RPGリプレイ小説 『ナイトメア・バスターズ』

夢心理研究会日誌 ファイルNo.2


タンタロス


原案:武田 明宏

脚色:東江戸川大学夢心理研究会

文章:恵紋 春人


プロローグ

 邪悪なる胎動。
 ドクン。
 ドクン。
 生贄(いけにえ)を求めて。
 ドクン。
 ドクン。
 おぞましくも悲しき力は渦を巻き、邪悪なるものに更なる活力を与える。
 どす黒く紅い、毒の血の色。
 芳しくも危険な、魔性の香り。
 哀れな生贄たちの、救いを求める叫びが、無辺の闇にこだまする。
 救いの主は、まだ、現われない。
 ドクン。
 ドクン。

第一章 大食

 快音が響いた。
「やったあ、ストライク!」
 長い髪の少女が、ぴょんと飛び上がって、振り返りざまVサインを出した。
 柔らかい黒髪が舞うように揺れて、サラリ、と再びまとまる。顔だちは派手ではなく、むしろ『かわいい』という方が合っていそうなタイプの娘だ。
「お見事、亜梨沙ちゃん」
 黒地に赤のチェックのシャツに、ストレートのGパンといういでたちの、一口に言えばダサい格好の男が、椅子に腰掛けたまま少女に向かって拍手する。
「Congratulation!」
 その隣りに座っていた、化粧が似合いそうなほどハンサムな白人男性が立ち上がり、両掌を上に向けて、亜梨沙と呼ばれた少女の方に突き出す。
「サンキュー、アンディ」
 少女は、それに自分の掌をポンッ、と重ねた。ホームランを打った選手が、ホームインした時にやる、あれだ。
 少女の名前は、瀬賀 亜梨沙(せが・ありさ)。聖カミニート女学院というお嬢様学校の高等部三年に在学している、十八才の少女。彼女のあまりの気さくさゆえに、気づく者は少ないが、こう見えても彼女は知る人ぞ知る大財閥、瀬賀コンツェルンの御令嬢なのである。
 一方、アンディと呼ばれたハンサムな外人は、アンディ・ノーマン。十九才。東江戸川大学、通称『ヒガ大』の雑学部雑学科に、留学して来ているアメリカ人だ。
 拍手をした男は、石見 信介(いわみ・しんすけ)。ヒガ大雑学部雑学科の三年生で、二十一才。熊本出身で、無骨者を売りにしている男だ。
「よぉーし、今度はオレの番だ」
 眼鏡を掛けた、パッと見た限りではその筋の人ではないかと思われそうな、あまり印象のよくない男が、満を持したようにボールを取ってレーンに向かう。
 ぶんっ!
 ボールは唸りを上げて、宙を飛ぶ。
 どすんっ!
 レーンに落ちる。
「うぁちゃー」
 石見が目を覆う。
 がこぉーんっ!
 ヘッドピンを直撃! したのはいいのだが…
「どわーい、スプリットだ!」
 眼鏡の男が悲鳴を上げた。
「あのなー知場…お前、ちったあ加減ってもんを考えろよ。ボーリングのボールをサイドスローで投げるヤツがどこにいる!」
 石見が呆れたように言う。
「とゆーより、アンダースローの砲丸投げだね、あれは」
 亜梨沙もゲンナリといった表情だ。
 アンディは何も言わない。ただ、無言で肩をすくめる。
「やかましいっ! ボーリングなんてもんは所詮、パワーこそ全てだ!」
 知場と呼ばれた眼鏡の男が怒鳴る。
 知場 法久(ちば・のりひさ)。石見と同じ、ヒガ大雑学部雑学科の三年生だ。ただし、留年経験者で、年齢は二十二才。
「それでスプリット作ってりゃ世話ないわい」
 石見がまたまた傷口をえぐるようなことを言う。
「そりゃもっともだ」
 亜梨沙はうむうむと頷いている。
「黙れ黙れっ! このスプリットを、きっちりスペア取りゃあ文句なかろーが!」
「取れたらジュース一本おごってやるよ」
 石見が知場を挑発する。
「ダメダメ、どうせなら焼酎とかウイスキーとか、お酒にしなきゃ知場さん本気出さないわよ」
 亜梨沙が輪を掛けてけしかける。
「あ、そりゃそうだ。よし知場、取れたら俺ん家から取り寄せた本場の球磨焼酎を進呈するぞ」
「おーし、言ったな。忘れるなよ、その約束」
 戻ってきたボールを取り、再び構える知場。
 ぶんっ!
 またもボールは唸りを上げる。
 どすんっ!
 ボールは二本のピンの、正確にど真ん中を通り抜け………
 どがこぉーんっ!
 レーンの奥の壁を直撃!…しただけでその勢いは止まらず、イレギュラーに跳ね返ってきた。そして、残っていた二本のピンを思いっきり蹴散らす。
「………Oh,God!」
 アンディはヤリキレナイと言いたげに頭を振った。
「知場さぁーん、ボーリング場ぶち壊す気?」
 亜梨沙がボヤいた。実際、普通ならピンを掃除するため、すぐに降りて来るはずのアームが、降りて来ようとしない。機械がイカレたらしい。
「他のレーンに飛び込んで行かないのがせめてもの救いだな、全く」
 亜梨沙や石見の文句にも、知場は余裕の表情である。
「だが、ちゃんとスペアを取れたことには変わりあるまい? 石見、約束だ。焼酎はもらうぞ」
「バカ言え! あんなんで取ったうちに入るかよ」
「あっ、てめえ、約束を破ろうってのか?」
「ま、いいんじゃない? ともかく、ピンは倒れたんだし」
「ソウイウ問題デスカ…?」
 こうしてのどかに(?)ボーリングをしている光景を見た限りでは、彼ら四人も、ごく普通の(???)若者に過ぎない。
 だが、実は彼らには、ある共通の力がある。そして彼らは、その力ゆえに集められ、共に戦う運命を背負っているのだ。
 彼らの力。それは『ナイトメア・バスター』としての力。
 彼らは、弱き人の心に救う悪夢を、人知れず狩る『悪夢始末人』なのである。ヒガ大の弱小サークル『夢心理研究会(ゆめしんりけんきゅうかい)』、通称『夢研(むけん)』を表看板に掲げた彼らは、雑学部雑学科の助教授であり、夢研の顧問でもある…
「あいかわらずろくなことをしとらんな、お前たちは」
 …と、いきなり登場したこの人物、紀田 順一(きだ・じゅんいち)のもと、日夜数々の悪夢と戦い続けているのだ。
 えっ? なぜ女子高生の亜梨沙が、大学のサークルの連中と一緒に『ナイトメア・バスター』をやってるのかって? もちろん、それには深ぁーいワケがあるのだが、その話はまたの機会に譲って、今回の話を進めよう。
 アンディは、突然の紀田の出現に、ギョッとなった。
「…Mr.紀田、イツノ間ニココニイタデスカ?」
 紀田は指を左右に振ってチッ、チッ、チッ、と舌打ちをした。
「No,アンディ。今の場合は『いた』ではなくて『来た』が正しい日本語だ」
 だが、他の三人はまたか、という顔をしている。どうやら、紀田の唐突な出現には、慣れっこのようだ。
「仕事だぞ」
 亜梨沙の顔が、パッと輝いた。だが、石見と知場は眉をひそめる。
「先生、勘弁して下さいよ。この間の『ピグマリオ』事件が片付いてから、まだ二週間しか経ってないじゃないですか。俺なんて、夢魔に精神を半分以上食われかけて、死ぬ思いだったんですよ。せめてもう少し休ませて…」
 言いかけた石見の言葉が途切れた。表情が凍っている。
 石見の視線は、紀田の手の中に注がれている。
 紀田の手の中にあるのは、閻魔帳。
「えーと、三年生の単位は…」
 言いかけた紀田を遮って、石見が再び勢い込んでしゃべり始める。
「もらおっかなーっと思ったけど、二週間も休めば十分ですよね。やります、いえ、やらせて下さい!」
 紀田は閻魔帳を閉じた。
「よろしい。依頼人が『マイヨール』で待ってる。すぐ行くから清算して来い」



 依頼人との顔合わせ場所としては恒例の、レストラン『マイヨール』に入った途端、四人は思わず息を飲んだ。
 『マイヨール』で夢研の面々を待っていた今度の依頼人は、女性だった。だが、もちろんそれで驚いたわけではない。
 驚いたのは、その女性の前に並べられた料理の皿の山にである。六人掛けのテーブルの上に、料理がところ狭しと並べられ、平らげられた皿は山積みになっているのだ。
 それだけではない。料理はなおも次から次へと運ばれて来ている。さらに、その料理は運ばれて来るスピードと同じスピードで、どんどん消えて行くのだ…たった一人の女性の胃の中に。
 そしてとどめに、それだけ食べていながら、女性は病的なほどひどく痩せているのだった。
「…お前たちも、何か食うか? 私は、コーヒーだけでいい」
 さすがの紀田も、今回ばかりは何も食べる気がしないらしい。しおらしく注文している。
「…あたし、いい。見ただけでおなかいっぱい」
「俺もいつもの通り、アール・グレイだけもらいます」
 亜梨沙と石見が言った。
「ワタシモ『コケコッコー』デス」
「それを言うなら『結構です』だろ」
 たくまずして生じたアンディと知場の掛け合い漫才にも、乾いた笑いしか返って来ない。
 食べるだけ食べてやっと落ち着いたのか、依頼人はやっと話を切り出す。
「失礼しました。私、あなたがたと同じヒガ大のOGで、馬場きみこと申します。実は、皆さんにお願いしたいのは、私の体のことなんですが…私、食べても食べても太れないんです」
「あれだけ食って…いや失礼、食べてもですか?」
 石見が驚きのあまり聞き返す。答える代わりに、きみこは一枚の写真を取り出した。写っているのは、よく言えば健康的な、丸々とした女性である。
「私、昔はこの写真みたいに太ってたんです。どうしてもダイエットしたくて色々試したんですが、どれもダメでした。最後に試したのが、『スロタンタ・コーポレーション』という会社の出している、『アンブロシアン・ダイエット』という商品でした」
「あ? 南部ロシアがどうしたって?」
「あんぶろしあん・だいえっとデスヨ」
 今度は知場のボケにアンディがツッコむ。石見がとっちめた。
「お前ら、人の話を真面目に聞く気があるのか!…失礼、話を続けて下さい」
「はい、それは効果がすごくあって、一ヵ月と経たないうちにダイエットに成功したんですけど、今度は太れなくなってしまって…」
「そのダイエットの方法、どこから情報を手に入れたんです? やっぱ、新聞の折込みチラシとか雑誌の広告とかで?」
 石見の問いに、きみこは首を横に振った。
「口コミなんです」
「だれから?」
「大学時代のお友達で、広瀬重子という人です」
「その人は今、どこに?」
「さあ…話を聞いて減量を始めたのが、大学を卒業する直前で、卒業の時に会ったきりですから、そこまでは…」
「それじゃ、その『スロタンタ・コーポレーション』とかいう会社の連絡先とかは?」
「それは、家に帰って商品のパッケージを調べれば判りますが、今は…」
「ああ、いや、いいんですよ。どうだろう、みんな? ここはまず、依頼人さんのお宅へお邪魔して、現物を見せてもらうのが一番よさそうだが」
「異義なし」
「ヨイト思イマス」
「行こ行こ! 早く行こ!」
 三人の意見を確かめると、石見は改めてきみこの方に向き直り、言った。
「ということなんで、ご案内願えますか?」



 紀田と別れ、依頼人の家へ行って、四人はまたもギョッとなった。
「この度はウチのきみこがお世話をおかけしまして」
 そう言って出迎えてくれたきみこの両親というのが、揃いも揃ってなんとも見事な恰幅のよさ…平たく言えばデブなのである。母親が、きみこに言う。
「お腹すいたでしょ? 夕御飯の用意ができてるわよ」
「ありがとう、お母さん」
 きみこの答えにしばし唖然とした石見だったが、気を取り直して聞く。
「あ、あのー、夕御飯…ってさっき食べておられたあれは…」
「はい、あれでは足りないんです」
「…あ、そうですか」
『どうやらこの家族には、こと食事に関しては常識が一切通用しないらしい』
 そして、馬場家の食事風景を見るに至って、石見のこの考えは確信に変わった。
 きみこと、きみこの妹を含めた四人家族が、さっき『マイヨール』で見たきみこと同じようなスピードで料理を平らげていく。その量もさることながら、その脂っこさ、ごつさときたら、フランス料理も真っ青といった感じなのである。あまりの光景に度胆を抜かれ、四人は質問をするのも忘れてしまった。
 だが、馬場家の恐怖の食事も、驚異のデザートを最後に遂に終焉した。そこで、ここに来た目的をやっと思い出したかのように、石見は再びきみこに質問した。
「その『アンブロシアン・ダイエット』ってのは、一体どういう減量法なんですか?」
 きみこは答える。
「アンブロシアン・ダイエットというのは、お守りのようなものと、白いシーツと、それにカセットテープで一セットになっていて、体の痩せたい所にお守りを載せて、セットのシーツを敷いたベッドの上で、カセットテープを聞きながら寝るんです。そうすると、お守りを載せた所がてきめんに痩せるんです」
「ところで、どうして痩せようと思ったんですか?」
 だが、亜梨沙のこの質問には、きみこは悲しそうに目を伏せただけだった。石見は少し目を細めて考えると、傍らのアンディに囁いた。
「アンディ、トイレにでも行くフリして母親を連れ出して話を聞いて来てくれ。大方、ボーイフレンドがらみってとこだろうけど、母親も本人の前じゃ言いにくいだろうし」
 アンディは眉をひそめたが、やがて言った。
「All right」
 そして立ち上がり、きみこの母親に話しかける。
「Excuse me、スミマセンガ、といれ、アナイシテ下サイマセンカ?」
「あない?…ああ、案内ですね。解りました、こちらです」
 母親が立ち上がり、アンディとともに部屋を出る。
 それを見送ったところで、今度は知場がきみこに話しかけた。
「精神科の医者にかかってみましたか?」
 きみこはぎょっとした表情になった。
「私、精神病なんて…」
 石見が慌てて説明する。
「あ、いや、精神科と言っても、あなたの気が変になってるとか、知場はそう言う意味で言ったわけじゃないと思います。ただ、あなたが太れないのは、何かのストレスとか、精神的な原因がからんでいるかもしれないという、その程度の意味ですよ。そうだな、知場?」
「はあ…でも、私、精神科には行ってません」
 そこへ、ちょうど戻ってきたアンディが話しかける。
「催眠術、掛ケサセテクレマセンカ?」
「えっ? でも…」
 きみこはためらうが、石見が説得する。
「怖がるほどのことはありませんよ。さっきも言ったように、あなたが太れなくなったのには、何か精神的な原因があるかもしれません。だとしたら、それを調べるには心理学的な方法がいいと思います。催眠術と言うと、うさんくさく聞こえるかもしれませんが、最近じゃ心理学者も使ってるくらい社会的に認められてる方法なんです。身内を賞めるのも何ですが、アンディはちゃんと専門の心理学を勉強してますから、危険はありませんよ」
 どうやら説得が効を奏したらしい。きみこは、恐々ながらも頷いた。
 アンディは、何とも古典的な方法だったが、懐中時計を取り出して振り子にし、きみこに催眠術を掛け始めた。
「アナタハ、眠クナル、眠クナル…モウ、眠ッテシマッタ…サア、何ガ見エマスカ?」
 催眠状態に入ったきみこは、夢の中を語り始める。
「何かが渦を巻いています…」
「何カ聞コエマスカ?」
「女の人の悲鳴が、遠くから聞こえてきます…心臓の鼓動のような音も、低く響いています…」
「何カ匂イマスカ?」
「…判りません」
「他ニ変ナ感ジハアリマセンカ?」
「…時々、力を吸い取られるような感じがします…」
 四人は顔を見合わせる。
「もう少し詳しく聞いてみよう。どっちの方に吸われているか、とか」
 石見の言葉に、アンディは頷く。
「ドッチノ方ニ吸イ取ラレテ行キマスカ?」
「…判りません」
「ドウシマスカ、石見? コレ以上催眠術ヲ続ケルノ、大変ダガ」
 石見はちょっと考えたが、すぐに答えた。
「もういいだろう」
 アンディはきみこの方に向き直り、言った。
「ミッツ数エタラ、目ガ覚メマス。One,two,three!」
 きみこはポッカリと目を開いた。途端、きみこは叫ぶ。
「お母さん、お腹すいた」
 四人は息を飲んだ。
 また食うのか…?
 げっそりしながらも、再び食事が終わるのを待って、石見は話しかけた。
「申し訳ありませんが、きみこさんの部屋を見せていただけますか?」
 きみこは、またためらうような表情になる。
「私の部屋を、どうしても見なければなりませんか?」
「はい」
 知場が簡潔に答える。石見がフォローする。
「参考までに、部屋の中のベッドの配置などを調べておきたいんですよ。あなたが夢の中で感じた、力を吸い取られる感じというのが気になりましてね。あなたが食べたもののエネルギーが、どこかに吸い取られているとすれば、その方角を知る手掛りが必要です。ま、鬼門とか北枕とか、方位学的な事と関わりがあるかもしれませんし」
 きみこは細い目をぱちくりさせていたが、やがて頷いた。
「判りました。どうぞこちらへ」
 先頭に立ってきみこは二階へ上がり、部屋の前まで来ると、四人を振り返った。
「ちょっと待ってて下さい」
 返事を待たずにきみこは部屋の中に姿を消した。直後、中で少しドタバタしている音が聞こえていたが、やがて静かになると同時に、きみこの声がした。
「どうぞ」
 四人は促されて部屋に入った。
 入ると同時に、石見はあたりに素早く目を配った。そして、机の上に伏せられた写真立てがあるのに目を止めた。だが、それには気づかないふりをして、石見は聞いた。
「ダイエットしていた頃と、部屋の配置は変えてませんね?」
「はい」
「そうですか…ところで、『アンブロシアン・ダイエット』のセットは、まだこの部屋に?」
 きみこは首を横に振った。
「いえ、あれは怖いので、物置にしまい込んであります」
「出して来ていただけますか? お預かりして帰って調べますんで」
「判りました、すぐ取って来ます」
 きみこが部屋から出て行っている間に、石見は入ってすぐに目をつけていた、机の上に伏せてある写真立てを起こしてみた。
 写っているのは丸々としている頃のきみこと、スリムでなかなかハンサムな青年。
「コレ、倉田サンネ、maybe」
「倉田?」
「Yes。倉田 光太郎(くらた・こうたろう)サン、キミコサンノぼーいふれんどネ。ソレデ、キミコサン痩セヨウ思ッタ。ダガ、倉田サン太目ノ娘ガ好キト、判ッタノデ、彼女マタ太ロウトシテイルデス」
「シッ! 戻って来た」
 素早く石見は写真立てを元通り机に伏せた。箱を抱えてきみこが入って来たときには、全員平然とした顔である。
「お待たせしました。この箱にシーツが入ってます。それから、これがカセットテープで、こっちがお守りです」
 カセットテープを知場が、お守りをアンディが、そしてシーツの入った箱を石見が、それぞれ受け取った。
「『スロタンタ・コーポレーション』の連絡先は、この箱に書いてあります」
「判りました。時間も遅くなりましたし、今日は引き揚げます。明日から本格的に調査することになると思いますが、また何かありましたらお邪魔するかもしれません」
 馬場家を出た所で、一同はため息をついた。
「とんでもねえ大食い一家だな」
「でも、あれできみこさんだけ太らないなんて、確かにおかしいわね」
「それはさておき、どうする? こいつについて調べなきゃならないが」
 石見が箱を指し示すと、亜梨沙が言った。
「ちょっと紀田先生をおどかしちゃおうよ」
「どうやって?」
 石見が怪訝そうな顔で言うと、亜梨沙はにんまりと笑った。
「みんな、耳貸して。いい?…」



 四人が研究室に戻ると、案の定、紀田はまだ研究室にいて仕事をしていた。
「先生、ただいま帰りました」
 石見が声を掛けると、紀田は振り返りもせずに言った。
「いちいち断わらなくても、扉の音で判ってる。それで、どうだった?」
 石見がアンディに目配せし、二人で紀田の背後に近づく。石見が紀田の右側から話しかけた。
「とりあえず、彼女が痩せすぎて止まらなくなった原因は、『スロタンタ・コーポレーション』という会社の、『アンブロシアン・ダイエット』という商品が原因らしいとは判ったんですが、お聞きになったことはありませんか?」
 なおも紀田は振り向こうとしない。
「それを調べるのがお前たちの仕事だろう」
「ごもっともです。ただ、博学な紀田先生のことだから、ひょっとしたら何か御存知かと思いまして。ところで、『アンブロシア』と言ったら、確かギリシャ神話で言う、神々の食べ物のことでしたよね?」
「ああ、そうだ。そいつは石見の方が詳しいんじゃないのか? 確かお前がギリシャ神話体系について書いた論文を読んだ覚えがあるぞ」
「恐れ入ります。それで、名前を聞いた時は何か、マンナンとかそういった、ダイエットのための食品なのかと思ったんですが…」
 いきなり、紀田がアンディの手首をムンズと掴んだ。
 その手に、例のお守りが握られている。
「何のマネだ、アンディ」
 紀田の口調はきつい。
 石見は思わず舌打ちをしそうになった。
「ア、イエ、ソノ、紀田先生ノぽけっとカラ落チタヨウダッタノデ」
 アンディの言い訳はあまりに白々しい。
「いや、私のではないな。何だ、これは?」
「サ、サア…トモカク、ココノ床ニ落チテマシタカラ、ココニ置イテオキマスネ」
 亜梨沙の作戦その一、『紀田先生のポケットにお守りを入れる』、失敗。
 慌てて石見は話をそらした。やむをえん。作戦その二に突入だ。
「おい知場、この間ダビングしてくれる約束だったテープ、持って来てるか?」
 一瞬、知場は戸惑ったようだったが、石見の目配せに気づいて「ははーん」という表情になり、頷いた。
「あ、ああ、あるぜ」
「先生、一緒に聞きません? ノリPなんですけど」
 紀田は作業の手を止めて、石見の目をじっと見つめた。
 石見はたじろぎそうになるのを必死にこらえて、何食わぬ笑顔を作った。
「ま、いいだろう。たまにはアイドル・ソングも悪くないかもしれん」
「そいじゃ亜梨沙、門限があるので帰りまーす!」
「ジャ私、送ッテ行キマス」
 これも予定された行動だった。
 作戦その二は、『紀田先生にテープを聞かせる』なのだ。ただ、これは一人で聞かせようとしても難しい。そこで、石見と知場が犠牲になって一緒に聞こうというのである。亜梨沙とアンディは、石見と知場にもしものことがあった場合、全員がダメージを受けるのを避けるために、避難しておこうというのだ。
「じゃ、掛けるぜ」
 知場がカセットレコーダーのスイッチを入れる。
 やがて流れくる音楽…



「…おい、起きろ。起きろ!」
 紀田の声に叩き起こされて、知場と石見は目を覚ました。
「ま、お前らの考えることはこの程度だろうな」
 紀田がさもおかしそうに言う。
「…先生、俺たちは一体…?」
 答える前に、紀田はカセットテープをレコーダーから取り出した。
「こいつに入ってるのは、単なる催眠音楽だ」
「えっ?…でも、それじゃ先生はどうして…」
 紀田は、これ見よがしに耳栓を見せた。
「お前たちの様子がどうもおかしかったんでな。隙を見て、準備したんだ」
 石見たちはグウの音も出ない。さらに紀田は続ける。
「大方、さっきアンディが置いて行ったお守り袋みたいなもんも、今度の事件がらみだろうと思ってな、お前たちがぐっすり眠ってる間に調べておいた。それからシーツもな。お守り袋の中には、こいつが入っていた」
 紀田がテーブルに出したのは、何かの護符のようなものだった。
「もともとこいつには、何らかの邪悪な呪いが込められていたらしい。その痕跡は残ってる。だが、それだけだ。今は呪いが抜けてしまっていて害はない。それから、シーツの方にも、そいつと同じマークが縫い目に浮き出ていた」
 言われて二人は、その護符…いや、むしろ『呪符』と言った方がよいだろう…を見つめた。
「九芒星…ですね」
 石見が言うと、紀田はさらに聞いた。
「他に気づくことはないか?」
「…角のひとつが、他のより長いぞ」
 今度は知場が答えた。次の瞬間、二人揃って声を上げる。
「ひょっとして…!」
 紀田が二人を試すように聞いた。
「どうした? 何が判ったんだ?」
「こいつを馬場きみこの部屋のベッドの位置と合わせてみれば…」
「…事件を引き起こしてる者の居場所を示す一つの方向が、掴めるかもしれません!」
 紀田は満足そうに頷いた。その手に再び閻魔帳が握られている。
「はい、よくできました。というわけでお前たち、単位が欲しくば私の言うことを聞け。いいか、まず明日の朝…」

第二章 追跡

 アンディの朝は、いつも早い。朝、学校に来ると、まだ誰もいない教室に入って、ひとり物思いに耽けるのがアンディの日課だ。
 その朝の一限はラテン語のLL授業であった。
 LL教室にアンディが入って来る。教室には、いつも通り、誰もいない…はずだった。
 と、アンディの前にすっと立つ、二つの影。
 知場と石見である。
 アンディは、ちょっと驚いたように首を引いて、二人を見た。
「Oh、Good morning、石見、知場。今日ハ、ズイブン早イデスネ。トコロデ昨日ハ、ドウデシタ?」
「よう、アンディ。実はな…」
 そう言いながら、石見はアンディの右に回り込む。それに合わせて、知場は左へ。
「悪く思うなよ」
 言うより先に、二人はアンディの腕を両側から押さえた。
 が。
「何ぃっ!?」
 二人は瞬間、何が起こったのか解らなかった。
 自分たちが持っているのは、アンディの腕。腕だけ、である。
 アンディは腕だけを残し、二人から逃れていた。
「しまった、こいつはニセ腕だ!」
「ちきしょう、アンディが手品やるのを忘れてた!」
 二人がこんなことをするには、もちろん、昨晩のことがある。単位をネタに紀田に脅され、泣く泣く(か喜んでか知らないが)アンディを懲らしめる片棒をかつぐことになったのだ。
 だが、アンディも昨晩のことで身の危険を感じていたのだろう、あらかじめ手品用の腕を仕込んで来ていたというわけだ。
 アンディは、脱兎のごとく逃げ出した。
 しかし、次の瞬間。
 教室中に静かな音楽が鳴り始める。
 途端に、アンディの身体がグラッと傾き、ゆっくりと崩れた。
 そのまま床に倒れ、眠り込んでしまう。
 紀田の仕業だった。
 なんと紀田は、非常識にもLL教室中に催眠テープを鳴り渡らせたのだ。
 これでは、さすがのアンディもたまったものではない。なす術もなく、ぐっすりと眠り込んでしまったのだった。
 紀田はスイッチを切り、石見と知場に手振りで「もういいぞ」と合図をした。
 それを見て、二人は耳栓を外す。石見が聞いた。
「で、どうするんです、先生?」
 石見の問いに、紀田はちょっと首をひねった。
「そうだな…とってもはずかしい寝顔の写真でも撮っておくか」



「で、今日はまず、どうする?」
 その日の午後になった。目を覚ましてふてくされたアンディを、やっとのことでなだめすかし、さらにまたもや高校を早退してきた亜梨沙とも合流して、石見たちは紀田研究室で今日の作戦を練っていた。
「せっかく大学にいるんだ。昨日、馬場さんから聞いた広瀬重子さんって人の連絡先を調べてみようや」
「ソウ言エバ、馬場サンモ広瀬サンモ、コノひが大ノOGデシタネ」
「よし、それで行こう」
 四人は学生課へ行き、卒業生の名簿を調べてもらった。
 意外と簡単に、その住所は見つかった。都内のとあるアパートで、ヒガ大からは電車で一時間とかからない所である。
 四人はそのまま、すぐに広瀬家へと向かった。
 だが。
 一足遅かった。
「! 死ん…亡くなられた!?」
 驚きのあまり、石見の問いは叫びに近かった。重子の母親は、無言で頷いた。
 広瀬重子は既に帰らぬ人となっていたのだった。
「それは…存じませんでした。一体、いつ?」
「今年の春、大学を卒業してすぐのことです…」
 そう言って、母親は目頭をそっと押さえた。
 母親の気持ちを考えると辛いが、ここは根掘り葉掘り聞かなくてはならない。石見は質問を続けた。
「一体、どうしてそんなことに?」
「…お医者様は、『拒食症』だとおっしゃったのですが…あれはあのダイエット会社のせいに違いないんです!」
 いきなり出て来た『ダイエット』という言葉に、石見は反射的に聞いた。
「ひょっとして、『アンブロシアン・ダイエット』ですか?」
 母親はちょっと驚いた表情を見せた。
「そうですが…それをどうして?」
 石見は素早く考えを巡らせ、『嘘も方便』と考えた。
「やはりそうでしたか…実はぼくたち、広瀬先輩には学校でいろいろお世話になってたんです。卒業前に急に痩せられたので、どうしたんですと聞いたら、その名前を教えて下さって…ただ、痩せ方が早過ぎたので少し心配はしてたんですが、まさか亡くなっていたとは思いませんでした…せめて、お線香だけでもあげさせていただけませんか?」
「そうでしたか…後輩の方たちに来ていただけて、重子も喜ぶでしょう。どうぞ、お上がり下さい」
 母親が先に奥へ入って行く。石見は三人に向かって無言で頷き、先頭に立って上がり込んだ。三人もすぐ後に続く。
 四人は、あまり広くない座敷に通された。
 仏壇の重子の写真が、丸々としていた頃のものであることが、かえって涙を誘った。重子の写真と並んで、父親らしい人物の写真もある。どうやら、母一人子一人の生活だったらしい。
 石見が代表する形で線香に火をつけ、四人はそれぞれ仏壇に向かって手を合わせた。
 全員が手を合わせ終わるのを待って、石見は再び話を切り出した。
「ところで、つかぬことをうかがいますが、広瀬先輩が使われていたダイエットの道具は、残ってませんか?」
 期待を込めた質問だった。だが、期待は裏切られた。
「あんなものは、処分してしまいました」
「! 処分…そうですか…」
 落胆したような四人の様子を見て、重子の母親は怪訝な顔になった。
「あれが、何か…?」
 少し迷った末、石見は事実を少し説明することにした。
「実は、広瀬先輩が亡くなる原因を作ったその『アンブロシアン・ダイエット』で、今も苦しんでる人がいるんです。ぼくたちは、その人を救うために…広瀬先輩のような犠牲者を、これ以上出さないために、『アンブロシアン・ダイエット』について調べているところなんです」
 母親は、全て納得したという表情で頷き、申し訳なさそうな顔になった。
「そうでしたの…ごめんなさいね、お役に立てなくて。重子の仇が討てるんなら、私でできる事は何でもしますのに…でも、あれだけは手元に置いておく気がしなくて…」
「いえ、お気持ちは解ります。ご心配なさらないで下さい。先輩を死に追いやった『アンブロシアン・ダイエット』の正体は、必ず突き止めます」
 石見は母親に約束し、三人を促して広瀬家を辞去した。
「手掛りなしか…」
 がっくりしたように知場が呟く。
「しょうがないさ。とりあえず、次は『スロタンタ・コーポレーション』の連絡先に行ってみるとしよう…どうした、亜梨沙ちゃん?」
 うつむいていた亜梨沙は、ハッと顔を上げた。
「ううん、別に。ただ、死んだ人がいたなんて…結構ショックだったから」
 言われて、石見は気づいた。亜梨沙が『仕事』がらみで死人にぶつかったのは、これが初めてのことだったのだ。
「その気持ち、解るよ。でも、落ち込んでちゃいけない。これ以上の犠牲者を出さないためにも、急いで事件を解決しなきゃ。そうだろ?」
 亜梨沙はまたうつむいたが、再び顔を上げた時、その顔には笑顔が戻っていた。
「うん」



 四人はその足で、『スロタンタ・コーポレーション』の連絡先へと赴いた。場所はオフィス街の一角にある、事務所ビルの一室だった。
 だが、その部屋の扉の名前を見て、知場は首を傾げた。
「…『バードテレホンサービス』? おい、ここは『スロタンタ・コーポレーション』じゃないみたいだぞ。住所、間違ってないか?」
 石見は眉をひそめた。
「…ともかく、入ってみよう」
 扉を開けて中に入ると、まず四人の目に飛び込んできたのは、ズラリと並んだ電話の群れと、その前に座っている人たちの姿だった。
「いらっしゃいませ。新規のお申し込みですか?」
 脇の方から、受け付けの係らしい女性が呼びかけて来た。
「あの、失礼ですが、こちらは一体…?」
 受け付け嬢はにこやかに答えた。
「はい、『バードテレホンサービス』でございます」
「いや、それは表で見ましたが、何をなさってる会社なんでしょう?」
 受け付け嬢は宣伝文句をまじえて説明してくれたが、要するにここは貸し電話の事務所だった。つまり、何かの事情で事務所が置けないか、あるいはその場所を公にできない会社に対して、通信販売などの連絡先として電話番号を貸す会社なのである。契約相手の会社は、時々向こうから出向いて来て、入っている連絡を確認して、その情報を持って帰るだけ。つまり、必ずしも自分の住所を、この会社に教えておく必要すらないのである。
「それじゃ、ここの契約先に『スロタンタ・コーポレーション』という会社がありませんか?」
「少々お待ち下さい」
 受け付け嬢は奥へ行き、少し年かさの男と相談していたが、やがて戻って来た。
「今、担当の者が参りますので、少々お待ち下さい」
 言われた通りしばらく待つと、受け付け嬢がさっき話をしていた男が、書類を抱えて近寄って来た。
「お待たせしました、『スロタンタ・コーポレーション』でしたね? ええと…す…す…ああ、確かにありますね。でも、一週間前に契約を打ち切られてます」
「先方の住所は、判りませんか?」
 男は申し訳なさそうに首を横に振った。
「さっき、受け付けの者が説明したと思いますが、お客様の中にはどうしても住所を知られたくないとおっしゃる方もいらっしゃいまして…むしろ、私どもとしましては、そういったお客様に安心してご利用いただくのが仕事でございまして。お聞きの『スロタンタ・コーポレーション』も、そのようなお客様の一件でございますね」
 石見は唇を噛んだ。世の中、こんないい加減な商売がまかり通るとは、とんでもない話だ。
「それじゃ誰か、その『スロタンタ・コーポレーション』からやって来た人物に会ったことのある人はいませんか?」
「担当の者ですか? ええと…ああ、ちょうどよかった。担当だったアルバイトの者が、今日、参ってます。藤野くん、ちょっと」
 電話の前に座っていた青年の一人が、立ち上がってやって来た。
「彼が、『スロタンタ・コーポレーション』からの連絡を受ける担当でした」
 紹介された青年に、続けて話を聞く。
「話をしに来た『スロタンタ・コーポレーション』の人間がどういう人物だったか、覚えてませんか?」
 せめてと思って聞いてはみたが、やはりダメだった。
「どういう、と言われても…ごく普通の、中肉中背の中年男性でしたから…特徴もこれといってなかったし…それ以上は、ちょっと…」
「時間の無駄だな」
 知場があっさりと言った。雄弁ではないが、一言で真実を突く才能が、知場にはある。
 石見は頷いた。
「引き揚げよう」
 四人は、重い足取りで研究室へと戻った。
 まさに八方ふさがりであった。
「…どうする?」
「…どうしよう?」
 話がそこから先へ進まない。
 知場が、突然叫んだ。
「ええい、こうなりゃ力技だ。アンディ、コンピュータでデータベースにアクセスして、ここ三ヵ月くらいの拒食症による死亡者をまとめてリストアップするぞ! こうなりゃオレは徹夜も覚悟だ」
 眉をひそめながらも、アンディも頷く。
「All right。ヤリマショウ」
「それじゃ亜梨沙、門限があるので帰りまーす」
 門限が来てしまった亜梨沙を帰して、知場とアンディは徹夜でコンピュータと取り組み始めた。
「俺も、手伝おうか?」
 石見は言ったが、知場に断わられた。
「それより、食いもんと飲みもんを、コンビニで買って来てくれや」
「…了解。知場は握り飯でいいよな。アンディはサンドイッチか?」
 アンディは振り返らずに答える。
「No。オムスビガ、イイデス」
「OK。飲み物のご注文は?」
「酒…と言いたいところだが、飲んじまったら仕事にならん。いつものパターンで代わり映えせんが、無難なとこで麦茶かウーロン茶にしといてくれ」
「承知」
 石見は学校を出て、表通りにあるコンビニエンス・ストアへ行った。
 お握りを十個ほどと、麦茶の一.五リットルボトルを二本、それにポリのコップを買って帰ると、知場とアンディはそれぞれコンピュータに向かったままである。
「買って来たぞ」
「ああ」
「Thanks」
 石見が声を掛けても、二人は生返事をするばかり。
 石見は手持ち無沙汰でしょうがなく、もう一度知場に話し掛けた。
「ホントに、何も手伝わなくていいのか?」
 知場は面倒くさそうに振り返って、言った。
「お前、それほどコンピュータには詳しいわけじゃないだろ? かえって邪魔だよ」
 石見は少しムッとした表情になったが、それは確かに事実だった。
 知場は再びコンピュータに向かう。が、思い出したように付け加えた。
「それに、徹夜したら、明日はオレたち二人はまともにゃ動けん。せめてお前は少し休んでろ」
 石見の表情が、和らいだ。
「それもそうか…じゃ済まんが、俺は失礼して、先に休ませてもらうぜ」
 そう言うと、石見は研究室のソファの上にゴロリと横になった。
 カチャカチャカチャカチャカチャ…
 絶え間なく響く、二人がキーを叩く音を聞きながら、数分と立たないうちに石見は深い眠りに落ちて行った。

第三章 餓鬼王

「Hey、石見! Wake up!」
 石見はアンディに叩き起こされた。
 窓の外は既に白々と明るくなり始めている。
「一体、今何時だ…?」
「ソンナ事ヨリ、コレヲ見ルネ!」
 アンディにせかされて、石見は眠い目をこすりながらモニターを見た。と、その目つきが見る見るうちにシャッキリしてくる。
「おい、こいつは…!」
 知場が隣りで嬉しそうに頷く。
「ドンピシャリ! たった三ヵ月間の、拒食症による死亡者が、国内だけで百人越してたのには参ったが、ふっと思いついて、中にヒガ大関係者がいないかと思ったら、これが大当たりさ」
 石見は死亡者リストを読んだ。
 神崎広美。ヒガ大在学中に死亡。死亡の日付は、広瀬重子の死亡した日よりも前になっている。
「まさか、ここもモノが処分されてるなんてことは…」
 石見が不安気に言う。
「何言ってんだよ。行く前から悩んだってしょうがないだろが! 今はとにかく、この神崎って人の家族んとこに、行ってみるしかねえよ」
「…ああ、そうだな」
 ちょうどその時、扉が開いた。
「おはよーっ! みんな、げんきー?」
 思いっきり元気よく飛び込んで来たのは、亜梨沙だった。
 実のところ、徹夜明けでぐったりしている三人を想像していた亜梨沙は、考えた末、景気づけのためにこういう登場のしかたを選んだのだった。
 ところが、思いのほか元気そうな三人の様子に、亜梨沙はちょっと戸惑ってしまった。
「元気も元気。ひょっとすると、手掛りが掴めたかもしれないんだよ!」
 石見が嬉しそうに言うと、亜梨沙もパッと顔を輝かせた。
「ホントに!?」
「よし、揃ったところで早速行こうぜ、神崎さん家に」
「Wait a minute! 少シ早スギマセンカ?」
 時計は、やっと六時半を回ったところだ。
「確かに…ちょっと待つか」
 そこへ、電話が鳴った。
 知場が電話を取る。
「はい、紀田研究室です」
 慌てふためいた声が、受話器から飛び込んで来た。
「あ、私、馬場きみこの父親なんですが、急にきみこの容態が悪化しまして、ど、どうしましょう?」
 知場の表情が変わる。
「とにかく、栄養剤の点滴を片っ端からガンガン打ち込んで下さい!」
「は、はい、解りました。お医者様もそう言っておられます。とにかく、なんとかきみこを助けてやって下さい。お願いします!」
「解ってます! 大分手掛りも集まってます。気をしっかり持って下さい」
 知場が受話器を置くと、石見がもどかしげに聞いた。
「おい、どうした!? まさか馬場さんに何か…!」
「ヤバい状況だぜ。ボヤボヤしていると、馬場さんの生命が危ない!」
 知場は、父親の話を三人に伝えた。石見がうなる。
「こうなると、もはや一刻の猶予もない。すぐに神崎さんの家へ行こう。アンディ、異存はないだろうな?」
 アンディも深刻な表情で頷く。
「仕方ナイデショウ。人ノ生命ニハ、変エラレマセン」
「よし。その前にひとつ…」
 石見は目を閉じ、指先に気を集中した。
 その指で、アンディと知場の頭のてっぺんをトン、トン、と続けて叩く。
 最初、目をパチクリさせた二人だったが、やがて顔を見合わせた。そして、同時に石見の顔を見る。
「…おい石見、何をしたんだ? 急に頭がすっきりしたが」
「頭頂点を突いたのさ。眠気のさめるツボだ」
「Oh! Oriental magic! 『東洋ノ神秘』ネ」
 アンディが感心したように言うと、石見は苦笑した。
「ま、それほど大げさなもんじゃないが、これで今日一杯は眠らなくても持つだろう」
「サンキュー、石見。これでちったあマシになったぜ」
「ほれほれ、なにグズグズしてんのよ! 早く行くんじゃなかったの?」
 亜梨沙が先に立ってドアを開け、三人をせかした。



 一時間後、三人は神崎家の前にいた。
 インターホンのベルを押すと、母親らしい声で返事があった。
『はい、どなた?』
「こんな朝早くに申し訳ありません。神崎広美さんの大学の後輩の者です。実は、神崎さんが亡くなられた原因について、お聞きしたいんですが…」
 やや間があって、返事が来た。
『…今開けますので、少々お待ち下さい』
 玄関が開いて、五十年輩の女性が顔を出した。
「広美のことでとおっしゃいましたが…立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
 座敷に通されると、出勤の準備をしていたのだろう、父親らしい人物が、Yシャツにノーネクタイのままで四人を迎えた。
「初めまして。神崎広美の父です」
 ていねいに頭を下げられ、四人は恐縮する。
「初めまして。こんな朝早くのお忙しい時間にお邪魔して、申し訳ありません」
 石見がわびると、父親は首を横に振った。
「どうぞ気になさらんで下さい。ところで、広美のことで何かお聞きになりたいとか」
 今は一刻の猶予もない。石見はストレートに切り出すことにした。
「実は、これは人の生命に関わることなので、単刀直入にうかがいます。お嬢さんが亡くなられたのは、ひょっとして『アンブロシアン・ダイエット』が原因だったのではありませんか?」
 父親の表情が変わった。
「なぜ、その名前を?」
「そうなんですね?」
 父親は沈痛な面持ちで頷いた。
「はい。娘が栄養失調で死んだ時、私は怒りと悲しみで気が狂いそうでした。そして、娘を死に追いやったダイエットの商品を売りつけた『スロタンタ・コーポレーション』に行って、何もかもぶち壊してしまいたい衝動に駆られたのです。ですが…」
「…連絡先はダミーだった」
「…その通りです。私は絶望しました。しばらくは会社に行く気力もない有り様でした。もし私に、息子がいなければ、私も娘の後を追って死んでいたかもしれません。しかし、私には今でも、娘を死に追いやったダイエット商品と、それを作った奴が、『スロタンタ・コーポレーション』が許せない。死んでも許す気にはなれない!」
「もしかすると、その居場所を突き止めることができるかもしれません」
「! 本当ですか!?」
 石見の言葉に、父親は身を乗り出した。
「お嬢さんがお使いになっていたダイエット商品は、まだこのお宅においてありますか?」
「もちろん、あります! 娘を奪った憎い仇の、ただひとつの手掛りですから」
 四人の目が輝いた。
「それをお貸し願えませんか?」
 父親は、石見の目をじっと見つめた。
 石見も、精一杯の誠意を込めて、父親の目を見つめ返す。
「それがあれば、娘の仇が判ると?」
「はい」
 父親は頷いた。
「解りました。あなたがたを信じて、お任せしましょう」
 父親はいったん座敷を出て、やがて自らシーツとテープ、それに呪符の入った袋を持って来た。石見はそれを受け取った。
「確かに、お預かりします。それと、申し上げにくいんですが、お嬢さんの寝室の配置を、特にベッドか蒲団をどちらに向けて寝ておられたかを教えていただけませんか? 詳しく説明はできませんが、重要なことなんです」
 父親はちょっと驚いたようだったが、すぐに承知してくれた。
「全てお任せしたのです。御自由になさってください。娘の部屋は、娘が死んでから手を付けておりません。御案内しましょう」
「ありがとうございます」
 石見たちは深々と頭を下げた。



 さらに、一時間後。
 四人は、再び研究室に戻り、机の上で頭を突き合わせるようにして、地図を見つめていた。
「これが、神崎さんの使っていたシーツ。ベッドのむきが大体こんなもんだったから、長い角の方向は、この地図では…こんなもんかな」
「それから、こっちが馬場さんのだ。方向は…こんな感じだろう」
 かなりあいまいでブロードではあったが、地図の上に二本の線が引かれる。
 その交点は…
「川崎の工場地あたりだな」
 知場が言った。
「かなりいい加減だが、それほどずれちゃいないはずだ。とりあえず川崎まで行こうか」
「電車だと、向こうへ着くまでに二時間くらいは眠れるだろう。オレは電車だ」
「私モソウシマス」
「じゃ、あたしはそれに付き添うわ。二人が寝過ごしちゃうと大変でしょ?」
「OK。俺は、向こうでの機動性を考えて、バイクで先に行ってるよ。じゃ、お先に」
 ヘルメットを手に取って扉に向かった石見を、知場が止めた。
「ちょい待ち、石見! その前にオレたちが眠れるようにしろ。さっきツボを突いてもらったおかげで、眠いどころか目が冴えちまって眠れそうにない」
「え? そうか、そりゃまずったな…眠れるツボはあるにはあるんだが、突いた途端に眠り込むんだ。しょうがない、駅までつきあうよ。多分、それでもこっちの方が先に川崎へ着くんじゃないかな」
 四人は揃って、まず駅へと向かった。ヒガ大のキャンパスに最寄の『ヒガ大前』駅から川崎へは、幸い一本の電車でつながっている。
『間もなく一番線に電車が参ります。危ないですから白線の内側までお下がり下さい』
 プラットホームに電車が滑り込んできた。
 ラッシュアワーにはまだ遠く、電車はガラ空きである。
「これならタップリ寝ていけるな」
 座席に座りながら知場が言う。
 発車のベルが鳴り出した。
「じゃ、おやすみ」
 一緒に乗り込んで来ていた石見が、二人の耳の後ろを軽くトン、トン、と突いた。そのまま、閉まりかけた電車の扉をすり抜けるように飛び出して行く。
 知場とアンディは、既に眠り込んでいる。
「…いつもながらあざやか」
 亜梨沙は感心したように呟いた。
 電車は、川崎へ向けて滑り出した。



 二時間後。
 石見は、三十分ほど前から川崎駅の前で三人の到着を今や遅しと待っていた。
 実は、ヒガ大前から走って来る途中、
「あ、しまった。二人を眠らせたのはいいけど、眠りのツボを突いた奴、起こすの難儀だぞ」
 と思い至り、心配になっていたのだった。
 しかし、心配は取り越し苦労に終わり、三人は無事に電車から降りてきた。ただ、知場とアンディの表情が妙に仏頂面だ。
 気になって、石見は聞いた。
「亜梨沙ちゃん、一体どうやって二人を起こしたの?」
「これ」
 亜梨沙の手に握られている物は…!
「ち、痴漢防止ブザー…! まさか亜梨沙ちゃん、電車の中でそれを…?」
「そうよ。何か問題ある?」
 石見は頭を抱えた。
「知場、アンディ、済まん…! 俺がうかつだった」
「済んじまったことだ。それより、早く調べよう」
「調ベルト言ッテモ、ドウヤッテ?」
 はたと考え込む四人。勢いで川崎まで来てはみたものの、そこから先のことはまるで考えていなかったことに、はじめて気づいたのだ。
「ええい、悩んでいても始まらん! とりあえず電話帳でもしらみつぶしに当たってみりゃあ、何か出てくんだろ」
 またも知場が力技なことを言う。だが、他の方法もない以上、その案に従うよりない。
 だが意外なことに、それが成功だった。
 公衆電話の電話帳で健康食品だのエアロビクスだの、ダイエットに関係のありそうなところをしらみつぶしに調べまくっていたら、浮かび上がった怪しげな会社の名前があったのだ。
 その名は…
「『タンタロス・ヘルス株式会社』…スロタンタ…タンタロス…誰がどう考えても、こいつは怪しい名前だな」
「行ってみるか」
 駅前に止まっていたタクシーを捕まえて三人はそれに乗り込んだ。石見はバイクで随行する。
 目指すは一路、『タンタロス・ヘルス株式会社』。



 異臭の漂う工場群の間を抜けた先に、なぜかポッカリと穴のように空いた、だだっ広い造成地がある。
 そしてそのど真ん中に、タンタロス社はあった。
 敷地の中を覗いてみると、手前に事務所、奥に工場らしき建物が見える。
「どうする? 正面突破か?」
 血気にはやる知場を、アンディが止めた。
「Wait、知場! 日本のコトワザニモアルデショウ。『泡吹クコジキハ家来ガ少ナイ』」
「それを言うなら、『慌てる乞食はもらいが少ない』だよ。しかし、ここはアンディの言う通りだ。まずは様子を探らなきゃ」
「でも、どうやって?」
 亜梨沙が素直に疑問を口にする。
 石見は腕組みをしてしばし目を閉じ、やがて再び目を開いた時、その顔には笑みが浮かんでいた。
「…こういう作戦はどうだろう? まず、俺と亜梨沙は兄弟になりすまして、客のふりをして中に入り込み、様子を探る。万一の場合は、亜梨沙の痴漢防止ブザーを鳴らす。アンディと知場は表に隠れて、中からの合図を待つ。どうだ?」
 三人は顔を見合わせた。
「悪くないんじゃない? あたしは賛成」
「Me,too」
「万一の場合が早く起こってくれることを祈ってるぜ」
「よし、決まった。公衆電話はっと…」
 近くの公衆電話を探し、石見は電話を掛けた。
『毎度ありがとうございます、「タンタロス・ヘルス株式会社」でございます』
 やたら愛想のいい男が応対に出る。
「えーと、そちらのダイエット関係の商品についてお伺いしたいんで、妹と二人でお邪魔してもよろしいですか?」
『はい、それはもう、ぜひ起こし下さいませ。こちらの本社にはショールームのスペースもございますので、ゆっくりと商品を御覧いただけますし、充分な御質問をなさった上で、御契約のご相談をなさっていただけます。何でしたら駅までお迎えの車を差し上げましょうか?』
「ああ、いえ、結構です。バイクで来てますから、すぐにお伺いします」
『左様でございますか。それでは、お待ち申し上げております』
 電話ボックスから出ると、石見は三人に言った。
「話はついた。作戦開始だ」
 早速、石見はバイクの後ろに亜梨沙を乗せ、二人で敵陣へ乗り込む。
 事務所には、何人かの若い社員がいて、忙しげに立ち働いたり、電話の応対をしたりしている。二人が入ると、受け付けの女子社員が立ち上がり、
「いらっしゃいませ」
 と営業スマイルを浮かべた。
「あのー、先程お電話した者なんですが…」
 あたりにさりげなく気を配りながら石見が言うと、一番奥に座っていた偉そうな態度の中年男がそれに気づき、立ち上がって二人に歩み寄って来た。
「これはこれは、ようこそ。お待ちしておりました」
「あなたが、先程のお電話の…?」
「はい、当『タンタロス・ヘルス株式会社』の社長で、段田修司と申します。本日は、わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます。それで、ダイエットなさりたいとおっしゃるのは、こちらのお嬢様ですか? 実に可愛らしいお嬢様ですなあ」
 そう言って段田は愛想笑いをしながら、亜梨沙を見る。亜梨沙は思わず、ひきつった笑いを浮かべた。
「ええ、まあ。ごらんの通り、それほど太ってる訳でもないのにダイエットしたいなんて言うんですが…」
「いやいや、皆までおっしゃいますな。美に対する女性の欲望とは実に貪欲なものです。その気持ちには、物心ついたばかりの子供から腰の曲がったお年寄りまで、例外はございませんよ。そして、私共はそうした女性のニーズにお応えするために、日夜研究を重ね、皆様の美と健康に奉仕すべく…」
 べらべらと能書きをまくしたてる段田に唖然としていた石見は、ふと我に返った。
「あ、あのー、すいません。あなたがたの会社が、実に素晴らしいことをなさってるのはよーく解りました。で、肝心のダイエットに関する商品のことなんですが…」
「おお、これは失礼を致しました。まずはこちらの方をごらん下さい。ダイエットでしたら、例えばこれなどはいかがですかな? 寝る時に着ているだけで痩せられる、『フィットネス・スーツ』です。それから、甘い物がお好きな方には、おいしく召し上がっていただきながら痩せられる、『ファイバー・パイ』なども…」
 次から次へと出てくる商品に、石見はいささか閉口した。しかし、そんな素振りはもちろん、少しも見せない。
「なるほど。実にいろんな商品があるんですね。ところで、つかぬことをうかがうようですが、こちらのダイエット商品は、本当に安全なんでしょうね?」
 段田はちょっと怪訝な顔をする。
「と、おっしゃいますと?」
「いや、ぼくの大学の友人で、欠陥商品でひどい目に遭った人がいるんですよ。やせ過ぎて止まらなくなっちゃって」
 段田は妙に憤慨したような様子になった。
「ほう、それは許せませんな。一体どこの会社でしょうな」
 何食わぬ顔で、石見は段田を細かく観察していた。
『まだボロを出さないな。もう少し突っ込んでみるか』
「確か、スロ何とか…御同業ですから、御存知ありませんか?」
 途端に段田の表情がこわばった。
「ほ、ほう、そうですか。いや、残念ながら存じませんな」
 石見の眼が光った。
 段田の額に、汗が浮かんでいる。空調の効いたこの事務室の中で…
「…そうですか、それは残念だ。確か、商品名は、アンブ…」
 瞬間。
 段田が身をひるがえして裏口へ逃げ出した。
「亜梨沙ちゃん、ブザーを! 俺は奴を追う!」
 とっさに石見はそれだけ叫ぶと、段田を追って駆け出した。
「えっ? えっ? えっ?」
 残された亜梨沙は、思いもかけなかった石見の過激な行動に、一瞬パニックしたが、すぐにブザーを鳴らした。
 表の二人が、ブザーを聞きつけて駆け込んでくる。
 あたりを素早く見回し、石見がいないのを見て取った知場が叫ぶ。
「石見は!?」
 亜梨沙が裏口を指差すと、知場もそっちへダッシュして飛び出して行く。
 アンディは慎重だった。
 事務所に取り残されてきょとんとしている若い社員たちを見て、話し掛ける。
「Excuse me。私タチ、怪シイ者アリマセン。コノ会社ノ事、少シ聞カセテイタダケマスカ?」
 アンディに話し掛けられただけで、女子社員たちが、ぽわーんとした表情になる。女性ばかりではない。
「ねっ、教えて? お願い☆」
 亜梨沙のウインクに惑わされた男たちもいる。
「…事実上、この『タンタロス・ヘルス株式会社』は、段田社長と、副社長のロバート・ロス氏の二人だけで経営されてるんです。元はごく普通の、小さいけど割と良心的な健康食品会社だったらしいんですが…あの二人が経営するようになってから、なにかヤバいことに手を染めているらしいということは薄々感じていました。でも、お給料がケタ違いにいいんで、私たちはみんな見て見ぬふりをしていたんです…」
「…ふむ。ってことはさ、アンディ、さっきの段田って社長が、間違いなく何か知ってるってことだよね?」
「Yes,it’s right」
 亜梨沙は再び社員の方を向き直った。
「社長が逃げて行った方には、何があるんですか?」
「このすぐ裏には、商品を作るための工場があります。そしてそのもうひとつ裏側に、重役室があります。社長はそこへ行ったんだと思います。ロス副社長も、そこにいるはずです」
 亜梨沙は頷いた。
「サンキュー。アンディ、石見さんたちを追っかけよう!」



 一方、段田を追った石見は、工場の入口が開いているのを見つけた。
 石見は警戒し、そっと忍び寄ろうとする。
 そこへ、後ろから突進してくる気配に気づき、石見は思わず振り返って身構えた。
「知場!?」
「敵はその中か!? よおーし、とっかぁーんっ!!」
 知場は立ち止まりもせず、そのまま突っ込んで行く。
「待て!」
 石見は止めたが、一瞬遅い。
 ヒュンヒュンヒュン!
 工場の中から、二人を目掛けて何かが飛んで来た。
 知場を止めるために思わず首を突き出してしまっていた石見、飛び込んだ知場、二人とも飛んで来た何かを、辛うじてかわした。
 べちゃ。
 地面に落ちたそれは…
「…パイ?」
 石見は思わず眉をひそめて呟いた。
 大方これが、さっきの段田の話に出て来た『ファイバー・パイ』とかいうヤツだろう。それが二人を目掛けて飛んで来たのだ。
 工場の奥には、五人の工員が見える。パイを投げて来ているのはその連中だ。
「ここで連中を食い止めろ!」
 段田が工員たちに命令している。そして当の段田本人は、さらに工場の裏口から逃げようとしている。
「突撃いいいい!」
 知場は突っ込んで行く。
「おい、知場!…ったく、あいつは考えるってことを知らないのか!?」
 一人残された石見は、呆れて呟く。
 一発、二発、三発!
 知場は飛び来るパイの群をかわし、あるいは腕で受け止めて、猛然と走り続ける。だが、いつの世も蛮勇の運命は悲劇と、相場が決まっている。
 工員の投げたパイの一発が、運悪く知場の膝に命中した。崩れたバランスを取り戻すために、知場の脚が鈍る。
 その瞬間、知場の命運は尽きた。
 一瞬、知場の目の前が真っ白になり、次の瞬間…真っ黒になる。
 最期の瞬間、知場は甘ったるい匂いを胸一杯に吸い込んだような気がした。
 知場の身体は、まるでスローモーションのように、ゆっくりと地に仆れた。
 静寂があたりを包む。
 知場法久よ、君は男の生き様を見せてくれた。ありがとう、知場法久。君の勇敢な最期を、ぼくたちは決して忘れない…
「誰が死んだか、誰がぁっ!?」
 わあ、ビックリした。
 ゾンビのごとくムックリと起き上がった知場は、顔に張りついたパイを腕で拭って、再び果敢に走り出した。
 あーあ、やめときゃいいのに。…ホラ、また食らった。
 お、また立ち上がったぞ。懲りないねー。…うわー! もうここまで来ると、おかしいの通り越して気の毒だね。
 …おっと、いかんいかん。人の悲惨を楽しんでいる場合ではなかった。とりあえず、知場の方は工場を抜け出すまで放っておいて、他に目を向けてみよう。
 少し時間が戻って、知場が工場内に突っ込んだ直後。石見はというと、この局面ではさすがに慎重だった。
 扉の陰に隠れて、あたりを見回す。
 再び、その眼が光る。工場の左側から、裏へ回り込めそうだ。
「急がば回れ、か…知場の辞書にはないんだろうな、そういう諺は」
 一人呟いて、石見は裏手へと回り込むべく、ひそやかにダッシュした。
「突撃いいいい…ぶっ!…負けるかああああ…ぶっ!…このやろおおおお…ぶっ!…」
 工場の中から伝わって来る『激闘』の気配に眉をひそめながら、石見は工場の裏手へと回り込む。
 そこには、もうひとつ建物が立っていた。扉が開いている。
「…あそこか」
 石見はあたりに気を配りながら、扉へと歩み寄った。そして、開いている扉に入る前に、立ち止まって中の様子をうかがおうとする。
 そこへ、後ろから騒がしい気配が伝わって来た。
 工場から駆け出して来ようとする、白い影がひとつ。
 知場である。
 が、出口の所でちょうど後頭部に一発食らって、またも転倒。
 石見は頭を抱えて呟いた。
「…馬鹿…!!」
 だが、知場は何とか再び立ち上がり、石見の姿を認めて走って来る。
 それを追って、五つの影が工場から飛び出して来る。もちろん、さっきの工員たちだ。
 しかも、両手にパイを持っている…!
「知場、急げ!」
 石見はギリギリまで待った。そして、走ってきた知場を扉の陰に迎え入れ、素早く扉を閉める。
 バシバシバシバシバシ!
 激しい激突音が響いた。
 五人の工員が一斉に投げたパイが、扉にぶつかって空しく潰えたのだ。
「サンキュー、石見」
 知場が言う。顔中にべっとりと付いたパイを腕で拭おうとしているが、そもそもその腕が既にパイだらけで、拭っている意味が全くない。
 石見は、まだ表を警戒していた。工員たちの気配が、まだ伝わって来るのだ。
「…確か連中、パイを両手に持ってたよな」
 石見の考えを察して、知場が応える。
「…やるか」
 一瞬、扉を開いて、
「ベロベロベロー」
 サッと扉を閉める。
 バシバシバシバシバシ!
 残り五つのパイも、空しく潰えた。
「よし! うまくいったぞ」
 知場が喜ぶ。石見は大げさに嘆息をついた。
「ふいー、これでやっと安心して奥へ進める」



 またまた少しだけ時間が戻って、一方、亜梨沙とアンディは、工場の入口が見える所に来ていた。
「…何、あれ?」
「…ぱいノヨウデスネ」
 入口から少し離れた所に、潰れたパイの残骸がある。
 二人は顔を見合わせた。
「…ねえアンディ、あたし、何だかキョーレツに身の危険を感じるんだけど、気のせいかな?」
「…多分、気ノセイデハナイデショウネ」
 二人は恐々あたりを見回した。
「あっちから回り込めそうよ」
 亜梨沙が気づいて指差したのは、石見と同じ道だった。
「行キマショウ。ぐずぐずシテイルト、アレガ来ルカモシレマセン」
「OK」
 工場の脇をすり抜けると、話に聞いていた重役室のあるらしい建物が、二人の目に入った。だが…
「…何、あれ?」
「…ぱいノヨウデスネ」
「…もう一コ裏に回ろっか」
「…Good ideaデスネ」
 二人はさらに、重役室棟の裏手へと回り込んだ。



 その頃、知場と石見は、それとは知らずにその重役室の入口に来ていた。
「…行くか」
「いつでも」
 両開きの扉を二人同時に開けて、中へ入る。
 暗がりの中に、二人の男がいるらしいのが見えた。
 一人は、さっき逃げて行った社長の段田らしい。もう一人の方は外人のようだ。
 二人は動こうとしない。うずくまって、何かをしているようにも見える。
「先手必勝!」
 知場はいきなり殴りかかって行く。
「おい、知場!…ったく、ちったあ状況を確かめてからでも遅くはなかろうに!」
 石見は、外の光を取り入れるために窓へと駆け寄り、カーテンを開けた。
 窓の外に回り込んで来ていた亜梨沙とアンディの顔がある。
 とっさに窓の鍵を開ける石見。
「石見さん、後ろっ!!」
 驚いた顔で、窓越しに亜梨沙が叫ぶ。
「何っ!?」
 振り返ろうとする刹那、石見の肩に鋭い激痛が走る。
 石見は、苦痛に顔を歪めた。
「ぐっ!…な、何だ!?」
 自分の肩を見て、石見は驚いた。
 自分の肩に食らいつき、牙を突き立てているそいつは、明らかに人間ではない。いや、図鑑に載っているような正常な動物ですらない。
「…こいつら、『餓鬼』かっ…!!」
 社長の段田修司と外人=ロバート・ロス副社長、二人の正体は、何と『餓鬼』だったのだ!
 二匹の餓鬼のうち一匹は石見に食らいつき、もう一匹は知場と対決している。
 石見も、そしてもちろん知場たちも、餓鬼と出くわしたのはこれが初めてのことである。だが、夢心理研究会、すなわちバスターたちに対して行なわれた紀田の特別講義で、その外見や行動、攻撃パターンなどに対する知識は伝えられていた。
「こいつっ!」
「God damn!」
 亜梨沙とアンディが、それぞれ得意のヨーヨーと魔球で攻撃に出る。
 ごきばきっ!
「ひええーい!」
「Oh,Jesus!」
 大はずれ…というか大当たりというか、二つとも石見を直撃。
「でぇっ!!…お前ら、俺を殺す気かっ!? もういい、二人ともそこどけぇーっ!!」
 怒りに我を忘れた石見は、肩に食らいついた餓鬼の首を両手で引っ掴む。
 亜梨沙は石見の次の行動を察して、素早く飛び退いた。だが、アンディは石見の叫び声の意味が解らず、戸惑っている。
「うおおおりゃああああっっっ!!」
 石見は、そのまま首投げで餓鬼を窓の外に放り出した。下でおろおろしているアンディのことなど、目に入っていない。
「Oh,shit!」
 アンディは落下してくる餓鬼と正面衝突!
「うわー、痛そう…」
 亜梨沙は自分が痛かったかのように顔をしかめた。
 だが、アンディは意外に素早く立ち直った。
「亜梨沙、今デス!」
「OK!」
 魔球とヨーヨーのツイン攻撃!
 ゴキバキッ!
 今度はさすがに狙いあやまたず、二つとも餓鬼のどてっ腹に食い込んだ。
 餓鬼は悶絶し、動けなくなったようだ。
「そっちはまかせた!」
 石見は叫んで、知場の援護に向かう。
 一方の知場は、たった一人で餓鬼を相手に奮戦していた。
 背中に食らわした先制の一撃が効を奏したのか、餓鬼の動きは鈍い。
「明日のために、そのいちっ!」
 餓鬼の爪をかいくぐり、知場はボディ・ブローを繰り出す。
 ぼよん。
「何っ!?」
 ぷっくりと膨れ上がった腹は、拳の攻撃を受けつけない。
 驚く知場の目の前に、餓鬼の鋭い牙が迫る。
 知場は辛うじてかわしたが、バランスを崩して倒れてしまう。
「くそっ!」
 覆いかぶさるようにつかみかかってきた餓鬼をかわして、知場は床を転がり、素早く立ち上がった。
 再び襲いかかる餓鬼目掛けて、知場は再び拳を繰り出した。
「ボディがダメなら、明日のためにそのにっ!」
 拳は狙い違わず、餓鬼の大きな顎にヒットする。
 のけぞる餓鬼に向かって、知場は大きく踏み込んだ。
「これでとどめだ! 明日のために、そのさぁーんっ!!」
 ごきゃっ!
 鋭く弧を描いた知場の拳は、餓鬼の頭の、人間でいうテンプル=こめかみのあたりに、メキッと音を立ててめり込んだ。
 石見が駆け寄った時には、既に餓鬼は床に倒れていた。
「遅かったな」
 平然という知場の足許に、餓鬼が倒れている。その屍体が、シュウシュウと音を立てて消滅していく。
「こっちも片付いたわ!」
 窓の外から亜梨沙の声がした。
 勝った、と思う間もなかった。
 重役室の壁に掛かっていた、抽象画と思われた額の中から黒い霧が湧き出したのである。
「何だ…!?」
 身構える暇もなく、四人は黒い霧に巻き込まれた…



「………ここは?」
 四人が気づいた時、そこは既に異世界だった。
「この風景は、確か…」
 石見はあたりを見回した。
 何か得体の知れないどろどろとしたものが渦を巻き、遠くから女性の悲鳴が聞こえてくる。そして、何かの鼓動のような音…
「馬場さんの見たって言ってた夢と、同じ風景だな…ってことは、ここは夢空間か」
「何だか、とっても悲しそうな悲鳴…」
 亜梨沙が、胸を押さえる。確かにそれは、心を引きちぎられるような悲痛な叫びだった。
「トモカク、悲鳴ノ方ヘ行ッテミマショウ」
 悲鳴の方へ行ってみると、そこには何人かの女性の姿があった。
 だがそればかりではなく、ブクブクに太ったナメクジ…というより、端的に言ってしまえば、映画『スター・ウォーズ』シリーズに出て来たジャバ・ザ・ハットみたいなモンスターも、うようよいる。
「何だぁ? このグロテスクな連中は」
 知場が眉をしかめた途端。
 べちゃり。
 知場がモンスターに絡みつかれた。
「このっ!」
 あわてて拳で殴りつける。
 プチッ。
 モンスターは意外に脆かった。知場の一撃を食らっただけであっさりと弾けて、黄色いどろどろの脂肪の流れになってしまったのだ。
「あの女性たちって、ひょっとしたら…神崎さーん!」
「広瀬サーン!」
 何かを考えた亜梨沙とアンディが、死んだ女性の名を呼ぶ。
 果たして、一人の女性が振り返った。
 広瀬重子である。
 仏壇の写真とそっくり、いや、あれよりもっと太った様子ではあるが、確かにそれは広瀬重子に間違いなかった。
「うらやましい…」
 重子が呟く。
「えっ…?」
 四人は思わずその視線の先を追った。
 さっき知場に潰されたジャバ・ザ・ハットのあたりに、重子の視線は注がれている。
 知場と石見が同時にひらめいた。
「知場」
「やるか」
 石見はいきなり精神を集中しはじめた。
「我が不屈なる鋼の魂よ、刃となりて我が手に…いでよ、タケミカヅチ!!」
 石見の手には、馴染みの武器、日本刀『タケミカヅチ』が現われた。
「ちょっと石見さんたち、何やる気………!!」
 次の瞬間、亜梨沙は目を丸くした。
 知場と石見は、当たるを幸いジャバ・ザ・ハットを殺戮し始めたのである。
「…ヤラセテオキマショウ。彼ラニハ彼ラナリノ考エガアルノデショウカラ」
 アンディは、ややあきらめ顔で言うと、広瀬重子に話し掛けた。
「広瀬サン。ココハ、一体ドコナノデスカ? アナタ方ハ、ナゼコンナ所ニイルノデスカ?」
 すると、広瀬重子は二人にゆっくりと視線を向け、悲しげな瞳で見つめた。そして、静かに語り出した。
「…私たちは、この地獄に囚われているのです。生きている時はどんどん痩せさせられ、死んでからは…いいえ、死に切れないまま太らされ続けて、あんな姿にされた挙げ句の果て、最後はあいつの餌にされてしまうのです…」
 言われて見ると、時折どろどろとした感じのどす黒い空から、どろどろと粘るような渦が降りて来ている。それが、女性たちやジャバ・ザ・ハットの口に吸い込まれていくのだ。そしてその度に、女性たちの身体が一回り膨れ上がり、臨界に達したジャバ・ザ・ハットは自然に弾けて、どろどろと流れて行く。
 亜梨沙の顔が、恐怖と悲しみに歪んだ。
「じゃ、まさか、あれは…?」
 沈痛な面持ちで亜梨沙がジャバ・ザ・ハットを指差すと、重子は頷く。
「あれは、女性たちの変わり果てた姿なのです…」
 そう言うと、急に重子は泣き叫ぶように言った。
「お願い! これ以上私が醜くなる前に、私を殺して! 殺して下さい!」
 それは、余りにも哀しい願いだった。
 一瞬、亜梨沙もアンディも、知場すらためらった。
「ぼくがやろう」
 一歩進み出たのは、石見だった。
 つ、と最上段に剣を構える。
 広瀬重子は目を閉じる。
「さよなら」
 呟くように言って、石見は剣を振り下ろす。
 しゅっ!
 空気を薙ぐような音だけが響いた。
 広瀬重子の姿は、潰れたのではなく、消滅していた。
 剣に宿った霊気が、餓鬼の餌食とされることなく、広瀬重子の魂を浄化したのだった。
 石見は目を閉じた。瞼の裏に、広瀬重子の微笑みが一瞬、映ったような気がした。
「…ちくしょうめ、こんなことをしていてもきりがないぜ。親玉を叩くっきゃないな」
 まだジャバ・ザ・ハットを…いや、哀れな女性たちの成れの果てを浄化しまくっていた知場が言う。
 石見は決然と顔を上げた。
「よし、乗り込もう!」
 石見たちは、潰れたジャバ・ザ・ハットの脂肪の流れが行き着く先を辿って行った。
 たどり着いた所は、赤黒い液体に満ち満ちた、池であった。
 ドクン、ドクン、ドクン…
 池が脈打っている。
 いや、それは池ではない。子宮なのだ。そして中に満ちているのは、羊水…
「…まさか!」
 石見たちは身振るいするほどの戦慄を覚え、池の中を覗き込んだ。
 予感は、当たっていた。
 ドクン、ドクン、ドクン…
 池の中で、何かが成長しているのだ。とてつもなく巨大で、とてつもなく邪悪な、何かが…
 バスターとしての勘が、今、自分たちの目の前で成長し続けるこの何かが、あまりにも危険なものであることを告げ、警報ベルを鳴らし続けていた。
 奴が目覚める前に、倒さなくてはならない。
 しかし、どうやって…?
「ええーい、こんなもんは先手必勝!」
 知場が、いきなりダイナマイトを作って投げ込んだ。
 ドカーン…?
 と、来ない。
 ぐぅぇーぷ。
 げっぷのような音。
「あ…んの野郎、ダイナマイトを食っちまいやがった…あちちっ!」
 吹き上げてきた羊水=あるいは熔水を浴びせられ、知場が悲鳴をあげた。
 すかさず、亜梨沙がステンレスの雨傘を作って、知場とあいあい傘をする。
「…ありがと」
「どーいたしまして」
『ダメだ。並みの武器じゃ倒せそうにない。どうすればいい? このままじゃ、奴はどんどん脂肪太りして、遂には…』
「…脂肪太り…?」
 石見の脳細胞が、目まぐるしく回転した。
 脂肪
 分離
 石鹸。
 ピン。
「洗剤だ! 大量に洗剤を作って、あの池の中にぶちこむんだ!」
 石見はタケミカヅチの柄を口にくわえ、印を結んで精神を集中する。
 ちょっと戸惑った三人だったが、やがて亜梨沙がパチンと指を鳴らした。
「そっか! 脂肪を分離するのは界面活性剤。この間化学の質問した時、紀田先生に習ったっけ。石見さん、あったまいーい!」
 亜梨沙も精神を集中する。残る二人も、それに続く。
 あたり一帯に、四人の気が満ちる。
「…今よ! みんな、手をつないで!」
 亜梨沙の掛け声に合わせて全員で手をつなぎ、精神力を一つに集めて、洗剤を作る。
 そこに出現したのは、ドラム缶一本分はあろうかというほどの、巨大な…
「おい、誰だ? 商品名の入ったラベルまでイメージしたのは!」
 石見が口から剣を離して怒鳴る。
 出現したのは、巨大な『マ×レモン』である。
「ママ×モン砲、スタンバイ!」
「Target,lock on!」
「ママレ×ン砲、発射準備OK!」
 ノリはほとんど特撮戦隊もの。三人がかついだママレモ×のビンの口を、石見が両手に持ったタケミカヅチで、切る!
「発射!!」
 たぱたぱたぱ。
 切り口から流れ出した緑の液体が、赤黒い羊水の中に流れ込む。
 ぐわおおおおおお!
 おぞましい叫び声が響き渡った。巨大な何かの断末魔だ。
 最期のあがきか、巨大な何かは再び熔水を吹き上げた。
「あちちちっ!」
 かわし切れずに、またも知場が熔水を浴びてしまう。
 しかし、そこまでだった。
 赤黒い池全体を、緑の液体が覆いつくし、やがて池は美しい緑色に染まった。
 そして、それも次第に小さくなり、やがて緑の点になり…消えた。
 同時に、あたりにいた女性たちやジャバ・ザ・ハットの姿が光に包まれ、今やどろどろした渦もすっかり消えて、光に満ちた天に昇って逝く。
「終わったな…」
 石見の呟きに、三人は頷く。
 やがて、あたりの風景が薄れて行く…



 気がつくと石見は、タンタロス社の重役室にいた。
 知場も隣りに立っている。亜梨沙とアンディは、窓の外。餓鬼たちを倒し終わった時と、同じ場所に四人ともいたのだ。
 餓鬼の死体はもちろん、壁に掛けてあった抽象画のような地獄の門も、最初から何もなかったかのように、今は消え去っていて跡形もない。
「…帰ろうか」
 石見は三人に向かって微笑んだ。
 パイ投げの工員が残っていないかどうかに気をつけながら、四人は表へ戻った。
 見ると事務所の方は、何やら大騒ぎになっているようだ。
「何だろう? 何かあったのかな。社長たちが餓鬼だったなんてことは、ばれてないはずだし…」
 好奇心の塊のような亜梨沙が、ちょっと興味を示す。
「さあな。もう関わりたくもない」
 石見はそっけなく言った。
「まあ、それはそうだけど…平社員の人たちには、ちょっと気の毒な気もするな」
 亜梨沙が、ちょっと仏心を出す。だが、石見の言葉は厳しかった。
「自業自得さ。連中は金のために、餓鬼のやってる悪業を見て見ぬふりをしてたんだ。そして、そのために一体、どれだけの犠牲者が出たかしれない。同情の余地はないよ」
 亜梨沙は、いささか驚きの目で石見を見つめた。態度はデカいが、いつも陽気な石見とは、まるで別人のようだったからだ。
 石見はヘルメットをかぶり、入口あたりに止めてあったバイクにまたがった。
「それじゃ、俺はお先に。亜梨沙ちゃん、悪いけど送らないよ。今日はちょっと飛ばすから」
 石見はバイクのエンジンを掛けた。爆音が響く。
 次の瞬間、石見のバイクはウイリーしてターンすると、そのまま爆音だけを残して彼方へと走り去って行った。
「…どうしたって言うんだろ、石見さん?」
 怪訝そうに亜梨沙が呟くと、知場が後ろからぶっきらぼうに口を開いた。
「今はそっとしておいてやれよ。あいつだって辛かったんだ…考えてもみろよ、亜梨沙。いくら、現実には死んでて魂だけだとは言っても、その魂を救う方法がただひとつ、殺すだけだなんてえのは、辛いぜ、普通」
 亜梨沙とアンディは、思わず知場の顔を見つめた。
 プッ!
 同時に、二人とも吹き出す。
「きゃはははは………っ!!」
「クッ…クククク……ッ!!」
「な、何だよ二人とも! オレが何か変なこと言ったか?」
 亜梨沙は、必死で笑いをこらえながら言った。
「ち…知場さん…お願いだから…カッコつけるんだったらせめて…パイ拭いてからにしてよ…キャハハハハ、ダメ、もぉーおなかが痛いぃーっ!」
 知場は憮然とした表情で、腕で顔を拭った。だが、前にも言ったように、それは全くの無駄な努力だった。
 そのようなわけで、三人が研究室へと帰る途中、今だ色男のままの知場が、道行く人に十五回も笑われたというのは、全くの余談である。

エピローグ

 その日の夜、馬場きみこの容態がどうなったか気になって、四人は研究室から電話を掛けた。
『TRRRRR…TRRRRR…TRRRRR…』
「誰も出ないぞ」
 不安気に、石見は受話器を置く。
「まさか、間に合わなかったんじゃ…」
 亜梨沙の顔がこわばる。
 結局その夜は、とうとう馬場家とは連絡が取れなかった。
 だが、翌日の朝、馬場家の方から連絡があった。
「はい、紀田研究室ですが」
 受話器を取った石見の耳に、明るい声が飛び込んできた。
『あ、夢心理研究会の方ですか? 私、馬場きみこの父です』
 その明るい声を聞いて全てを察した石見は、三人とたまたま居合わせた紀田助教授に、笑顔でウインクする。途端に、みんなホッとした顔になった。
「ああ、馬場さんのお父さん…そのご様子だと、きみこさんはご無事なんですね?」
『はい、おかげさまで昨晩のうちに意識を取り戻しまして、もうすっかり元気になりました。みんな皆さん方のおかげです。本当にありがとうございました』
「いえ、そんな…」
『…それで、元気になったきみこが、どうしても自分の手で皆さんにお礼をしたいと申しまして…』
「えっ? 元気にって、もう動けるほどお元気なんですか?」
『はい、それはもう。もうそろそろ、そちらに着く頃ではないかと思います』
 ザラリ。
 いやあな予感を、石見は感じた。
 知場も腰を浮かしかけている。
 遅かった。
「こんにちはー! 皆さん、ありがとうございました! おかげでこんなに元気になりました!」
 あれほど病的に痩せていたきみこが、一日でこうなったとはとても思えないほどデ…もとい、健康的になっている。
「ハ、ハア、それは…よかったですね、おめでとう」
 石見はひきつりながらも笑顔を見せた。
「ありがとうございます! それで、皆さんにどうしてもお礼がしたくって…」
 きみこは、抱えていた巨大な箱を、前に差し出した。
「これ、皆さんで召し上がって下さい!」
 予感は的中した。
 巨大な箱の中に入っていたのは………!
「わぁぁぁぁ、パイはこわいよぉぉぉぉ!」
 知場は悲鳴をあげて逃げ出した。
 
 
 
第3話に続く
目次に戻る
 
このHomePageに関するご意見・ご質問等は
radcliff@t3.rim.or.jpまで