、そこから新幹線に乗り換え、東京へと向かう。来る時と全く逆の道をたどる形だ。
 列車の中、紀田は終始無言のまま、何かを考えるかのように目を閉じ、腕組みをしたまま微動だにしなかった。
 ところが、新幹線が横浜を過ぎた頃のこと。
「…おい、スピードが落ちてないか?」
 窓の外をぼんやりと見ていた石見が、急に声を上げた。
 あまり多くはない他の客たちも、石見が気づいたのと相前後して気づき始めたらしく、次第にざわざわと騒ぎだす。
 そこに車内放送が流れた。
『…お急ぎのところ誠に申し訳ございませんが、本線はただ今、都合により停車し、新横浜駅へと引き返させていただきます…』
「引き返す、だと? どういうことだ?」
 知場が眉をしかめた。
「まさか…いや、いくら何でも、そこまでは…」
 紀田が呟くのを、知場が聞きとがめた。
「何か心当たりがあるのか、先生?」
 紀田は首を横に振った。
「いや、まだ確証がない。情報がなさすぎる」
 そうこうするうちに新幹線は完全に停車し、やがて反対向きに動き出した。そして、新横浜駅に停車した。
 駅の構内は、騒然としていた。客は何が起こったのか解らないまま立ちつくし、駅員は忙しげに走り回っている。ただ、共通なのは一様に不安気な表情だということだ。
 知場は走り回る駅員の一人の肩を引っ掴んで呼び止めた。
「何があったんです?」
「東京の様子がおかしいんですよ」
「どんな風に?」
「どんなって…とにかく、御自分の目で確かめて下さい」
 それだけ言うと、駅員は知場の手を振り払うように再び走り出した。
「なんだか心配だわ…あたし、家に電話かけてみます!」
 亜梨沙は、近くの公衆電話に駆け寄った。ボタンを押すのももどかしげに、受話器を耳に押し当てる。
『ツー・ツー・ツー…』
「…通じないわ…」
 亜梨沙は、不安気な顔で呟いた。
「代わって」
 石見は、亜梨沙から受話器を受け取っていったん切ると、そのまま別の番号をプッシュした。警視庁猟奇課の、直通番号だ。
『…この回線は、現在大変混みあっております。しばらくお待ちになって…ブツッ!』
「あれっ?」
「どうしたの?」
 亜梨沙が聞く。
「テープ音声で、回線が混みあってるからと言いかけて、変な切れ方をした」
「もう一度掛け直してみたら?」
 石見は頷き、同じ番号に掛ける。
『ツー・ツー・ツー…』
「だめだ、今度はまるでつながらない」
 構内放送が流れた。
『…ただ今、非常事態が発生しております。現在、東京方面の列車は全て不通となっております。従いまして、このホームは当分の間、閉鎖させていただきます。係員が御案内致しますので、直ちにホームより御退去下さるよう、お願い致します…』
「…だとさ。どうする、先生?」
 この状況でも、知場は相変わらずぶっきらぼうな調子を崩さない。
「やむをえん。指示に従おう」
 駅員の誘導に従って、五人はホームを出た。
「何やらずいぶん騒がしいな」
 あたりを見回して、紀田は呟いた。
 既に表通りの車は大混雑の様相を呈していた。また、駅事務室に押しかける者もいれば近くの県庁に向かっている者もいて、歩道にも人があふれ、駅周辺はパニック寸前である。
「一体何があったんだ…?」
 石見は眉をひそめる。
「自分の目で確かめろと言っていたが…」
 そう言うと紀田は、足早に歩き出す。慌てて四人も後を追った。
 表通りに出て、東京があるはずの北東の方角に目を向けた途端、目に飛び込んだ光景に、紀田を除いた四人は思わず「あっ」と声を上げた。
 巨大な黒い柱。
 東京が…丸の内や新宿の高層ビル街が…見えるはずの方角に、四人が見たものは、そうとしか表現のしようがないものだった。その柱は地上から空をめがけてそそり立ち、その頂点は雲よりも高くにまで伸びて霞んでいる。東京は、その巨大な柱の中に、すっぽりと飲み込まれてしまっているのだ。
 紀田は愕然とした面持ちで、うなるように呟いた。
「うかつだった…まさか私が東京を離れた隙に、彼らがここまでやるとは…」
「心当たりがあるんですか、この現象に?」
 石見が問うと、紀田助教授は頷いた。
「おそらくこれは『逆衛星の法』だ」
「それは一体どういう?」
「残念ながら、私にも詳しいことは解らない。以前、平井の元で学んでいる頃に、名前だけチラッと聞いたことがあるという程度だ。だが、こうなるとうかうかしてはおれん。今は、状況を少しでも把握しなくては…ちょっと待ってろ」
「どこへ?」
 知場が呼び止めると紀田は、あたりで一番高いビルを指差した。ざっと四十階はあるだろう。円筒形をした、目立つビルだ。
「新横浜プリンスホテルだ。あそこの一室を借りて、作戦を練る」



 新横浜プリンスホテルに入った紀田を始めとする夢研の面々は、最上階のスウィートルームに通された。窓の外には、通りで見たのと同じ黒い柱がそそり立っている。さっき通りから見た時には、あたりの障害物に遮られてその全景を見る事はできなかったが、今、周囲に何の邪魔もないこの位置から見るそれは、あまりにも巨大で、あまりにも異様だった。
 紀田は電話でFM横浜やTVK、新聞社といったマスコミ関係などに連絡を取り、これまでに判っている情報を整理して四人に聞かせた。
「数時間前に発生したあの黒い柱は、広さとしては概ね山手線圏内を覆っていて、高さ方向には地上数千メートルにまで伸びている。気象衛星からの映像による測定では、高さはおよそ五千メートル弱と言うから、富士山より高いわけだ」
「内部への侵入は可能なんですか?」
 石見が問う。
「地上からは無理だ。徒歩、あるいは車などで中に侵入しようとしても、弾き返されてしまって侵入はできない。ただし、その力は地下では薄れているらしくて、地下鉄の地下道沿いになら侵入は可能だそうだ。また、飛行機やヘリ、飛行船など、上空からの侵入も可能らしい。だが警察や自衛隊はもちろん、スクープを狙った雑誌やテレビの取材陣までが、内部の状況を把握するために侵入したんだが、無事に帰還した者は、ない」
 沈痛な静寂が流れた。その静寂を破って、再び紀田は口を開いた。
「ここはやはり、お前たちの出番らしい。警察や軍隊では、この事態を解決することはできん。こいつは、バスターとしての力を持つお前たちにしかできない仕事だ」
 少し目を伏せて間をおき、深呼吸のように大きくひとつ息をすると、紀田は決然と顔を上げた。
「だが、敵がこれだけの騒ぎを引き起こした上で、最終的な結果として何を求めているのかは今のところ不明だ。中ではどんな敵が待ち受けているかも皆目判らん。しかも、敵は東京を丸ごと人質にしてしまっている。状況は圧倒的にこちらが不利だ。これは、今までの戦いとは桁外れに恐ろしい戦いになるだろう。そう、『戦争』と言っても過言ではあるまい。何か欲しい武器はないか? 私に用意できるものなら、何とか揃えよう」
 知場は指をポキポキと鳴らした。
「戦争、か…ならば遠慮なく言わせてもらうぜ。M−十六アサルトライフルに、サブマシンガン、ナパームパイナップルを各自二個、C4プラスチック爆薬に雷管、四十ミリランチャー、赤外線スコープ、ガスマスク…えーと、他には何かないかな…ああ、それから完全装備の米兵一個分隊を貸してもらおうか」
 三人が目を丸くしたのにひきかえ、紀田は冷静だった。
「お安い御用だ。他の三人は、何が欲しい?」
 亜梨沙が元気よく手を上げた。
「はーい! あたしが欲しいのは、そりゃあ何たって、麻宮サキさんの使ってた、桜の代紋入りのヨーヨーよね。そうそう、それから後、おいしいお弁当が欲しいな」
 今度はさすがに紀田も戸惑った。
「お弁当はともかく、麻宮サキさんのヨーヨーだって?…まあ、当たるだけは当たってみよう」
 紀田は電話を掛けた。
「もしもし…ああ、いたのか。ちょうどよかった。お前が都内に引っ掛かっているのではないかと心配したぞ。…おいおい、それは言いっこなしだ。…ああ、そうだ。私の教え子たちに動いてもらうことになる。実はその事で折り入って相談なんだが、お前、麻宮サキという人物が持っていたヨーヨーと言うのに心当たりは…いや、別になければそれでもいいんだが…」
 紀田の口がポカンと開いた。
「…あ? ある?」
「やったあ!」
 亜梨沙が小さな歓声を上げる。
「…おい石見、麻宮サキって実在の人物だっけ?」
「…だったんじゃないか?」
 知場と石見は呆れ顔だ。アンディは何が何だか解らない。
「麻宮さきッテ、誰デスカ?」
 答えが戻る前に、紀田は電話を切った。
「…亜梨沙、君のお望みの物はすぐに届くよ」
「ラッキー! ありがと、先生」
 はしゃぎ回り始めた亜梨沙を苦笑しながらしばらく眺めていた紀田は、石見の方を向いた。
「石見、お前は?」
 石見は考えるような目つきで言った。
「いつもと違うことをやったところで、いい結果が出るとは思えませんからね…日本刀を一振り。できるだけ名刀であればそれに越したことはありません。クサナギノツルギ…と言いたいところですが、現在残ってるのは本物じゃないって噂ですしね、そこまでは言いませんよ。それから手甲と鉄鉢巻きを用意してもらえませんか、忍者が防具として使う、あれです。後は、用心のために拳銃を一丁…そうですね、ワルサーPPKといきましょうか」
 紀田はふっと笑った。
「忍者スタイルに拳銃とは、お前にしては珍しいコーディネートだな。『拳銃は最後の武器』…というわけか?」
 石見も苦笑を返す。
「そりゃちょっとマイナーすぎますよ。せめて『二度死ぬ』と言ってもらえませんか」
「なるほどな。古さでは五分だとおもうが。で、アンディは?」
 アンディはちょっと首をひねったが、すぐに答えた。
「知恵ト勇気」
 紀田は短く苦笑したが、すぐに真剣な表情に戻った。
「そうか…それもよかろう。注文の品が届いたら、すぐ出発だ」



 正午を少し回った頃、新横浜プリンスホテルの前に、軍用ジープが二台と装甲トラックが一台、乗りつけた。
 装甲トラックからダッと駆け出したのは、八人の兵士。八人ともに共通することは、東洋系の顔立ちをしていないことと、まるで戦争に出かけるかのような重装備をしていることだ。兵士たちは、驚く周囲の視線をよそに、素早くホテルの中に駆け込んでいくと、エレベーターに乗り込んだ。あまりの勢いに、ロビーにいたホテルマンの誰一人として呼び止める事ができない。
 エレベーターは途中の階で何度か止まったが、乗ろうとした客は兵士が乗っているのを見た途端ぎょっとなり、そそくさとエレベーターの前から立ち去った。そして、やがて最上階に到着すると、兵士たちは入った時と同様の機敏さでエレベーターから降り、とある一室の前に立って、兵士の一人が扉をノックした。ノックは三回、少しおいてまた三回。
「Come in」
 中から返事が戻るのを待って、兵士は扉を開けた。紀田とバスターたちがいるスウィートルームである。
 兵士は紀田に向かって敬礼すると、何事かを早口で伝えた。
「おいアンディ、何て言ってるんだ?」
 知場の問いに、アンディは答えた。
「『…大佐ノ命令ニヨリ、Mr.紀田ノ指示ニ従イマス』…ト、言ッテマス」
「すっごぉーい…! 紀田先生って、アメリカ軍の偉い人にも知り合いがいるんだ」
 亜梨沙が感心したように声を上げた。
「待ッテ下サイ、マダ続キガアリマス…『御依頼ノアッタ銃、弾薬類ハ、全テ我々ガ運ンデ来マシタ』…」
「…拳銃一丁くらいならともかく、ライフルやグレネードランチャーなんてどうするつもりかと思ったが、まさか米軍を動かすとは…呆れた人だ」
 呆れた、と言いながらも石見は、紀田の底知れなさに感心し切っている様子だ。
 再び、扉がノックされた。今度のは、二回。紀田が応える。
「どうぞ」
 入って来たのは、ホテルのボーイだった。
「失礼致します。紀田様、ただ今お客様がお出でになりまして…」
「どんな客だった?」
 少し警戒したように紀田が聞き返す。
「黒のスーツを着てサングラスをお掛けになっていました。ああ、それから眉間に三日月形の傷跡がおありでした」
 三日月の傷と聞いた途端、紀田はホッとした顔になった。
「ああ、解った。それで、その客はどうした?」
「お急ぎだとかで、すぐお帰りになりましたが、これを紀田様にお渡しするようお言付けになりましたので持って参りました」
 紀田はボーイから黒い頑丈そうなケースを受け取った。
「あいさつくらいしてからでもよかろうに、相変わらず無愛想な奴だ。その客、他には何か言ってなかったか?」
「はい、『幸運を祈る』とだけ伝えてくれ、とおっしゃられていました」
「そうか…いや、有難う」
 紀田はそう言って、受け取ったケースをパチリと開いた。中には、ヨーヨーが一個。紀田はそれを取り出すと、亜梨沙に手渡した。亜梨沙は早速、ヨーヨーを開いてみる。パカッと金属音をたてて開いたその中央に輝くのは、紛うことなき桜の代紋。
「キャッホー! やったやったやったあ!!」
 亜梨沙が喜びを全身で表現して…具体的に言えばピョンピョンと飛び跳ね回っていると、またノックの音。
「紀田様、お客様でございます。どうぞ」
 さっきとは別のボーイに案内されて部屋に入って来た三人は、東洋人の顔立ちだが、日本人ではないらしい。
「紀田さんは、どちらの方ですか?」
 一同に向かって、男の一人が聞く。ほとんどなまりは気にならない、実に流暢な日本語だ。
「私です」
 男は紀田の方を振り返って素早く見定めるように鋭い視線を走らせると、言った。
「張大人の昔のあだ名を、御存知ですか?」
 紀田は、笑みを浮かべて言った。
「張大人は、昔のあだ名で呼ばれることを好んでいません」
 紀田のその答えを聞いて、男もホッとしたような笑みを浮かべた。
「失礼しました。万にひとつも間違いがあってはならぬと思いまして、あなたを試させていただきました。これを」
 男が他の二人の男たちに合図を送ると、男たちは持っていた包みをそれぞれ開いた。
 長い包みには日本刀が、そして小さな包みには、手甲と鉄鉢巻きが入っている。
 男たちはそれぞれ、持ってきた物を紀田に手渡した。紀田はそれを、石見に手渡す。石見はまず手甲と鉄鉢巻きを受け取って身に着け、次いで剣を受け取ると、まずその重みを確かめた。
「御免」
 言うが早いか、石見はスラリと剣を抜き放ち、刀身を眺める。そして、呟いた。
「虎徹…ですか」
 使いの男が感心したように言った。
「お若いのによくお判りで。張大人は日本の刀剣や鎧に興味を持たれて、いろいろと集めておられるのですが、それはその中でも逸品中の逸品です。何でも、新撰組の近藤勇が愛用していた物だとかいう噂でしたが、その真偽はともかく、張大人もお気に入りの品でございます」
「なるほど、見事な剣です。ありがたく拝借します」
 石見は虎徹を鞘に収めると、紀田の方を向いた。
「これで、注文品は全部揃いましたね」
 紀田は頷いた。
「出かけよう」



 八人の米兵と武器類を運んで来たトラックに便乗し、一行は第一京浜を北上した。トラックについて来たジープが護衛についてくれていたが、品川あたりまでは特に何の支障もなく、進むことができた。だが、午後二時過ぎ頃、品川駅の近くにさしかかったあたりで、急に車がガクンと揺れた。エンジンがプスンプスンと音を立て、止まる。
「What's the matter?」
 紀田が運転席の兵士に話し掛ける。しばらくやり取りしていたが、やがて紀田は肩をすくめた。
「おそらく、あの黒い壁の力場の影響だろうが、車ではこれ以上近づけないらしい」
「降りましょう」
 石見が言った。
 地上からは侵入できないことを考えて、一行は徒歩で五反田駅へと向かった。地下鉄の線路沿いに、壁の内部への侵入を試みる作戦なのだ。
 三十分も歩くと、五反田駅の入口が見えてくる。入口付近には、警察や自衛隊、米軍が合同でテントを設営し、警戒にあたっていた。
 近づいていくと、自衛官の一人が駆け寄って来て誰何した。
「東江戸川大学の紀田です」
 紀田が告げると、自衛官はすぐに納得した。
「連絡は受けております。どうぞ」
 自衛隊ばかりではなく、警察にも連絡が入れてあったらしく、警官の検問も顔パスだった。また米軍の方には、武器を借りた段階で当然断わりを入れてあるのだろう。
「先生」
 先へ立って歩いていた紀田を、亜梨沙が呼び止めた。
「何かね?」
 振り返った紀田に歩み寄ると、亜梨沙はポケットから何かを取り出した。
「これ、預かっておいてくれませんか?」
 亜梨沙の掌の上にあった物は、何かの種のようなものだった。それを見た瞬間、知場と石見の表情が変わる。
「亜梨沙ちゃん、それは…!?」
 亜梨沙は種を見つめながら言った。
「トンネルの中で気がついた時には、これが手の中にあったのよ」
「何デスカ、コレ?」
「イノチグサの種よ」
 紀田の表情も、微かに動いた。だが、紀田は首を横に振った。
「いや、それは君が持っておきたまえ」
「でも…」
「持っておくんだ」
 食い下がろうとした亜梨沙だったが、紀田のうむを言わせぬ口調に気おされて、黙って種をポケットにしまい込んだ。
 地下道の入口に着き、いよいよ地下道に踏み込もうという時、今度は知場が突然言い出した。
「先生。オレたちがこの戦いから生きて帰れる確率は、どの位だと思います?」
 紀田は一瞬、言葉に詰まったようだった。だが、やがてゆっくりと口を開いた。
「今、世界中で異変が起こっていることは前に話した通りだ。それが今回の事とどう関わりがあるのかは解らん。だが、その異変のために、ほとんどのバスターは世界各地で戦っているんだ。その上、国内のバスターのほとんどがヤツらの罠にはまって壊滅状態である今、彼らに立ち向かえるのはお前たち四人をおいて他にない。それだけは確かだ」
 知場は、苛立ったように言い放った。
「お前たち、か! 事ここに及んでも、まだあんたはオレたちに指図するだけかよ、え、先生さまよ!? 一度くらい、共に戦おうと言ってくれたっていいじゃないか!」
 それは、必ずしも知場の本心ではなかった。あまりにも巨大な敵に、たった四人で立ち向かわねばならない、その恐怖感ゆえに、心ならずも出た言葉であったろう。
 紀田はグッと唇を噛んだ。そして、苦しげに、言った。
「すまん…だが、私には…できんのだ」
「平井ヲ倒ス事ニ、迷イガアルノデスカ?」
 アンディが聞くと、紀田は首を横に振った。
「そんなことはない。既に私も覚悟は決めた。平井とは対決せねばならん。しかし、あの黒い壁の中は今、夢の中と同じ状態が作り出されているはずだ。となれば、私は恐らくあの中には入れまい」
 知場はなおも詰め寄った。
「そいつは変だな。あんただって、昔はちゃんとバスターやってたんだろが。オレたちが入れるのに、あんたが入れないなんてはずはないぜ。それとも、まさか怖じけづいたのか!?」
 紀田は一層苦しげな表情になった。
「…怖じけづいたと思われてもしかたがない。だが、何と思われようと、私には…すまん。私には、できんのだ」
 なおも問い詰めようとする知場を押しとどめたのは、石見だった。
「先生は確か、岐阜で俺たちに話してくれましたね。『平井と共に、ある戦いで傷つき、それ以後は後進の育成に当たってきた』…と。ひょっとして、先生があの壁の中に入れないのは、その傷ってのと何か関係があるんじゃないですか?」
 紀田は少しためらったが、やがて頷いた。
「その通りだ」
 石見は少し考えて、再び口を開いた。
「解りました。その辺の詳しい話は、俺たちが帰って来てから、ゆっくりと聞かせてもらいますよ」
「石見…!」
 石見の顔を見つめる紀田に向かって、石見はニヤリと笑いかけ、親指を突き出す。そして、知場の肩をポン、と叩いた。
「行くぜ、知場」
 知場は石見の顔をじっと睨んでいたが、結局それ以上は何も言わず、一番先頭に立ってさっさと歩き出した。石見も、その後に続く。
「じゃっ!」
 亜梨沙は、まるでハイキングにでも出かけるような様子で、軽く手を振って別れを告げる。深刻ぶるのは、苦手なのだろう。そして、駆け足で石見に追いつき、そのまま地下道へと入って行く。
 最後に残ったのは、アンディだった。
 アンディは、知場に詰め寄られる紀田の表情をじっと見て、紀田の心理を読み取ろうとしていたのだった。だが、紀田が何かを隠していることは判ったものの、それが何なのかまでは、さすがに読み取れていなかった。
『Time is out』
 アンディは、紀田の心を読むのをあきらめた。
「Good luckヲ、祈ッテ下サイ」
 それだけ言って、アンディは八人の米兵に手で合図をした。八人の米兵は降ろしていた銃を担ぎ上げ、地下道へと入って行く。アンディはその後についた。
 地下道の中に入ると、三人が黒い壁のあたりで待っていた。いや、それは壁と言うよりは霧に近いもので、地上と違ってそれはごく薄く、向こう側が見通せる程度だった。
「じゃ、行くか」
 知場が米兵の半分とともに、最初に霧の中に踏み込む。
「…どうだ?」
 石見が声を掛けると、知場はしばらくあたりの気配を探ってから、答えた。
「大丈夫のようだ」
 四人の米兵の様子はと見ると、何やらしきりと頭を振ったり叩いたりしている。
「どうしたんだ、連中は?」
 アンディは霧の中に入った米兵と言葉をかわしてから、答えた。
「頭ガぼーっトスルソウデス」
「とにかく、入ってみましょ」
 石見たち三人と、残る米兵四人も、霧の中に踏み込む。
 ボワン、とした感覚を通り抜けると、そこは霧の内部だった。
「よし、前進だ」
「ちょっと待った! 後ろの連中、変だぞ」
 知場の言葉に、石見は振り返った。そして、眉をひそめた。後から入った米兵四人のうち三人が、倒れているのだ。石見は素早く駆け寄って、首筋に手を触れた。
「…三人とも、脈はある。眠っているだけのようだ。起こすか?」
 石見は人差し指を見せた。例のツボを使おうか、という意味らしい。
「いや、やめておけ。ここへ入っただけで眠り込むような連中じゃ、後でどんな足手まといになるか解らん。ほっとこう」
 知場がにべもなく言った。米兵の一人が何か言う。
「…彼ラモ言ッテイマス。『味方ノ身ニ何カアッタ時デモ、任務ノ遂行ヲ優先セヨ』ト命令サレテイルソウデス」
 アンディが通訳する。石見は小さくため息をついた。
「ほったらかしというのは、ちょっと気の毒な気もするが…仕方ないか」
 ふと、言葉が途切れた時。
 ドーン、ドーン、ドーン…
「…なんだ、あの音は?」
 知場が誰に言うともなく呟いた。耳を済ますと、地下道沿いに何か重々しい音が聞こえる。
「…この方角は、高輪台の方だ」
 石見が言う。
「とりあえず、地上に出て、音の方向に進んでみよう」
 知場の言葉で、一同は入ってきたのと反対向きの階段を登り、地上に出た。
 ふと空を見上げた石見が、愕然とした表情になった。
「でかすぎる…」
 石見が茫然と指さした先を、三人も見た。
 そこには、真昼だというのに、月が浮かんでいる。
 いや、ただの月ではない。石見が呟いた通り、それはあまりにも巨大すぎた。その直径は、普段の空に見られる月の大きさの三倍以上はある。巨大なだけではない。何より、それはまるで空の真ん中にぽっかりと大口を開けた暗黒の淵のごとく、やわらかな光を投げかける代わりに冷たい闇を滴らせているのだった。
「…なんだか、やな感じ」
 身振るいしながら亜梨沙が呟く。
「ええい、あんなもんはこけおどしに過ぎん! 前進あるのみだ!」
 知場が、勇を鼓すかのように大声を出して先頭を切った。それを合図に、全員が再び歩き始めた。ちょうどその行く手には、巨大な黒の月が、まるで戦いに赴く彼らをひと飲みにしようと待ち構える地獄の番犬のように、大きく黒々とした口を開けていた。

第二章 異音

 五反田から高輪台まで地上を進んでみたものの、地下で聞こえた音は聞こえてこない。それではと、都営地下鉄の高輪台駅から再び地下道に入ってみることにした。彼らが持ってきた懐中電燈の光以外には何の明るさも存在しない、真っ暗な地下道の中で耳をすますと、今度は確かに聞こえてくる。
 ドーン、ドーン、ドーン…
「…音の響き方がさっきとあんまり変わらないってことは、まだかなり距離がありそうだな」
 知場が誰に言うともなしに言った。石見は立ち止まり、腕組みをした。
「さっきより多少は近づいてるようだが、まだ遠いな。どうだろう、この状態じゃ地下鉄が走ってるわけはないし、音の方角を見失わないためには、このまま地下鉄の線路沿いに進んで行った方がよくはないか?」
 全員、異存はなかった。懐中電燈の光を頼りに地下鉄のホームから線路へと降り、音の方角に向かって、あたりの異常な気配に警戒しながら、ゆっくりと歩を進めた。
 都営地下鉄の浅草線は、高輪台から泉岳寺、大門を経て、三田へ通じている。その三田のホームまでたどり着いた時、石見は立ち止まって耳をすました。
「…音源はこの先じゃなさそうだぞ」
 知場も頷く。
「多分、三田線沿いだな」
 三田からは浅草線の他に、三田線も出ている。どうやら音は、三田線の地下道沿いに伝わってきていたらしい。それが浅草線の地下道沿いにも洩れてきていたのだ。案の定、三田線のホームまで来ると、音は急に鮮明に聞こえるようになった。今度は三田線の線路に降り、再び歩き始める。
 ドォン、ドオーン、ドオォーン、ドオオオーン…
 先へ進むにつれて音は次第に激しさを増し、やがて周囲の壁や足許までがビリビリと震えるほどになってくる。地下道の中は音が反響して逃げないためもあって、耳をふさいでいなければ耐えられないほどの大音響に満ちている。
 轟音は、大手町駅でピークに達した。ホームに上がり、音源をたどる。
 先頭に立っていた二人の米兵が、角を曲がった途端。
 ドゴオーン!
 瞬間、爆風かと思われるほどの轟音が鳴り響き、米兵がふっ飛ばされた。
 すぐ後ろに続いていた知場と石見は、鼻先をふっ飛ばされていく米兵たちの身体とぶつかりそうになって、慌てて身を引き、角の手前に隠れた。その位置から慎重に先の様子をうかがう。
 百メートルほど前方に、敵はいた。
 敵の前には巨大な筒のようなものが並んでいる。いや、それはよく見ると筒ではなく、太鼓だ。さっきの轟音は、この太鼓から発生したものらしい。
 敵は、太鼓を叩いていたスティックを止めて、やや甲高い、性急そうな声で話し掛けてきた。
「よく来たな、ヒガ大の落ちこぼれバスター諸君。私は西荒川大学悪夢研究会の小川敏明。ここが君たちの墓場となるのだ」
「えっ?」
「ここが、君たちの、墓場となるのだ!」
「何だって?」
「ここがぁ、きみたちのぉ、は・か・ば・となるのだ!」
「えっ? 太鼓の音で耳がバカになってて聞こえなぁい」
 小川の顔が、怒りにひきつった。
「ヤバい! ふせろっ!!」
 石見が叫ぶのとほぼ同時に、怒りに燃えた小川が、太鼓の連打を繰り出してきた。
 ドドドドドゴォォーン!!
 再び轟音が響き渡る。だが、とっさに伏せたおかげで、辛うじて全員が無傷ですんだ。
 自分の攻撃が失敗したことを、小川はさほど悔しがる様子も見せず、鼻で笑った。
「ふん、相変わらず運だけはいいようだな」
「相変わらず? どういう意味だ!?」
 石見が聞き返すと、小川は嘲るように言った。
「愚かな奴らめ。まだ気づいていないようだから教えてやろう。お前たちには前にも一度、魔王復活を邪魔されているのだ」
「魔王?…! あの事件は貴様らが裏で糸を引いていたのか!」
 石見が愕然とした表情で叫んだ。
 石見が思い出した『あの事件』とは、『タンタロス』事件のことであった。ダイエットにかこつけて人の生命を貪り喰らっていた餓鬼たちとの戦い、そして夢の中成長しつつあった、巨大で、しかも邪悪な何かを、彼ら四人の手で倒したことは、まだ四人の記憶にも新しかった。
 小川はふてぶてしい態度で言った。
「その通り。そしてまた先日は、武田先輩がお前たちをゴルディアスの罠に掛けようとしたのだが、先輩ともあろうものが何を間違えたのか、これも失敗してしまった。だが、今度はそうはいかん。『逆衛星の法』によって集めた強大なエネルギーを使って、今度は平井先生御自身が魔王となられるのだ」
 石見が、こみあげる怒りを隠そうともせず、叫んだ。
「平井を、魔王にだと…!? そんなバカげたことを、許してたまるか!」
 またも小川は鼻で笑った。
「ふん、お前たちごときに何ができる。さあ、おとなしくここで死にたまえ」
 小川がスティックを振り上げるより一瞬早く、知場が立ち上がって叫んだ。
「死ぬのはてめえの方だ! ふぁいやーっ!」
 叫ぶより早く、知場はマシンガンの引き金を引いた。
 タタタタタタタタタ………!
 引き金を引いたのは知場だけではない。知場の号令一下、米兵三人の構えたマシンガンの銃口が、火薬の炸裂する乾いた音を立てつつ、小川をめがけて火を吹いた。
 トトトトトトトトト………!
 小川は、銃弾を避けようとする素振りも見せず、ただ小刻みに小さめの太鼓を連打しただけだった。ところが、発生した音波は小川に向かっていた弾丸を全て弾き返してしまったのだ。もっとも、知場の射った弾丸は、弾き返されるまでもなくあらぬ方向へ飛んでいたが。
 知場は歯ぎしりし、小川は嘲笑った。
「愚かな! マシンガンごときで、私が倒せるものか! さあ、今度はこちらの番だ。さっきのようにはずしたりはしない。覚悟したまえ!」
 小川は、ひときわ大きい太鼓に向かってスティックを振り上げた。
 きききいいいいいいい。
 いきなり、歯にしみる音が響いた。
 同時に、今まさに太鼓を打ち鳴らそうとしていた小川が、なぜかスティックを放り出して耳を押さえ、のたうち回り始めた。
「なんだあ?」
 眉をしかめて、石見は音のする方を振り返った。
 歯にしみる音は、アンディの仕業だった。アンディが手近にあった黒板を、爪で思いっ切り引っ掻いたのだ。
「音楽得意ナ奴ラト聞イタノデ、ヒョットシテ変ナ音ガ苦手カモ、思イマシタ」
「はあ…?」
 石見はあんぐりと口を開けた。開いた口がふさがらなくなったらしい。
 それに比べて、知場の対応は早かった。あれこれ考える前に動いてしまう知場は、戦況が有利になったことしか目に入ってないのだ。
「よおーしアンディいいぞ、そのまま続けろ! ふぁいやーっ!」
 タタタタタタタタタ………!
 再び知場の号令一下、三つの銃口が一斉に火を吹いた。
 嵐のごとく振りそそぐ銃弾の前に、小川の肉体は引き裂かれ、骨は打ち砕かれていく。だが、死の直前、小川は恨みを込めて叫んだ。
「これで勝ったと思うな! 土佐先輩がもう一つの高層ビル街を必ずっ…!」
 地下道にこだまする凄じい銃声の中、小川の血の叫びは石見たちの耳に届き、その背筋を凍りつかせた。
 やがて銃声が止んだ後には、小川の姿は影も形もなくなっていた。あたりに飛び散った真っ赤な血が、かつてそこにいた人間の痕跡をとどめるのみである。
 後味の悪い思いを噛み殺すようにして、石見が知場の顔を見る。
「もうひとつの高層ビル街…ということは…」
「新宿か」
 知場が応じる。
 次の目的地は決まった。
 地上に出てすぐに、亜梨沙が空を見上げて指差した。
「見て! 月が…!」
 三人も月を見上げた。
 月の様子が、変わっていた。満ちたのだ。
 いや、それを『満ちた』と言ってよいのだろうか。確かに、真っ黒な円だった月は、今や三日月より少し細い程度の部分が光を放ち始めていた。ただ、その光は普段のやわらかな光とは似ても似つかない色だった。
「血の色だ…」
 石見が、かすれた声で呟いた。確かに、その月の輝きは、まさに血のように紅く、毒々しい色だった。それは、ついさっき銃弾に肉体を打ち砕かれて飛び散った小川の血の色を思い出させた。
「…先を急ぐぞ。まだ一人目だ」
 凄じい形相で月を睨みつけていた知場が、きびすを返した。
 一行がその場を後にして間もなく、背後でガラガラガラッと凄じい音が響いた。
 ハッとして振り返ると、小川の最後の執念だろうか、旧丸ビルが音を立てて崩れて行くところだった。

第三章 潔癖

 新宿へ向かう前に、四人は警視庁に寄ることにした。大手町付近から、警視庁までは、大して遠くはない。歩いても十分行ける距離だ。
 荒れ果てた都内で、ここだけはかなり活気にあふれていた。車も何台か動くのが残っているらしく、忙しげに出たり入ったりしている。建物の中には警察関係者ばかりではなく、普通のサラリーマンやOL、主婦、子供や老人の姿も見える。どうやら臨時の救済センターと化しているらしい。
 四人は真っ直ぐ猟奇課へと向かった。
「やあ、君たちは…」
 四人が部屋に入るとすぐに、脚に包帯を巻いた若い男が気づいて、ちょっとびっこを引きながら立ち上がった。
「こんにちは、大里さん」
 石見と亜梨沙はその男、大里と『ピグマリオ』事件で顔を合わせたことがあった。眠り込んだ平岡を病院へ連れて行ってもらうために、高見沢葵が呼んだ猟奇課の刑事だ。葵というのも同じく猟奇課の女刑事だが、あたりにその姿はなかった。猟奇課のボスである吉沢警視も、今は不在のようである。
 石見たちの視線に気づいて、大里は言った。
「吉沢警視も高見沢警部補も、今は救助活動に出ているよ。さっきまでぼくも出ていたんだが、御覧の通り怪我をしてしまってね」
 大里の話では、黒い壁が発生してしばらくすると、巨大化した蜘蛛やナメクジのような怪物が人々を襲い始め、警視庁もパニックになりかけたのだという。だが、その時騒ぎ立てていた連中に喝を入れたのが葵だった。葵は自ら先頭に立って怪物退治の指揮をとり、警視庁が蹂躙されるのを防ぎ、さらにあちこちで怪物に襲われている人たちを少しでも助けるために走り回っているらしい。
「なるほど、葵さんらしい」
 石見が苦笑しながら言う。
「だろう? 全く、あの人の女傑ぶりにはかなわな…っと、これは警部補どのには内緒だよ」
 大里もいたずらっぽく笑った。が、すぐに真顔になる。
「しかし正直言って、ここもいつまで持つか…今は怪物の攻撃もおさまっているが、銃弾も使い切ってしまったし、次に集団で襲われでもしたら…」
 アンディは危険を感じた。この空間は夢フィールド。となれば、物を言うのは精神力だ。不安や焦りが即、敗北につながる事もある。
「ならばこいつを葵さんとやらに渡しといてくれ」
 知場はいきなりサブマシンガンとライフルをどん、と机の上に放り出し、背負ったバッグから弾薬を取り出してその横に置いた。
 大里は驚いた表情を見せたが、すぐに喜んで礼を言った。
「ありがとう! これだけあれば戦いもかなり楽になる」
「礼は要らん。ただ、オレが持ってても使いもんにならんからな」
 知場はぶっきらぼうに答えた。
 だが、アンディはちょっと感心した。武器としてはわずかなものだが、知場が銃を渡したことで与えた安心感が、精神的に大きく響くのだ。これで警視庁も、しばらくは持つだろう。少なくとも、自分たち四人の戦いに決着が着くまでは。
 石見は最後に付け加えた。
「それから、葵さんに伝えておいて下さい。敵は西荒川大学の教授平井太郎と、悪夢研究会というサークルのメンバー六人。ただし、六人のうち二人は既に倒しました。後の四人について判っているのは、それぞれ楽器を武器にしている事と、何かに対する恐怖症を持っている事です。また立ち寄るかもしれませんから、情報が入ったら教えて下さい」
「解った、伝えておくよ。それで君たちは、これからどこに?」
「敵の一人が新宿にいるらしいことが判っているので、行ってきます」
 大里の表情が少しこわばった。
「そうか…ちくしょう、怪我さえしてなけりゃ、ぼくも君たちと一緒に行ってそいつと戦いたいところなんだが…」
 悔しそうに言う大里に向かって、石見は笑いかけた。
「あなたにはここを守るって仕事があるじゃないですか。新宿の敵の事は、我々にまかせといて下さい。きっと倒してきますから」
「…すまない。だが、くれぐれも気をつけてな」
 この事態を回避できるのは、彼ら四人をおいて他にはないことを、大里は刑事としての勘で感じているのかもしれなかった。
「そうだ。銃のかわりと言っては何だけど、車を一台、用立てさせてくれないか? その大荷物を抱えて徒歩では、大変だろう」
 願ってもないことだった。バスター四人と米兵三人、それにそれぞれの武器装備を積み込める大きさのバンを借りると、一行は一路、新宿へと向かった。



 新宿の高層ビル街が近づくにつれて、またもや音が聞こえてきた。バンのエンジン音にもかき消されずに、その音は車内に響く。
「…パイプオルガンみたいだな」
 知場の言う通り、それは紛れもなくパイプオルガンの音だった。音が次第に大きくなり、角のすぐ向こうで聞こえる位置に来た時、石見は運転していた米兵にバンを止めさせた。
「ここで降りよう」
 バンを降りて、こっそりと角まで歩み寄り、向こう側を覗く。果たしてビル街の一角で、一人の男がパイプオルガンを弾いていた。小太りで、ちょっと寝ぼけた坊っちゃん面の男だ。白の三つ揃いを着ているのが妙に似合っていて、それがかえってこっけいな感じを与える。
 ズズズズズズズ…
「…おい、これは何の音だ?」
 その時になって初めて、パイプオルガンの音とは別に、低く響く地鳴りのような音があたりに響いていることに、石見たちは気づいた。
「…ビル? そうよ、ビルが鳴ってるんだわ!」
「これがヤツの仕業か!?」
 亜梨沙と知場が驚きの声を上げた。何と、男の演奏しているパイプオルガンの音は、この新宿一帯の高層ビルに共鳴を惹き起こしているのだ。
 パシーン!!
 ビルのサッシのガラスが、振動に耐え切れなくなってひび割れ、地面に降り注いだ。カシャカシャカシャーンと、耳を塞ぎたくなるような甲高い悲鳴を上げて、ガラスの破片は続けざまに舗道に激突し、さらに細かく砕け散っていく。幸い、石見たちの隠れている場所からは離れたビルだったので事なきを得たが、石見は眉をひそめた。
「こいつはグズグズしていられないぞ。このままだと、この高層ビル街全体が崩壊するのも時間の問題だ」
「じゃあ早いとこヤツを倒しちまわねえと…」
「けど、あいつの弱点は?」
 まさに問題はそれだった。弱点を攻めない限り、敵にダメージを与えることができないのは、小川との戦いで既に証明済みだ。
「潔癖症ジャナイデスカ?」
 唐突に、アンディが言った。
「あん? こらアンディ、てめー当てずっぽう言ってんじゃねえよ」
 食ってかかる知場を、石見が止めた。
「いや、そうとばかりも言えないぞ。知場、ヤツの手元を見てみろ」
 なるほど観察してみると、時折神経質そうに手をウェットティッシュで拭いている。パイプオルガンは純白で、しかもピカピカに磨き上げられており、疵はおろか染みひとつない。おまけに、パイプオルガンの周囲十メートル四方ほどには真っ白なシーツが敷かれていて、この上にも埃ひとつ散っていない。
「大方、あのウェットティッシュも普通の物じゃないな」
 石見の言葉に、アンディが頷く。
「消毒液ニデモ浸シテアルノデショウ」
「となりゃ、やる事はひとつ。どっか近くにゴミ箱はないか?」
 知場はあたりを見回したが、さすがに自分の弱点になる物はあらかじめ片付けたらしい。あたりには汚い物、不潔なものは何一つ残っていない。
 ごちゃごちゃやっているのを気づかれたらしかった。相手は演奏の手を止め、バスターたちの方を見た。
「ほう、やっとお客様がいらしたか」
 やや間延びした声で、男は言った。
「客がオレたち七人だけとは、ずいぶんと寂しい演奏会だな」
 知場がとっさに皮肉を返す。男は笑った。
「演奏会などというのは、私のような真の芸術家にとっては邪道なのだよ。真の芸術を理解できない一般大衆に私の演奏を聞かせても、何の意味もない」
 石見が知場に囁いた。
「知場! 時間をかせげ。その間に俺たちがヤツを攻める準備をする」
 知場は返事をせず、石見の方を見もしなかった。男は、石見たちの考えには気づかずにしゃべり続ける。
「…そこへいくと、君たちはまだマシだ。少なくとも私の演奏が何を惹き起こすか、それだけは理解できるようだからね。だから、お客様として歓迎申し上げようというのだ。感謝したまえ」
「オレたちを客だと言うのなら、せめて奏者の名前ぐらい聞いておきたいな」
「おっと、私としたことが、これは失礼。申し遅れたが、私の名は土佐 光司(とさ・こうじ)。よろしくお見知りおきを」
 土佐はいったん立ち上がり、知場の方へ向けて深々と一礼すると、再び席について演奏を始めた。同時に、今まで鳴りやんでいたビルの鳴動が再び始まる。
 ピシピシピシ…
 遂に、コンクリートや外壁のタイルが連続的にひび割れる音が、絶え間なく聞こえ始めた。剥げ落ちたタイルの破片が、舗道にバラバラと降り注ぐ。
 だが次の瞬間、バスターたちも攻撃に転じていた。
 アンディは泥ダンゴを作って投げた。ただし、『作って』ではない。作って、である。近くの植え込みの土を掘り起こして、それをダンゴにしたのだ。
 だが、投げる瞬間、アンディは自分の身体がいつもより重いのに気づいた。まるで、土佐の奏でるメロディーが身体に絡みついてくるかのようだ。腰の回転も、腕の振りも、自分の身体ではないかのように鈍い。キレが悪い、という感じなのだ。
 べちゃ。
 狙いが少しそれて、泥ダンゴは土佐の身体には当たらなかった。だがその代わり、土佐の演奏しているパイプオルガンに見事に命中した。途端に土佐は、思いっきり迷惑そうな顔をして、片手を鍵盤から離すと、ウェットティッシュでパイプオルガンの汚れを拭き始める。
 石見は、墨汁のビンを『作って』投げた。こちらは精神力で『製作』したものだ。だが、アンディと同じく、土佐の奏でるメロディーの干渉で動きを妨げられるのと遠すぎるのとで、墨汁のビンはあらぬ方向へ飛んで行く。
 知場は、パイプオルガンを取り巻く白いシーツの上に脚を一歩踏み入れた。
「うあっちちち!」
 ジュッと煙が上がり、知場が飛び跳ねて一歩下がった。この白いシーツは、一種の結界の役割を果たしていて、土佐の周囲に汚れたものが侵入するのを防ぐ役目があるらしい。
 亜梨沙はゴミ入りのゴミ袋を『作り』、シーツぎりぎりの位置までダッシュして接近し、ゴミ袋を思いっきり放った。
 どちゃっ。
「ナイス・コントロール!」
 亜梨沙が歓声をあげた。ゴミ袋が土佐に命中したのだ。白の三つ揃いを着た土佐の腕のあたりに、玉ネギの半分腐った皮やら魚の骨やら、ともかくいろんな生ゴミが出てくる。
「うひぇええええええっっっ!!」
 土佐は情けない悲鳴を上げた。
「今だっ! ふぁいやーっ!」
 知場の号令一下、マシンガンを一斉射撃する米兵たち。だが、一瞬早く土佐は逃げ出して、射線をかわす。銃弾はパイプオルガンを打ち砕いただけで終わった。パイプオルガンが壊れたと同時に、ビル街の鳴動もピタッと鳴りやむ。
「逃がすかっ!」
 京王プラザホテルに逃げ込んでいく土佐を、石見は即座に追いかけた。アンディ、亜梨沙がすぐ後に続き、知場と米兵たちもわずかに遅れて後を追う。だが、今一歩というところで追いつけない。石見たちがホテルのロビーに駆け込んだ時には、土佐の乗ったエレベーターの扉が既に閉じかけているところだった。銃を構える暇もなく、扉は完全に閉じ、そのまま上へと昇っていく。
「オレは階段から追う! ゆー、かもん!」
 米兵を一人連れて、知場は階段を駆け登り始めた。
「相変わらず突撃な奴だ…相手がどこまで昇るか確かめもせんと」
 呆れたように石見は呟き、エレベーターが最上階まで昇ったのを確かめて、無線機のマイクに話しかけた。
「知場、土佐は一番上まで行った。俺たちは今からエレベーターで追う」
『了解!!』
 息をはずませた知場の声が、無線機から返る。
「アンディ、米兵さんのうち一人だけ、ここに見張りに残ってもらってくれ。俺たちに万一の事があったら、階段で知場を追ってもらう」
「All right」
 一階に米兵を一人残すと、もう一台のエレベーターで後を追う。エレベーターは何事もなく最上階へと着いた。
 知場を追い越して最上階に出ると、屋上への扉が開いていて、汚れた服が脱ぎ捨ててある。少し待っていると、知場が階段の方から走ってきた。一緒に走ってきた米兵ともども、息も絶え絶えといった感じだ。それでも、荒い息で知場は言った。
「はあ、はあ、ヤツは?」
「屋上だ。行くぞ」
 屋上への扉の陰から、用心深くその先を覗く。
 階段室を出たすぐ先に、ゴミにまみれた土佐のスーツが脱ぎ捨ててある。その先に、土佐がいた。土佐は何かの機械の前に立ってそれを操作している。石見はホルスターの拳銃に手を掛けたが、すぐに引いた。
「だめだ…機械が邪魔でここからじゃ狙えない」
「任セテ下サイ」
 アンディは言うなり、ポケットから取り出した野球のボールを投げた。ボールは大きく弧を描いて機械を回り込み、見事に土佐の背中に命中した。
「次は、あたしの番!」
 土佐がのけぞった隙を突いて、亜梨沙が飛び出しざまにヨーヨーを投げた。ヨーヨーのチェーンが土佐の身体に絡みついた。
「よし、捕った!」
 石見と知場も飛び出して、土佐を押さえつける。土佐はジタバタしたが、ヨーヨーで縛り上げられた上に男二人がかりで押さえ込まれては、身動きもならない。
 一息ついて、石見たちはあたりを見た。土佐が立っていた場所のすぐそばに、透明なチューブのようなものが口を開けているのに気づき、石見は土佐の身体を引き起こして、問い詰めようとした。
 その時。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
 不気味な鳴動が響き渡り始めた。足許からその振動は伝わってくる。
「地震か?…いや違う、ビルだ! まずい、このビル崩れるぜ!!」
 知場が叫ぶ。亜梨沙が顔色を変えた。
「早く下へ逃げなきゃ!」
「いや、だめだ! 下へ逃げても間に合わん! アンディ、下に残ってる米兵さんに無線で連絡しろ。すぐこのビルから出るように言うんだ!」
「OK!」
 アンディに素早く指示した石見は、再び土佐の方に向き直った。
「おい! どうやって脱出するつもりだったんだ?」
 土佐は唇をきつく結び、首を横に振る。
「ほーお、そういう態度を取れる立場だと思ってるのか? どうしても答えないとあれば、もう一度ゴミを…」
 ゴミ、と聞いた途端、土佐の顔はべそをかいたようになった。
「い、言う! そのチューブが脱出口だ! そのチューブの先が彼女のところへ…」
 そこまで言ってハッとなり、土佐は再び口をつぐんだ。
「彼女…? 彼女ってのは、一体何者だ!?」
 知場がさらに問い詰めた。が、ブルブルと震え、青ざめた顔をしながらも、土佐は口をつぐんだままだ。そうしている間にも、ビルの振動はどんどん激しくなっていく。ビルが崩れるまで、もう時間はほとんど残っていなかった。
 これ以上ここで土佐を問い詰めている暇はない。このチューブの先に待ち受けているのが敵であるとしても、今は先へ進むしかない。
「俺に続けっ!」
 石見は落ちていた土佐の服を拾い上げて、ジタバタする土佐の頭にひっかぶせ、突き飛ばすようにして一緒にチューブへ飛び込んだ。続いてアンディ、亜梨沙、米兵二人、最後に知場が飛び込んだ。
 直後、爆発音かと思われるほどひときわ大きな音が響いた。透明なチューブの中から振り返ってみると、後ろで京王プラザホテルが崩壊して行く。
「まさに間一髪。危ない所だった…」
 だが、息をつく間はなかった。そうしている間にも、チューブは新宿から、フジテレビのビルや、市ケ谷駐屯地の近くを通って行く。やがて後楽園遊園地が正面に見え始めた頃、チューブの通過する高度が次第に下がり始めた。眼前に迫り来る建物は、東京ドーム。
「なるほど、次はあそこか…」
 汚れたスーツを頭からかぶせられてもがいている土佐を押さえつけたままの石見が、ドームを見ながら言った。だが目をそらした隙に、その行く手にキラリと光るものが迫っている事に石見は気づかない。
 そして、気づいた時には、手遅れだった。

第四章 高所

 ぞぐっ!
 肉を貫くいやな音がした。
 チューブの出口近くに、槍が仕掛けてあったのだ。アンディたちが気づいた時には既に遅く、土佐の身体が無残にも串刺しになっていた。
 そして、石見の身体も真っ赤な血で染まっている。
「石見!?」
「石見さん!?」
 石見が振り返った。
「返り血だ。心配ない」
 当の石見と瀕死の土佐を除く、全員が呆気にとられた。
「…怪我しなかったのか? ホントに?」
「俺はよほど日頃の行ないがいいらしいな」
 事もなげに石見は言って、肩をすくめた。
 次の瞬間、全員チューブの口から放り出され、落ちた所はビッグエッグの屋根の上である。
「おい、土佐! しっかりしろ!」
 今や血だらけになったスーツを顔からはぎ取って、石見は土佐の身体を揺さぶった。だが、既にその眼は光を失いかけている。
「…ひど…い…と…みな…が…さん…ぼ…くま…」
「何だ!? 何が言いたい…! 死んだか…」
 見開いたままの土佐の眼を、手で覆うようにして閉じると、石見は素早くあたりに注意を配って、言った。
「…あの音は?」
「…下からだな」
 足下から琴の音色が響いているのだ。知場が言う。
「とりあえず、ここじゃ何にもできん。下に降りなきゃ話にならんが、そうするとロープが要るな」
「あたしのヨーヨーじゃダメかな? 何たって伝説のサキさんヨーヨーだし」
 亜梨沙はヨーヨーのチェーンを目一杯伸ばしてみたが、残念そうに首を振った。
「ダメか…十メートルがやっとね」
 米兵と話していたアンディが言った。
「彼ラモろーぷヲ持ッテイルソウデスガ、長サハヤハリ十めーとる程度ダソウデス」
「つないでも下までは届かんか…しゃーない、アンディ、『作』ろうぜ」
 知場とアンディは向かい合うと、互いに掌と掌とを合わせて目を閉じた。
「…下まで届くロープ、出ろ!」
 合わせた掌が、ぶわっと光を放ち、光はやがて六十メートルほどの長さの丈夫そうなロープに姿を変えた。
「よーし、準備はOK。さっそく下へ…げーっ!」
 下を見降ろした亜梨沙が、いきなり気味悪そうに声をあげた。他の三人もすぐに下を覗き込んだが、途端に思わず息を飲んだ。
 東京ドームの出入口という出入口からゾロゾロと、カエル、ミミズ、ヘビ、トカゲ、クモ、ナメクジ、etc…とにかくありとあらゆる昆虫や爬虫類や両棲類や軟体動物が、次から次へと群れをなして出てくる。それだけではない。そのどれもが、人の大きさほどもある巨大生物なのだ。
「Look!」
 今度はアンディが叫んだ。いつの間にか四人が覗いていたのとは反対側から、一匹の巨大なクモが音もなく這い上がって来ていたのだ。図体の割に恐ろしく素早い動きで、クモは音もなく迫ってくる。
「先手必勝! ふぁいやーっ!」
 二発の銃声が響いた。知場の号令一下、米兵が単発にしたマシンガンでクモの脚を狙い撃ったのだ。弾丸は二本の前脚の、ちょうど関節のあたりに命中した。二本の脚を折られてしまい、さすがにクモの動きが止まった。だが、その眼はまだらんらんと輝いている。闘志…そのようなものがクモにあるとすればだが…は少しも衰えていないようだ。
「チャンス!」
 すかさず亜梨沙がヨーヨーを繰り出した。
 シャァァーン!
 鎖が、クモに向かって伸びる。さながら獲物を捕らえんとするクモの糸のように。
 ガキッ!
 激しい音を立ててヨーヨーはクモの頭部に命中し、複眼のひとつを叩き潰した。さらにその回転は止まらず、ギュルギュルとクモの頭の中に食い込んでいく。だが、それでもなおクモは生きている。
「さすがにしぶといな…ならば!」
 石見は初めて、ホルスターから拳銃を抜いた。狙いを定め、引き金を引く。
 ターン!
 乾いた音を響かせて、石見の拳銃が火を吹いた。
 バシュッ!
 銃弾はヨーヨーが潰したのとは反対側の複眼を貫いた。クモの身体は、銃弾の勢いで後ろに弾き飛ばされ、そのまま下に落ちていった。
「銃を射つのは生まれて初めてだったんだが、意外と当たるもんだな」
 ため息をついて拳銃を見つめながら、石見が言う。米兵と言葉を交わしていたアンディが、笑いを噛み殺しながら石見に話しかけた。
「石見、Youノ事、へっけるトじゃっけるガ賞メテマスヨ。Good Gun−Manダッテ。U.S.NAVYニ入ラナイカト言ッテマス」
「おいおい、勘弁しろよ」
 石見は苦笑したが、すぐ真顔になった。
「あの虫たちがドームの中から出てくるって事は…」
「敵はオレたちの足の下か」
 石見と知場は頷き合い、石見が足許、即ちドームの屋根に剣を突き立てた。そのままくるりと円を描き、屋根に穴を開ける。屋根が切れ落ちる一歩手前で石見は剣を止め、下に落ちないようにそっと持ち上げた。その穴から下を覗くと、緋色の巨大な絨毯の上で、振袖姿の長い黒髪の女が、一心に琴を弾いている。
「見ろ、あの振袖!」
 石見が抑えた声で驚きを示した。よく見ると、振袖の柄が虫やカエルで、音楽に合わせてその柄が立体化し、巨大化して表へ這い出して行くのだ。それだけではない。地面からは巨大化したもぐらやミミズ、オケラなどが次から次へとあふれるように出てくる。
「何だか身体がムズムズしてきたぞ」
「私モデス」
 知場とアンディがもぞもぞし始めた。
「うっげー!」
 二人を見た亜梨沙が、またも気味悪そうな声をあげた。
 どうやら、琴の音色で巨大化するのは虫やナメクジばかりではないらしかった。体内の大腸菌だのミトコンドリアだのが巨大化して体外に這い出し始めたのだ。米兵二人も、知場やアンディと同じ運命の様子。
「どうして石見と亜梨沙は平気なんだ?」
 もぞもぞしながら知場が首を傾げた。その拍子に、何匹かの大腸菌がぼろぼろっと落ちた。だが、大腸菌その他諸々は、後から後から、とめどなくわいてくる。
「だから日頃の行ないの差だろ」
 石見が平然と言う。
「…このイヤミ信介が」
 知場は苦い顔をしたが、すぐに真剣な顔になった。
「マジな話、どうする? 面倒だから手榴弾でも放り込むか」
「いや、そいつはまずい。万が一あの女に生き残られたら、ヤツはあの虫たちを一斉に俺たちに向けて襲いかからせるだろう。そうなったら目もあてられんぞ」
「でも虫に襲われるのは、下に降りたっておんなじことじゃない?」
 石見は腕組みをして、目を閉じた。
「要は、下にいる虫たちをこっちに差し向けるゆとりを与えずに、あの女が琴を弾くのをやめさせればいいわけだよな…」
 やがて、石見は再び目を開け、にっ、と笑う。
「吊り上げよう」
「えっ?」
「あん?」
「What?」
 ほぼ同時に、三人は疑問の声をあげた。
「さっき知場とアンディが『作』ったロープはまだ残してあるな? よし。それはそのままにして、今度はトリモチ弾を『作』ってくれ」
「トリモチ弾? 何だ、そりゃ?」
「ランチャーで射てる型で、先端にグレネードの代わりに強力接着剤入りの割れやすい容器が付いてる弾だ。それと、後ろの端にはロープを結びつけられるフックが付いてなくちゃいけない。解るか?」
 知場とアンディは首をひねったが、やがて頷いた。
「ともかく、やってみよう。…トリモチ弾、出ろ!」
 二人の手には、ランチャーの弾が出現した。知場が言う。
「多分、注文通りだと思うぜ。先っちょには強力瞬間接着剤が入ってる…はずだ」
 石見は頷いた。
「よし。そいつにロープを結びつけて、ランチャーに装填する」
 知場が膝を叩いた。
「なあるほど! それで『吊り上げる』わけか。しかし、誰が射つ?」
「アンディ、米兵さんに…ヘッケルとジャッケルだっけ?…頼んでみてくれないか」
 アンディは頷き、米兵と話したが、やがて首を横に振った。
「ダメデス。彼ラモ身体ガもぞもぞシテ、正確ナ射撃ヲスル自信ガナイソウデス」
 石見は、やれやれ、と言いたげにため息をついた。
「となると…俺がやるしかないか。言い出しっぺでもあることだし」
 知場も頷く。
「ま、妥当な線だな。さっきのクモとの戦いでも、石見の腕は証明済みだ」
 石見はトリモチ弾が装填されたランチャーを受け取り、屋根に開けた穴から女を狙った。だが、すぐにランチャーのスコープから目を離す。
「ダメだ…ここからじゃ遠すぎて、狙いが定まらない」
 見守っていた全員の顔に、やはりダメか、という失望の色が浮かんだ。だが、石見はまたも腕組みをして目を閉じた。そして再び目を開き、にっ、と笑う。
「アンディ、ヘッケルとジャッケルの持ってるロープを出してもらってくれ。それから亜梨沙ちゃん、サキさんのヨーヨーのチェーンをそのロープにつないでくれ。絶対ほどけないように、しっかり結んでくれよ」
「??? OK」
 何が何やら解らないまま、亜梨沙は二本のロープを結び、さらにヨーヨーのチェーンをそれに結んだ。石見は満足そうに頷いた。
「これでざっと三十メートル位にはなったな。そいつで俺の身体を吊り下げて、降りられるとこまで降りて、そこから狙う」
「Wait! ブラ下ゲラレタママデ狙ウ気デスカ?」
 アンディが目をむいた。石見は平然と言い返した。
「ここから狙うよりはマシなはずだ」
 石見は、米兵が持っていた命綱をつなぐための保安ベルトを腰に着けて、ロープのフックを取り付けた。反対の端のヨーヨーのチェーンは手近なフレームの一本に結びつける。トリモチ弾に付けたロープも、そのフレームに巻きつけておく。
「二本のロープを同時に繰り出していって、俺に付けたロープが伸び切るまで下に降ろしてくれ。そしてトリモチ弾に付けたもう一方のロープは、自由に飛んでいけるようにゆるめておくこと。知場、お前はそのロープの反対の端を俺と同じように保安ベルトで付けておいてくれ。命中したら、そのまま身体ごと飛び降りて女を吊り上げるんだ。OK? よし、じゃ頼む」
 米兵二人の手で、石見の身体は宙吊りになり、徐々に下へと降りていく。やがてロープがピン、と伸び切った。幸いなことに、女は琴の演奏に熱中していて、石見には全く気づいていないようだ。
 石見は宙ぶらりんのままで揺れが収まるのを待つと、女の背中に狙いを定めた。
 シュート!
 途端に、石見の身体が大きく揺れ動いた。
「しまった!」
 石見の表情が歪む。
 地に脚が着いてない状態では、弾丸を発射した時の反動を殺せないことを、石見は計算に入れていなかったのだ。そのため、狙いが微妙にそれる。
「! 失敗か!?」
 瞬間、知場たちも緊張した。
 べちゃ。
 石見の強運は、まさに悪魔的だった。トリモチは狙った背中からはそれたが、代わりに女の髪の毛にベットリと張りつく。即座に石見が叫んだ。
「今だっ、知場! 引けぇーっ!」
「おうっ!」
 ロープの反対の端を身体に付けた知場が、屋根から飛び降りる。
 キュルキュルキュルッ!
 ロープとそれを巻きつけたフレームが激しく擦れ合う音がした。
「キャアアアア、痛いイタイいたい!」
 凄じいわめき声をあげながら女が吊り上げられてくる。
「知場!」
「石見!」
 空中で腕を伸ばし、二人はがっしりと腕をつかみ合う。三人の身体は、ちょうどドームの天井と地面の中間あたりで宙ぶらりんになった。
「イヤアアアア、揺れてるゆれてるユレテル!」
 なおも叫びながらもがき続ける女を、石見は押さえつけた。
「あんまり暴れられると危ないのでね、しばらくおとなしくしててくれ」
 言うなり石見は、素早く女の耳の後ろを突いた。眠りのツボである。女は、途端にがっくりと首を垂れた。
 琴の演奏が止まると同時に、新たな蟲の出現はピタリと止まった。既に出現していた蟲も、それ以上巨大化する事はなく、巨大化しかけていたものも出現したばかりのものも、みんなそのままのサイズで立ち去って行き、やがてドームの中にあふれていた蟲の姿は全て消え、静けさを取り戻した。
「OK、まず俺を引き上げてくれ」
 石見がまず引き上げられ、次に女の番だった。当然、反対側にくっついている知場は、女と逆に下へ降りて行く。
 上がって来た石見に、アンディが声を掛けた。
「石見、へっけるトじゃっけるガ賞メテマスヨ。Good sniperダッテネ。殺シ屋ニナッタラドウカト言ッテマス」
「だから、勘弁しろってば!」
 一方、下に降りた知場の目の前には、さっきまで女が弾いていた琴があった。
「この琴、残しておいて後で面倒が起こるとまずいからな。行きがけの駄賃だ」
 知場は一人呟いて、腰のベルトから手榴弾を取ると、それを琴の弦の間に仕掛けた。そして、手榴弾のピンにテグスを取り付ける。
「知場ぁ、そろそろ引き上げるぞ! いいか!?」
 先に屋根に上がった石見が、下に向かって叫んだ。
「OKだ! ゆっくり上げてくれ」
 知場はロープで引っ張り上げられるスピードに合わせて、テグスをゆっくりと伸ばしていった。そして、ほぼ真ん中あたりまで来た時に、テグスをくいっと引っ張った。手榴弾のピンが抜ける。
 どかあぁーん!!
 数秒後、下から爆風とともに爆発音が響いた。女が弾いていた琴は粉々に砕け散った。だが、それで終わりではなかった。
 琴を爆破したとたん、琴の下に敷いてあった緋色の絨毯が、まるで生き物のようにめくれあがって知場に襲いかかったのだ。
「うわっと!」
 間一髪、絨毯は知場の足をかすめた。
 しかし、そこまでだった。絨毯は一度めくれあがると、その後はへなへなと崩れ、やがて琴の火が引火して燃え尽きてしまった。後には灰だけが残った。
 知場が上り切ると同時に、必要のなくなったロープとトリモチは消滅した。急いで石見が付けていたロープをほどくと、その一本で女を素早く縛り上げる。
「さて、この女どうする? 少なくとも次の敵がどこにいるのか、そいつを聞き出す必要はあると思うが」
 知場の言葉に、他の三人も頷いた。
「でも、どうやって? さっきの二人みたいにうまく弱点を突ければ聞き出せるかもしれないけど、この人の弱点って判んないよ」
 亜梨沙が困った顔をすると、石見が口を開いた。
「いや、それについては俺に考えがあるんだ。ひょっとするとこの女、高所恐怖症じゃないかと思う」
「どうして判るの?」
 石見は、女の額を指差した。
「ひどく汗をかいているだろう? それに顔色も悪い。どうもこの汗は冷や汗じゃないかと思うんだ。つまり吊り上げられた瞬間に、恐怖のあまりかいた汗じゃないかと」
 知場が割り込んだ。
「試してみりゃ判るこった。とりあえずそこの穴からぶら下げて、目を覚まさせてみようぜ」
 再び女の身体を穴から吊り下げておいてから、石見は目覚めのツボ、頭頂点を突いた。女はパチッと目を開け、一瞬何が起こったのか判らない様子であたりを見回した。そして、石見と目が合った瞬間、悔しげな光が女の目に走った。
「どうやら、してやられたようね。殺すんならひと思いに殺しなさいよ」
 石見は眉をひそめたが、すぐに何食わぬ顔で女に話しかけた。
「誰も殺すとは言ってない。お前がいくつかの質問に答えてくれれば…」
 女は石見の言葉を遮った。
「話す事など何もないわ。さっさとおやりなさい」
 今度はアンディが話しかけた。
「Youダッテ、死ニタクナイデショウ。ツナヒキノ余地ガアルト思イマスガ」
 知場がコケる。
「おいおい、それを言うなら『取り引き』だって」
 しかし女は、ニコリともしなかった。
「ふん、あんたたち正義を気取ったヤツらのやり口は判ってるわ。聞きたい事を聞き出してしまった後で、結局はあたしを殺すつもりでしょう? 誰があんたたちの口車に乗るもんか」
 石見は首をひねる。
「どっちかと言うと、それは悪役の手口じゃないのか?」
「同じ事よ。勝てば官軍、負ければ賊軍…どんなに汚い事をしようと、勝てばそれが正義になる。でも、あたしは負けないわ! あたしはあたしの信念を貫いてみせる」
「ソンナニ意地ヲ張ラナイデ、私タチニ協力シテクレマセンカ。決シテ悪イヨウニハシマセンカラ」
 アンディは精一杯の猫なで声を出した。女はしばらくの間アンディの顔をじっと見つめ、やがてフン、と鼻で笑った。
「あたしをたらしこもうとしても無駄よ。ちょっとくらい顔がきれいで変装がうまいからって、いい気になるんじゃないわよ。あたしの目はごまかされないわ」
 途端に、アンディの顔色が変わる。
「ソレハ、一体ドウイウ意味デスカ?」
 女は余裕の笑みを浮かべた。
「あら、言って欲しいの? そんなはずないわよね。他の人に知られては、困るのじゃなくって?」
 アンディは唇をかみしめた。
「おい石見、この女ホントに高所恐怖症か?」
 ずっと黙っていた知場が、石見に耳打ちした。石見は再び目を閉じ、考え込む。
「…攻め方を変えてみるか」
「あ? どういう意味だ、そりゃ?」
 知場には答えずに、石見は女の耳の後ろをトン、と突いた。再び女は、がっくりと首を垂れて眠り込む。そうしておいてから石見は、女の身体を引っ張り上げて米兵二人に抱えさせると、おもむろに言った。
「行くぞ」
「行くって、どこへ?」
 亜梨沙の問いに、石見は後楽園遊園地を指差した。
「ちょっと息抜きに、あそこで遊んで行こうかと思ってね」



 後楽園遊園地には、遊ぶ人や係員はおろか、猫の子一匹すら見当たらず、ただひっそりと静まり返っていた。メリーゴーラウンドやティーカップ、ジェットコースター…機械も全部止まっていて、不気味な感じさえする。
 知る人ぞ知る野外劇場には、五色のコスチュームを着たのやら怪獣の服を着たのやらが、折り重なるようにしてゴロゴロ倒れている。ヒーローショーのリハーサルをやっている最中に壁に取り込まれて、眠り込んでしまったのだろう。
「さてと、まずはここの機械を動かさない事には話にならないんだが…すまんがみんな、スイッチを探してくれないか」
 眠り込んだままの女を米兵たちに任せて、四人はそれぞれ遊園地内に散らばり、スイッチを探してあちこち調べ回り始めた。
 だが、ほどなく遊園地中の明かりが片っ端から点き始め、同時に機械も一斉に動き出した。これから調べようとしていたアンディなどは拍子抜けした思いで、元の場所に戻った。
「いやあ、悪い悪い。あんなに簡単に見つかるとは思ってなかったもんで」
 石見が頭を掻いて笑っている。どうやら見つけたのは当の石見本人だったようだ。
「普通そう簡単には見つからないと思うんだけどね」
 亜梨沙が呆れたように首を振る。
「どうせそれも日頃の行ないだって言いたいんだろ」
 知場が言うと、石見は肩をすくめた。
「まあな。それより次は、あれだ」
 石見が指差したのは、スカイフラワーだった。
「…スカイフラワーで、どうしようってんだ?」
 知場の視線は疑わしげだ。
「まあいいからいいから、とにかく俺に任せておけって」
 石見は自信ありげに言うと、米兵を促して女をスカイフラワーの乗り場へと運ばせて行った。やむをえず、三人も後に従う。
 石見は女を縛り上げたままスカイフラワーに乗せ、目を覚まさせた。
「ほんっとーに、こんなんで効くのか?」
 石見と一緒にスカイフラワーに乗った知場が、さっきよりもなおいっそう疑わしそうに、石見に聞く。石見は短く答えた。
「やってみれば判る」
「ねえ、それって定員二人なんじゃないの?」
 亜梨沙が心配そうに声をかける。
「大丈夫だろ、三人ともそれほど体重は重くないみたいだから」
 気楽に答えて、石見は女の様子を見た。どうやら石見の策は図に当たったようだ。動き出す前から女はブルブル震え、青ざめている。
「よぉーしアンディ、スタートだ」
 石見が声を掛けるのを待って、アンディはスカイフラワーのスイッチを操作した。スイッチといっても、押しボタンやトグルスイッチではない。スイッチボックスに乗せてある磁石を、ボックスの横にカチンと触れさせるだけだ。
 スカイフラワーが上に向かって動き出した途端、女はみっともないほど激しい叫び声を上げた。
「イヤァァァ、止めてトメテとめてぇぇぇ!」
「止めて欲しかったら、後の二人の名前と居場所、それに恐怖症を教えろ」
 石見は精一杯凄みを効かせた声を出した。ほとんど悪役ノリである。
 女は必死に口をつぐんで耐えた。スカイフラワーが降りて行く間ずっと目を閉じて、歯を食いしばっていた。だが、それも一度だけの事だった。二度目に昇り始めたところで、遂に耐え切れなくなったらしく、女は降伏した。
「言う、言うわよ! 言うから止めてっ!」
「よし。おーいアンディ、止めてくれ」
 アンディは首を傾げた。
「止メルト言ッテモ、ドウヤッテ止メルンデスカ、コレ?」
「…あ、いけね。スカイフラワーって、一度動かしたら下に戻るまで止まらないんだ。悪いけど、もう一回我慢してちょうだい」
 石見がとぼけた顔で言った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…」
 女の叫び声が尾を引いて、後楽園遊園地に響き渡った。



 下に降りた時には既に、女は精も根も尽き果てたといった有り様で、石見たちの質問にも素直に答えた。
「まず、名前を聞いておこうか」
「富永明子」
「俺たちは既に、小川と土佐を破った。お前を除けば、お前たちの仲間は後二人残っているはずだ。そいつらの名前は?」
「…的場君と、河村さんよ」
「男? 女?」
「男よ、二人とも」
「そいつらにも弱点の恐怖症があるはずだな。それは何だ?」
 富永は少し躊躇したが、やがてあきらめたように言った。
「的場君は閉所恐怖症よ。河村さんは、何かの色に対する恐怖症らしいわ」
「何色なんだ?」
「そこまでは判らないわ。河村さんはそれを、仲間の私たちにも隠していたから」
「なるほど…で、その二人は今どこにいる?」
「一人は東京タワーにいるわ。もう一人は…」
 その時、すぐ足許の地面がモコッと盛り上がった。思わず石見たちは飛びすざる。
 地面から出現したのは、巨大ナメクジだった。四人が驚く間もなくナメクジは富永に襲いかかった。
「まずい!」
 石見は銃を構えたが、もはや手遅れだった。富永の身体は既に半分以上がナメクジに飲み込まれていて、助けようがない。
「平井先生、私のエネルギーをお役立て下さいっ…!」
 最後の叫びを遺して、富永の身体は完全にナメクジに飲み尽くされてしまった。
「くそっ! これでも喰らえ!」
 知場の合図で、米兵が火炎放射器を使った。すさまじい勢いで噴き出す炎に、ナメクジは瞬時にして焼きつくされ、後には黒焦げの塊が残るのみ。
「エネルギーを役立てる?…! まさか!」
 ハッとなった石見は、月を見上げる。
 半月になっている。
「しまった!」
 石見はうめいた。
「どうした!?」
 知場の問いに、石見は悲壮な表情で答えた。
「一人目で三日月、三人目で半月…あの月は恐らく、このフィールド内で集められている精神エネルギーの量を示すメーターになっているんだ。そして、こいつら闇バスターの強大な精神エネルギーを受け取って、あの月が急速に太ってる! こいつらを死なせてしまっては、結局平井の野望を実現に近づけてしまうだけだぞ!」
「! すると、あの月が満月になった時、平井は魔王になる…?」
「ああ。そして恐らく俺たちが死んでも、その精神エネルギーであの月は太る。バスターの精神エネルギーは、普通人とは比較にならないくらい大きなものだからな」
「それにしても、まさか味方であるはずの闇バスターたちのエネルギーまで利用するとは、平井め…」
 知場は唇を噛んだ。石見は続けた。
「これで、俺たちの仕事はさらに難しくなった。残る二人の闇バスターの活動を止めることはもちろんだが、決して彼らを殺してはならない。しかも俺たち自身、何が何でも生き残らなくちゃならないんだ」
 亜梨沙が明るく言った。
「当然じゃん。殺さないのはともかく、あたしたちが生き残るのはね」
 三人は亜梨沙の顔を見た。亜梨沙は三人に笑顔を返した。
「いつだってあたしたち、生き残るために戦って来たんじゃない? 今度だって、きっと。ね?」
「………そうだな。亜梨沙ちゃんの言う通りだ」
 石見も苦笑して頷く。
「行こうぜ。次の目標は、とりあえず東京タワーだな」
 知場はにこりともせずにそっけなく言って、さっさと車に戻ろうとした。
「ちょい待ち!」
 石見が知場を呼び止めた。面倒臭そうに知場は振り返る。
「何だ、まだ何かあんのか?」
 石見はこめかみに人差し指を当てて考えるポーズを取った。
「残る二人のうち一人は、色に対する恐怖症だと言ってただろう? だったら、あれが使えるんじゃないかと思ってな」
 石見が言いながら指差したのは、野外劇場の方角。
「………何を考えてるんだ?」
 知場が眉をひそめて聞く。石見は平然と答えた。
「とっても素直なこと」

第五章 閉所

 警視庁前に、一台の車が乗りつけた。
 中から降りる六人の人影。そのうちの一人は外人で、いかにも兵士然とした戦闘服姿。しかし、他の五人は………。
 制服警官の一人が見とがめて、声を掛けた。
「おい、何だね君たちは!?」
 五人の姿は見るからに怪しげだった。まあ、無理もない。それぞれ赤、青、黄、緑、ピンクの五色の派手なコスチュームを身に着け、あまつさえ同色の仮面を着けた連中がいきなり現われれば、誰だって疑いのひとつも持とうというもの。
「葵さん…じゃなかった、高見沢警部補から何もお聞きになってませんか? さっき無線で連絡しておいた、ヒガ大の夢研の者なんですが」
 赤のコスチュームを着た男が、仮面を取った。石見である。
 ヒガ大の夢研と聞いて警官は、はたと思い当たったような顔をした。
「ああ、それじゃ君たちが…しかし、その格好は一体…?」
 石見は肩をすくめた。
「ちょっと理由がありましてね。説明すると長くなるんですが。ところであお…高見沢警部補は、いらっしゃいますか?」
 賢明な読者諸氏は既にお解りの事だろう。石見の『とっても素直な』考えというのは、こうだった。『河村という敵の恐怖症が何色に対するものかは判らないが、五色揃ってれば何とかなるだろう…』
 警官は頷いた。
「ああ、君たちの到着を待ちかねておられたようだ」
 ちょうどそこに、葵が警視庁の玄関から出てきた。葵は四人の顔を見るなり、せっぱつまった声を上げながら駆け寄ってきた。
「ああ、君たち来てくれたのね! この状況をなんとかしてちょうだい、お願いよ!」
 二人の声が全く同じトーンでハモる。
 四人は目を丸くした。
「葵さん、双子だったんですか?」
 石見が聞くと、葵は…二人の葵が…首がねじ切れそうな勢いで頭を横に振った。
「そうじゃないのよ! こいつは…」
 二人の葵が互いにもう一人の葵を指差す。
「…モンスターが私に化けてるのよ!」
「はあ!?」
 興奮した様子の『葵たち』(文字通り『葵』の複数形)を何とかなだめて、聞き出した話の概略はこうだった。一時間ほど前、警視庁が再びモンスターの襲撃に遭ったが、知場が残した武器のおかげもあってどうにか撃退に成功した。ところが、葵が油断した隙に一匹のアメーバ状のモンスターに絡みつかれ、もみあいながら転げ回っているうちに、いつの間にか葵が二人になっていたのだ。つまり、二人の葵のうちどちらかはモンスターが化けた偽物だという事になる。それから一時間、葵しか知らないはずの事件に関する事や、家族構成、趣味に特技、果ては好みのタイプの男性に至るまで、まさしく根掘り葉掘り質問攻めに遭ったのだが、どれも全く同じ答えが、ほとんど同時に返ってくるばかり。どちらが本物だと、はっきり断言する決め手にはならないと言うのだ。
「とにかく、もう我慢できないわ! これじゃ武器も持たせてもらえないどころか、警視庁からも出られない。まるっきり身動きが取れないのよ! お願い、何とか私が本物だって、見極めてちょうだい!」
「判りました、判りましたからそうステレオで興奮しないで下さいよ!」
 またヒステリーを起こしかけた『葵たち』を石見は必死に止めてから、少し離れて亜梨沙に耳打ちした。
「本物を見分けると言っても、葵さんの事について俺たちが知ってる事なんてたかが知れてるしなあ…」
「それに、そんな事やっても無駄じゃない? これまでにも散々、同じ警察の人たちに質問されてるみたいだし」
「となると…」
 石見は同意を求めるように亜梨沙の顔を見た。
「やっぱり…」
 亜梨沙の眼にも、同様の色が浮かんでいる。
「あれしかないか…」
 はあ、と二人の口から同時にため息が洩れる。
「おいおい、何二人して悩んでんだよ?」
 知場が怪訝な顔をする。アンディも何だかよく解らないと言いたげな表情だ。石見は二人の顔を見て少し考えたようだったが、やがて意を決したように手振りで二人を招き寄せ、こっそり耳打ちした。
「実は、葵さんを見分ける方法があるかも知れないんだ」
 知場とアンディは驚く。
「何だ、そんなもんがあるんだったら、とっとと済ませて先へ進もうぜ。一体そりゃあ、どんな方法なんだ?」
「済まんが知場、アンディ、あの二人…二人の葵さんを少し引き離して、俺が合図を送ったら同時にこっそり耳打ちしてくれんか」
「何を?」
 石見はその言葉を二人に教え、二人は怪訝そうな顔をしながらも納得した。
 知場とアンディは石見の言った通り、まず二人の葵を引き分けて、離れた所でそれぞれ、ある言葉を囁いた。その言葉とは………
「オバサン」
 反応は瞬時に、そして同時に起こった。
「オバサンなんてひどおーい!」
 バシッ!
 泣き出されたのがアンディ。無言でひっぱたかれたのが知場。
 石見が瞬間的に叫ぶ。
「アンディ、離れろ! そっちがニセ者だ!」
 一瞬、遅かった。正体が露見したことに気づいたニセ葵は、瞬時に不定形に戻り、今度は一番近くにいたアンディに飛びついたのだ。石見たちがしまったと思った時には既に手遅れである。転げ回るうちに今度はアンディが二人になってしまっていた。
 途端に、緊張の糸が切れたのか、葵はその場にへなへなと座り込んでしまった。
「…とりあえず、本物の葵さんが誰かは、判りましたよ」
 葵に向かって石見が言うと、葵は呆然とした顔で答えた。
「…え、ええ…あ、ありがとう…」
「振り出しに戻る、か」
 やれやれと言いたそうに亜梨沙が呟いた。
「うまい手だと思ったんだがなあ」
 石見はボリボリと頭を掻いた。
「こうなる事を判っててやらせたのか、貴様ら?」
 頬にくっきりと手形をつけられた知場が、眼を細めてにらむ。
「まあ、そう怒るなよ。とりあえず、今度はアンディをどうにかしなきゃ。とは言っても、さっきと同じ手は使えないし…」
 石見はまたも考え込んだ。亜梨沙も首をひねる。
「考えてみると、アンディってけっこー謎なのよね。どうやったら見分けがつくのかしら?」
「ええい、面倒だ! このまま両方とも一緒に連れて行ってしまうってのはどうだ? 変身してるってだけで、これといって特に実害はないんだし、うまくすりゃあ味方になってくれるかもしれんぞ」
 知場が言う。だが、石見はにべもなく反対した。
「バカ言え! いくら今は実害がないからと言っても、相手が『この世ならざるもの』である事に変わりはないんだぞ! それに万が一、向こうに着いた所で敵に化けられたらどうする!? ただでさえ手ごわい相手だってのに、これ以上アメーバみたいに増殖されたらたまらんわい!」
 う〜む。三人は揃ってうなった。
「魔球、投ゲテミマショウ」
 アンディが…二人のアンディが言った。石見がポンと手を叩く。
「なるほど、一理ある。姿形や知識は真似できても、特技までは簡単に真似できないだろう」
 突然、アンディの一人が逃げ出した。モンスターもこれでは正体がばれる事を悟ったらしい。だが、知場の反応は早かった。
「正体現わしたな! 逃がすかっ! ふぁいやーっ!」
 知場の号令とほとんど同時に、油断なく構えていたヘッケルとジャッケルがマシンガンを掃射した。アンディの姿をしていたモンスターは、逃げながら既にその姿を元の不定形に戻しつつあったが、無数の鉛弾を喰らってあっという間にグジュグジュとしたゼリー状の塊と化し、やがてピクリとも動かなくなった。
「ちょっと余計な手間を食ってしまったな。先を急ごうぜ」
 知場は事もなげに言って、動かなくなったゼリーの塊に背を向けた。



 東京タワーの周辺は、いつもなら修学旅行生やはとバス観光の客などで、それなりに賑わう様子を見せているのだが、この日ばかりは全く違った様相を呈していた。電気も消え、人気も完全に途絶えた東京タワーが黒い空に向かってそそり立つ姿は、今や死に瀕している東京という名の大都市の剥き出しになった骨を思わせ、寂しさを越えて不気味さすら漂わせていた。
 そして、血塗られた東京の骨の最突端から聞こえてくるメロディーは、バイオリンの妙なる響きだった。二つのバイオリンの音色は複雑に絡まり合い、それを振り仰ぐ者にさらなる恐怖を与えんとしていた。
「あの高さだ。高所恐怖症って事はないな」
 石見のボケに知場がツッコむ。
「あたりまえだろ。お前、富永の話を聞いてなかったのか?」
「言ってみただけだよ。しかし、こいつはやはり…」
「ああ、これ見よがしにあんなとこにいるやつだ。大方、よっぽどだだっぴろいとこが好きなんだろうな」
 亜梨沙が頷いた。
「ふむ。裏を返せばつまり…」
 アンディが後を引き取って続ける。
「閉所恐怖症…ツマリ的場、デスネ?」
 うむうむと頷き合う四人。
「けど、どうやって引きずり降ろすの?」
「トリアエズ知場、階段デ登ッテミマスカ?」
「勘弁しろよ。さすがに新宿で懲りた」
「それに、やつがどんな攻撃を仕掛けてくるか見当がつかん。相手が待ち構えてる所にのこのこ正面から出向くほど、バカな話はない。エレベーターにもどんな仕掛けがしてあることか…ともかく、東京タワー自体を登って行くのは、まずい気がする」
「それじゃあヘリコプターとかは、どう?」
 亜梨沙の提案にも、石見は首を傾げた。
「それもどうかな。ヘリがバラバラと音をたてて接近したら、これから攻撃しますよと宣伝してるようなもんだし…何か、音をたてずに、それもできれば高空から接近できる方法があればいいんだが…」
「ソレデハ、気球カ飛行船デスカ?」
「いや、あれは騒音うんぬんの以前に目立ちすぎる。隠密行動には不向きだ。それに、でかい分だけ機動性にも欠ける」
 イライラした様子で知場が声を荒げた。
「じゃあ、一体どうすんだよ? さっきから否定するばっかで、話が建設的な方向にまるっきり行ってねえぞ」
 知場に問い詰められて、石見は言葉に詰まった。
「う、うむ…」
 その時、ヘッケルとジャッケルが何やら慌ててアンディに声を掛けた。アンディはそれに答え、何か言葉をかわしてから、三人に言った。
「興奮シテイルノデ、ヨク解ラナイノデスガ、トニカクアノ双眼鏡ヲ覗イテミロト言ッテマス」
 石見は頷いてヘッケルから双眼鏡を受け取り、東京タワーのてっぺんにいる的場を見上げた。そして、そのままあんぐりと口を開けた。
「どうしたんだ?」
 石見は黙って知場に双眼鏡を渡す。開いた口は塞がっていない。知場は怪訝な顔で双眼鏡で上を見ると、これまたあんぐりと口を開けた。続いて亜梨沙がその手から双眼鏡をひったくるように取り、自分も覗いてこれまたあんぐり。
 最後にアンディが、双眼鏡を覗いた。
「!?」
 双眼鏡に映ったのは、二本のバイオリンを同時に弾きこなしている男の姿だった。
 二本のバイオリンを、四本の腕で弾いているのだ!! つまり、左右にそれぞれ二本ずつ、二対の腕が的場の肩から生えているのである!
 だが、立ち直りが一番早かったのは知場だった。
「ここが夢フィールドだって事を忘れてたぜ! 何のこたあない、ヤツは腕を『作』っていやがるだけの事じゃねえか!」
 途端に亜梨沙がハッとなる。
「そっか! って事は、あたしたちも…」
「腕ヲ『作』ルンデスカ?」
「違うわよ! 翼を『作』ればいいんじゃない!」
 四人は顔を見合わせる。
「うーむ。その手があったか」
「よし、その線で作戦を整理してみよう…」
 飛ぶ方法さえ決まってしまえば、後の作戦は簡単に決まった。まず陽動作戦を機動隊に頼み、人形をエレベーターに乗せてもらって敵の注意を惹きつけておく。人形は東京タワーの三階にある蝋人形舘から調達する。その間に、バスターの四人は大きな麻布の四隅をそれぞれ持って、接近に気づかれないよう少し離れた場所から翼を『作』って離陸。充分高空に上がり、東京タワーの真上から一気に急降下して、敵を包み込んでしまおうという作戦である。
 一時間と経たないうちに、猟奇課の手配で駆けつけた機動隊が現われた。
「敵の注意を惹きつけるだけでいいんです。あなたたちは決して上に登ろうなんて考えないで下さい、いいですね?」
 石見が念を押すように言うと、現われた部隊の隊長は軽く笑った。
「なあに、心配御無用。どんな力を持っているかは知らんが、所詮たった一人の民間人。我々だけでも十分…」
「ダメです! あなたはヤツを甘く見てる! ヤツの力はあなたたちの想像できるような代物ではないんだ!」
 隊長は一瞬たじろいだが、またすぐに人を食ったような笑みを浮かべた。
「解った解った、仰せの通りにいたしますよ。仰せの通りにね」
 石見は憮然たる面持ちで、去って行く隊長の後ろ姿を見送った。
「何だよ、あれは? ハナっからこっちの事をバカにしきってやがる!」
「ねえ、あの人、石見さんの言う事聞くと思う?」
「今の人を食ったような笑いが、最後まで続けばいいんだがな…とにかく、行こう。いずれにせよ、ここは彼らに任せるしかない」
 石見たちはヘッケルとジャッケルをその場に残し、増上寺まで移動した。ここからなら、かなり眼がよくても飛び立つ石見たちを確認する事はできないだろう。
「さて、それじゃぼちぼち準備しますか」
 そう言って石見は、精神を集中し始めた。
「我に空を自在に舞う力を与えたまえ…いでよ、我が心の翼よ!」
 石見の背中から、後光のように光があふれた。やがて光がおさまると、石見の背中には一対のたくましい純白の翼が生えていた。
 知場や亜梨沙の背中にも、石見と同様の鳥のような翼が出現する。ただ、アンディだけは少し違っていた。
「…アンディ、そりゃお前どーゆーイメージだ?」
 石見が眉をひそめる。アンディの背中に生えたのは、蝙蝠…あるいは悪魔の翼としか思えない、骨と皮でできた真っ黒な翼だったのだ。
「コレハ趣味ノ問題デスカラ」
「…あーそうかい」
「このコスチュームに翼がついちゃうと、何だか『ガッチャマン』みたいね」
「…亜梨沙ちゃん、よくそんな古い番組知ってるね」
「あれ? そんなに古かったっけ?」
「大方再放送でも見たんだろ」
 アンディの腰にぶら下げた無線機が音をたてた。
「作戦開始ハマダカ、ト文句言ッテマス」
「やれやれ、せっかちな連中だ…それじゃ、行きますか」
 用意してきた五メートル四方くらいの麻布の四隅をそれぞれしっかりと握りしめ、四人は大空へとはばたいた。四人はそのままグングンと高度を上げて行く。的場に奇襲をかけるためには、少なくとも上空四百メートル程度までは昇る必要がある。
 だが、肝心の的場の元にたどり着く前に、対決せねばならない敵が存在した。
 風である。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 突風にあおられ、石見と亜梨沙がバランスを崩した。
「大丈夫か!?」
 二人を気遣って声を掛ける知場も、決して無事とは言えない。アンディも、自分の姿勢を保つのがやっとだ。
 しかし、バスターとしての精神力の賜物か、それとも『ここで死ぬわけにはいかない』という使命感からか、四人は辛うじて持ちこたえた。強風に翻弄されながらも、必死の思いで彼らは飛び続け、遂にタワー上空に到達した。
 真下に敵の姿が見える。どうやら下を見ていて、四人には気づいていない。機動隊の陽動作戦が効を奏しているようだ。
 四人は慎重に狙いを定め、石見が手で合図をすると同時に、一斉に急降下を開始した。
 だが、運命の悪戯かそれとも神の試練なのか、風はまたも彼らを妨げた。
「きゃあっ!」
 体重が軽いので風にもてあそばれやすいのか、またも亜梨沙が悲鳴を上げた。
「どわあっ!」
 亜梨沙だけではない。今度は知場までが風にあおられた。しかも今度の風はさっきよりはるかに強く、二人は耐え切れず持っていた布の端を手から離してしまう。
 ぎりぎり持ちこたえた石見が、アンディに叫ぶ。
「やり直しはきかない! このまま行くぞ!」
「OK!」
 ちょうど対角線上にいた二人は、そのまま急降下を続けた。
 ばさっ!
「やったあ!」
「ナイス!」
 空中でどうにか体勢を立て直し、二人の行方を心配そうに見守っていた亜梨沙と知場が歓声を上げた。成功したのだ!
 タワーの先端にいた的場は、その先端ごと布をかぶせられてしまった。石見とアンディは的場に動く隙を与えず、素早くタワー頂上の周囲をぐるっと回って、端と端とを結びつけた。さらにその上からロープでぐるぐる巻きにし、的場の動きを完全に封じ込めてしまった。
「うわあああ、せまいよー、こわいよー、だしてよー!」
 いきなり情けない声を上げて泣き叫ぶ的場に向かって、石見は問い詰めた。
「お前たちの最後の仲間、河村は今どこにいる!?」
「いつものとこだよおー、はやくだしてくれよおー!」
「いつものとこってのは、一体どこだ!?」
 答えは返ってこない。代わりに、泣きじゃくる声が聞こえてきた。的場は恐怖に耐え切れず、とうとう泣き出してしまったのだ。
 一方、石見たちもこれ以上この高空での飛行を続けるのは困難になりつつあった。
「やむをえん、いったんこいつを下に降ろそう」
「と言っても、どうやって? 下手にこの布を取っちまったら、ヤツは元気を取り戻してどんな手に出てくるか解らんぜ」
 知場の懸念はもっともだった。石見も頷き、考え込む。
「…ちょっと荒っぽいが、この際しかたないか」
 石見たちは的場をそのままにして、下へ舞い降りた。
 ヘッケルとジャッケルが駆け寄ってくる。慌てている様子だ。アンディが通訳する。
「…ドウヤラサッキノ隊長サン、オ亡クナラレタミタイネ」
「!」
 ヘッケルとジャッケルの説明によれば、機動隊は最初石見の言った通り、エレベーターで蝋人形を上へ昇らせたのだそうだ。ところが、その後自分たちもこっそりと非常階段から上を目指したのである。
「…ソレヲ的場ニ気ヅカレテ、攻撃サレタネ。隊長以下、全滅ミタイデス」
 後になって、機動隊員の遺体やエレベーターに載せた人形の状態を調べて判明した事だが、この時の的場の攻撃は、電気的なものだったらしい。的場の持っていたバイオリンは音波だけではなく、電気振動を発生させる事もできたのだ。
「だから手を出すなと言ったんだ…無駄な犠牲を増やすだけだから…!」
 石見は唇を噛んだ。
 地上で待機していた別部隊の隊長は、仲間の全滅という事態にすっかり萎縮してしまっていて、石見の要請にも逆らう様子を全く見せなかった。
 石見の要請とは、『東京タワー頂部を熔断して地上に降ろす』という事である。すぐに作業は開始され、二時間ほどで終了した。
 だが、それは失敗だった。
 地上に降ろされ、布を取り払われた的場の眼は、既に光を失い、うつろになっていたのだ。
「…精神崩壊ヲ起コシテマス」
 心理学の心得があるアンディが、沈痛な面持ちで説明するのを、三人はやり切れない思いで聞いた。
 天を振り仰ぐ。
 月は再び膨らんでいた。
「肉体だけ生かしても、精神を殺してしまっては同じ結果か…くそっ!」
 知場は歯がみしたが、後の祭りである。石見は自分自身に言い聞かせるように言った。
「過ぎた事を悔んでも仕方がない。こうなってしまった以上、我々に残された道はただひとつ、最後の敵を探す事だけだ。だが、的場が言っていた『いつもの所』とは一体…?」
「西荒川大ッテ、ドコニアリマスカ?」
 突然のアンディの言葉に、三人は鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、ポカンと口を開けた。
「…そうだよ。当たり前じゃないか。やつらの本拠が、他のどこだってんだ?」
 石見が唖然とした顔で呟けば、知場も頭を抱える。
「…考えてみたら、オレたち目先の事に引っ掛けられっぱなしで、本筋をたどる事をまるっきり忘れてたぜ」
「ああ、全くだ。正直、自分の間抜けさ加減に少々自己嫌悪を感じるよ。だが、そうと決まれば話は早い。このまま西荒川大にのり込むか」
 意見の統一を図るまでもなく、四人の意志は決まっていた。ヘッケル・ジャッケルを伴い、四人は敵の本拠、西荒川大学のキャンパスを目指して、再び行動を開始した。
 だが、西荒川大のキャンパスを囲むレンガ塀が見えてきたあたりで、なぜか石見は急に車を止めさせた。

第六章 宿敵

「どうした? 敵の本拠はもう目の前だってのに、こんなとこで止まったりして」
 知場はやや不満そうな声を上げた。だが、石見の眼は知場の方には向けられず、静かに閉じられていた。石見が何かを考えている時は、必ずこんな表情になる。やがて、石見はゆっくりと瞼を上げた。
「…力技だが、物量作戦で一気に勝負を決めるか」
「物量って、お前何を考えてんだ?」
 石見はおもむろに説明し始めた。
「まず、タンク車を何台か用意する。それに、それぞれ違う色のペンキを満タンにして、こっちに来てもらうんだ。そして、河村とかいうヤツの恐怖症が何色に対するものか見極めた上で、その色のペンキを一気に放出する。用意する色は、赤、青、黄、緑、ピンク、紫…他に何か要るかな? 三原色さえ揃ってれば、大抵の色は混ぜて作ればいいはずなんだが」
「金ト銀ガアレバbetterデスネ」
 アンディの言葉に石見は頷いた。
「よし、それじゃ用意するタンク車はしめて八台って事でいいな?」
 石見は無線機のスイッチを入れた。
「こちらはヒガ大の石見。警視庁猟奇課、聞こえますか? どうぞ」
 しばらく間を置いて、応答が返ってくる。
『こちら警視庁猟奇課、高見沢。感度良好、どうぞ』
「葵さん、済みませんが今からぼくが言う物を揃えて下さい。いいですか? どうぞ」
『OK、いいわよ。どうぞ』
「まず、タンク車を八台。そのそれぞれのタンクに、赤、青、気、緑、ピンク、紫、金、銀の八色のペンキを満タンに詰めたら、西荒川大の方に回して欲しいんです。お願いできますか? どうぞ」
 最初の間よりかなり長い間を置いて、返事があった。
『…何を企んでるのか知らないけど、それが敵を倒すのにどうしても必要なの? どうぞ』
「ええ、そうです。どうぞ」
『…解ったわ。ここは君たちを信用しましょ。ただ、すぐには無理よ。何時間か掛かると思うわ。それでも構わない? どうぞ』
「この際、二時間や三時間は関係ありません。待ちますよ。どうぞ」
『了解。準備でき次第そっちに向かわせるわ。どうぞ』
「お願いします。交信終わり」



 やがて用意された八台のタンク車と共に、四人は西荒川大の正門を目指してゆっくりと前進を開始した。そして正門の少し手前まで来た所で、相手に気づかれる事を懸念して車を止めると、石見たちは車を降り、徒歩で正門に接近して行った。
 どこかで聞き覚えのあるメロディーが流れてくる。石見が首を傾げた。
「…何の音だ?」
「シンセサイザーだな。音が固い」
 音楽に多少素養のある知場が答えた。
 四人が正門の陰から構内を覗き込むと、正門から入った先の、時計台の手前に続いている銀杏並木の向こうに、シンセサイザーを操る男の姿が見える。
「おそらく、あれが最後の敵、河村だな」
 河村は演奏に熱中していて、こちらの様子には気づいていないようだ。
「アノ時計、何カ変デハアリマセンカ?」
 アンディが正面の時計台を指差した。
 なるほどアンディの言う通り、その時計は普通ではなかった。いや、確かにそれは『異常』だった。
 なぜかその時計は、文字盤が鏡に映ったように裏返しなのだ。だが、知場は言った。
「とにかく、今はヤツを倒す事が先決だ。時計は後で調べればいい」
 石見は頷いた。
「知場の言う事ももっともだ。しかし、ヤツの恐れる色とは、一体何色なんだ? それが判らないことには…待てよ。確かこの曲は…」
 石見は、しばし河村の演奏に耳を傾け、やがてポンと手を叩いた。
「思い出した! 『想い出のグリーングラス』だ!」
「グリーン…ってことは、あいつは緑がお気に入りってことかしら?」
 知場がにやりと笑った。
「よおーし、そうかそうか。では、思いっ切り反対の色をぶつけてやれ。赤ペンキ車、前へ!」
 知場が合図を送ると、赤のペンキを満載したタンク車が、ゆっくりと前進して、正門前に止まった。
「放出!」
 ボボボボボボボボボボボ…
 ポンプが稼働する重々しい音と共に、ドロッとした赤ペンキがタンクから流れ出した。それは巨大な怪物の舌のように長々と伸び、銀杏並木の通りを真っ赤に塗り潰しながら次第に河村の方へと迫って行く。
 河村もさすがに気づいたらしく、シンセサイザー演奏のテンポを変え、リズムを早くした。途端に、銀杏並木の枝々や、通り沿いの建物に貼りついていたつる草がモゾモゾと動き出し、ペンキの流れを阻止しようと動き出す。
 だが、それも所詮は無駄なあがきだった。木々や草たちは、圧倒的なペンキの流れに覆われ、見る間に真っ赤に染めつくされて力を失い、動かなくなった。
 あまりにもあっけなく、勝負は着いてしまった。今や抵抗する気力さえ失い、シンセサイザーのキーボードに突っ伏してしまった河村に向かって、知場と河村はペンキに滑って転ばないように用心しながら近づき、楽々と縛り上げてから空を見上げた。
「…OKだ。まだ月は満月になっていないぜ」
 無表情が売りの知場も、さすがに声が嬉しそうだ。石見も笑顔で頷く。
「ああ。残るは平井太郎ただ一人だ。となれば、まだ彼らの野望を阻止することも可能かも知れない!」
 アンディと亜梨沙も、ホッと息をついた。
 だがその時、四人の耳にある音色が響き渡った。
 聞き覚えのある音色。石見の、そして知場、亜梨沙の表情が、一瞬にしてこわばる。
「まさか………!」
 それは、澄んだフルートの音色だった。
「まさか…! まさか、あいつは………!」
 石見は愕然とした表情で呟き、フルートの音色の方に目を向けた。そして、奏者が誰なのかを見た途端、うめくように言った。
「武田…貴様、生きていたのか!」
 フルートを口に当てて、ゆるやかに吹き鳴らしながら現われたその男は、三人が見忘れようはずがない、武田明宏だった。
 アンディを除く三人が、危うく生命を失いかけたあの『ゴルディアス』事件で、依頼人のふりをして三人の前に現われ、三人を罠に掛けた張本人。そして、石見の剣を受けた直後、自ら用いた吸血植物の罠に落ちて死んだと思われていた男である。
 武田は、あくまでゆっくりとした動作でフルートを口許から離し、静かに笑みを浮かべて口を開いた。
「久し振りだね、ヒガ大のバスター諸君。そして、よくここまでたどり着いたと賞めてやろう。だが、ここまでだ。これ以上、平井先生の邪魔はさせないよ」
 そう言うと、武田は石見一人を威圧するように見すえた。石見も負けじと睨み返す。
「石見君、だったね。この間は見事にしてやられたよ。まさか尖端恐怖症を見抜かれていたとはね。おかげで…」
 武田は言いながら、袖をぐいとまくりあげた。その腕には、石見の剣によって受けたものだろう、生々しい傷跡が残っている。
「こんな醜い傷を負わされてしまうとは、私とした事がとんだ不覚だったよ。しかし、今度はそうはいかない。断っておくが、尖端恐怖症は既に克服したからね。もはや私に恐れるものはないのさ! この腕と、そして私のプライドに受けた傷の借りは、今日この場できっちりと返させていただくよ」
 そこまで言うと武田は、おもむろに右手のフルートを四人に見せるように持ち上げた。
「このフルートが夢の世界では銃になる事は、この間体験済みだろう。だが、このフルートにはまだ君たちの知らない秘密があるんだよ。いいかい、このフルートはね、たった一発しか撃つことができないんだ。しかしその代わり、狙った的は決してはずさない。文字通り『一発必中』というわけさ。当然の事ながら君たちには、ここで全員死んでもらうことになるが、まず最初に、この『一発必中』のフルートによって処刑される栄誉を…」
 武田はフルートを構え、狙いを石見にピタリと定めた。
「君にあげよう」
 知場が石見の前に立ちふさがった。
「知場、どけ! 奴の狙いは俺だ!」
 だが知場は動こうとせず、代わりに答えた。
「オレたちの中じゃ、お前の剣の腕が一番頼りになる。オレが倒れたら、奴を切れ!」
 武田はニヤリ、と笑った。
「いい度胸だ。だが、果たしてそううまく行くかな? 死にたまえ」
 銃声が轟いた。

第七章 消失

「秘技、『実はそこにいた』!!」


 その瞬間、銃声とほとんど同時に響いた声を、四人の誰もが懐かしく感じた。
 だが、次の瞬間、懐かしさは悲しみに変わった。
「………先生………紀田先生!?」
 武田のフルートから発射された凶弾を受けて倒れたのは、紀田順一その人であった。
『一体どうやってここに?』
『夢フィールドには入れないはずじゃなかったのか?』
『どうして?』
『What do you think?』
 それぞれの疑問が、四人の頭の中で猛烈に渦を巻いた。だが、呆然としてしまった四人を、苦しげな息の下から紀田が必死に叱咤した。
「何をぐずぐずしている! 早く、早くお前たちの手で奴を倒さんか! そんなことでは、次の成績も…」
 それだけ言うと紀田は、ゴフッ、と血を吐いた。白いYシャツに、真っ赤な染みが広がる。
 思わぬ紀田の妨害に遭って石見を仕損じた武田は、チッ、と舌打ちをして、フルートを左手に持ち替え、もうひとつの武器である組み紐を繰り出した。しゅるしゅると蛇の舌のような微かな音をたてながら、組み紐がまたも石見に迫る。
 亜梨沙はとっさに、伸びてくる組み紐をめがけてヨーヨーを投げた。組み紐とチェーンが、空中で交錯する。だが、勝利を収めたのは組み紐の方だった。ヨーヨーは組み紐に弾かれてしまい、むなしく亜梨沙の手元に戻った。
 石見は組み紐を避けようとしなかった。虎徹を抜き放ち、迫る組み紐を見すえる。そして、その紐の先端が身体に触れようとする刹那、剣の切先で払った。
 しかし、組み紐の攻撃は執拗だった。払い落とされるかに見えた組み紐は、虎徹の切先を柔軟に受け止め、するりと絡みついた。武田がクッと手首を返すと、虎徹は石見の手からあっさりと奪い取られてしまった。
 次の瞬間、戦局は急変した。
 アンディが、こう叫んだのだ。
「Let it rain sugar!」
 武田の頭上から、白い粉が降りそそぐ。途端に、武田の表情から余裕が消え、一気に恐怖の表情へと変わった。
 アンディは、武田の周囲に砂糖の雨を降らせたのだ。武田はその場に組み紐とフルートを両方とも放り出し、逃げ腰になった。組み紐と一緒に、石見の手から奪われた虎徹も、ガシャンと金属音をあげて地面に落ちる。
 武田が見せた隙を逃さず、亜梨沙は再びヨーヨーを投げた。今度の狙いは武田本人だ。狙いはあやまたず、ヨーヨーは武田の身体を捕らえ、ギリギリと縛り上げた。
「尖端恐怖症は克服しても、甘い物に対する恐怖症までは克服していなかったらしいな。『頭隠して尻隠さず』とはこの事だぜ。パイ、出ろ!」
 ぼおっ、と光った知場の手の平に、大きくて真っ白い、とても甘そうなパイが出現した。知場はそれを片手に持って肩のあたりにおかもちの格好で構えると、今や身動きもならなくなった武田に向かって突っ込んで行った。
 べちゃ。
 子供がいやいやをするように首を横に振っている武田の、恐怖に歪んだ端正な顔に、知場は力まかせにパイを叩きつけた。
 石見は虎徹を拾い上げ、武田に走り寄った。その眼は憎しみに燃えている。石見は武田の横に仁王立ちになると、虎徹の切先を今にも武田の顔面めがけて振り下ろさんとした。
「まて、石見! そいつを殺すな!」
 とっさの知場の叫びに、石見の動きが止まる。石見はしばし怒りに肩を震わせていたが、やがて剣をゆっくりと降ろして、言った。
「こいつの始末はまかせる」
 亜梨沙は、用のなくなったヨーヨーのチェーンを手からはずし、倒れている紀田の元に駆け寄った。石見も虎徹を鞘に収めると、紀田の元に向かう。
 亜梨沙が紀田の頭を抱えて助け起こすと、紀田は閉じていた眼をゆっくりと開き、二人の顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「…よく…やった…お前たち…。よく…ここまで…成長…したな…。私は…お前たちの…ような…いい教え子を…持てた事を…誇りに…思う…」
 依頼人に紹介する時はいざ知らず、面と向かって紀田が賞めてくれるのは初めての事だった。
「よくやってなんか、ないです…」
 亜梨沙は瞳に涙を浮かべて、言った。
「しっかりして下さい、先生! 帰ったら…俺たちが生きて帰ったら、昔の話を詳しく聞かせてくれる約束だったじゃないですか!」
 石見が必死に叫んだ。しかし、紀田はそれには答えずに、言った。
「さよならは、言わない…待っている…」
 ふと石見たちが気づくと、紀田の輪郭が次第にぼやけ始めていた。そして、紀田が目を閉じた途端、急速にその姿が薄れていく。
「先生!?」
 思わず力を込めて紀田を引き止めようとした亜梨沙の腕が、フッ、と空を切った。
 紀田の身体が、消滅したのだ。
「!…実体じゃ、なかった…?」
 石見は、紀田の身体が消えたあたりを見つめて、呆然と呟いた。
 一方、知場は武田のフルートを拾い上げ、腰のベルトに差すと、アンディに目で合図を送った。アンディは頷き、武田の口許あたりにべっとりついたパイを拭い取った。だが、その目が驚きに見開かれる。
「知場! コノ人、息ヲシテイマセン!」
「なにっ!?」
 知場も驚いて駆け寄った。
 遅かった。武田は、死んでいた。
「バニラエッセンスのあまーい匂いを吸い込むのが死んでも嫌だったってわけか…。だからってホントに死ぬまで息を止めるバカが普通いるか!? くそったれが!!」
 やり場のない怒りを吐き出すように、知場は呟き、空を見上げた。石見も、亜梨沙も、そしてアンディも、それぞれにやり切れない思いを胸に抱き、天を仰いだ。
 月が、満ちていた。
 やがて、血の色に染まった真円の月が徐々に薄れて行くにつれて、あたりが明るくなっていく。都心全体を覆っていた黒いヴェールが消滅し始めたのだ。だが、それと同時に、もうひとつ消えた物があった。それに気づいた石見が、叫んだ。
「!? 時計台が!」
 西荒川大キャンパスの中央に、黒々と不気味にそそり立っていた時計台までが、掻き消すように消滅してしまっていたのだ。
「………先生………紀田先生は!?」
 時計台のあったあたりを茫然と見つめていた亜梨沙が、思い出したように叫んだ。
「そうだ! アンディ、品川のキャンプに連絡を!」
 アンディは石見に向かって無言で頷き、無線機のスイッチを入れた。
「Calling SHINAGAWA camp,SHINAGAWA camp,please. Over」
『This is SHINAGAWA camp. Are you a student of Mr.KIDA's class? Over』
「Yes,this is Andy Noman. Over」
『I have a bad news for you. Mr.KIDA have killed himself.』
「………!?」
 幸いにも…あるいは『不幸にも』か…その言葉が聞き取れたのはアンディだけのようだった。不安気な様子で、他の三人はアンディを見ている。
『…Mr.Noman? Mr.Noman? Are you all right? Over』
「Yes,I'm all right. When was it?」
『It was about 3:00……a few minutes ago.』
 アンディは時計を見た。確かに時計は三時少し過ぎを示している。自分たちが五反田駅から地下道に入ってから、まだ三十分と経っていないのだ。中で経過したと思われていた時間の長さとの隔たりを考えると、あの黒い壁は恐ろしく強力な結界だったらしい。
「おいアンディ、どうしたんだ? 一体向こうではどうなってるんだ? 先生は?」
 黙り込んでしまったアンディに、石見が問いかけた。アンディはためらったが、やがてあきらめたように首を振り、三人に真実を伝えた。
「…紀田先生ガ、自殺シタソウデス」
 三人の誰もが、言葉を失った。



 四人は、途中で眠り込んだりしている仲間の兵士を拾いながらキャンプに戻ると言うヘッケル、ジャッケルらと別れ、急いでキャンプに直行した。
 信じられない、という思いが、四人の頭の中には渦巻いていた。あの人が自殺などするはずがない、いや、そんな事は決してあって欲しくない、という思いが…
 だが、四人の祈りにも近いその思いは、決定的に裏切られた。
 キャンプには、見間違いようのない、紀田助教授の遺体があった。
 第一発見者だと言う兵士の話は、概ねこんな感じだった。…急に部屋から叫び声が聞こえた。よくは判らないが、『ジヅワゾゴニイダ』と聞こえた。変に思って駆け込んでみると、紀田はもう毒を飲んだ後だった…
 念のため警察病院で調べると言うので、車で運ばれていく紀田を、四人は言葉もなく茫然と見送った。
 亜梨沙が突然叫ぶ。
「こうなったら、あたしたちも闇バスターになっちゃおう! さっきのイノチグサの種があるんだもん。だから、他のバスターたちを殺して、それで…」
 アンディが悲しげな表情で遮った。
「STOP、亜梨沙。YOUダッテ、ソレ本気デ言ッテル訳デナイデショウ? 第一、ソンナ事シテ、紀田ガ喜ブ思ウカネ?」
「だって…だって…」
 突然、石見が呟く。
「紀田先生、ホントに死んだのかな」
「何言ってんだよ。お前だってちゃんと見ただろう、先生の遺体を。あれのどこが死んでないって言うんだ?」
「いや、そうじゃない。確かに、肉体的には死んでるだろうさ。ただ、俺が気になってるのは、先生のあの表情だ。あれは決して、人生の敗北者の顔じゃない。まるで、今から戦いに赴こうとする…」
 石見はハッとなった。
「まさか…! いや、多分そうだ! 先生は、夢の世界には入れないと言っていた。だが、俺たちが武田にやられそうなあの時、先生は外の世界からジャック・イン(他人の夢世界に侵入すること)してきたんだ。つまり、先生が死を選んだのは、夢の世界に入る方法がそれしかなかったからじゃないのかな?」
「! それじゃあ、先生はオレたちのために…?」
「いや、多分そうじゃない。俺たちを助けてくれたのは恐らく、行きがけの駄賃ってとこだろう。先生は今頃、平井と戦ってるんだ。消えた時計台にいるはずの平井と…」
 熱っぽくそこまで言った石見の表情が、再び曇った。
「…だが、消えた時計台は一体どこに行ってしまったんだ? それが判らんことには、俺たちは先生を手助けに行く事すらできないじゃないか…!」
 知場は無言のまま、固めた拳で近くの電柱を殴りつけた。きつく結ばれた唇が、悔しさに震えている。言葉には出さないが、思いは石見と同じなのだろう。
 亜梨沙は、涙を見せてはいなかった。ただそれは、耐えているというわけではなかった。衝撃が大きすぎると、心は感じる事を放棄してしまうのだ。
 そしてアンディは、事ここに至っても考えていた。
 紀田助教授の過去に、一体何があったのか?
 それを推測するには、しかし、情報はあまりにも少なすぎた。
 アンディの、そして石見、知場、亜梨沙、それぞれの想いを遥かに超えた次元で、事件は今、大きく動き始めていたのだった。
 
 
 
最終話に続く
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