RPGリプレイ小説 『ナイトメア・バスターズ』

夢心理研究会日誌 ファイルNo.1


ピグマリオ


原案:武田 明宏

脚色:東江戸川大学夢心理研究会

文章:恵紋 春人


プロローグ

 正直言って、俺は追いつめられていた。
 俺の背後には、俺が入ってきた扉。そして前方には、俺が出なければならない扉。その二つの扉以外には、家具や調度の類はおろか窓一つさえない、殺風景なこの部屋の中にいるのは、俺と奴だけだ。
 奴  俺の目の前に立ちふさがっているそいつは、一人の…いや、一体の骸骨だった。
 骸骨は、明らかに敵意を持って俺に襲いかかってきていた。
 奴の動きはわりとゆっくりしていて、体さばきの心得が多少ある者になら、奴の攻撃をかわすことはそれほど難しいことではないと思われた。事実、剣道と合気道を多少かじっている俺は、これまで奴の攻撃をことごとくかわし続けていた。しかし、かわすばかりではラチがあかない。俺は奴の背後にある、向こう側のあの扉から出なくてはならないのだ。
 俺は、思い切って踏み込んだ。しかし、それはやはり無謀だった。
 骸骨の拳が、かわし切れなかった俺の脇腹をかすめた。
 かすめただけの威力で、俺はふっ飛ばされ、俺が入ってきた扉に叩きつけられた。
 息がつまった。
 ニヤリ。骸骨が笑ったような気がした。
「ちくしょーめ、日本刀の一本もあれば、こんなガイコツ野郎なんぞ、一撃で切り倒してやるんだが」
 荒い息を整えながら、やや負け惜しみじみた強がりを、俺は呟いた。
 途端。
「な、何だ!?」
 俺の両手から、ぼんやりとした光が立ちのぼり始めた。それは明らかに、何かの形を取ろうとして…またぼやけ始めた。
『気を散らすな! そのまま意識を集中するんだ』
 どこからともなく声が響いた。
 誰だ? それに意識を集中って…?
『気を散らすなと言っただろうが! そのまま、欲しいもののことを思い続けるんだ!』
 不思議なことに、その声に対して俺は何の不信感も抱かなかった。言われるままに俺は意識を集中した。
 剣が欲しい。
 剣が欲しい。
 剣が欲しい。
 剣が欲しい!
「いでよ、俺の心の剣!」
 現われた。
 俺の叫びに呼応するように、俺の手には剣が握られていた。研ぎ澄まされた鋭い切先が、銀色に光り輝いている。ずしりとした鋼の手応えが、俺の心からあせりを除き、代わりにゆるぎない自信を送り込んできた。
 勝てる。
 俺は剣を大上段に振りかぶり、襲いかかってきた骸骨の脳天めがけて振り下ろした。
 真っ向両断!
 頭から真っ二つに断ち割られた骸骨は、そのまま塵となって消え失せた。
 骸骨ばかりではなかった。いつの間にか、俺のいた部屋そのものが、忽然と消滅している。
『石見信介、六十三点。ま、ギリギリ合格というところだな』
 さっきの声が再び響いた。その時になって初めて、俺の内側に疑問が湧き上がった。おれはそいつを即座に口にした。
「あんた、誰なんだ? 助けてくれたことには礼を言うが、六十三点だの合格だのとは、一体何のことだ?」
『明日になれば判る。明日、東江戸川大学雑学部雑学科第一雑学研究室の紀田順一を訪ねてきたまえ』
 声は、半ば一方的に自分の言いたいことだけ言うと、途切れた。
 そして、世界全体が希薄になり、俺は………



 俺は目覚めた。
「…夢?」
 妙な夢だった。現実にあり得ない事の割には、妙にリアルな感じだ。特に、最後のところ、大学の名前が出てくるあたりなどは…
「…東江戸川大学? 俺の通ってるトコじゃないか」
 俺は思わず呟いた。
 それが、俺と紀田先生との出逢いであり、同時に長い戦いの幕開けだった。

第一章 招請

 大きなあくびが一つ出た。
 俺は読み終わったコミック雑誌を閉じると、すっかり冷たくなってしまったアール・グレイの残りを、くいと飲み干した。これだけ粘っても追い出されないところが、この喫茶店『獏』のいいところだ。もっとも、これくらいで客を追い出すほど狭い料簡では、貧乏暇ありの学生が多いこのヒガ大界隈では喫茶店なんて商売はできないのかもしれない。俺は座ったままで軽く伸びをして、窓の外を眺めた。
 取り立てて言うほどいい天気ではなかったが、悪い天気でもない。人や車の通りはいつもと変わらない。道行く人たちの表情は、平和そのもの。もっとも、あんな仏頂面が平和な表情だとすればだが…ま、いずれにせよ何もかもが、普段と何も変わらないように見える。時折、何がそんなに楽しいのか知らないが、にやけたツラのカップルが通るのも、いつも通りの風景ではある。中には高校生らしいのもいるんだが、ウイークデイの昼間にこんなとこをうろついてるとは、最近のガキ共も実にいい神経をしている。なあんてことを言ってると、また舞のヤツに「ジジくせー」とか言われるんだろうが…
 店の扉の上に吊るしてあるベルがコロン、と少し篭った音色を響かせて、俺の注意を引いた。
「ホラ、やっぱりいた」
 先に入ってきて、俺を見つけるなりそう言ったのは、神谷 舞(かみや・まい)だった。その後ろからチョコチョコと入ってきたのは、瀬賀 亜梨沙(せが・ありさ)。亜梨沙は俺の前の席にピョコンと座るなり、いつものテンションで言った。
「石見さん、大学行かなくていいんですかあ?」
 自己紹介が遅れた。俺は石見 信介(いわみ・しんすけ)。東江戸川大学(ひがしえどがわだいがく)、通称「ヒガ大」の雑学部雑学科三年生。
 舞も、所属は俺と同じ、ヒガ大雑学部雑学科の学生だ。学年も同じ三年。ただし、舞は教養で一年留年したので、年は俺より一つ上。一方、亜梨沙はまだ高校三年生で、聖カミニート女学院というお嬢様学校の高等部に通っている。一見、普通の女子高生だが、実はこれでも瀬賀コンツェルンの御令嬢なのだ。
「今日の午後は休講」
「どうせ自主休講でしょ」
 亜梨沙の隣に座った舞がすかさず茶々を入れる。ったく、そこそこ美人なんだから、これさえなけりゃ、もうちっとは人にも好かれるだろうに…
「ほっといてちょーだい。それよっか亜梨沙ちゃんの方が問題じゃないか。学校行かなくていいの?」
「今日は創立記念日なんでえす!」
 この娘のテンションの高さは、いつもながら尋常じゃない。だが、これくらいでひるんでるようじゃ、この娘の相手はできない。
「確か先週も同じこと言ってた気がするけど?」
「あれっ? そうでしたかあ?」
 亜梨沙がミエミエのボケをかます。万事がこの調子だから、この娘といると退屈だけはしなくてすむ。
 舞が助け舟を出した。
「勉強なら学校なんか行かなくたって大丈夫よ。何たって、このあたしがキッチリ家庭教師やってんだから」
「実はそれが一番心配だったりするんだけどね、ロクなこと教えてないんじゃないかと」
 言ってからしまった、と思ったがもう遅い。
「それ、どーゆー意味よ」
 舞の口調が異様に険悪だ。目線も強烈な光を帯びている。
 ヤバい。とは思ったものの、ここで止まらないのが俺の悪いクセだ。多分、これさえなけりゃ俺ももう少し人に好かれるのかもしれない。
「どうせおまえさんのこった、ゴロの巻き方とかヤキの入れ方とか…」
「殺人ヨーヨーの投げ方とか」
 亜梨沙が横から口を出す。舞は慌てて亜梨沙の口を塞ごうとしたが、一瞬遅かった。
「ふーん、やっぱりなー…」
 舞が口を尖らせて反論しようとした時、次の客が入ってきた。
「むわーかして!」
 いきなり右手の中指を立てて突き出しながら、あいさつ代わりに意味もなくそう叫んで俺の隣の席に座ったのは、平岡 正樹(ひらおか・まさき)。ヒガ大の院生である。正式な所属の名称は、東江戸川大学大学院雑学系研究科雑学専攻修士課程ということになるのだが、まあ、そんなことはどうでもよろしい。要は、俺と舞にとっては先輩であるということだ。そしてまた同時に、俺たちのサークル『夢心理研究会(ゆめしんりけんきゅうかい)』、略称『夢研(むけん)』の先輩でもある。
「こんなとこでフラフラしてて、修論は大丈夫なんですか? 平岡さん」
 俺が言うと、すかさず平岡さんは、またもや右手の中指を立てて突き出した。
「むわーかして! 今日は徹夜の実験明けで、いまは解析の結果待ち」
「寝なくていいんですか?」
 舞が呆れたように言うと、平岡さんは舞に向かって同じポーズをとった。その勢いに気圧されて、舞は思わず身を引いた。
「むわーかして! さっきウンケル十本飲んだ」
 …どうやらこの人は人間ではないらしい。
「…今に死にますよ」
 舞も俺と同じ思いらしく、絞り出すようにそれだけ言った。
「むわーかして!」
 あかん。完全に修論’s Highに陥ってる。
「みんな揃ってるようだな」
 一番聞きたくない、あーいやいや、聞き慣れた声が俺のすぐ後ろの席から聞こえた。
 俺は恐る恐る声の方を振り返った。
 声の主の顔を見た瞬間、俺は頭を抱えたくなるのを必死でこらえた。
 俺たちの担当教官であり、夢研の顧問でもある紀田 順一(きだ・じゅんいち)助教授が、そこに座っていた。
「…いつからそこにいたんです?」
 舞が聞くともなしに聞いた。唐突な登場のしかたを始めとする助教授の非常し…非常に普通でない行動に対して、いつまでたっても免疫ができないという点で、舞は、変人揃いの俺たち夢研のメンバーの中では最も常識人に近い存在なのかもしれない。どうせ入ってくる時に、扉のベルを手で押さえて音を立てないようにして入ってきたに決まってるんだ。
 舞の質問を無視して(もっとも、いかに舞とはいえ、あの質問に対して答えをもらおうと思うほど助教授を知らない訳ではないだろうが)、助教授は言った。
「仕事だぞ」
 ほら来た。
「あのー、俺、ゼミのレポートがあるんで、これで…」
 俺は半分腰を浮かしかけた。が、助教授がすかさず取り出したものを見て、ギクリとしてその動きを止めた。
 助教授の手にあるのは、紛れもなく閻魔帳…!
「そうかそうか、つまり石見はゼミの単位は欲しいが、私の単位はいらんと言う訳だな」
 きったねえ!…叫びたくなるのを俺は必死でこらえた。
「や、やだなあ先生、先生の単位より大事なゼミの単位なんて、あるわけ無いじゃないですかー、ハ、ハハハ…」
 我ながら白々しい。
「やってくれるな?」
 かなりきつい助教授の口調に、俺はひきつった。
「も、もちろん、よろこんで」
 助教授はにっこり笑った。でも眼が笑ってない。
「よろしい。ではついてきてもらおうか」
 そう言って助教授は立ち上がると、スタスタと扉の方へ歩き出した。俺はため息をついた。
「無駄なことを」
 助教授の後ろ姿をちょっと見やってから、他人事のように舞が俺に向かって囁いた。
「ヒトのことが言えるのかよ、てめーはよ」
 そう応じるのが、その時の俺には精一杯だった。



 『仕事』…助教授はそう言った。
 だが俺に言わせりゃ、あれは仕事なんてもんじゃない。強制労働か、それ以下だ。大体、単なる好奇心から毎度毎度首を突っ込んでくる亜梨沙は別として、俺はやりたくってやってるわけじゃない。単位をネタに脅迫されて、泣く泣くやらされているんだ。仕事だと言うんだったら、せめて給料払え!
 …とはいえ、他に単純でうまい言い方も見つからない。不本意ながら、あれを『仕事』と呼ぶことにしよう。
 俺たちの『仕事』。それは『ナイトメア・バスターズ』。
 日本語で言えば、『悪夢始末人』といったところか。
 人の見る夢には色々ある。楽しい夢、嬉しい夢、お目出度い夢、やらしい夢、不思議な夢…そして『悪夢』。
 悪夢の定義は難しい。悲しい夢、苦しい夢、つらい夢。なにがなんだか解らない夢だって、場合によっては悪夢に入るかもしれないし、夢を見ないというのも考え方次第では悪夢だ。そして、こうした悪夢は時として、人々の安らかな眠りを妨げるにとどまらず、現実の生活、あるいは生命そのものをも脅かす場合がある。俺たちの仕事は、そんな悪夢を始末して、人々に安らかな眠りを与えることなのだ。俺たちは、大学のサークル『夢心理研究会』を表看板に掲げて、悪夢に悩む人々を救うため、日夜命がけで戦っているのだ。偉いのだ。だからせめて給料払え!
 …もとい。ともかく、今日も俺たちの新たな戦いが幕を開けた。

第二章 依頼

 日も暮れた頃、紀田助教授の後について入ったのは、いつも依頼人との打ち合わせに使うレストランだった。名前を『マイヨール』といい、このヒガ大界隈じゃ珍しく豪華な店だ。
 助教授がちょっと中を見回していると、一人の中年男性が立ち上がった。
「ああ、どうも」
 助教授が軽く手を上げると、男性は深々とお辞儀をした。年は四十才過ぎたくらいだろうか。背広を着ているが、あまり着慣れてはいない感じだ。商売人だな、と俺は当たりをつけた。
 席はちょうど六人席で、依頼人をはさんで助教授と平岡さん、向かい側には俺、亜梨沙、舞の順で座った。ウエイトレスがメニューを持ってきたが、助教授はそれを見もせずに言った。
「私はサーロインステーキのセット。おまえたちは全員コーヒーでいいな?」
 この押さえつけるような助教授の態度も、いつものことだが…せめてもの抵抗がしたくて、俺は言った。
「アール・グレイ」
「あたし、ココア!」
 俺につられたのか、それともいつものごとく単に何も考えてないだけなのか、亜梨沙が例のテンションで続けた。助教授はちょっと眉をひそめたが、それでもウエイトレスに向かって言った。
「コーヒー二つにアール・グレイとココアを一つずつ」
 ウエイトレスが引っ込むと、助教授は依頼人に話をするよう促した。依頼人は、ゆっくりと話を始めた。
「初めまして、私、高縄 幸司(たかなわ・こうじ)と申します。家業は小さな酒屋を営んでおります。…実は、今日皆様方にお願いしたいことと申しますのは、冴河 市文(さえかわ・いちふみ)君を探して頂きたいということなのです。…はい、冴河君と言うのは、皆様方と同じ東江戸川大学の学生さんでして…はい、確か文学部だったと思います、それで、大学に入ってすぐの頃から、ずっと私の店でアルバイトをしてもらっていたんですが、それがこの一週間ほど、何の断りもなく店を休みまして…いえ、冴河君は実に真面目で優しい好青年でして、無断でアルバイトをさぼったことなど一度もないのです。…はい、もちろん下宿には行ってみました。…いえ、それが、下宿の方にもこの一週間姿が見えないらしくて…私としても、あんな真面目でよく気のつくいい人なものですから、何か悪いことでもあったのではないかと心配で…」
 高縄氏の話を聞きながら、俺はやや拍子が抜けた思いだった。
 どうせまたぞろ精神をすり減らして悪夢狩りをやる破目になるとばかり思っていたら、なんと人探しとは…しかし、仕事は楽であればそれに越したことはない。とっとと片付けて、平和な生活に戻ろう。うん、それがいい。
「冴河君の写真とか、ありますか?」
 舞が聞くと、高縄氏は思い出したような表情で、ポケットを探った。やがて高縄氏が取り出した写真には、確かに真面目そうな、しかしいかにもデリケートでやや根の暗そうな男が写っていた。こういうことでもなければ、あまりおつきあいしたいタイプではない。
「判りました。ともかく、彼を見つけられるよう努力してみます」
 とりあえず、これ以外に言葉が見つからない。高縄氏は、こっちが申し訳なくなるくらい深々と頭を下げた。
「どうぞよろしくお願い致します」
 俺たちは、高縄氏の連絡先と冴河の下宿の住所を聞くと、助教授と高縄氏を残してレストランを出た。
「さて、仕事を受けたはいいが、まず、どっから手をつける?」
 俺が考え込むように腕組みをして言うと、舞が言った。
「あたしが他学部聴講してる文学部の講義に、確かその冴河君てのと同じ専攻の人がいたはずだけど」
「よおーし、じゃとりあえずそいつをしめあげて…」
「平岡さん平岡さん平岡さん、しめあげてどーすんですか、しめあげて!」
 俺が言うと、またもや平岡さんは中指を突き立てた。
「決まってるじゃないか、冴河の居所を吐かす」
「…解りました。解りましたから今晩はゆっくり熟睡して下さい」
「むわーかして!」
 俺たちの漫才を横目で見ながら、舞が言った。
「…ともかく、ちょうど明日その講義があるから、その人が来てたら冴河君のこと聞いてみましょ。最近の様子に変なとこはなかったかとか」
 俺は頷いた。
「とりあえず、その線だな。その講義、明日のいつ?」
「午後イチ」
 突然、亜梨沙が勢いよく手を挙げた。
「亜梨沙、門限があるので帰りまーす!」
 言われて時計を見れば、なるほど、時間は午後九時を過ぎている。この時間、他に何をするあてがある訳でもなし、今日のところは帰るしかないようだ。翌日、件の講義の教室前でおちあう約束をして、その日はその場で解散ということになった。
 その時、俺たちはまだ、自分たちがあの恐ろしい事件に巻き込まれはじめていることに、まるで気づいてもいなかった。

第三章 足跡

 翌日、舞を除く三人が、舞の出ている文学部の講義に使われている教室の前に集まったのは、午後三時少し前だった。
 教室の中から微かに聞こえてくるのは、担当教官の声のようで、まだ講義は終わってないらしかったが、少し待っているとやおら中が騒がしくなり、学生たちがわらわらと教室から出てきた。
 その流れに逆らって、俺たちは教室の中へと入った。もし、冴河と同じ専攻だというその学生が講義に出ていれば、舞が中で引き止めておいてくれる手筈だ。
 果たして、中を見回すと、一人の男子学生が座っている席の横に立っていた舞が、俺たちの方に向かって小さく手を上げたのが俺の眼に止まった。
 俺たちが近づいて来るのに気づいて、その学生は怪訝な顔をした。
「実はあたしたち、人に頼まれて冴河君を探してるのよ」
 俺たちがそばに着くのを待って、舞がそう切り出すと、そいつは少し落胆したようだった。どうやら何か勘違いをしていたらしい。
 男子学生の名は元田 靖明(もとだ・やすあき)と言った。
「冴河? ああ、そういえばここんとこ、あいつ見かけないなあ」
 やや投げやりな調子で、元田は言った。
「いつごろから?」
 舞が聞くと、元田の表情が少し緩んだ。男を相手にする時は、ボロさえ出さなきゃ舞が適任だ。
「…えーと、一週間くらいかな?」
「何か変なことなかった? いつもと違う様子とか」
「…変なこと? つったって、あいつ元々変じゃん、雰囲気暗くってさ。…ああ、でもそういや二週間くらい前、急に変なこと聞かれたっけ」
 身を乗り出しそうになった平岡さんの口を押さえつけて、俺は舞に質問役を任せた。平岡さんのことだ、放っておけば『なーにを聞かれたのだ、正直に吐け!』とかやるに決まってる。
 さすがに、舞も次の質問はハズさなかった。
「何を聞かれたの?」
「人形作りに詳しい奴、誰か知らないか、ってね」
「人形作り?」
 俺は思わずつぶやいた。あまりにも唐突な単語が出てきたものだ。
「つまり冴河君は、人形を作りたがっていた、ということ?」
「さあね。多分、そうじゃないの」
「それで、誰か紹介してあげたの?」
「ああ、したよ」
「誰を?」
「小諸 丈夫(こもろ・たけお)ってやつ、文学部の」
 ザラリ、と猫の舌に胃の中を舐め回されたような気がした。
「小諸丈夫…?」
「知ってるの?」
 俺の様子に気づいて、舞が俺に視線を移して聞いた。
「不本意ながら」
「何よそれ、どういう意味?」
「後で解るよ」
 なおも食い下がろうとする舞を無視して、俺は元田に聞いた。
「ところで、冴河君と同じ専攻だそうだけど、名簿か何かないかな? できれば、彼の実家の住所が知りたいんだ」
「名簿って、そんな急に言われてもなあ…あ? 待てよ? ひょっとすると…」
 元田は自分のデイバッグの中をごそごそやっていたが、やがてくしゃくしゃになったコピーを引きずり出した。
「ああ、あったあった。できた名簿、もらったまんまずっとバッグに入れっぱなしだったんだ」
 ツイていた。とりあえず、冴河の実家の住所と電話番号をメモってから元田に礼を言うと、俺は三人を連れて教室を出た。あまり気は進まないが、小諸丈夫に会わなければならない。だがその前に、実家の方にも連絡を取ってみることにした。
 その時になって気づいたのだが、その連絡先はちょっと普通とは違っていた。
 連絡先の相手の名前が、『冴河』ではなく『広田』となっていたのだ。
 ちょっと首を傾げながらも、俺はそこに公衆電話から連絡してみることにした。住所は東北の方で、電話代も高くつくが、やむをえない。
 ややぶっきらぼうな男の声が出た。
「はい、もしもし」
「あのー、広田さんのお宅でしょうか」
「そうですが」
「失礼ですが、そちら冴河市文さんの御実家ですよね? 名字が違いますけど…」
 冴河の名を出すと、相手の声が露骨に嫌がるような響きになった。
「ああ、そうだけど、あんた誰?」
「失礼しました。私、冴河君の大学の友人で石見と申します。実は最近、彼が大学に出てこないものですから、ちょっと心配になりまして。で、ひょっとして御実家の方で何か、急な御不幸でもあったのではないかと思いまして…」
「市文だったら帰ってきちゃいないよ。大方、奴も帰ってくる気はねえんだろ」
 こっちの話を遮るように、相手はそう言った。だが、ここで引き下がる訳にはいかない。
「あのー、失礼ですが、そちらは冴河君とはどういう…」
「オレはあいつの叔父だよ」
「あ、叔父様でいらっしゃいますか? それでは冴河君の御両親は…」
「死んじまったよ、事故でな」
 ちょっとショックを受けたが、俺はさらに続けた。
「それはいつ頃ですか?」
「奴が小学校の頃だ。ま、姉貴夫婦にゃ義理もあったし、高校出るまでは面倒も見てやったが、大学まで行かせてやるほど、ウチも余裕ねえしな。そしたら奴あ、自分だけで何とかすると言い出したんで、ま、こっちもそれなら文句は何もねえし、勝手にしろってわけだ。ま、かえって奴もせいせいしてんじゃねえのかな、こっちと縁が切れてさ。奴も気がねしてたみてえだから」
 話を聞きながら、俺は冴河に対する自分のイメージが変わるのを感じていた。頼りなさそうな感じだったが、本当は、スネかじりの俺なんかよりもはるかにしっかりと自分を見つめてる奴なのかも知れない。
『そいじゃな』
 こっちが黙っていたものだから、相手は電話を切ろうとした。慌てて呼び止めると、俺は自分の電話番号を相手に伝えた。
「もし冴河君から連絡がありましたら、お手数ですが知らせていただけませんか」
「ないと思うよ。じゃ」
 ガチャン。切れた。
「何か解りましたかあ?」
 電話ボックスから出ると、亜梨沙が興味津々といった面持ちで聞いた。
 ちょっと考えてから、俺は答えた。
「とりあえず、実家の方は望み薄だ」



「よお…久し振り」
 振り返って、もっさりと言った小諸の顔を見て、舞は『納得がいった』という顔をした。
 小諸丈夫。知る人ぞ知るフィギュアオタクである。それもアニメ方面に思いっ切り偏った奴だ。何で俺はこういう奴と知り合いなのかって?…それはこっちが聞きたいくらいだ。
 おお、神よ! 何故私はこんな奴と知り合いなのですか!
 俺たちは、小諸たち『アニメーション同好会』の連中がたむろする喫茶店『ア・バオア・クー』に来ていた。名前からしてタクな店だ。『獏』と違って品がないし、おまけにメニューにはアール・グレイも入ってない。
 こんな店に長居は無用だ。俺は即座に用件を切り出した。
「なあ小諸、お前、冴河って奴を知ってるか?」
 小諸はこちらがいらいらするほど、もっさりと言った。
「…冴河?…そういえば…この間…そんな名前の奴に…会ったな」
「何か聞かれなかったか?」
「ああ…人形の作り方を…教えてくれって」
「それで、何を教えたんだ?」
 これが失敗だった。
 奴の口から出てくる単語は、ほとんど理解不能のものばかりであった。しかも、相変わらずのもっさりした調子には変化がない。時間が無意味に過ぎていく。
「…というようなこととかを教えたんだけどね。…結局、『これじゃあない』…とか言って、帰っちゃったよ」
 店の中に、誰かの腕時計の発信音が響いた。思わず腕の時計に眼をやると、ちょうど時間は午後九時を回ったところだった。ここへ来たのが夕方六時ごろだったから、三時間も時間をつぶされてしまったことになる。
「門限があるので帰りまーす!」
 亜梨沙の必殺技も、心なしか疲れ果てているようだ。
 やむをえない。亜梨沙の門限に便乗して引き揚げよう。
 俺が他の三人に眼くばせをして立ち上がろうとした時、小諸がもっさりと口を開いた。
「ああ、それと、人形作りのことを書いた本を何冊か教えて上げたよ」
「なんて本?」
 食いつくように舞が聞いた。俺は小諸の言った五冊ほどの書名とその出版社、著者名を素早くメモると、小諸に礼を言うのもそこそこに、三人と一緒に『ア・バオア・クー』を出た。
「人形作りの本か…」
「とりあえず、その本ってのを調べてみる?」
「そうだな…まずはヒガ大の図書館にでも行ってみるか」
「となると、今日はここまでね。こんな時間じゃ図書館も開いてないし」
「だな。そいじゃ明日はヒガ大の総合図書館に午前十時ということで」
 それだけ約束して別れようとした時、舞がふと首を傾げて呟いた。
「ねえ…最近、妙に霧が多いと思わない?」
「霧?」
 言われて改めてあたりを見回す。
 確かに、いつの間にかあたり一面霧に覆われている。
 俺の思考回路に、カチッと引っ掛かりかけたものがあった。『霧』というキーワードで、俺は確かに何かを思い出しかけたのだ。
 だが、残念ながらそれは引っ掛かりそこねた。俺は、歯にものがはさまったような後味の悪さを覚えながら、家路についた。

第四章 魔書

 前の晩に舞の言っていたことが気になって、かなり早く目覚めてしまった俺は、すぐに窓の外を見た。
 なるほど、この時期には珍しく…というより、考えられないほど霧が濃い。
 TVをつける。
「…お早ようございます。天気予報の時間です。まず、天気図を御覧下さい。今週の頭から東京に広がった霧は、週末になっても動く様子がなく、依然として首都圏全域に停滞したままです。現在、東京には濃霧注意報が出されています。車でお出かけの際は、運転には十分ご注意下さい。それでは今日の全国の天気…」
 やはり、何かがおかしい。妙な胸騒ぎがする。ナイトメア・バスターとしての直感が、警鐘を鳴らし始めていた。
 しかし、じっとしてもいられない。とりあえず胸騒ぎを意志力で抑え込むと、俺は時間を見計らってヒガ大へ向かった。
 午前十時少し前に、俺はヒガ大の総合図書館に着いた。舞もやや遅れてやって来た。平岡さんはこの時間、どうせ研究室に泊まり込んで実験やった挙げ句ソファで眠りこけてるだろうし、亜梨沙もさすがに授業に出ないとヤバいと思ったらしく、午前中だけは学校に行ってくるそうだ。
 一限の講義が終わっていないせいか、それともヒガ大の学生が単に勉強不熱心なだけなのか、図書館はガラ空きだった。
 かなり膨大な分類カードの中から五冊の本を探すのは、思ったほど楽な作業ではなかったが、書名、著者名、出版社名の全てが解っていたので、それも時間の問題だった。やがて、それらは全てこの図書館の蔵書であることが判った。
 そこで、番号で当たりをつけて本棚を探ってみたが、五冊の本は見つからなかった。ゴチャゴチャで解らないというのではない。本は全て番号で整理されていて、番号順にキチンと並べてある。そして、目指す五冊の所だけ、番号のところが抜けているのだ。
 しかたなく俺は、受付のカウンターに行って尋ねることにした。
「すいません、こういう名前の本を探してるんですが…」
 受付にいた司書の女性は、俺が差し出したメモを見て、すぐに言った。
「この本でしたらこの図書館にありますけど、今は貸し出し中です」
 一瞬ギョッとした。この人はひょっとして、このでかい図書館の中にある本のどれが貸し出し中で、どれがそうでないのかを全部覚えているんだろうか?
「冴河君かな?」
 舞が聞くともなしに言った。五冊の本を借りているのは、という意味だろう。
「多分な」
 俺たちのやり取りを耳ざとく聞いていた司書さんが言った。
「ひょっとしてあの本借りてるの、あなたたちのお友達? だったら早く返却するように伝えてもらえないかしら。もう返却期日を一週間も過ぎてるんですから。学部の方にも延滞通知を出して掲示してもらったんだけど、さっぱり返事がなくて困ってるんですよ」
 それでさっきの疑問が解けた。延滞通知を出した本だから、何も調べずに貸し出し中であると言えたのだ。
 と同時に、五冊の本を借りて行ったのが冴河であることもまず間違いないだろう。姿をくらましてからのことだから、延滞通知の掲示など、見てもいまい。
「解りました。彼に会えたら伝えます」
 本がここにないのであれば、長居は無用だ。とりあえず、平岡さんが眠りこけているであろう研究室に戻って、次の手を考えよう。
 案の定、紀田研究室のソファの上には、平岡さんが高いびきで寝ていた。
「平岡さん、起きて下さい」
 舞がゆり起こそうとしたが、平岡さんは起きる気配もない。
「そんなんじゃダメダメ。俺に任せとけ」
 俺は指先に気を集中し、平岡さんの頭のてっぺん、東洋医学に言う頭頂点というツボをついた。このツボには、覚醒効果があるのだ。一発で平岡さんは眼を覚ました。
「何だ何だ、火事か地震かそれとも喧嘩か? 勝負だったらむわーかしとけい!」
「はいはい、それはもう解りましたから」
 眼を覚ました途端、またもやHighになった平岡さんをなだめていると、亜梨沙がやって来た。
「あれ、午前中は学校じゃなかったの?」
 俺が聞くと、亜梨沙は平岡さんの真似をして、中指を立てて突き出した。
「むわーかして! ガッコ、二時間目でフケてきちゃいましたあ!」
 あーあ。結局これなんだから。
「これこれ、女の子がそんなはしたない…それに『フケる』はないでしょう、せめて早退とか」
「妙に道徳的ですね、平岡さん。誰のせいだか解ってて言ってんですか?」
 収拾がつかなくなった俺たちの漫才に、いつの間にかそこにいた紀田助教授の、いつものセリフが終止符を打った。
「お前たち、冴河君の捜索はどうした? それとも、私の単位は要らんと…」
「いってきまーす!」
 俺たちは鉄砲玉のように研究室を飛び出した。
 時計は午前十一時を少し回っている。
「さて、次はどうしたもんだろう?」
 俺が悩んでいると、平岡さんが唐突に言った。
「行き詰まったときは現場百ぺんである」
「…お聞きしますがね平岡さん。この場合、現場ってのは一体どこのことなんです?」
 俺が呆れたように言うと、一瞬平岡さんは言葉につまったようだった。が、素早く立ち直って、言った。
「決まっておるではないか。犯人の下宿を調べるのである」
「犯人てのは何ですか、犯人てのは!」
 と言いながらも、俺はなるほどと思った。確かに、冴河の下宿にはまだ一度も足を運んでいない。俺たちは早速、行ってみることにした。
 冴河の下宿は、ヒガ大から歩いて十五分とかからない所にあった。建物は木造で、かなりの年代物…というより明らかに古く、大化の改新から(…てのは言い過ぎか)ずっとそこにある下宿屋だったのではないかという感じだ。
 ちょうどその建物から出てきた初老の婦人が大家さんらしい。俺はその人に声をかけた。
「すいません、冴河君の下宿の大家さんですか?」
「ええ、そうですけど、あなたたち、冴河さんのお友達?」
 読みは当たったようだ。俺は続けた。
「ええ、そうなんです。冴河君がここんとこ学校に出てこないんで、様子を見に来たんですが」
「ああ、そういえばここんとこあたしも見かけないわねえ。でも、多分旅行にでも行ってるんじゃないかしらね、最近の学生さんには多いから」
 下宿にも帰っていないらしいということは、依頼主の高縄氏からも聞いている。俺は知恵を巡らせた。
「…実は、彼に本を貸してるんですが、自分で大学のレポートを書くのに、その本がどうしても必要になったんです。何とか冴河君の部屋に入れていただけないでしょうか? 本人には、後でちゃんと断っておきますから」
 大家さんは、しばらく俺たちの顔を見比べていたが、やがてちょっと申し訳なさそうに、首を横に振った。
「あなたたちを信じないってわけじゃないけどねえ…冴河さんがお留守の間、万が一ってことがあると、困りますから」
 失敗か。ま、やむを得ない。他にも方法はあるさ。ここはいったん引き下がろう。
「そうですね…無理を言ってすいませんでした」
「ごめんなさいね。それじゃ、あたしはこれから出かけますんで、これで」
 大家さんは立ち去り、後には俺たちだけが残った。
「さあーて、邪魔者が消えたところで、それじゃそろそろ…」
 言いかけたところで、聞いたことのない声に呼ばれて、俺はギクリとして口をつぐんだ。
「あのー、ひょっとして、ヒガ大の夢心理研究会の方たちですか?」
 声の方を振り返ると、見たことのない女の子が立っていた。
 体つきががっしりしている割には童顔で、ちょっと見た分には年齢が判然としないが、雰囲気からすると亜梨沙とあまり違わない位だろうか。
「失礼ですが、君は…?」
「あ、やっぱ解んないか」
 そう言って女の子は、手にぶら下げた買い物篭から、布でできた何かを取り出して、パッと広げた。
 それは『高縄酒店』というロゴが入っているエプロンだった。
「ああ、高縄さんの…」
 女の子は頷いた。
「ええ、娘です。高縄 紫咲(むらさき)って言います。はじめまして」
 そう言うと、紫咲は下宿の建物に眼をやった。
「やっぱり、まだ帰ってないんですね、冴河さん…」
 紫咲の瞳が、ひどく心配気な色を帯びて光った。だが、それを振り払うように笑顔を浮かべて、紫咲は続けた。
「それで、何か手掛りはつかめましたか?」
「今のところ、まだ彼の行方を直接示すものは何も。でも、そのうちきっと…」
 言いかけて、俺は紫咲の視線が俺にではなく、俺の背後に向けられていることに気づいた。しかも、その眼は驚きに見開かれている。
 俺はおそるおそるうしろを振り返った。そして頭を抱えた。
「石見さあん、鍵、開いちゃいましたよう」
 明るいひそひそ声で亜梨沙が叫んだ。何とも器用な子だ。
 そう、亜梨沙の必殺技パート2、それは『錠開け』である。俺たち夢研のメンバーの間では、亜梨沙の母親の旧姓が石川であったというのは既に定説と化している。俺が他にも方法はある、と考えていたのは正にこのことだったのだ。
 しかし、である。よりによって一般人の目の前でそのお手並を披露してしまうとは…!
「…あたしは、気づいて止めようとしたのよ」
 舞がしおらしく言い訳を言った。その点、平岡さんはいつも通りだ。
「何を気にすることがある! 別に我々は盗みを働こうとかいうのではなく、単に冴河の行方を探すための手掛りを得るためにだな…」
 大声で囁く(そういう意味じゃこの人も器用だ)平岡さんの口を慌ててふさいで、俺は言った。
「解りました! もう解りましたから大声出さないで下さい! 近所の人に聞かれでもしたらどうすんです!」
 こうなったら仕方ない。紫咲を丸め込むより手はない。
「紫咲ちゃん、この冴河君の部屋にはどうしても入らなきゃいけないんだ。彼の行方を知るための手掛りが何かあるかもしれない。だから…」
 俺が喋るのを遮って、紫咲は言った。
「入りましょ。手掛りを探さなきゃ」
 ホッ。物分かりのいい子で助かった。
 冴河の部屋は、机と椅子、本棚が一個にファッションケースと、小さな冷蔵庫。あるのはその程度のものだけで、殺風景な部屋だが、それでも五人一度に入ると狭苦しい。さすがに四畳半だけのことはある。
 ゴチン。モゾモゾしているうちに、上からぶら下がった裸電球に、俺は頭をぶつけてしまった。
 それでもめげずに、頭をさすりながら、俺はあたりを見回した。
 机の上には、図書館から借り出した例の五冊の本があった。亜梨沙がそれを手に取ろうとして、その手を止めた。亜梨沙の視線は、机の上に乱雑に散らばっている紙切れの一枚に注がれている。俺も亜梨沙の肩越しに、その紙切れを覗き込んだ。
『美理恵』
 それだけだ。
「人の名前かな?」
 舞が首を傾げた。
「他にはないか?」
 平岡さんが机の上を引っ掻き回すと、他にも何やら訳の解らないメモが何枚か出てきた。
『無から有は生まれない』
『生命ひとつに魂一つ』
 何やらどこぞの哲学かぶれ野郎のセリフみたいだ。
 他にも、アルファベットらしい文字で書かれた言葉の断片が見つかった。こっちの方は、読もうにも何語だかさえ見当がつかないので、どうにもならない。
「これは…」
 平岡さんがメモを取り上げて、しげしげと眺めた。
「読めるんですか、平岡さん?」
「読めん」
「…期待した俺がバカでした」
 とりあえず、これは持って帰って助教授に見せる手だ。あの人ならこいつを翻訳するくらい、わけはないだろう。
 それから改めて本のことを思い出し、俺はその内の一冊を手に取ってパラパラとめくった。それからちょっと思い直して、本にめくり癖がついてないかを調べてみた。果たして、あるページがすっと開いた。
『…人形に呪術的な効果があるとするのは、世界共通のことである。例えば日本では、「丑の刻参り」といって、藁人形に呪いたい相手の髪の毛を仕込んでこれを傷つけると、呪う相手にはその人形につけた傷と同じ場所に傷を負わせることができるという迷信があった。ヨーロッパにおいては、人形(あるいは肖像画)があまりにも本人そっくりに作られると、それに魂を吸い取られ、これを傷つけるだけで本人に害が及ぶ、と考えられていた。実際、フランスの歴代国王などは、その素顔を滅多に民衆に見せようとせず、また国王の肖像画を描いただけで死刑に処された画家などもいたと聞く。写真が最初、人々に恐れられたのも、同様の理由によるのであろう。…』
 別の本でも同じことをやってみた。
『…人形とは少しずれるかもしれないが、作り物の身体に生命を吹き込むと言えば、ギリシャ神話の物語の中にピグマリオンという彫刻家のエピソードがある。ピグマリオンは美の女神アフロディテをモデルにして彫像を作ったが、自ら作ったその彫像のあまりの美しさゆえ、彼はその彫像の乙女に恋をしてしまい、彼女を手に入れることができないのであれば生命を断とうとまで思い詰めてしまった。アフロディテはピグマリオンの才能を惜しみ、彼の願いを叶えてやることにした。女神に促されて、ピグマリオンが大理石の乙女に口づけすると、たちまちその身体には生命が通い、たった今まで冷たい石の像が立っていた台座の上には、見事な金髪を腰よりも下まで垂らした、暖かな血の通った美しい乙女が立っていた。後にこの二人の間に生まれた子の名をパポスと言い、アフロディテに捧げられた同名の街パポスは彼に因んで名付けられたものであるという。…』
「ちょっと、本読んでる場合じゃないでしょ」
 舞にこづかれて俺は我に返った。いかんいかん。どうもこうゆう面白げな本だと、思わず読みふけってしまう。
「ここで人形を作ってた様子はないみたいね…」
 あたりを見回しながら舞が呟いた。確かに、何かを作ったようなクズが落ちていたりはしない。それどころか、男の一人住まいにしても、実にきれいなもんだ。冴河という男がそれほどもてたとは、写真を見る限りでは思えないから、よほど几帳面な性格だったとしか思えない。
「他にも、まだ何か書き散らしの類があるかも知れん」
 平岡さんがごみ箱の中を覗いているが、どうやら何もなかったようだ。冷蔵庫の中身も、バターとかマヨネーズとか、ごくありきたりの物ばかりだ。しかし、さっき俺が考えた通り、冴河が几帳面な奴だとすると、冷蔵庫やごみ箱の中身を片付けないままいなくなるってことはあり得ない。とすれば、そうしたものが片付いてないってことは、冴河はここへ戻ってくるつもりだったのか? そして、何かの事情で戻れなくなった…
 ともあれ、これ以上長居をして、誰かに見つかるとまずい。俺たちはいったん部屋を出て、この下宿にいる他の学生に話を聞いてみることにした。冴河が図書館から借りていた本と、何枚かの雑多なメモは、念のため持って行くことにした。もちろん、亜梨沙に鍵を元通り掛けさせることは忘れない。
 冴河の部屋の右隣の部屋の扉をノックする。返事はない。
 今度は左の部屋。これも返事はない。
 向かいの部屋をノックする。ややあって、眠そうな返事が中から聞こえた。
「勧誘ならお断りだよ」
「あ、いえ、違うんです。僕たち、向かいの部屋の冴河君の友達なんですが、最近彼が学校に来ないので、様子を見に来たんですが、ちょっと冴河君のことでお聞きしたいことがあるんです」
 しばらくすると、寝ぐせでボサボサの頭のまま、男が出てきた。平岡さんと同じくらいの年齢に見える。恐らくどこかの学部の院生なのだろう。
「冴河君のこと? あいにくだけど俺、彼とはあんましつきあいないから」
「そうですか…それじゃ、最近何かを作ってるような様子はありませんでしたか? なにかの材料とか道具を運んでるところを見たとか、変な物音がしたとか」
 男は首を傾げた。
「物音ねえ…別になかったと思うなあ。大体、彼はこの下宿でも一番静かだよ。俺の隣の戸川って奴なんか、夜中にステレオ鳴らしてあんまりうるさいから文句言ったくらいなんだ。大家にも何か言われたらしくて、最近は前より大人しいけど」
 やはり、人形作りの場所は他にあるのだろう。もちろん、冴河が人形を作っていればの話だが。
 起こしてしまったことを男に詫びてから、俺たちはその場を離れ、学校へと引き返すことにした。冴河の部屋で見つけた本とメモを、紀田助教授に見せるためだ。紫咲も俺たちについてくると言うので、一緒に来てもらうことにした。
 俺たちが持ち帰った本を見せると、助教授はこう言った。
「ふん。どれもこれも、そこいらの本屋に行けば売ってるような本ばかりだな。下らん」
 俺たちの苦労も知らんと…何もそこまで決めつけなくてもいいじゃないか、と言いたくなるのを俺はぐっとこらえた。
 しかし、助教授の傍若無人はそこで終わらなかった。冴河のメモを見るなり言ったセリフがこうだ。
「何だお前たち、これくらいのラテン語も読めんのか。ん? 待てよ。舞。二週間前の私の講義で、ラテン語をやったはずだがな。覚えてないのか?…まったく、しょうがないな」
 助教授が恩着せがましいのは今に始まったことではない。ないが、やはり恩着せがましい。
 しばらくメモを見ていた助教授は、やがて一枚を残してメモを全て放り出した。
「どれもこれも断片的な単語の羅列で、特に意味はないな。全て、翻訳の途中の走り書きみたいなもんだろう。だが、これは…」
 助教授はもったいぶるように、最後に残したメモを指先でもてあそんだ。
「これは面白い。『ピグマリオの書』か」
 ピグマリオ…ピグマリオン。さっき見た本の断片が、とっさに頭に浮かんだ。
「ぴぐまりおのしょ?」
 オウムがえしに亜梨沙が言った。
「お前たち、ジーン・シドーを知っているか?…何だ、誰も知らんのか。まあいい。ジーン・シドーというのは十九世紀初頭のフランスの作家でな。小説では大した作品は残せなかったようだが、魔術や呪術、神話・伝承などに造詣が深く、そうしたものの記録としては彼の著書に勝るものはない。特に、シドーの三大魔書と言われるものなどは、世界中のコレクターがよだれを垂らして欲しがるだろうな」
「シドーの三大魔書…ひょっとして、その『ピグマリオの書』ってのも、その三大魔書のひとつってことですか?」
 俺の問いに、助教授は軽く頷いた。
「『バッカス=ディーン戦記』、『イサロギア伝』、そして『ピグマリオの書』。この三冊が、シドーの三大魔書と呼ばれているものだ。原書は全てラテン語で書かれていて、今では世界中探してもそれぞれ三冊あるかないかだ。無論、邦訳はない」
「それほどの本となると、入手はほとんど不可能に近いな…」
 俺がそう呟くと、助教授はさも呆れた、と言わんばかりの顔をした。
「何だ、お前たちは本当に何も知らんのだな。シドーの三大魔書なら、三冊揃ってこのヒガ大の総合図書館の書庫に収まっているんだぞ」
 俺たちは図らずも声を揃えて叫んだ。
「それを先に言って下さいよ!」



 午後一時を少し回った頃、俺たちは再びヒガ大の総合図書館を訪れていた。
 受付には、さっきと同じ司書さんが座っている。冴河の部屋から持ってきた本を出すと、司書さんはニッコリ笑った。
「あら、お友達の代わりに持ってきてくれたのね」
 本を渡しながら、俺は聞いた。
「それと、ここに『ピグマリオの書』って本があるって聞いて来たんですけど」
 すると司書さんは、キョトンとした顔をした。
「『ピグマリオの書』? さあ、私は知らないけど。そんな本、あったかしら」
 俺は司書さんの表情を探った。だが、とぼけているのか本当に知らないのか、判断がつきかねた。とぼけているのだとしたら、この司書さんは相当のくわせ者だ。
 だが、ここに『ピグマリオの書』があることは間違いない。紀田助教授は確かにいちいち自分の知識を引けらかす、鼻持ちならない人物ではあるが、こういう嘘をつく人ではない。冴河の行方を示す直接の手掛りが何一つない以上、今は行方不明になる前、冴河自身が何を考えていたのか、何をやろうとしていたのかを知る必要がある。その鍵となりそうなのが、魔書とまで呼ばれる、いかにも怪しげな『ピグマリオの書』なのだ。俺たちはやむをえず、再び膨大なカードの中から探すことにした。
 洋書のタイトルは全て原語で書いてあるので、判読するのには多少手間取ったが、それでも二十分とかからずに、著者名別カードの中から『ピグマリオの書』のカードが見つかった。そのカードの前には、助教授の言っていたシドーの三大魔書の残る二冊、『バッカス=ディーン戦記』と『イサロギア伝』のカードもあった。再び番号であたりをつけて書庫へ入る。
 『バッカス=ディーン戦記』と『イサロギア伝』らしき、古びてはいるが明らかに元はかなり豪華な装丁だったことが偲ばれる二冊の本が並べられている。
 だが、肝心の『ピグマリオの書』がない。またもその番号の所だけ、棚にポッカリと穴があいているのだ。念のために周りの本棚も調べてみたが、紛れ込んでいる様子もない。
 俺は意を決して、もう一度司書さんに聞いてみた。
 受付には、さっきとは別の、やや年輩の司書さんが座っていた。
「あのー、すいません。『ピグマリオの書』って本は、どこにありますか?」
「そういう本は、ありませんよ」
 年輩の司書さんは、にべもなく言った。だが、俺は食い下がった。
「でも、確かにあるって聞いて来たんですよ。カードもあるし」
 俺たちの顔をジロリと見て、やがて司書さんは疑わしげに言った。
「あんたたち、どこの学部?」
「雑学部雑学科ですが」
 途端に司書のおばさんの態度が変わった。明らかに俺たちを嫌う態度だ。
「ああ、紀田先生んとこの人たちね。先生にも言っといてよ、あの本は貸し出せませんって」
 あの本。確かに司書のおばさんはそう言った。やっぱりあるんじゃないか。なぜとぼけたりするんだろう? それに貸し出せない本なら…
「貸し出せない本なら、どうして書庫にないんですか?」
 舞がそう言うと、司書のおばさんはちょっとギクリとした様子だった。
「…とにかく、あの本は貸し出し禁止なの。帰って帰って!」
 追い払うように手を振ると、司書のおばさんは書庫に入って行った。
「何よ、あの態度。あたしたちを犬か猫みたいに思ってんのかしら!」
 舞が憤慨している。俺は舞をなだめようとした。
 と、その時、ただならぬ悲鳴が響き渡った。書庫の中からだ。
 駆け込もうとする間もなく、さっきの司書のおばさんがあわてふためいて駆け出してくると、そのまま外へ走り出してしまった。
「あたし、中の様子を確かめて来る!」
 舞が書庫の中に駆け込む。
「あたし、おばさんを追いかけます!」
 亜梨沙は外へ走り出す。ちょっと考えてから、俺は亜梨沙の後を追った。どっちかというと、亜梨沙の方が頼りない。平岡さんも、俺たちと一緒に走った。紫咲は呆気に取られていて、その場に取り残されたようだった。
 おばさんは、思いの他達者な脚で、俺たちが追いつく間もなく、一つの部屋に駆け込んだ。図書館の館長室だ。
 ドアの外から様子をうかがうと、なにやらすごい騒ぎになっているようなのだが、どうも話の内容までは聞き取れない。
「ええい、まどろっこしい!」
 平岡さんがドアを開けた。中にはさっきのおばさんと、館長らしい男性がいて、二人とも青い顔をしていたが、俺たちの顔を見て館長が叫んだ。
「何だね君たちは! 勝手に入って来ちゃいかん!」
 俺たちが事情を聞こうとする間もなく、どこから現われたのか、数人の屈強な体格の警備員たちに、俺たちは両側からガッチリ抑えつけられ、そのままひきずられるようにして外へと連れ出されてしまった。
 何が起こったのか解らないまま茫然としていると、何やら喚きながら、舞が警備員二人に連れ出されてきた。
「何よ、いい加減にしてよ! 離しなさいってば! 自分で歩けるわよ!」
 見ると、舞の足は完全に宙に浮いている。
 警備員たちは、俺たちのそばまで舞を運んでくると、やっと舞を降ろした。舞がすごい目つきで睨みつけるのをまるで無視して、警備員の一人が俺たちにこう言った。
「総合図書館は、事情により緊急閉鎖された」
 それだけ告げると、警備員は図書館の中へ消え、俺たちの前で扉がバタンと閉じられた。ガチャリ、と鍵の掛けられる音が聞こえる。
「一体全体何がどうなったのだ!?」
 ここへ来て平岡さんも、やっといきり立つ余裕ができたらしい。
「舞、書庫の中の様子、何かあったか?」
 俺が聞くと、舞はいまいましげに首を横に振った。
「あったかも何も、書庫に入って何かを調べようとする間もなくあの筋肉バカどもに連れ出されちゃって。でも、妖気とか邪気とか、特に変な感じはしなかったみたい」
「となると、あのおばさん、一体何に驚いたんだろう?」
「本がなくなってたことじゃないんですかあ?」
「しかし、たかが一冊本がなくなったくらいで、普通あんなにうろたえるとは思えんがなあ」
 それぞれに首をひねっては見たものの、今一つ状況が見えてこない。悩んだ末、多少なりとも建設的な意見として、別の図書館に行って情報を探そう、ということになった。
 別の図書館といえば、一番有効そうに思えるのは、やはり国会図書館である。
 午後三時頃には、俺たちは国会図書館にいた。
 時間が惜しい。単刀直入に、案内カウンターのおじさんに聞く。
「すみません、ジーン・シドーという作家の作品を探してるんですが、ありますか?」
 おじさんは俺たちの顔をちょっと見て、言った。
「あんたら、どこの学生さん?」
「ヒガ大ですが」
 それを聞いて、おじさんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ヒガ大の学生さんだったら、何でわざわざこっちに来たの? ジーン・シドーの作品を収めている所といえば、日本広しといえどもヒガ大の総合図書館だけだよ」
 俺たちは顔を見合わせた。完璧な無駄足である。
 俺たちは、さすがに重い足取りで国会図書館を後にした。
 その時、俺は変な気配に気づいた。総合図書館を出てから何となく気にはなっていたのだが、この時それが確信になった。
 尾けられている。
「舞、コンパクト持ってないか」
 舞も気づいていたらしい。俺の眼を見て頷くと、ハンドバッグの中からコンパクトを取り出した。
「どうだ?」
「…黒ずくめの服を着てるわ。あれで尾行してるっつったら、向こうが大バカなのか、あたしらがよっぽどバカにされてるのか、どっちかね。どうする?」
「よおっし! とっつかまえてしめあげ…」
「ダメですよ平岡さん! ここはいったん、ちょっと様子を見ましょう」
 俺はいきり立つ平岡さんを抑えつつ、近くの喫茶店に入った。
 名前も見ずに入ったが、そう悪い雰囲気ではない。何より正面向きの窓が大きく、外の様子をうかがうには持ってこいだ。
 それぞれにコーヒーや紅茶を頼んで、外に気を配った。黒服の姿は見えない。俺たちの後を追って、中まで入ってくる様子もないようだ。
 このままこうしてても仕方がない。俺は素早く頭を巡らせた。
「…舞、亜梨沙ちゃんと紫咲ちゃんを連れて外に出ろ。そして、表の窓の前を通って歩いて行け。俺と平岡さんは様子を見て、黒服がお前たちの後をつけるようだったらその後を追って行く」
 舞はちょっと考えた様子だったが、やがて頷いた。そして、亜梨沙と紫咲を促し、外へと出た。
 俺と平岡さんはとりあえず前もって支払いを済ませ、外の様子を見ていた。窓の外を、三人が連れ立って歩いて行く。果たして相手はひっかかるか? それとも俺と平岡さんがいないことを気にして、用心するだろうか?
 果たして、黒服が三人の後を追い、窓の外を通って行く。なるほど、つばの広い黒の帽子にサングラス。おまけに五月のこの時期、黒のコートを着ているとあっては、舞の言うことももっともだ。
 俺たちもすぐに表通りへ出た。そして、三人の後を追う黒服の後を、さらにこっそりとつけて行き、俺は背後から黒服の肩を叩いた。
 いきなり、黒服が振り向きざまパンチを繰り出してきた。
 危うい所で俺はそのパンチをかわし、次の攻撃に備えて身構えた。そして一瞬、呆気に取られた。
 黒服の帽子が振り向いた勢いで頭から落ち、長い髪の毛がこぼれた。
 目深にかぶった帽子のつばに隠れて見えなかったその顔は、紛れもなく女性!
「何だ、おばさんか」
 平岡さんが口を滑らせた。
 女性はムッとしたらしく、今度は平岡さんに向かって強烈な蹴りを繰り出した。これは平岡さんの自業自得というものだ。確かにその女性は俺や平岡さんよりも年上に見えるが、それでも二十七、八といったとこだろう。平岡さんにしたって二十四なのだから、彼女をおばさん呼ばわりできる年齢ではない。だが、平岡さんもなんとか女性の蹴りをかわした。
 その時、女性の口許に、笑みがあるのを、俺は見逃さなかった。
 この女性、本気じゃない。
「待って下さい! 僕たちは怪しいもんじゃありません。僕はヒガ大の三年生で石見信介と言います。他はみんな僕の友達です。あなたが僕たちの後を尾けて来るようだったので、正体を確かめようとしただけなんです。あなたは一体誰です? なぜ僕たちを尾けるんです?」
 女性は俺と平岡さん、それに騒ぎに気づいて引き返してきた舞たちの顔を順番に見て、やがてサングラスを取り、ポケットから手帳を出した。
 警察手帳。
「警視庁猟奇課警部補、高見沢 葵(たかみざわ・あおい)」



 一時間後。俺たちはさっきの喫茶店に逆戻りしていた。
「なるほど。つまり、その冴河君って学生が、『ピグマリオの書』を持ち出した可能性がある、ということなのね?」
 葵さんの確認の問いに、俺は頷いた。
 俺たちは、これまでの経過をひと通り葵さんに説明させられていた。無論、冴河の部屋に忍び込んだとかいうことは抜きにして、である。一方、葵さんも俺たちを尾けていた理由を説明してくれた。『ピグマリオの書』である。
 葵さんの説明によればこうだった。
 シドーの三大魔書というのは、単なる記録文献ではなく、それぞれがある種の魔力を宿している、恐るべき本だったのだ。とりわけ、問題の『ピグマリオの書』は、読むことはおろか開くことさえ禁じられたものだという。そのため、東江戸川大学の書庫に禁本として保管してあったのだが、それが紛失してしまった。大慌ての図書館から警察に通報が届き、葵さんが図書館へと向かわされた。そこでたまたま、現場近くに怪しげな連中(俺たちのことだ)がうろうろしているのを発見し、後を尾けた、とこういうことなのだ。
 ちなみに警視庁猟奇課とは、通常の警察の手法では解決できない謎を含む事件、とりわけ魔術とか呪術などが絡んでいるのではないかと考えられる怪事件を取り扱う課なのだそうだ。
「…と言えば聞こえはいいけど、その実は他の課で解決できない迷宮(オクラ)入り事件の資料整理や後始末をやらされてる部署ってわけ」
 葵さんはちょっと自虐的に笑った。だがすぐに、その表情は真剣になった。
「ともかく、『ピグマリオの書』がその冴河君の手元にあるとすると、大変なことだわ。早くしないと、冴河君の生命に関わるかもしれない。いいえ、彼だけじゃなく、この世界そのものも…」
 この世界、だって? なんでそんな大げさな話になるんだ?
 俺たちのきょとんとした顔を見て、葵さんは呆れ顔で言った。
「あんたたち、知らないの? 最近、世間を騒がせている謎の眠り病のこと」
「眠り病?」
「東京全域で、この一週間ほどの間に、次々に眠りに捉えられる人が続出しているのよ。覚めることのない眠りにね」
 亜梨沙が怖そうに聞いた。
「覚めることがないって、死んじゃうんですかあ?」
「すぐ死ぬわけではないわ。発病した人は、みんな昏々と眠り続けているだけなの。どんな処置を施しても、決して目覚めようとしないだけ。ただ、かなり急速に衰弱が進んでいて、点滴などで栄養補給だけは続けているんだけど、いつまで持つか解らない状態なのよ」
「それが、『ピグマリオの書』に関係があると?」
 舞の表情も、かなり緊張している。
「それは解らないけど、その可能性はかなり大きいと思うわ。タイミングが良すぎるもの。魔書の紛失、東京全域に広がって消えようとしない奇妙な霧、そして謎の眠り病の発生…ともかく、一刻も早く彼を探し出して、本を取り返さないと。とりあえず打つ手としては、まず明日一番に手続きを取って、冴河君の下宿を家宅捜査してみるしかないわね」
「一緒に立ち合わせてもらえませんか?」
 平岡さんが食いつくように聞いた。だが、葵さんはあっさりと首を横に振った。
「ダメよ。ここからは私たち警察の仕事だわ。プロに任せなさい」
 食い下がる暇を俺たちに与えず、葵さんは立ち上がった。
「それじゃ、課長に報告しなきゃならないから、私はこれで失礼するわ。お勘定は私のおごりにしとくから」
 それだけ言うと、葵さんはさっさと喫茶店を出て行ってしまった。
 取り残された俺たちは、とりあえず助教授に経過報告するため、紫咲を家に帰してから、研究室へ戻ることにした。
 葵さんの話をすると、助教授は言った。
「はて? 猟奇課のことは話してなかったか?」
 これだ。
「…聞いてませんよ。御存知だったんですか?」
「ああ、知っとる。あそことは、何度か事件を一緒に解決したこともある。それに、あそこの課長、吉沢 直人(よしざわ・なおと)といって確か肩書は警視だったと思ったが、あいつは私の大学時代の同期だ」
 ピンと来た。
「だったら先生、その課長さんに、明日の家宅捜査、俺たちも立ち合わせてもらえるように頼んでもらえませんか?」
 助教授は珍しく、すぐに頷いてくれた。
「よかろう。それくらいはしてやろう」



 助教授を伴って、警視庁に着いたのは、もう午後七時近かった。
 すたすたと先頭切って入って行く助教授の後を、俺たちはおっかなびっくりでついて行った。
 どうやら助教授は、この警視庁の猟奇課に何度か来たことがあるらしく、勝手知ったる様子でどんどん先へ歩いて行く。そしてやがて、『猟奇課』と書かれた札が扉の上にある部屋の前に来ると、助教授はノックもせずに入って行った。やむをえず、俺たちも後に続く。
「紀田? 紀田じゃないか」
 正面にいた男性が立ち上がった。着ているダークグレーのスーツはかなりいいものらしいが、いかんせん皺だらけでヨレヨレといった感じだ。印象は今ひとつサエない。どうやら、その人物が吉沢警視らしかった。もっとも、助教授の同期という年齢で警視なのだから、その実かなりのキレ者なのかも知れない。
 しばらく懐かしげに世間話をしていた二人だったが、やがて助教授が本題を切り出した。
「ところで、冴河市文君の件、聞いたか?」
「ああ、高見沢君からな。どうやら、お前んとこのが協力してくれたらしいが…彼らがそうなのか?」
「ああ、俺が誇りにしてる学生たちで、同時に優秀なナイトメア・バスターでもある」
 面と向かっては決して賞めてくれないくせに、他人に対してはいきなりこうだ。こそばゆい。だが、ここらへんが助教授のうまさなのだろう。
「そこで、ものは相談なんだが、どうだろう、こいつらを明日の家宅捜査に付き合わせてやってもらえんかな? もちろん、決して君らの邪魔はさせんよ」
 吉沢警視は、あっけないほど簡単に頷いた。
「ああ、構わんよ。じゃ、改めて紹介しておこう」
 そう言って警視は、受話器を取って口早に指示を出した。
「高見沢警部補を」
 しばらくすると、葵さんが入ってきた。昼間の黒づくめと違い、普通のOLっぽいカッコだ。かえってこの方が目立たなかったんじゃないか…?
 葵さんは俺たちの顔を見ると、あらっ、という顔をしたが、すぐに吉沢警視の方に向き直った。
「お呼びでしょうか?」
「ああ。実は、明日の冴河市文の下宿の家宅捜査の件なんだが、彼らにも同行してもらうから、そのつもりでな」
「はあ? いえ、しかし…」
 しばし葵さんと警視の押し問答が続いたが、結局折れたのは葵さんの方だった。やれやれと言いたげな面持ちで、葵さんは言った。
「…ということだから、あんたたちも連れてってあげるけど、いいわね? 私たちの仕事の邪魔したら、承知しないわよ」
 すかさず助教授が言う。
「そりゃあもちろん。こいつらにはよーく言い聞かせておくよ」
 葵さんは助教授のにこやかな顔を見て、大きなため息をついた。
「心からそう願いますわ」
 助教授と別れて、俺たちは警視庁を出た。今夜もまた霧だ。
 何となく落ち着かない。明日までじっとしていられない思いだ。自然と俺たちの脚は、明日捜査する冴河の下宿へと向かっていた。
 冴河の部屋には、相変わらず人の気配はない。
「もう一度、入り込んでみるか?」
 平岡さんが言う。だが、真理華が首を横に振った。
「こんな時間に下手に忍び込んで、見つかったらヤバいわ」
「しかしなあ…」
 グズグズしているうちに、時間は午後九時を回った。そろそろ…
「門限があるので帰りまーす!」
 ほら出た。
 しかたがない。亜梨沙がいなくては、錠開けもままならない。明日に備えて解散、ということにあいなった。
 冴河の下宿には、まだ何か手掛りが残っているのだろうか? そして、残っているとすれば、どんな?
 いずれにせよ、全ては明日、解る。
 それは解っていたが、やはり興奮して、その夜はなかなか寝つかれなかった。

第五章 人形館

 冴河の下宿の家宅捜査は、紫咲を含めた俺たち五人の立ち合いの元で行なわれた。そして、徹底的捜査の結果、本棚の裏側から出てきた物があった。
 4年前の新聞の切り抜きである。
『人形館に母娘生き埋め』
 記事の見出しは、そうなっている。
 その時生き埋めになった二人のうち、母親は死んだが、奇蹟的に助かったのが、娘の守月 美理恵(もりつき・みりえ)。当時十才。
「守月…?」
 記事を見た紫咲が首をちょっと傾げた。
「知ってるの?」
「うちの配達区域に、たしか守月さんてお宅があったと思うんです」
 何という御都合主義的幸運であることか。葵さん、紫咲と共に、俺たちは早速守月邸へ向かった。
 守月邸はかなり格式があるらしい、豪華な洋館だった。何でも、来る途中で紫咲に聞いたところでは、元華族のお家柄らしい。
 守月邸を取り巻く霧は、これまでで一番濃い。どうやら、ここが霧の中心部と考えて間違いなさそうだ。
「あれっ?」
 亜梨沙が急に声をあげる。
「どうした?」
「今の、冴河さんだったみたいですよお」
「どこだ?」
「あそこ」
 亜梨沙が指さしたのは、洋館の最上階らしい窓の一つだった。だが、残念ながら俺の目では確認できなかった。
「まずは、正攻法で行くか」
 舞が玄関の呼び鈴を押す。かなり年輩らしい女性の声が応対に出た。
『はい、どちら様ですか?』
「あのー、こちらにヒガ大の学生で冴河市文くんという人がいませんか? 私たち、彼の友人なんですが」
『当屋敷には、そのような方はおられません。どうぞ御引き取り下さい』
 にべもない。もう一度呼び鈴を押してはみたものの、今度は出てもくれない。
 それでは、と公衆電話から電話してみる。
 TRRRRR…TRRRRR…TRRRRR…
「ダメだ。応答なし」
 俺は肩をすくめた。
 ドサリ。
 何かが倒れるような音がした。俺たちは思わずそっちを振り返った。
「…平岡さん?…平岡さん!」
 倒れたのは平岡さんだった。眠りこけていて、目を覚まそうともしない。眠り病にやられたのだ。
「まいったな…どうする?」
「どうするったって、このまんまほっとくわけにもいかないし…しょうがない、あたしが担ぐわ」
 そう言って舞は、平岡さんの身体を軽々と担ぎ上げた。パワーだけなら俺より上なのだから、コイツも並の女ではない。
 眠りこけてしまった平岡さんを担いだまま、屋敷の回りを一周してみたり、裏口から覗いたりもしてみたが、中の様子は全く判らない。
 俺は葵さんに聞いた。
「警察の力で、中を調べるなんてことは…?」
 葵さんは首を横に振った。
「無理ね。犯罪があったという確かな形跡でもあれば別だけど、何の根拠もなしに人の家に踏み込むなんて、警察にはできないわ」
 俺は腕を組んだ。
『さて、こうなると、亜梨沙ちゃんの錠開け技で中に侵入したいところだが、葵さんがいたんじゃそれもできやしない。となりゃ、何とか葵さんをこの場から引き離さなきゃならないってことになるんだが…』
 ピン、とひらめいて、俺は何食わぬ顔で葵さんに言った。
「葵さん、すみませんが、平岡さんを病院まで連れてってやってくれませんか? 俺たちはここで、屋敷の様子を見張ってますから」
 意外にあっさりと、葵さんは頷いた。
「張り込むってわけね? OK。平岡君を病院に連れて行ったら、私も戻ってくるわ。それまで、勝手に動いちゃダメよ。いいわね?」
「そりゃあ、もちろん」
 約束しながら、俺は腹の中で舌を出した。申し訳ないけど、こっちは勝手に動きたいからやってるんだ。
 葵さんが電話で連絡を取ると、しばらくして猟奇課で見た若い刑事さんらしい男性が車で現われ、平岡さんと葵さんを乗せて行ってくれた。
「策士ねー」
 舞が呆れたように呟く。
「最高の賛辞だね」
 俺は何食わぬ顔で応じてから、亜梨沙に言った。
「亜梨沙ちゃん、必殺技の出番だよ」
 途端に亜梨沙は、パッと顔を輝かせた。
「はぁーい! 亜梨沙、いきまぁーす!」
 再び、錠開け技がさくれつ。亜梨沙のこの技の前には、一般のご家庭の錠前など、あってなきがごとしだ。扉は簡単に開いた。
 ゆっくりとノブを回し、細めに開けて、中の様子をうかがう。
 中から何かの音楽が流れてくる。
「…ワルツだわ」
 舞が呟く。
 用心深く、あたりに気を配りながら、俺たちは屋敷に踏み込んだ。
 途端。
 ブン。音を立てて、精神の回路が動きを早める。
 ナイトメア・バスターとしてやってきた俺たちには、お馴染みの感覚だ。
「おい、ここは…」
「…夢の中ね」
 扉を越えた瞬間、俺たちは誰かの夢の中に巻き込まれてしまったのだ。
 そして、夢の主はおそらく…
「奥の部屋が妙ににぎやかね」
 舞が言った。
 確かに、玄関のホールはもちろん、左右に上っている階段の上からも、とにかく屋敷全体から人の気配がまるでしない。にもかかわらず、ワルツの流れてくる奥の部屋からだけ、陽気と言うか妖気と言うか、妙ににぎやかな雰囲気が伝わってくる。
 陽気(妖気)の正体を確かめるために、俺たちはさらに奥へと進んだ。
 部屋の扉を開く。
 そこにいたのは…
「な、なんだこいつら!?」
 …そこにいたのは、人ではなかった。人形である。
 フランス人形、ピエロ人形、様々な人形たちが、年代物のステレオから流れ出るワルツに合わせて、優雅に踊っているのだ。
 中に一体、妙にリズムに乗りきれず、明らかに場違いな盆踊りを踊っている人形がいる。
「…平岡さん!?」
 その人形の顔は、さっき眠りこけてしまった平岡さんにそっくりだったのだ。
 だが、人形たちの輪の中に、人形ではない者もいた。
 一人は、椅子に座った少女。美少女、と言っていいだろう。整った目鼻だちの、十四才くらいの女の子だ。新聞に乗っていた写真よりは成長して印象が少し変わってはいるものの、それは紛れもなく守月美理恵だ。そして、その隣に立たずんでいる男の顔は…
 冴河市文。
 写真で見たよりいい男だが、ここは夢の中だ。この程度の変化は、十分に予測できた。
 俺たちは、人形の踊りの輪をかいくぐって、二人に近づいて行った。特に邪魔されることもなく、俺たちは二人のそばにたどり着いた。
 舞は美理恵の手に触れようと、手を伸ばした。だが、人形のうちの一体がさりげなく二人の間に割って入り、舞の動きを邪魔する。
「冴河君だね?」
 俺は、冴河に声をかけた。
 冴河は、答えようとしない。ただ、悲しげな顔で口をつぐんでいる。
 俺は、冴河の肩に手を置こうとした。だが、意外なほど素早く、冴河は身を引いた。俺の手は空を切った。
 一体、冴河は何がそんなに悲しいというんだろう…?
 改めて美理恵を見た時、俺はその答えが解った気がした。
 美理恵は楽しそうに微笑んでいた。
 だが、その瞳は、俺たちや冴河、つまり人間の方を見ていない。美理恵の視線は、人形たちばかりを追いかけているのだ。
 おそらく、四年前の生き埋め事件が原因なのだろう。大きなショックと恐怖のために、美理恵の精神は異常をきたし、人間とはコミュニケートすることができなくなっているのだ。
「美理恵ちゃんを、元に戻したいんだね?」
 俺のこの問いかけにも、冴河は答えなかった。悲しげに黙り込んでいるだけだ。
 何を思ったのか、亜梨沙はステレオに歩み寄って、レコードプレーヤーの蓋を上げた。レコードを止めようという気らしい。
 だが、これも失敗に終わった。またも素早く駆け寄った冴河と人形たちに邪魔されてしまったのだ。
「やんやんやん、離してよぉ!」
 亜梨沙が騒ぎ立てたが、冴河は有無を言わせずに、亜梨沙を部屋から追い出そうとし始めた。
 だがその時、冴河が俺たちに背を向けたチャンスを、俺は逃がさなかった。
 おれは舞の方を見ると、顎をしゃくって冴河の方を指し示した。舞も即座に俺の考えを察したらしく、無言で頷く。
 俺たちは、背後から近寄り、冴河の両腕を抑えつけた。
 冴河はジタバタしたが、さすがに二人がかりで抑え込まれては、身動きは取れない。俺たちはそのまま、冴河を部屋から連れ出そうとした。
 スカッ。
 急に、つかんでいた手応えが消滅した。
 冴河の姿が消えたのだ。俺は唇を噛んだ。
「実体じゃなかったか…」
「とにかく、どーもうっとーしいわね。やっぱ、レコード止めましょ」
 今度は舞がステレオを止めようとした。再び人形たちが邪魔しようとしたが、それより一瞬早く、舞の手がレコードの針を上げる。
 途端に、人形たちの動きがピタリと止まった。
 すると、美理恵の様子がおかしくなった。表情から笑顔が消え、不安気に視線を宙にさまよわせ始めたのだ。
「ねえ、みんな、どうしちゃったの?」
 悲しげな声で、美理恵が呟いているのを横目で痛々しげに見ながら、舞が言った。
「このコ、どうする?」
「どうするったって、このままここに置き去りにするのも、何か不安だしなあ…仕方ない、外に連れ出すか。舞、お前椅子のそっち側持て」
 動かなくなった人形たちの中で悲しげに呟き続ける美少女という構図は、あまりにも絵になり過ぎる。実際それだけの理由で、俺は美理恵を部屋から連れ出そうとしたのだった。俺は舞と一緒に、美理恵を椅子ごと抱え上げようとした。
 まずかった。
「いやああああっ!!」
 美理恵が悲鳴を上げた。
 途端に、俺は何者かの猛烈な力に捉えられて美理恵から引き剥がされ、凄じい勢いで壁に叩きつけられてしまっていた。無論、舞も同じ運命である。
 ゴトリ。
 上の方で、何かの重々しい音が響いたのが聞こえた。
 ゴトリ。
 ゴトリ。
 音は下に向かって降りて来る。何かの足音のようだ。
 背中をしたたかに打ちつけられて息が詰まっていたのが何とか回復すると、俺は部屋から飛び出した。
 向かって右手の階段から、すっぱだかの男が降りて来るのが目に入って、俺は一瞬ギョッとした。
 しかし、それはよく見ると人形であることが判った。
 人形の顔は、冴河にそっくりだ。まだその顔は作りかけらしく、多少粗削りな感じだが、それでも冴河の特徴が、ハッキリと表われていた。
 のんびりと観察し過ぎた。
 冴河人形は、いきなり俺に殴りかかってきたのだ。しかも、あまりにも近すぎる。かわし切れずに、俺は肩口に一発食らった。
 強い。
「ひええええ!!」
 部屋の方から亜梨沙の叫び声が上がった。
 思わずそちらに目をやると、さっき動かなくなった人形たちが再び動き出していた。しかも、今度は明らかに敵意を持って。
「舞、俺がこいつの攻撃を受け流してる間に、何か武器を『製作』しろ!」
 俺は合気道の技でとにかく冴河人形の攻撃をかわすことに専念した。その間に舞が『製作』にかかる。だが、らしくもなく動揺しているのか、うまく意識を集中できないようだ。
 亜梨沙は紫咲を連れて部屋から逃げ出し、冴河人形が降りて来たのとは反対の階段へ逃げようとしていた。だが、途中で人形たちに追いつかれ、タコ殴りに遭っている。
「いたいいたいいたいいたぁーい!」
 亜梨沙が泣き声を上げた。
 まずい。このままじゃ亜梨沙が危ない。
「舞、交代だ! 俺が武器を『製作』するから、こいつの攻撃を受け流してくれ!」
「OK!」
 俺と舞は位置を入れ代え、舞が冴河人形に対峙した。
 俺は一歩退き、印を結んで精神を集中するために、いつもの呪文を呟く。
「我が不屈なる鋼の魂よ、刃となりて邪悪を断て…」
 印を結んだ掌が、光り輝き始める。
 俺は叫んだ。
「いでよ、我が心の剣、タケミカヅチ!」
 次の瞬間、俺の両手の中にはきらめく日本刀が握られていた。
 これが俺たちナイトメア・バスターズ共通の技、『製作』だ。
 夢の中では、精神力が全てにおいてものをいう。そして俺たちナイトメア・バスターは、人並はずれて精神力が強い。おかげで、こーゆー厄介なことを押しつけられたりもするのだが、それはさておき、『製作』とは、その大きな精神力があって初めて可能な技である。精神を集中して、何かの物をイメージすることにより、イメージした物を作り出すことができるのだ。もちろん、それができるのは夢の中に限られるが。
 この日本刀は、俺にとっちゃ、例の骸骨との初めての戦いに使って以来、夢の中ではすっかり馴染みの武器だ。タケミカヅチとは、この剣の愛称である。
 オレはタケミカヅチを手に、亜梨沙を助けに向かった。
 亜梨沙は、紫咲を先に立たせてかばいながら、階段を登って逃げようとしていたが、後ろから人形たちが追いすがっていて、ヤバい状況であった。俺は、人形たちの後ろから切りかかった。
 とにかく、こいつらの足を止める。
 俺は、一番手近な奴の脚を狙って剣を揮った。狙いはあやまたず、切先が人形のうちの一体の脚を切り裂く。
 途端に、人形はバラバラになり、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
 だが、俺は剣の手応えにいやなものを感じていた。まるで、生身の肉を切り裂いたような手応えだったのだ。
『まずいな。この人形たち、おそらく眠り込んでる人たちとつながってる…』
 残りの人形たちが俺の方を振り向く。
 やむをえない。とにかく、できるだけ急所をはずして倒すしかない。幸い、どこか一ヵ所だけでも傷つければ、人形はバラバラになるようだ。
「亜梨沙ちゃん、今のうちに逃げろ!」
 俺は次の人形を切り倒しながら、叫んだ。狙いはただ一点、すねだ。ここを軽くなで切りにしておけば、傷は軽傷で抑えられるだろう。
 切る、切る、切る!
 人形は全て崩れた。やっと一息ついた俺は、舞の方を振り返った。
 ちょうど舞は、さっき俺たちがいた部屋の方から逃げてくるところだった。
 冴河人形の攻撃をかわして、部屋の方に避難しようとしたら、回り込まれてしまって、仕方なくこっちへ逃げてきたらしい。
 だが、冴河人形はさらに追って来ようとはせず、部屋の前に立ち止まって、そこから動こうとする様子がない。
 なおも冴河人形につっかかって行こうとする舞を、俺は止めた。
「待った! どうやらあの冴河人形は、美理恵ちゃんを守りに来ただけのようだ。これ以上ヤツとやり合っても意味がない。それより今は、本物の冴河を…」
 そこまで言った時、上から亜梨沙の声がした。
「おぉーい、石見さん舞さん、上に登る階段がありますよぉー!」
 そうだった。奥の部屋の陽気に気を取られて忘れていたが、亜梨沙は最上階の部屋の窓に冴河らしい人物を見たと言っていたじゃないか。それを信じるならば…
「わかった! 亜梨沙ちゃん、そこを動くな! すぐ行く!」
 舞と俺は、階段を駆け登った。
 登りきった所から廊下が続いていて、その先に亜梨沙の姿が見える。近づいて見ると、なぜかその手にはヨーヨーが握られている。
「…ひょっとして、『製作』したわけね、そのヨーヨー?」
 俺は尋ねた。
「そーですよ。武器にしようと思って。いけませんかぁ?」
 亜梨沙は無邪気に聞き返す。
「…ま、いいけどね」
 紫咲もさぞ驚いたことだろう。バスターの『製作』を初めて見せられたことはともかく、『製作』された物がこれでは…
 ともかく、俺たちは全員揃って先に進むことにした。
 階段を用心深く登って行く。
 登りきると曲がり角があって、その向こうに階段が続いている。
 用心深く登る。
 登りきると曲がり角があって、その向こうにまた階段が続いている。
 また登る。
 登りきると曲がり角があって、その向こうにまたまた階段が続いている。
 登る。
 登りきると曲がり角があって、その向こうにまたまたまた階段が続いている。
 俺は立ち止まった。
「無限回廊か…」
 俺たちは、同じ所を堂々巡りしているのかもしれない。だが、この空間を作り出している何らかの魔が存在するのなら、それにダメージを与えることができれば…
 俺は、気合いを込めて、前方の空間をめがけて剣を揮った。
 手応えは、ない。
「ダメか…」
 紫咲が急に前に出てきた。
「どうしたんですか? どんどん先に行きましょうよ」
 止める暇もありはしない。紫咲はずんずんと上に向かって登り始めた。
 やむをえない。俺たちはさらに登ることにした。
 登る。曲がる。登る。曲がる。登る。曲がる。登る。
 いい加減あごを出しかけた頃、階段を登りきった所に扉があった。
「…無限回廊じゃ、なかったのか…?」
 俺は舞、亜梨沙と顔を見合わせた。何やら拍子抜けだ。
 扉をすぐに開けようとする紫咲を押しとどめて、舞が先に立って慎重に扉を開けた。
 何も起こらない。
 部屋の奥には、机に突っ伏して眠りこけている男が一人。
「冴河さん!」
 叫んで、紫咲が駆け寄る。
 確かにそれは、探していた冴河市文だった。今度は間違いなく本物だろう。さっき消え失せた幻の冴河に比べて、写真で見た通りの今いちサエないマスクが何よりの証拠だ。
 ったく、苦労させやがって。
 ちょっとだけ腹が立って、俺は冴河の頭を軽く小突いた。
「起きんかい、このボケ!」
 反応は、ない。冴河はぐっすりと眠っている。
「信介、ここはひとつ例の技で…」
「わかってる」
 舞に言われるまでもない。研究室で平岡さんに使った目覚まし技だ。
 指先に気を集中し、冴河の頭頂点に打ち込む。
 冴河がポッカリと目を開いた。
 だが…
「あの娘が…呼んでいる」
 また目を閉じる。
 ハッとして、俺は窓の外を見た。
 霧は晴れて…いない。
 俺は剣を構え直した。
 この霧を作り出し、この夢空間を現出させている邪気の正体、そいつはどこか他にいる。それも、おそらくこの近くに…
「…そうだ、『ピグマリオの書』は?」
 舞は本を探し始めた。やがて、それは傍らの本棚から見つかった。
「こーゆーやっかいなもんは、燃やしちゃいましょう」
「同感だ」
 俺は本に手を伸ばした。
 ピョン。
 本が、逃げた。まるで、生きているかのように、飛び跳ねて。
 俺はとっさに、本を狙って剣を揮った。
 かわされる。
 それとほぼ同時に、『ピグマリオの書』から、闇が、湧き出した。
 闇は渦巻くように蠢き、やがて一つの形を取った。
 そいつの姿を目の当たりにして初めて、俺は『霧』というキーワードで引っ掛かりかけたことが何だったのかが判った。
 古来より、霧の中に潜み、人の心を食い荒らす魔物がいる。
 その名を、『霧魔(むま)』。またの名を…
「夢魔!」
 叫びながら、俺は夢魔に切りかかった。
 鋭い切先は、奴の胴体とおぼしきあたりをザックリと切り裂いた。かなりの手応えだ。
 だが同時に、奴の爪も俺の腕を捉えた。
 ビュルッ!
 瞬間、俺は猛烈な目まいを覚える。
 奴の傷が、少しふさがっている。
 うかつだった。夢魔は、人の精神を喰って生きている魔物だ。奴は、俺の精神を喰って回復してしまったのだ。
 舞が棍棒を『製作』する。剣よりは楽に『作』れる武器だ。
 亜梨沙はヨーヨーをもう一個『作』った。
 それぞれの武器を手に、二人も夢魔に挑んだ。しかし、棍棒は剣より短くて当たりにくい上に、舞は剣道の経験もない。さらに、夢魔の動きは意外に早く、舞の攻撃はかわされるばかり。亜梨沙はというと、これはもうキャーキャー叫びながらヨーヨーを振り回してるだけといった感じで、頼りにはなりそうもない。
『俺がやるしか、ないか』
 俺は再び、夢魔に切りかかる。
 またも剣は奴の身体に深々と喰い込んだ。
 しかし、奴の爪もまた、俺の脇腹をえぐった。
 精神を喰われると、気力が萎えてしまう。剣を持つ手が、鉛のように重い。だがそれでも、ここで退くわけにはいかなかった。
 必死で気力を振りしぼり、俺は剣を揮う。手応えは、あった。
 だが、敵の一撃をかわす余裕は、ない。頭に一撃を食らって、俺はふっとばされ、床に倒れてしまった。
『ダメだ。次の一撃で、やられる』
 精神を喰い尽くされた者の末路は、ある意味で死よりも悲惨だ。発狂するか、植物人間になってしまうか…
『それでも、かなりのダメージは与えたはずだ。亜梨沙ちゃん、舞、奴へのとどめを、頼む』
 奴の爪が、俺に向かって再び振り降ろされようとしていた。
 俺は思わず、眼を閉じた。
 ごきっ。
 鈍い音が響いた、ような気がした。
 痛みは、ない。
 俺は眼を開いた。
 ギュルギュルギュル!
 なおも回転を続ける亜梨沙のヨーヨーが、夢魔の額に深々と喰い込んでいるのが眼に入った。
 夢魔の眼も、何が起こったのか解らないと言いたげだった。
 次の瞬間。
『………………………!!』
 声なき断末魔の叫びが轟いた。
 夢魔の身体が光に包まれ、シュワシュワと融けるように消滅していく。
 窓の外の霧も、晴れていく。悪夢は消滅したのだ。
 勝ったのだ!
「大丈夫ですかぁ、石見さん?」
 亜梨沙が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
 俺は、最後の気力を振りしぼって、微笑んだ。
「ああ、大丈夫…でも、助かったよ。ありがとう」
 正直、俺は亜梨沙に感謝していた。亜梨沙の一撃が決まっていなければ、俺は今頃無事では済んでいないだろう。
 舞が、無言で俺に肩を貸してくれる。おかげで、ふらつきながらも俺は立ち上がった。
「Danke(ダンケ)、舞。普段からこれくらい優しけりゃ、おまえさんももうちっとはイイ女なんだけどね」
 素直に礼だけ言えばいいものを、また俺の悪い癖が出た。
 舞が、ムッとした表情でやり返す。
「その減らず口さえなけりゃ、あんたももうちっとイイ男なんだけどね」
 問題は、冴河だった。こいつは悪夢が終わったというのに、まだ起きない。寝起きの悪いヤツだ。舞がため息をついて、言った。
「しょーがない。あたしが担ぐわ。亜梨沙ちゃん、信介をお願い」
「はぁーい」
 舞に代わって、亜梨沙が俺に肩を貸す。
「面目ない」
 正直言って情けなかったが、そうでもしてもらわないと今にもぶっ倒れそうなほど、俺は疲れていた。夢魔に受けた傷は、夢の中で受けたものだから、身体にはもちろん残っていない。だが、喰われた精神が回復するには、時間が必要だった。
 眠りこけたまま舞に担がれた冴河を、心配そうに紫咲が見つめている。俺は紫咲を安心させようと、笑って言った。
「大丈夫だよ、紫咲ちゃん。悪夢の根源が消滅した以上、冴河が目を覚ますのも時間の問題さ」
 そう、魔書『ピグマリオの書』に憑いていた夢魔は消滅したのだ。
 『ピグマリオの書』…?
 俺はあたりを見回した。
 ちょうど夢魔が消滅したあたりに、本が転がっている。
 俺は亜梨沙に肩を借りたまま近づき、本を拾い上げた。今度は、何の抵抗もなく、本は拾い上げられた。
「…どうする、この本? やっぱ、燃やすか?」
 舞が首を横に振った。
「考え変わった。そーゆー面倒なもんは、紀田先生に渡そうよ」
 なるほど。それも一理ある。司書さんの話からすると、紀田助教授はこいつを欲しがっていた節もあるし、うまくすれば恩の一つも売れるわけだ。俺は本を研究室に持ち帰ることにした。
 階段を降りる。
 曲がる。
 すぐに二階の廊下についた。当たり前と言えば当たり前だが、やはりさっきの階段は幻覚だったのだ。
 向こうの階段から、登ってくる者がいた。
 美理恵だ。
 不安気にあたりを見回しながら、やって来る。
 と、こちらに気づく。
 気づく…?
 そうなのだ。明らかにその目は、俺たちを、と言うよりは冴河を見ていた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 美理恵は声を出した。
 途端に、冴河が顔を上げた。
「美理恵ちゃん…?」
 冴河は舞の背中から降り、美理恵に歩み寄った。
「美理恵ちゃん…」
「お兄ちゃん」
 冴河の顔が笑顔になる。
「美理恵ちゃん…! 元に戻ったんだね? ああ、よかった!」
 冴河は、両腕で美理恵の身体をひしと抱きしめた。
 キリキリキリ。
 俺たちの背後で、何かがつり上がる音がした、ような気がした。
 俺はおそるおそる後ろを振り返った。
 つり上がっていた。
 紫咲の目尻。
 夢魔よりオトロシイ、おどろおどろのシットの炎が、紫咲の背中の後ろにゆらめいている。
「こっから先は俺らの管轄外…ずらかれっ!」
 俺は、ぶっ倒れそうだったのも忘れて、舞や亜梨沙とともに、とっととその場を逃げ出した。

エピローグ

 翌日、松葉杖をついた痛々しい姿の平岡さんが、葵さんに付き添われて『獏』に現われた。
「全く、やってくれたわね」
 葵さんの第一声がそうだった。
 俺たちが葵さんをうまくごまかして、勝手に守月邸に入ったことを言っているのだろう。しかし、その結果として事件が見事解決してしまったものだから、あまり強くは言えないのに違いない。実際、葵さんもそれほど怒っている様子はなく、やれやれ、しょうがないな、とでも言いたそうな口調だった。
 葵さんの話だと、眠っていた人たちは全員、無事に意識を取り戻したらしい。
「ただ意識を取り戻す直前に、『かまいたち』っていうのかしら、脚やすねのあたりに、鋭い刃物で切られたような傷ができちゃってね。平岡君もその犠牲者ってわけ」
 ギク。
 俺は亜梨沙と舞の二人に目で合図を送った。
『何にも見なかった』
 平岡さんが首を傾げる。
「うーん、へんだなあ…寝てる間、夢の中で、見たような顔に会ったような気がするんだが…確かこの傷もそいつに切られて…」
 ギクギク。
「い、いやあ、平岡さんは夢魔に魂を抜かれて人形に封じ込められていたんですよ。で、俺たちはそれを助けようとしたんですけどね、追い詰められた夢魔の奴、どさくさまぎれに人形たちを壊しやがって…いや、もちろん防ごうとしたんですが、防ぎ切れなくて…でも、それでも、急所をやらせるのだけは防いだんですよ」
 我ながらかなり苦しい言い訳だったが、どうやら平岡さんは、無事に言いくるめられてくれたようだった。
「そうかー、じゃ、お前たちには生命を助けられたんだなあ。感謝しなくちゃなあ」
 ホッ。
「そんな、感謝だなんて。ぼくたちは当然のことをしただけですから…」
 そこへ、仏頂面の紀田助教授が入ってきた。
「どうしました、先生? 御機嫌斜めですね」
「どうしたもこうしたもあるか! 昨日お前たちが持ってきた『ピグマリオの書』、一体あれは何だ! 中は全くの白紙じゃないか!」
 俺は舞、亜梨沙と顔を見合わせた。
 紀田助教授の小言ばかりが、研究室中に空しく響き渡っていた。

あとがき

  石見 信介

 恵紋が、ぼくたちの戦いをドキュメンタリー小説の形で記録に残したい、と申し出てきた時、正直言って迷った。
 しかし、少なくとも文章にしてもらうこと自体は、正解だったような気がしている。今回文章になったこの『ピグマリオ』事件を含めて、ぼくたちが体験した事件は、どれひとつ取ってもぼくたちにとって大変思い出深く、また決して忘れられない事件であるからだ。それらを、少しでも多くの人に知ってもらえることは、ぼくたち夢心理研究会一同、喜ばしい限りだ。
 ただ、文章を書かせたのが恵紋だったということに関しては、正解とは言い難いかもしれない。既にこの『ピグマリオ』事件だけでも、ぼくたちが恵紋に対してつけたクレームは枚挙に暇がないほどだ。
 神谷さんは、
「一体あたしの性格をどーゆー風に伝えたのよ!?」
 と、ぼくにあらぬ疑いを向け、亜梨沙ちゃんは、
「あたし、あんなヘンな語尾でしゃべったりしません!!」
 と、これもぼくに文句をつけてきた。平岡先輩も、
「あれでは、オレはまるでバカではないか!」
 と、わざわざぼくの下宿にまで怒鳴り込んできたし、挙げ句の果ては紀田先生までが、
「私は扉のベルを押さえて入ってくるような形而下的なことはせんぞ」
 と言い出す始末。
 ぼくとしても、ドキュメンタリー小説とは聞いていたが、まさかぼくの一人称形式で書かれるなどとは思ってもみなかったし、神谷さんとぼくの関係があやしげに書かれているのも困る。第一、神谷さんはぼくのことを『信介』などとは呼ばないし、ぼくも彼女を『舞』などと呼び捨てにしたことはない。おそらく、神谷さんも同じ気持ちだろう。それより何より、ぼくは決して単位で脅されてバスターをやっているわけではないし、まして、給料も欲しくはない。そして最後に、ぼくはバスターの仕事を誇りに思っている。従って、嫌がったことなど、一度もない!
 そこで、全員そろって恵紋に談判することにした。ところが、恵紋から返ってきた返事がこうである。
「そんなもん、小説としての面白さを追及する上では些細な事だ」
 直後、恵紋がどのような目に遭ったかは、ここでは触れない。とりあえず、次の作品からはおそらく、ぼくの一人称では書かれないであろうこと、それから亜梨沙ちゃんのセリフの語尾も変わるであろうことだけ述べておくにとどめる。ちなみに、ヨーヨーをぶつけられたようなこぶを額に作った上にチョークで×をつけられ、平手で叩かれた跡が頬にくっきりと残り、剣先をのどに突きつけられたような小さな切り傷があって、ついでにスコーピオン・デスロックを掛けられた後遺症で腰を痛めたような歩き方をしている男を見かけたら、石でも投げつけてやって欲しい。
 それから、恵紋の文章の中では触れられなかった、ぼくたちのその後の事を、拾遺として簡単に述べておく。
 まず平岡先輩は、論文を書く作業にひたすら忙殺されているようだ。そのため、しばらくはバスターとしての活動ができない、と残念がっている。
 次に神谷さんは、『ピグマリオ』の戦いで夢魔に一撃を与えることもできなかったのがよほど悔しかったらしく、学校を休学して、武者修業の旅に出るそうだ。
 亜梨沙ちゃんは、夢魔にとどめを刺した一撃の快感が忘れられず、父親におねだりして、とうとう特注の殺人ヨーヨーを作ってもらい、連日特訓に励んでいるらしい。
 ぼくはといえば、あいも変わらず『獏』でアール・グレイを飲みながら、新たな事件が飛び込んでくるのを待っている。
 皆さん。悪夢にうなされてはいませんか?
 そんな時は、すぐぼくたちに報らせてください。
 東江戸川大学雑学部雑学科、第一雑学教室の、『夢心理研究会』まで。
 
 
 
第2話に続く
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