Dance Critical Space ダンス批評の広場

これまでの発言記録
1999年 6月8日〜9月27日



これより以前の発言をダウンロードする(htmlファイルをsit.ファイルに圧縮してあります)


イヤーなものを見た。 投稿者:桜井圭介  投稿日:09月27日(月)14時04分10秒

何ともイヤーなものをみた。
田中泯の『Romance』(世田谷パブリックシアター)だが、
作品のクオリティが、という話ではなく、問題は冒頭シーン。
いきなり「君が代」が流れ、日本とアメリカ、南米、ヨーロッパの
多国籍からなるダンサー達が竿を挙げる。これは国旗掲揚を模した
行為であることは明らかだ。旗が付いていない竿に混じって黒い布
が付けられた竿もある。
これは一体何のつもりなのか?この「シーン単独」で考えれば、ある
種の政治的意思表示、アクションとして、恐らくは国旗・国歌法成立
に対する抗議を示しているのだろう。

何が不快かと言うと、まず、それが、ダンスではなく、あからさまな
「アクション(行為芸術)」的表現法であることだ。
そんなのは街頭で、アジビラ込みで、法案成立前にやるべきだ。
また、それを行なうダンサーたちは外国人だが、一体彼等はどういうつ
もりでしているのか、その意思、態度がわからないということ。
街頭であれば、「ああ彼等も法案に反対しているのだな」ということが
明確である。しかしこのような場所では違う。田中泯本人が竿を揚げる
役を担っていないのもおかしい。

では、『Romance』という作品はそういうテーマの「政治的作品」なの
か?というとそうではない。もちろん、白拍子がモチーフとなっている
ということなので、何がしか「天皇制」とつながっているとは言えるのか
もしれないが、いすれにせよ作品の総体は「政治劇」的な作りにはなって
いない。
したがって、冒頭部分の「あからさまなアクション(行為芸術的表現)」
は、取って付けたような異質なものに見える。冒頭シーンは本編とは関係
のない、その場を借りた「緊急発言」(しかもいまさら遅いって!)とでも
理解する他ない。
ところが、それは冒頭に置かれているので、その後のいわば「本編」に
(それを見る者に)バイアスを掛け続ける。それが「何ともイヤーな感じ」
の一番の理由なのだろう。

> ソバさん、書き込みありがとう。後ほど改めてお返事します。


初めまして。 投稿者:ソバ  投稿日:09月26日(日)19時17分44秒

初めまして、桜井さん。ソバと申します。いつもはダンスを観客として感受することをたのしみと
しています。日玉さんと桜井さんその他の方々の「結局は自分のために踊り、自分のために書く、」
ということ、また勅使河原さんの「Absolute Zero」についての話のときに、何度か書き込みを
させていただこうかと思ったのですが、やれないままで過ぎてしまった小心者+怠け者です(苦笑)。

>しかし、昨年もここで書いたが、何で学生がこんなに面白いのに、プロの
>若手コンテンポラリー・ダンス(気取り)の方々はダメなんだろうか?
>(誰とはいわないが、というかほとんど全部だけど。)

具体的に、誰の何がどうダメなのか、桜井さんのご意見をお聞かせ願えるとうれしいのですが・・・。

初めてなのにド厚かましいですが、もしお時間あらば、よろしくお願い致します。

それではまた。


「Artisitic Movement in Toyama 少人数による 創作ダンスコンクール」報告 投稿者:桜井圭介  投稿日:09月22日(水)00時27分41秒

9月18日、昨年に続き今年も「Artisitic Movement in Toyama 少人数による
創作ダンスコンクール第2回」に審査員として参加してきました。
これは富山県福岡町で開催された全国の大学生によるダンスのコンクール
で、今年は29チームが参加しました。まず、結果は以下の通りです。

◎松本千代栄(=審査員長)賞:
『鬱──深淵によこたえて』
天理大学創作ダンス部(江口睦美、吉田智美、岩崎加奈、森田まり子)
◎西麻布ダンス教室(=桜井圭介)賞:
どこまでも駆けていく草刈機』
東京女子体育大学ダンス部(仙田りか)
◎富山県知事賞:
『命懸けの矛盾』
横浜国立大学モダンダンス部(辻隆男)
◎奨励賞:
『&』
武庫川女子大学ダンス部(外山靖子、吉田真弓)
◎特別賞:
『even』
中京女子大学創作ダンス部(田中望、宇野知美)
『哲学するバナナ』
宮崎大学表現・創作ダンス研究グループ(桑畑宏輔、市来洋、小森太郎、
野村昌央、山内勉)

今年もやっぱり面白かった!学生はスゴイ。
例えば、「西麻布」賞受賞の女の子のソロはクールで、コンテンポラリー
・ダンスちっくな雰囲気で、とにかく見たこともない不思議な動きをする。
誰のマネでもないオリジナルな振りなのですが、何とそれは草刈機の刃の
動きなのだった!ウィ〜ン、ウィ〜ンって。最高にカッコいい「おバカ」。
あるいは昨年も賞を取った宮崎大の野郎どもは、バナナを使ったダンス
で、一番笑ったのは全員がゾロゾロとバナナを両手に登場するのだが、
これ、「ダウジング」なのね、クダラネー!
しかし、昨年もここで書いたが、何で学生がこんなに面白いのに、プロの
若手コンテンポラリー・ダンス(気取り)の方々はダメなんだろうか?
(誰とはいわないが、というかほとんど全部だけど。)



ダンス・サイト 投稿者:pipico  投稿日:08月03日(火)00時31分00秒

突然に失礼します
ダンスのサイトをオープンしました
関係者一同の趣味を反映して、バレエからコンテンポラリーまでごっちゃですし
まだ未完成なところも多いのですけれど
お時間のあるときに遊びにいらしてください

http://www.at.X0.com/~dp/


Ballet読みました! 投稿者:友美  投稿日:07月31日(土)00時38分28秒

Ballet9月号読みました。桜井さんの、「プティ・スタイルとその魅力を探る」すっごく
おもしろかったです。
署名は見ないで読んでいて、最後ディスコでおどったところで、「ん、桜井さん?!」と思い当
たり(以前ここに書いてあったので)前に戻って署名をみるとやっぱりでした。
ボニーノの指導のことば、ダンサーの本音、プティのひとことひとことが、「生きて」いて、私
までそこにいて、リハーサルを見ているような気がしました。(公演にさえいってないのに)
いつも同じような公演評ではなく、こういうのを読みたかったんだと分かりました。やはり、
桜井さんならではの、プティへの愛情のなせるわざかしら?

守山実花さんの3つの記事もよかったし、特集「テクニックについてもっと知りたい」も今の
ダンサーの例がいっぱいのっててありがたいし、今月の「Ballet」はすっごく得した気
がします。
先にダンマ◯買っちゃって失敗だったなあ〜。


山崎広太・rosy co 『シノワーズ・フラワー』 投稿者:YOGO  投稿日:07月28日(水)00時03分13秒

山崎広太・rosy co 『シノワーズ・フラワー』(7月24日)を見てきました。

前半の島田衣子のダンスが、魅力的でした。
クラッシックを踊る彼女を未だ見たことがないのですが、
クラッシックダンサーとは思えないような動きでした。
そんなに速いテンポではないのですが、
その身体は、ちょっと機械的で
それぞれの関節が主張しているように動く。
彼女は腕や脚がとても細くて、関節が剥きだしなんですね。
その剥きだしの関節が、コンピューターグラフィックでの映像のように
がちがちと印象に残る。しかし、その関節が実はしなやかに弧を描いてもいる。
相反するものが、その身体の動きにはあるんです。

山崎広太には、この機械的な身体のラインはでないんですね。
彼の方がよりしなやかなんです。でも対峙して踊るときのコントラストは面白かった。
その二人がシンクロしていく振りは、異なる二つの身体の共振として色っぽくさえもありました。
前半は他のダンサーの動きも含めて、敢えておおざっぱに言えば、
「ソフト・フォーサイス」のようにも感じました。

しかし、後半は、前半の島田衣子の動きに魅せられた僕にとっては、余り面白くなかった。
第1、彼女の動きが少なかった。
彼女は長い間、舞台下手側奥の屏風の前で三つ指をついているような仕草でじっとしている。
これが大分長くて、その後立ち上がり、
パドブレで舞台手前に移動するのですが、その動きが不安定。
あんなに長いこと座っていたのだから、仕方ないのでしょうね。
というか、この不安定さを出すために振付家は、あそこで拷問のように座らせていたとも思えます。
しかし、どうもその動きの不安定さから感じるものはありませんでした。
宙空から大きな花のデコレーションが降りてきて、
その真下で彼女のダンスというか、舞のような踊りがあるのですが、
前半に彼女の身体に宿っていた多様性を、僕はそこには感じられなかったのが、残念でした。

後半のソロでは、山崎広太自身が頑張っていましたが、
彼が舞台下手前で、花びら?に埋もれてからは、なんか明るいだけの群舞ダンスのようで、
人によってはこれが面白かったという人もいるでしょうが、
僕には眠くなりました。
前半のあの緊張感が、後半にも欲しかった。

それでも前半の島田衣子の身体を見られただけでも、
十分に見たかいのある公演だったと思います。
ああいう身体を、僕は未だ見た記憶がありません。無類だと思います。
もちろん、それを引き出した振付の功績も大きいのでしょう。


お知らせとお願い 投稿者:管理者  投稿日:07月27日(火)17時07分39秒

掲示板の「過去の発言」を更新しました。
「さらに以前の発言」は一括してダウンロードして
頂くようにしました。sitファイルに圧縮してアップ
したところ、ブラウザーに文字化け状態で読み込まれ
てしまうので、さらにバイナリー・データ(Mac Binally2)
としてアップしました。拡張子はsit.bin となっています。
結果、こちらではファイルとしてダウンロード出来、それを
解凍出来るようになりましたが、皆様はいかがでしょうか?
不具合のある方、正しいアップ方法をご存じの方は、お知らせ
下さい。

http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/DCSbn.html


宮沢さん 投稿者:ナオミ  投稿日:07月27日(火)10時25分36秒

律儀な宮沢さんに感動しています。
ぜひその訂正前のピナ評を載せては下さいませんでしょうか。


書いても仕方のないことを書く2 投稿者:宮沢章夫  投稿日:07月26日(月)23時47分48秒

 そんなことに腹を立てていた矢先、文學界という文芸誌から電話
があった。評論家の江藤淳氏が亡くなられ、9月号は追悼特集にな
った。掲載される予定だった僕の小説が10月号掲載になったとい
う。俺の人生はそういうものだったのか。でも、編集者は丁重だっ
た。こちらが恐縮するほど丁重だ。さすがに200枚の小説の、ど
こも勝手に改行しない編集者だけのことはある。


書いても仕方のないことを書く 投稿者:宮沢章夫  投稿日:07月26日(月)12時00分56秒

 先日、私はある雑誌に原稿を書いた。ピナ・バウシュに関しての
ものだ。指定された字数をオーバーしてしまったが、原稿依頼を受
けたときにもらったメールには、「応相談」とのことだったので、
何とかなると思った。だが、やはり長いという。短くしてくれとい
うので可能な限り言葉を押さえ指定された字数に収めた。自分で書
くのもなんだが、こういった自分の律儀さが悲しい。
 そして、きのう掲載紙が届いて俺は怒った。
 ばかやろう、ふざけるのもいいかげんにしろよ。
 同じ舞台を見て三人の筆者がそれぞれの立場で書くという趣旨の
ページだ。見たら、ほかのやつの字数が多いぞばかやろう。しかも、
なんの断りもなく人の原稿に手を入れ改行してやがった。俺はその
雑誌をすぐにゴミ箱に捨てた。

 桜井君から、短くする以前の原稿をこの掲示板にアップしたらど
うかと言われたのはもうずいぶん、以前だが、その時、僕は、「と
りあえず、礼儀として、雑誌が発売されてからにしよう」と答えた。
なんて俺は律儀なんだ。しかしその律儀さを踏みにじる、その雑誌
の態度、なかでも、「勝手に改行」に関してだが、てめえこのやろ
う、編集者のやつ、出てこいこいつ、そんなことが普通許されると
思ってるのかばかやろう。そんなことする雑誌も新聞も、これまで
なかったぞ。もしあっても、それなりの挨拶をするぞこのやろう。
プロなのかおまえらは。編集者としてあたりまえのことだけはしろ
よ。
 その雑誌の前は、気分が悪くなるので書かない。


サイボーグつながり 投稿者:ナオミ  投稿日:07月20日(火)19時37分49秒

最近よく見かけるダンシング・ベイビー、あれって妙に惹き付けられませんか。
NHKの深夜ドラマ『アリー・マイラブ』で出ていただけのころは
さほど目だっていませんでしたが、CMでみかける彼等はすっかり『ダンサー』
扱いです。架空の生き物だっていうのに、
へたなダンサーよりも人間味があるではないですか。
どんな技でもできちゃうとこはちょっとずるい気もしますが。
思わず『キャミ』に試乗してグッズをいただいてきてしまいました。
ああ、なんて流行りモノに弱い私…。
次は『フィフティ☆フォー』を見なくっちゃ。


(無題) 投稿者:川蝉  投稿日:07月19日(月)20時09分33秒

「はじめまして」の皆様、「お久しぶりです」の皆様、
暑中お見舞い申し上げます。 m(_ _)m

勅使河原さんのダンスについてのことで、「サイボーグ」という
表現が出てきたもので、思わず笑ってしまいました。
というのは、何人かの方の舞踊評を読んだ折、一瞬、私も
ダンス・サイボーグに類するものを想像してしまったからです。
しかし、問題の舞台を私は観ていないので、そのダンス自体が
どうであったのかということについて、わかりませんでしたから、
多分に、自分の読解力(と想像)を疑ってはいました。

舞踊の批評を書かれる方には、大きく分けて3つのタイプが
あるのではないかと、私は思っています。
*資料をもとにして書く、牛山充タイプ
*直感勝負の、永田竜雄タイプ
*舞踊家の世界観に着目する、近藤孝太郎タイプ

それぞれに、良いところと批判されるところがあると思われますが、
読者は、自分の読んでいる評論がどのタイプにあてはまるのか、
考えながら読む必要があるのではないかと、感じています。
それから、その批評(家)が、舞踊に対してのスタンス(?)を
どのようにとっているのか、ということも配慮する必要があるような
気がします。
つまり、「批評家は芸術家と同等の共働者」というスタンスなのか、
それとも舞台と観客(もしくは、これから観客になって欲しい人たち)
への「橋渡し役」というスタンスなのか、ということです。

実際に評論を書かれる方からすれば、こうした分類は、迷惑なもの
かもしれないと思います。
でも、誤った「想像上のダンス」から逃れる方法は、
舞台を「自分の目で見る」、および、上記のような方法しか
今のところ、思い浮かばないのです。


『ABUSOLUTE ZERO』 投稿者:YOGO  投稿日:07月07日(水)01時50分49秒

浅田彰の記事は読んでいないので、コメント出来ませんが、
勅使川原三郎の『ABUSOLUTE ZERO』は、僕も昨年と今年と見ました。

昨年よりだいぶ体の切れが無くなったように思えました。
桜井さんが引用しているお三方のレヴューは皆昨年のものだと思いますが、
昨年の『ABUSOLUTE ZERO』は、優れた作品だと思いました。
そのダンスは(桜井さんの定義だと「ダンス」とは云わないかもしれませんが)、
静止のために動きがあるようなものに見えました。
様々な動き、また映像や音のノイズが全て静止と静寂のためにある、
そう感じさせる作品でした。
昨年の勅使川原三郎の静止した後ろ姿は、本当に美しかった。
周りの空気が全て彼の背中に吸い込まれていくような、、、
運動は静止のためにある、僕が昨年の舞台から一番感じたことは、それでした。
ダンスが運動であるなら、それは「反ダンス」だったのかもしれません。

昨年は1度(98年5月30日)しか見られなかったので、
今年はそれを確かめたいと、2度見ました。(99年6月28日、7月3日)
しかし、今年の勅使河原三郎にはもう静止の美がありませんでした。
桜井さんご指摘のように体が重そうで、2幕などは相方の宮田佳の動きの方が勝っていた。
3幕も昨年より短縮されているのに、最後のソロがつまらなくて、、、
昨年在ったかまきりポーズのダンスもなかったし、、、
僕には改惡にに思えます。

ノイジーな部分が削がれて、静止と動きの対比が無くなってしまった。
静止自体も美しくなく(それを維持する体力がないようにも見える)、
全体の構成としても静止が生きない構成になってしまっていた。

昨年の舞台に見た静止の美、「反ダンス」は、単なる僕の幻想だったのか、、と
ちょっと残念に思っています。


日本・舞踊・批判(序) 投稿者:桜井圭介  投稿日:07月06日(火)18時46分06秒

『批評空間』第2期・22号に、浅田彰がフォーサイス日本公演のレヴューを書いている。
基本的には彼がこれまで言ってきたことと同じ論旨だが、一箇所、面白い部分があった。
それは、朝日の朝刊の学芸欄に載った田中泯によるフォーサイス評(コメント)に対する
批判である。
田中は、フォーサイスの舞台には「動き」はあるが「踊り」はなかった、という。それに
対して浅田は、田中の考えるような「踊り」とは、田中自身が言うように「ダンサーの身
体に自分が入っていく」ことが出来るような、つまり感情移入できるようなロマンティッ
クな同一化の対象のことであり、フォーサイスのダンスにそのような意味でのダンスがあ
るわけがない、と切り捨てるのであった。浅田の批判はきわめて的確であると言わざるを
えない。
ダンスとは、一義的には「徹頭徹尾、運動」である他ないだろう。情動=エモーションは
運動=モーションによってしか起らないのだから。しかし実際は、そういう前提はこの国
のシーンにおいては通用しないようだ。人はダンスに何を見ているのだろうか。例えば、
勅使川原三郎の『アブソリュート・ゼロ』。
「これほどの狂いのなさ、これほどのコントロールがどうして可能なのだろうか。もはや
テクニックうんぬんのレベルではない。」(佐々木涼子)「これほどの速度、これほどの
呼吸で踊った人間は見たことがない。舞踊の原子がはじけとんでいるとでもいうほかない」
(三浦雅士)「成熟したものだけが示す、恍惚の一瞬が、ここにはある。歴史的な時間の
永遠を感じざるをえない。」(渡辺保)
これらの文章を読んだ者はどう考えても、神の舞踊、ニジンスキーの踊る姿、さもなくば
サイボーグ・ダンサーでもイメージするほかない。それくらいすごい勅使川原とは一体?
と思うだろう。
ところが、私は同じ舞台(昨年と今年)を見ているにもかかわらず、とてもじゃないが、
そんなふうには見えなかった。動きは速いどころか鈍かった。私の常套句で言えば「速い
フリをしているだけ」だった。何故なら身体じたいが要ダイエット(腹まわりの贅肉が)。
要ストレッチ(腕が縮んでいる)。あと、要スタミナ(ちょっと激しく動いただけでもう
呼吸が)。
しかし、どうしてこうも違って見えるのか?自分が人より眼の精度が高かったり、低かっ
たりするのではないだろう。思うに前出の評者たちは、何か運動ではなくイデエ(アプリ
オリな)を見ているのではないか。たしかに彼等はレトリック(形容)ではなく、自分が
みたものの運動を記述しているとは言える。特筆すべき運動性であるという点で評価して
いるのだ。
しかし、恋する者の眼は曇る。ホフマンのオランピアだ。そうとしか思えない。何たるロ
マンティストたち。田中泯/浅田彰に倣って言えば「そこには踊り(振り)はあるが動き
はなかった。」というのが勅使川原の『アブソリュート・ゼロ』である。どうやら、この
国ではダンス(踊り)とはロマンティックなフェティッシュなのだ。


スタジオパフォーマンス 投稿者:日玉浩史  投稿日:06月28日(月)04時08分44秒

ひさしぶりに書き込みます。
この間の土曜日まで森下スタジオで約一ヶ月間ワークショップをやってました。
その間2回、スタジオパフォーマンスをやってみました。
最初のは、作曲家の原田敬子と3人のミュージシャンと、ワークショップの参加者で、
即興をメインにした、25分くらいの試作品と簡単な作業の説明をレクチャーしました。
で、2回目は、僕のカンパニーのメンバーとワークショップ参加者のなかから3人で、
モートン・フェルドマンのピアノ曲を使って、新作のための30分の試作品をつくって
公開しました。
意外だったのは、観に来てくれた人の多くが、こういったスタジオパフォーマンスを見る機会が
ほとんど、今はないのでもっとやるといい、ということをいってくれたことでした。
先週の水曜日には、モリッサ・フェンレイも森下スタジオで、1時間程のスタジオパフォーマンス
をやってました。いろいろと興味深いものでした。
高いチケット代払って劇場に行くだけが、パフォーマンスに接する方法ではないと思うので、
作品をつくっている側ももっとそういうことをやったらいいんじゃないかと思います。
いろいろな人の意見がきけるし、それ以外にも何かと有効なことだと思う。
今はもうあの「STUDIO200」みたいなスペースもないみたいだけど、どこかでそういうことが
常に行われていると、東京のダンスの状況ももっと変わるんじゃないかなあ。



resが遅くなりましたが、、、 投稿者:YOGO  投稿日:06月25日(金)01時11分39秒

ちょっと体調不良だったので、resが遅くなってしまいました。<ナオミさん
特に、むくれていたわけではありませんから、、、(^o^)

>性的役割に関して言うと、バレエの場合、
>それが踊り手(女)と観客(男)間にあったのでは
>と思うふしがあるのですが…。
確かにそういった部分もあるのです。
マーゴ・フォンテーンは、旦那になる方にケンブリッジの公演で「見初められる」わけですからね、、
でも、そうじゃない部分もあって、バレエはとても懐が深いと思っています。
『白鳥の湖』に関しても様々なヴァージョンがあるし、演出によってちがいますね。
そういう多様な演出を可能にする懐の深さがある。

またバレエのお姫さま、オデット/オディールなどは、単に「見られるだけ」とは限らない。
「見る側」を相対化する可能性がそのお役には内在している。
最近見た舞台では、
ピエトラガラやシルヴィーのオデット/オディールには、そういう要素を感じました。

熊川さんがどういうダンサーとして位置づけられるかは、今後の活躍しだいでしょうが、
男から見られた「女性像」の裏返しとしての
女から見た「男性像」を作るだけだとしたら、
(ナオミさんもそう思っていらっしゃらないでしょうし、僕もそうだとは思ってませんが、)
つまらないでしょう?


性的役割って??? 投稿者:ナオミ  投稿日:06月19日(土)17時54分33秒

YOGOさん
バレエを初めて舞台でみた時…たしか15年ぐらい前のサンフランシスコバレエ団の白鳥だった
と記憶しておりますが、あまりのメルヘンチックさにクラクラしてしまったのを思い出しました。
その時、これ以上ないというぐらいの違和感を感じたのですよ。以来、バレエとは無縁でしたが、
あるきっかけ(熊川哲也)でバレエにはまることに…。
でも、今だに全幕もののおとぎ話は苦手です。
そんなわけで私の場合、ピナを見て逆にしっくりきてしまったんですよ。
見たのは『ダンソン』だけなので、いわゆるピナの真髄ではないのかもしれませんが、
期待していたハッとする場面が多いにありました。
その、ハッとさせられる部分が自分の想像をはるかに超えている点で、満足度をかなり感じました。
そこにはたぶん性的役割みたいなものもあったかもしれませんが、あまり感じませんでした。
私の場合一般的な意見ではないのでしょうけど、不思議な感覚が即、満足感につながったんだと思います。
性的役割に関して言うと、バレエの場合、
それが踊り手(女)と観客(男)間にあったのでは
と思うふしがあるのですが…。
お姫さま絶対主義みたいなのがちょっと…。
もちろんこれは過去のイメージですし、勝手な言い分です。
お気を悪くされたらごめんなさいね。


おもしろうてやがてかなしき、、、 投稿者:YOGO  投稿日:06月19日(土)01時36分21秒

後は、先にも書いたことですが、『ダンソン』も見ましたが、
僕の見た3作品では、全て男女のダンサーの役割が、
いかにも我々の持っている社会の性的な役割分担をそのまま踏襲しているように思えます。
現代演劇は余り知りませんが、ダンスとうジャンルで
これほど性的役割分担を舞台上で行う作品は、初めて見ました。
(ダンスではないのかもしれませんが、、、、)
バレエの王子・姫はそうではないかと、言われそうですが、
バレエでの仕草やダンスには、ピナの作品ほど男女差を感じません。
たぶん作品中で、キャラクターそれぞれが相互に性的な眼差しに晒されることが少ないからでしょう。
またバレエの主人公は、
王子も姫も男性性や女性性よりも、両性具有的なイメージを見るものに与えます。
妖精がよく登場するということもその原因でしょうか、、、

ですから、そういう作品になれていると、
ピナの作品の性的な役割分担の強調は、不思議な感じがしますね。
きっと、そこにピナ独自の理由があるのでしょう。


『ヴィクトール』の感じ方 投稿者:YOGO  投稿日:06月19日(土)01時33分13秒

海野さん、
詳しいご説明、ありがとうございました。
先の書き込み時には、
未だ海野さんの『ヴィクトール』レヴュー(『朝日新聞』1999年6月7日夕刊11面)を
読んでいなかったのですが、入手して拝読しました。

この文章に性差別はないと、僕も思います。

ただ、海野さんは
>つまり情動の起点と終点を示すことによって、ダンス批評として成立するという判断
>からです。
と、書かれていますが、、、
見出しにも「心地よいまでの『悪夢』現出」とあり、
僕の読後感でも、この作品の痛ましさを「心地よさ」「楽しい」と視る点が、
海野さんのレヴューの独自性だし、その価値の中心だと思うわけです。
だからこそ、その「極限で転回」「変容」のプロセスを読者は読みたくなるのですね。
起点と終点ではなく、その過程こそこのレヴューの生命線ではと、僕は思うのです。
(字数制限もあり、見出しはご自身の選択ではないかもという点もあるとは思いますが、、、)
(さらに言えば、人間噴水シーンの写真が使用されている点も、読者に誤解を生む危険性はありますね。
写真の選択権もないようですが、読者に誤解を与える危険性があるからと主張なさって、これを機に新聞社に抗議して写真選択権も獲得なさってはどうですか?)

僕の感じ方からすると、『ヴィクトール』は「心地よい」、「楽しさ」へは「変容」しなかったのです。
この作品が全体として我々の社会の「多様な抑圧関係」の喚起を促している点は、全く同感です。
またそれは成功しているし、優れた作品だと思います。

>それから「心地よい」は受動的な気分を表すことの多いことばです。しかし、この作品は、世界の
> 重苦しさ、痛ましさ、切なさに立ち向かう能動的な意志をも喚起するので、「楽しい」ということば
> に「〜さえ」という添加の副助詞を付けて、文末に加えたのです。
たぶん海野さんのこの説明が分かれ目で、
僕には「切なさに立ち向かう能動的な意志」が浮上してこなかったということでしょう。
そこが海野さんと僕とのこの作品に対する分岐点だと、ご説明を受けて分かったのです。

もちろんピナの人々への優しい眼差しは感じます。
それはたぶんカフェで育った彼女が、子供の頃に視たカフェの人々への眼差しでもあるのでしょう。
しかし、
にもかかわらず、僕にはこの抑圧関係が作っている人間喜劇からは、
何とも言えない我々の社会の哀れさの方を、強く感じたのです。
それは時間が経てば経つほどに、深く喰い入るような悲哀感へと変容していきました。
舞台を視ていたその時が一番楽しかったと、言うべきでしょうか。
もちろん、どっちが正しいなんてことを議論するのはナンセンスですね。

海野さんの感じ方と、僕の感じ方と、違う感じ方を、
(きっと他にももっと違う感じ方をなさった方もいらっしゃるでしょうし、、、)
許容する作品なのだと、
ご説明を受けて、改めて思ったのです。
そういう作品は、優れた作品だと、思います。


Kバレエカンパニーキャスト表 投稿者:あさみ  投稿日:06月18日(金)19時10分14秒

桜井さん、海野さん、皆様、先日は過激な書き込み失礼いたしました。
でもファンの気持ちを少しでも分かっていただければとても嬉しいです。

さて友美さんがコメントの中でおっしゃっていますが、Kバレエカンパニー
春公演のキャスト表をアップしました。これは友美さんが彼女の情報網を
フルに使って完成させた血と汗と涙の結晶であります。私はそれを書き写して
アップさせただけ。まさに涙なくして見られません。

こちらから入れます。「公演レポコーナー」にありますので、どうぞご覧下さい。

http://www.awa.or.jp/home/anatom-hektor/homepage.htm


Mさんへの回答2 投稿者:海野敏  投稿日:06月18日(金)05時51分20秒

(つづき)
a-6.ここで「楽しい」と表現しているのは、自分の思い通りになって愉快だとか、心配事が解決して
うれしいとか、吉本の喜劇を見て楽しいとか、直截に楽しい感情とはおよそかけはなれています。あ
くまで、極限の強度を持った[痛ましさと切なさ]が変容したものです。
 それはまた、他人の不幸を見て優しくなるとか、かわいそうな場面を見て同情的になるというのと
は全く違います。観客自身の[意識の底に沈む情動をゆさぶ]るのであり、そのとき観客が痛ましく
感じる対象には、世界および自分が必ず含まれます。(ここで詳述しませんが、舞台上のパフォーマ
ンスによって、観客の自省的な情動を喚起する手法に関しては、バウシュは天才です。)
 それから「心地よい」は受動的な気分を表すことの多いことばです。しかし、この作品は、世界の
重苦しさ、痛ましさ、切なさに立ち向かう能動的な意志をも喚起するので、「楽しい」ということば
に「〜さえ」という添加の副助詞を付けて、文末に加えたのです。
 (このように意識して書いた記事を〈男根中心主義に安楽している人〉の〈のんき〉な感想とMさ
んが読まれたことは、たいへんに遺憾です。)

a-6.ただし、バウシュの作品における執拗なジェンダー間の暴力の演技がなぜ「心地よい」ものへ反
転するのかについては、私の記事では説明できていないことを認めます。それは「心地よさ」が執拗
なジェンダー間の暴力の演技だけに由来するものではなく、作品全体からもたらされるものであり、
しかも『ヴィクトール』では執拗なジェンダー間の暴力の場面は、作品の中心ではないと判断したか
らです。
 また、[痛ましさと切なさ]が[極限で転回し、人への穏やかな優しさへと変容してゆく]プロセ
スについては書きませんでした。新聞記事の分量では書けないという判断と、書く必要がないという
判断からです。つまり情動の起点と終点を示すことによって、ダンス批評として成立するという判断
からです。

  b.〈私にとって「男ってバカよね」というレベルでコミカルな〉場面の含まれる
   作品に対して、男性が[心地よいし、楽しくさえある]と書いていることが理解できない

b-1.たとえ現代舞踊についての知識や体験がないとしても、あの場面を「男ってバカよね」というよ
うに見ることには納得できません。あの場面が「男ってバカよね」というように見えるということは
、(1)場面を作品全体から切り離して見ているのではないか、なおかつ(2)〈オジサン〉は〈白人の女
たちを〉〈デレデレながめちゃう〉ものだという、日本人の中年男性に対するある種の固定観念、な
いし差別意識を抱えているのではないか、と推測したくなります。

b-2.仮に〈「男ってバカよね」というレベルでコミカルな」場面〉という言い方を「男性の愚かさを
意識させる場面」という言い方に広げてみれば、そういう場面はありました。しかし、作品全体を見
れば、それは「人間の逃れがたい愚かさに対する情動を喚起させる場面」であって、どちらかのジェ
ンダーのみが対象になっているわけではありません。

b-3.そして「人間の逃れがたい愚かさに対する情動を喚起する場面」については、[痛ましさと切な
さ]は感じますが、不愉快さや怒りは覚えません。[痛ましさと切なさが極限で転回し]て[心地よ
いし、楽しくさえある]のは、a-5.で既述のとおりです。

以上です。なお、バウシュの提唱するタンツ・テアターの思想、『ヴィクトール』制作の背景、現代
舞踊の歴史や理論、作者が女性であることなどを踏まえた上での議論は、別な機会に別な場でさせて
いただければと存じます。


Mさんへの回答1(再び長文、失礼します) 投稿者:海野敏  投稿日:06月18日(金)05時49分51秒

ピナ・バウシュ振付の『ヴィクトール』についての私の舞台評記事に対するMさへの回答です。Mさ
んが現代舞踊をほとんどご覧になっていないことと、記事が一般紙に掲載されたものであり、読者と
して想定されるのが現代舞踊を一度も見たことのない人も含まれていることに鑑みて、バウシュの提
唱するタンツ・テアターの思想とか、『ヴィクトール』制作の背景とか、現代舞踊の歴史や理論とか
、それどころか作者が女性であることさえも、いっさい知らない方に対しての説明となるよう努めま
す。(ただし、作者が女性であることは、記事中でも[彼女]という指示語で明記しています。)
(以下、[ ]でくくった部分は私の記事からの引用、〈 〉でくくった部分はMさんの書き込みか
らの引用です。)

  a.〈執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ〉の含まれる作品に対して
   [心地よく、楽しくさえある]と書いていることが理解できない

a-1.まず、『ヴィクトール』における〈虐げられている女性のイメージ〉ですが、それはどれひとつ
取ってみても〈男根中心主義〉を助長したり補完したりするものではありません。性暴力を描いたポ
ルノグラフィや性別役割分業を固定化するコマーシャルフィルムのような、意識的か無意識的かを問
わず、性差別を促すような場面は、ひとつも思い当たりません。
 私の記事が性差別という点で"politically uncorrect"あるための必要条件は、作品中の性差別を
助長する場面を無意識にであれ肯定している場合と、記事自体に性差別的な表現がある場合が考えら
れますが、第一に作品中には性差別を助長する場面はなかったというのが私の見解です。

a-2.同時に、記事中に性差別的な表現も見当たりません。少なくとも私には〈父権的な社会に根付い
たモノの見方〉を、記事中から直接に見出すことはできません。

a-3.作品全体を見れば、〈執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ〉は、この世界にさま
ざまなかたちで存在する「抑圧的な人間関係・社会機制」に対して、観客に情動を喚起させるための
イメージの一つです。また、「抑圧的な人間関係・社会機制」が『ヴィクトール』の唯一のテーマな
わけでもありません。
 記事では、作品を構成する膨大な場面から8つのみ抽出して記事にしましたが、8つのうち〈虐げ
られている女性のイメージ〉が感じられるとしたら[女が口から噴き出す水で身体を洗う男たち]と
[男が女に靴をはかせるため、女の足の裏を削るしぐさを繰り返す]の2つでしょう。前者は文章を
読んでも必ずしもジェンダー間の抑圧が表現されているかどうかわかりませんが、少なくとも残り6
つの場面は、ジェンダー間の抑圧関係からずれたところで情動を喚起します。実際に舞台を見た観客
には、ジェンダー間の抑圧関係は、多様な抑圧関係の一つであるとわかります。

a-4.以上のように、Mさんは〈楽しくさえある理由が明確でないと、politically uncorrectだ〉と
書かれていますが、私はそうは思いません。

a-5.また、記事を読み返してみましたが、〈楽しくさえある理由〉も明確に書いたつもりです。記事
の文章を切り貼りして説明します。
  [脈絡なく印象のみ強烈なパフォーマンス]が[異界の風景]となり、[観客の意識の底に沈む
   情動をゆさぶり、浮上させ]る
  [浮かび上がる情動は痛ましさと切なさ]で、それは[悪夢]と言ってよいほどである
  しかし、その情動が[極限で転回し、人への穏やかな優しさへと変容してゆく]
  そのために[奇妙な充実感がもたらされ]るので、[この悪夢は心地よいし、楽しくさえある]

(つづく)


Kバレエツアーの意義 投稿者:友美  投稿日:06月18日(金)00時19分34秒

ピナについて盛り上がっているところ、ひとつ話を戻して恐縮です。

Kバレエの春ツアーも6/11神戸で無事終了致しました。
全国15都市20公演を1ヶ月ちょっとでまわるというハードスケジュールでしたが、
怪我もなく終えられたことはファンとして、ほっと胸をなでおろしました。
この公演は固定の6つのプログラムと、日替わりの2つのどちらか、計7つのプログ
ラムからなり、日替りの2つ、固定の2つはキャストもその日によって違いました。
2キャスト・4キャスト・3キャスト・4キャストの組み合わせでなんと12とおり
ものプログラムになりました。
固定の中でも、その日によって多少のアレンジは加えられたようだし、まるでミュー
ジシャンが全国ツアーをやりながら、メニューをかえていくような公演です。(さす
がにご当地ネタのMCはないものの)

もちろん、少ない人数の中ツアーをやり遂げなくてはならないのですから、ダブル
キャストを用意するのは当然としても、4キャストでもできるなんて、実力派揃いの
Kバレエならでは。
中でも一番若手のマシュー・ディボルの成長は目を見張るものがあったようです。

ほとんどバレエの公演がこないような地方でも観客を感動に引き込み、冬公演では
またあたらしい地方に行って、新たなバレエファンを増やすことでしょう。

たしかに全部が全部素晴らしいできだったとは言えないかも知れないし、振り付けが
ダンサーを生かしてるとは言えないものもありました。
しかし、今回の旗揚げツアーはこれからのKバレエの大きな可能性を示してくれたと思います。
今度の冬公演、評論家のかたには、ぜひツアーに付いて回るような気持ちで(もちろん全部は
無理でしょうが)熊川個人でなく、Kバレエとして評論を書いてほしいと思います。

近々、あさみさんのHPに全キャストがアップされる予定です。


ピナについての感想 投稿者:P子  投稿日:06月17日(木)02時09分13秒

ピナがジェンダーをテーマにしているわけではないことは知っていますが、
女性にとって皮膚感覚に訴えてくるものがあることも、事実です
だから、ほかの要素を見ていても、生理的に、女性への性的ハラスメントが
意識されてしまうということが、起こると思います
「ヴィクトール」に関していえば、冒頭に腕のない人=別の意味での弱者を登場させることで、
ジェンダーから意識をそらそうとされているように感じました
個人的にはジェンダーというよりもっと生々しい男と女というもの、生物学的なものを、
強く感じることがあります。男女の性のありかたの違いとか、そういう感じのこと
強姦といっても、たんに男女の間のことだけではなく、権力(国家や親や世間といった)に
よるものもあるでしょうし、あるいは奴隷関係を強いているのは「愛」であることもある
でしょう。
それを男女という形で表現することで、重層的な意味を持たせられるような気がします。
ヴィクトール、という言葉が勝者を意味している以上、勝者と弱者(敗者)ということも
見えてくるように思います
冒頭、中東バザール風(じゅうたんからのイメージ)のなかで、勝者(ローマ)の宗教である
キリスト教の結婚誓約が行われる、という読みはうがちすぎだとは思いますが、そのように
いろんなことを考えさせてくれるところが、ピナのたのしさだと思います
なんていうか「ただでは帰さない」というところが、かかわりを持ったという気にさせてくれる
ピナと関係ができた、という感じですね
いずれにしても、根本に「生きることへの肯定」があるからですが


「ヴィクトール」についてのコメントですか? 投稿者:ile  投稿日:06月16日(水)20時18分17秒

すみません。舞台はみていないのに

(海野さんの批評もみていません)

(いずれも物理的に困難です)

批評の広場を読んでいて感じたことから

書かせていただきました.

ですから

私の話は 特定の舞台に限定するのでなく

ごく一般的なことへと 飛躍があります。

当の舞踊家は ドイツ表現主義の系譜を組む

ということをどこかで知り 

背景にはそういったことが

私の脳裏に浮かんだようにも思います.



 いずれにしても、言葉は大事ですが

囚われると 不自由になりますし

批評の仕事は 客観的、分析的作業と

思われがちですが 実は 源泉が

明示されているか されていないかの

程度の違いで 二次的に創造的な

仕事ではないかとさえ この頃思います.



舞台をみるのと同じ位の

スタンスで批評文もみていけば

いいのではないでしょうか。


付け足し 投稿者:M  投稿日:06月13日(日)23時44分24秒

下に書くのを忘れていたので付け足します。
私自身の立場性ということに関してですが、確かに桜井さんの指摘するように自分で思っている
ほどは自覚的ではなかったと思います。なんというか、女の側からいうと、父権的なものを見つけ
たらわあわあ言えばよいような所もあって、アンチ的な立場にいることに安住してしまい、本当に
自分が何をどう考えているのか考えるのを忘れてしまうところがあるように思いました。
このことに関しては気づかさせて頂いて感謝してます。確かに、ああいうモノの見方は嫌だ、と
いうだけでは自分のモノの見方がどこから来ているのかを考えるまでに至りませんから。

また私が無責任に海野さんに無自覚だと言ってしまったことも反省しています。確かに
傷つける男、傷つけられる女という単純な2項対立の上にヴィクトールがないのは事実だと
思いますから。そして、それは後の作品を見ているとより明らかな気がしました。だから必ずしも
(ヴィクトールに限らず)傷つけるのは男だけではないと思います。ですので、どちらかというと
問題を単純化して男の海野さんの発言に傷つけられた的な発言をしたのはすみませんでした。



返信 投稿者:M  投稿日:06月13日(日)21時08分22秒

桜井さんに言われて自分の立場というものを考えてみました。
私はフェミニズム理論とかが全く分からないので、自分としてはフェミニズム的なものの見方に
犯されているとはちっとも思っていなかったのですが、父権的なものに(マイナスに)反応して
しまうということは確かに私自身のものの見方も、feminismに実は囚われているのでしょうし、
特にあの日本人のオジサンたちへの見方は確かに偏ったものなのかもしれません。私は分かって
るけどおじさん達は分かってないでしょ、という高見からみているという傲慢な態度なども
あるかもしれません。でも同時に私の見方のようにあのシーンを受け止めていた人も少なからず
いると思いますし、また、後に桜井さんがおっしゃっているように、作品は多義的な意味を持つ
ものなのでしょうから、逆に言えば、私の見方だけが偏っていたり失礼だとは思いません。

私の感覚としては(前一度だけ見たのですが)確かさんまの番組で道を歩いている人に今日
起こったこととか英語で話させて、その特におかしい間違いを抜粋して作るクイズ番組の一部
での出演者を見ているような感覚です。確かに英語を一生懸命話している本人も自分の役割は
分かっているかもしれませんが、みている私たちにとっては(私にとってはと言った方がいいの
かもしれませんが)、本当にただの「英語を話せない日本人」という表象です。しかし、私に
とってそれをみて笑っているのは必ずしも蔑みからではなく、親近感からです。私にとって、
あの社交ダンスのオジサンたちも同じです。確かに本人たちが何も分からず出ているというのは
言い過ぎだったかもしれませんが、私はあの「白人女性に弱い」ような日本人のオジサンたち、
そして嬉しそうに女の子をピックアップしていたオジサンの姿に、日本のオジサンをみてしまいました。

私にはおかしいけど、男の人はそれを見てどちらかと言えば「恥ずかしく」感じるのではないかとただ決めつけて、海野さんがもしそのシーンを受けて「楽しい」と言っているならそれは
分からない!と勝手に先走り、そして、私の見方に固執するあまり、海野さんの見方が男根的
なのでは、無自覚なのでは、と決めつけているようなところがあったとしたらそれに関しては
謝罪したいと思います。
ただ、桜井さんが「ダンスに対する愛をもっているものとして敬意を表していると確信して」
いても、私はそうは見えなかったんですからその私の見方も、オジサンたちはきっと何も分かって
ないという私の解釈も偏っているかもしれませんが、失礼だとか、屈折しているとは思いません。
何も私はバウシュの意図(敬意)を読みとる義務はないんですし、先ほども桜井さんがおっしゃっ
たように、多義的な見方があるのですから、私の見方は見方でいいではないですか。
私は確かに海野さんに対して、私の見方(おそらくフェミニスト的な)から、海野さんの見方は
何だか男根的だと否定するような書き方をしていたかもしれませんから、それに関してはもし
決めつけていたりしていたらそれは申し訳なく思います、ただ、その私の「決めつけ」に関して
それを知らせようとして下さった桜井さんが、私の見方が「失礼で」「穿って」「屈折して」いる
と桜井さんの解釈から言われても、桜井さんが私にしていることは、私が計らずも海野さんにして
しまったことと同じではありませんか? 桜井さんはダンスを信じて愛していらっしゃるから
(?)私の反応に過剰に反応してしまったというところに無自覚ではありませんか?

>PCは大切なことですが、「人は、究極的には己の社会的・文化的・個人的な実存を引>き受けて生きるしかない、但し願わ
>くはそのことについてだけは意識的でありたい」というのが僕の立場で、PCはそのよ>うな両義的なケースにも顧慮して欲しいと思います。
この桜井さんのPC観に関して、私は桜井さんが私の文章からどのように受け止められているのか
分かりませんが、同じことを言っているつもりです。そんな何をもから離れた立場でモノを語る
というのは不可能です。だからこそ自覚的にモノを語っていく必要があると思うのですが、私には
「楽しくさえある」の海野さんの一言を引き出したものが無自覚な気が(勝手に)していて、
があがあ言ってしまったのだと思います。それに関しては確かに私の勝手な決めつけですから、
申し訳なく思っています。

でも私は自分がフェミニストだとは思ったことがなかったので(それは一番初めに書いた
ようにも思います)、桜井さんのあなたはジェンダー理論から解釈しようとしている、
という一言はハッとさせられる部分がありました。ジェンダーから解釈しているつもりはなかった
のですけれどねえ。


Re: Mさん 投稿者:桜井  投稿日:06月13日(日)16時10分00秒

>失礼な言い方をさせて頂けば「自分たちが笑われているような立場で描かれている
>のに気づいてないとしたらオオバカよねえ」という感じでいます。考えてみてもあ
>そこに出ていた日本人のオジサンたちはそういうことに無自覚で誇らしい気分であ
>そこに出ていると思います。まわりの人に「いやあ、今回埼玉の県立劇場に出るこ
>とになっちゃって」なんて自慢してそうじゃないですか。それは私にとってはとて
>もおかしい。オジサンたちがかわいくさえ思えます。

これはかなり「失礼な」見方なのではないでしょうか?作者に対しても、出演した日
本人のおじさんたちに対しても。彼等はこの作品の中では非常に重要な役割を担って
いるわけで、単なるエキストラではありません。だから、当然、何もわからずに(作
者からの説明なしに)その場にいたわけがないでしょう。そしてバウシュは、あなた
が感じたような意味・寓意のために、つまり彼等を辱めるために、出演させたわけが
ない。バウシュは彼等に対し、ダンサーとして、人間として(踊りというものに対す
る愛を持っている者として)敬意を持って接した結果があのシーンに出ていると確信
します。
こうした「失礼な」「穿った」「屈折した」見方をするあなた自身、
『自分のモノを見る立場というのがどういうところに根ざしているのかということを
常に自覚して』いるのか考えたほうがよいのではないでしょうか?
『そう自分が考えた感じさせられた奥にあるものは何なのかということを考えないと』
いけないのでは?
私が読む限りではMさんはご自分のトラウマからなのか、あるいはジェンダー理論から
すべてを「解釈」しようとするからなのか分かりませんが、ご自身に『根付いたモノの
見方というのに、無自覚』であるように感じました。

ちなみにバウシュは自分の意図はフェミニズム的な表現とはまったく関係がない、とた
びたび明言しています。
もちろん作者の言葉と実際の舞台にあらわれてしまうものとを同一視しすぎるのも危険
です。たしかに初期の「コンタクトホーフ」や「カフェミュラー」を見ると、作者の意
図はどうあれ「ジェンダー間の愛憎・闘争」があらわれとして見て取れる。それだから、
かなり長いあいだ「フェミニズム」「ジェンダー理論」という構えがバウシュを語る際
の「お約束」の一つになっていたわけです。でも「ヴィクトール」はそのようなセオリ
ーですべてをカバーできるような明確な構造にはなっていないでしょう。「人間噴水」
など一部は、あなたが感じた(解釈した)ように見ることも可能ですが、セオリーから
はこぼれてしまうものがそこかしこにある。つまり、一言でいって、この作品のすべて
のシーンは多義的な、あるいは分裂的なものです。だからこそ人はそこに自分(の問題)
をみてしまう。そういう鏡のようなものなのだと思います。
なお、僕自身に「社会的・文化的・個人的」に、「男根主義的・父権的」な「性根」が
存在することを認めるにやぶさかではありません。PCは大切なことですが、「人は、
究極的には己の社会的・文化的・個人的な実存を引き受けて生きるしかない、但し願わ
くはそのことについてだけは意識的でありたい」というのが僕の立場で、PCはそのよ
うな両義的なケースにも顧慮して欲しいと思います。


(無題) 投稿者:ile  投稿日:06月13日(日)15時20分57秒

痛ましい現実、苦い重い
なにげない日常の中に潜む
心の影

事実としてフレームの中に
切り出せない混沌としたなにか

矛盾した屈辱的なぎりぎりの
問題

芸術的に昇華されることで
そこから目をそむけなくて
すむこともあるかもしれません


作り手が女性であれば
女性が生きる上での
いろいろな事々に
鈍感であるとは
考えにくいです


長くなってしまったので切りました。下の続きの回答です 投稿者:M  投稿日:06月13日(日)13時41分00秒

3,これも極言すればそういうことですが、私の意味しているのはそこまで強くはありません。
別に人それぞれなんですし、私には分からないけれど、ヨソの人が女性が虐げられているシーン
の含まれている作品を「楽しい」と表現したって構いません。大体、すべてが虐げられている
シーンなのではなく、一部なんですから。
ただ、私は言葉の使い方にはもっと自覚的である必要があると思うだけです。ある種の言葉を
発するにはそれが誤解をまねかないように気をつける必要がある場合があると思います。例えば、
「ちびくろサンボ」だとかがそういう言葉がそうです。私だってちびくろサンボってなんか
かわいい響きで別に他意がないのに、そんなことでぶうぶう怒らないでほしいわよねえ、と
思わないでもありませんが、でもそれでもそれを知っていてその言葉を使う時にはきちんと
それをなぜ使うのかということをクリアにする必要があると思います。

海野さんのあの場での「楽しくさえある」という一言は「ちびくろサンボ」のように、その
言葉自体に問題の概念が含まれているようなタームではありません。でも、あの作品を評するに
使うにはかなり気をつけて使わなければならない言葉のような気が私にはします。

新聞の原稿は短くて十分書けない、時間もない、なんてことは私は聞きたくないし、私には
関係のないことです。決められたモノの中で文章を書き、それを承知で一応新聞に載せたの
ですから(別に私は新聞というメディアを信じているわけでは決してありませんが)、
海野さんは自分の書かれたものに責任を持っていらっしゃるんだと思いますし、だからこそ
こうしてきちんと対応して下さっているのだいるのだと思います。
ともかく、私にはあの「楽しくさえある」の一言を発するまでの前フリでは、「楽しくさえある」
理由が明確ではないと思いますし、あの流れで「楽しくさえある」とボンと結論づけるのは
politically uncorrectだと思います。12日の書き込みではクリアにそう書けていなかったと
思いますが、「いくら色々なことを考えてらしてもそれをちゃんとかかず、楽しくさえある、の
一言が出てしまったら、考えていらっしゃることがすべて曲解されておじゃんになる」という
意味です。「楽しくさえある」の発言=politically uncorrectというわけではありません。
楽しくさせある理由が明確でないと、politically uncorrectだということです。

4,私は何にも見てません。名前の出た振付家も誰も知りません。というわけでジェンダーを
感じさせられた作品に出会ったこともありません。でも、守山さんの書き込みにあったように
クラシックバレエというもの自体については考えたことはありますが・・・
本当に私はダンスの人ではないので、バウシュもどちらかと言えばダンスというよりは
シアターの方から見ていると思います。

私は守山さんの書き込みで考えさせられたのですが、私が疑問に思ったのは恐らく、海野さんの
視点の立場性なんだと思います。私たちはそれぞれが成長していく中で、それぞれモノの見方視点
というのを作り上げていくわけですよね。でもそれは私たち個人が一人で作っていくものでは
ないと思います。社会的に作られていくものです。その点において、私たちは自分のモノを見る
立場というのがどういうところに根ざしているのかということを常に自覚して発言していかないと
発言はただの印象になってしまうと思います。そう自分が考えた感じさせられた奥にあるものは
何なのかということを考えないと、こうして議論する意味はないというのが私の立場です。
そういうことから、私は海野さんのレビューについて何を考えていらっしゃるのかをもう少し
聞いてみたい気がしました。それは、私が読む限りではあの前フリでそして「楽しくさえある」
と書いた海野さんがどうしてもご自分の父権的な社会に根付いたモノの見方というのに、無自覚
であるように感じたからです。

そうすると私が疑問にしているのはダンス自体のことではありませんから、これがもしこの
掲示板では不適切であるということであるならば、この話題はここで終わりにして下さって
構いません。お騒がせしてすみませんでした。


ご質問への回答 投稿者:M  投稿日:06月13日(日)13時40分22秒

1,私はヴィクトールはゲネで見たので、そうすると5月26日の水曜日ですね。

2,12日の書き込みに付け加えましたように、「人への穏やかな優しさへと変容していく」まで
はまだ海野さんがどういう意図で書いてらっしゃるのかはお聞きしないと分かりませんけど、何と
なく分かる気がします。でも「楽しくさえある」というのは分からないということが、まず一番
初めの記事の印象ですので、aの「全く理解出来ない」というのは強いにせよ、「理解出来ない」
というところで正しいかと思います。

bに関しても大筋はそうですが、もっとカンタンに失礼な
言い方をさせて頂けば「自分たちが笑われているような立場で描かれているのに気づいてない
としたらオオバカよねえ」という感じでいます。考えてみてもあそこに出ていた日本人のオジサン
たちはそういうことに無自覚で誇らしい気分であそこに出ていると思います。まわりの人に
「いやあ、今回埼玉の県立劇場に出ることになっちゃって」なんて自慢してそうじゃないですか。
それは私にとってはとてもおかしい。オジサンたちがかわいくさえ思えます。だから、必ずしも
それを楽しい・おかしいと思うことを男の人にまで否定しようということではありません。
ただ、そのおかしさには意味も寓意もあると私は思うのですね。それが分かってこそ楽しさと
いうか、おじさんのかわいさのようなものが分かる気がします。白人の女の人たちをバーで
デレデレながめるシーンでデレデレながめちゃうおじさんたち・・・私は怒りなんか別に起こり
ません。やーねーまったくオジサンたちって、という感じです。でもそれはそのオジサンたちの
コンテクストを理解した上でのことですので、だから、「意味も寓意もない」
とおっしゃっている海野さんがあのシーンをも含めて「楽しくさえある」ということになるのは
どういうことなのだろう? ということなのです。

ですから、そうですね、海野さんのとってあの作品が「なぜ楽しくさえあった」のか?
そして、それは他の人たちにとってもそういう印象を与えるものであったのか?という疑問が
あの書き込みをさせた発端です。


Mさんへの質問(長文、失礼します) 投稿者:海野敏  投稿日:06月13日(日)05時46分54秒

Mさん、ほかみなさんへ

掲示板の書き込みは毎日チェックして、たいへん興味深く読ませていただいております。ですが、本
業と副業で原稿締切を5件抱えており、Mさんの6/8の書き込みへの回答文を作る時間がありません
。気長にお待ち下さい。それからMさんの書き込みをきっかけとするやりとりについて、掲示板主宰
者の桜井さん、舞踊批評をされていてこの掲示板の常連でいらっしゃる乗越さんのご意見も、もしお
時間があれば聞かせていただけると幸いです。(なお、書き込みは1行半角80文字未満というネチケ
ットもございますが、このネチケットも過去のものとなっているようですので、行数を減らすために
1行半角90文字で書き込ませていただきます。)

さて、Mさんへ回答する前に、不要な誤解、齟齬を避けるために、念のためいくつか質問したいこと
がありました。あくまで念のためですし、私がここで質問をすると、この掲示板でのこの話題の比重
がいっそう高くなってしまいますし、公開の場で答えてもらう必要もないかと思うので、個人的にお
尋ねしたかったのですが、Mさんは電子メールアドレスを公開されていないので、この場で質問いた
します。公開の掲示板にやや不適当な内容かもしれませんが、掲示板参加の方にはご寛容のほどよろ
しくお願いいたします。前置きが長くなりました。Mさんへの質問は以下の四つです。

1.まず、Mさんが「ヴィクトール」をご覧になった日を教えていただけますか。
生の舞台は上演回によっていろいろ相違が生じますので、確かめさせていただければと思います。

2.Mさんの6/8の書き込みを引用します。
> 私は別にフェミニストでもなんでもありませんが、あの痛々しく
> 執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ、そして終わりにまた始めのシーンが
> 執拗に繰り返されあくまでも永遠に続くということを暗示させる終わり方は、見ていて
> とても暗くなるものでした。あれが、「心地よく、楽しくさえある」というのは私にとって
> とっても納得できるものではありません。確かにいくつかのシーン、例えばソシアルダンスを
> やっているかと思われる日本人のおじさんたちの存在、そして男のダンサー達のバカで単純で
> なにも分からず(もちろんダンサー達は意図的にやっているのだと思いますが)「女」という
> 存在を消費する、軽薄な存在であるのはコミカルではあります。ただ、それは女の
> のであり、見ている観客の男の人が楽しくなってしまうというのは、どうも分かりません。

ここでは、
 a.「執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ」の含まれる作品に対して
  「心地よく、楽しくさえある」と書いていることが全く納得できない
 b.「私にとって「男ってバカよね」というレベルでコミカルな」場面の含まれる
  作品に対して、男性が「心地よく、楽しくさえある」と書いていることが理解できない
という2点が書かれています。これらがMさんの私の記事への「疑問」の具体的な中味で、6/8の時
点で私に回答を期待されていたポイントであり、ほかの方の意見を求めていたポイントだと考えて
よろしいですか。

3.Mさんの6/12の書き込みを引用します。
> 私から読む限りは絶対に海野さんの評はpolitically uncorrectなんですね。いくら本当は色々な
> ことを考えて分かってらしても、「楽しい」と書いてしまったらもう終わりで、(後略)

この部分は、「執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ」の含まれる作品に対して「心地
よく、楽しくさえある」と書くこと、それだけで、"politically uncorrect"の十分条件である、と
Mさんが主張されていると理解してよろしいですか。

4.Mさんの6/8の書き込みで「今まであまりダンスには興味がなく、フォーサイスしかみたことが
ないという状態」と書かれてますが、現代振付家の作品で、舞台ではなくビデオ、TVででも、断片
的にでもご覧になって、ジェンダーを強く意識させられたもの、とりわけ「虐げられている女性のイ
メージ」を感じさせたものがあったら教えていただけませんか。ブーヴィエとオバディエ(レスキス
)やアンジェラン・プレルジョカージュなど、フランスのいわゆるヌーベルダンスの作品とか、ある
いは昨年のメリル・タンカード(元オーストラリア・ダンスシアター)やロイド・ニューソン(DV
8)の舞台とかをご覧になっていると話しがしやすいので、念のためにうかがいます。

以上です。ご回答は私宛の電子メールででも、この掲示板への書き込みででも結構です。


つづく、ヴィクトール 投稿者:M  投稿日:06月12日(土)15時09分26秒

自分からふっておきながら、ばたばたしていたため書き込み遅くなってすみませんでした。

海野さん自身が書いて下さったように、「楽しくさえある」となるまでにはいくつかのプロセスを
経てのことのようなので、是非、海野さんからそのプロセスについて書いていただければなあと
思っています。確かに、バウシュはヴィクトールで(そして他の作品でも)、女はこんなに虐げ
られているんだ!と怒っているわけではなく、つまり肯定も否定もせず(と私には思えます)
たんたんと執拗に描いているわけですから、それは最終的にはバウシュの人間愛(?)のような
ものに根付いていると言えるのかもしれないし、そういう点では海野さんがおっしゃるように
「極限で転回し、人への穏やかな優しさへと変容していく」という印象は分からなくも
ありません。ただ、それが楽しく、まで行ってしまうと良く分からない。ので、もう少し詳しく
説明していただけたらと思います。特に一番初めに観たときの印象からの変容ということも絡めて
お話いただけると嬉しいです。Yogoさんとかもその点には興味を持っていらっしゃるようですし。

この点に関して、海野さんが言っているのは、「舞台全体の仕掛けに対して」「楽しくある」
ということなのではないかという守山さんの指している舞台全体の
仕掛けというのが何を指しているのか分からないのですが。私は、特に虐げられた女のイメージに
海野さんが楽しいと言っているとは思ってはいません。楽しいオジサンのイメージすべて含めて
ヴィクトールが「楽しくある」と海野さんが思われたと思ってますが・・・舞台全体の仕掛け
というのはどういうことなのでしょうか? バウシュの用いている舞台上の表象方法ということ
ですか?

私はそれから、海野さんに学問的にフェミニズムを使いながら、バウシュに関して正しいことを
言ってほしいわけではないので、別に本1冊分も説明して下さらなくて大丈夫です。理論を
使いながらPCなことを言ってもらっても面白くないですし。私から読む限りは絶対に海野さん
の評はpolitically uncorrectなんですね。いくら本当は色々なことを考えて分かって
らしても、「楽しい」と書いてしまったらもう終わりで、それは海野さん自身の私に対する
書き込みを読んでも、そう取られてしまってもしょうがないかもしれない、と思って
いらっしゃるように思います。それでもそれを「つい」筆にのって書いてしまったという、
海野さんをのせてしまったモノというのが、私には興味があります。

その点で私は初めは海野さんに根ざしているものが「父権性社会」の価値観のような気がすると
思ったわけですが・・・必ずしもそういうことではないということらしいので、興味深く
書き込みをまっております。

守山さんの「女の人」が書いていたら、もしくは「性別が不明」だったらどうか?という
ことに関してですが、海野さんのレビューに戻れば、あのレビューは匿名でも男の人が書いた
ということは分かりますよね。別に私は男の人が男の人の視点で何かを書くのは全然構いません。
でも、私はそうやって書くときに、自分の視点というものが日本の社会の中で培われた男性的、
または女性的視点というものに犯されているということを常に自覚はしている必要があると
思っています。その点に関して、私はどうも始め読んだ時に海野さんのレビューが、そういう
男性的なものに無自覚なような感じたのでした。

金曜日、ダンソンを観て、ヴィクトールからダンソン、フェンスタープッツァーという流れが
とても良く分かったような気もしました。様々な人にとって、どれが好みか、評価するかという
点を話すと見えてくるものもあるような気がします。


「ヴィクトール」 投稿者:守山実花  投稿日:06月12日(土)10時39分21秒

 Mさんから投げかけられた海野氏の新聞評に対する疑問、それに対する海野さんのレス、
またYOGOさんのご発言、それぞれ興味深く読ませていただきました。
 まず、海野さんの新聞評ですが、そこで「この悪夢は心地よいし、楽しくさえある」と
書かれているのは、その直前の段落「浮かび上がる情動は痛ましさと切なさが極限で転回し、
人への穏やかな優しさへと変容してゆく」という一節を受けてのものだと思います。
ですから、ここで海野さんが書かれている「楽しくさえある」という文意は、バウシュの
舞台全体の仕掛けに対してであって、とくに虐げられた女性のイメージの部分を楽しんで
のほほんと見た、という意味ではないのでは?、と思うのですが。
 確かにMさんが指摘されたような不愉快さは私も感じました。何故そこまでやるのか?
理解できない部分も多かった。
 「虐げられる女性」だけでなく、例えば冒頭の腕のない女性が微笑むシーンでも、腕がない、
ことが逆に腕の存在を意識させ、それ故喪失の痛みもまた強く感じさせられて、自分が腕を
もがれるようで非常につらかったりしました。
 そうした身体的反応を強く喚起するのが、バウシュの意図なのでしょうけれど。
 また、ダンスは、身体表現であり、「見る/見られる」という関係で成立している以上、
ジェンダーの枠組みを切り離すことはできないでしょう。「踊り子」といった言葉が女性に対して
のみ用いられ、またそこには「男性の欲望の視線に仕える女ダンサー」といった意味合いがある
ことも確かです。
 「ヴィクトール」には、トウシューズに牛肉をつめて踊るシーンや、アラベスクのポーズを
とったままの女性を、紐で固定してしまうというシークエンスもありました。牛肉を詰めるには
実際に行われていたようです(cf森下洋子「バレリーナの情熱」)。ポーズをとった女性を固定
してしまうのは、トウシューズが一種の拘束具であり、バレエというシステムは、女性にアクロ
バティックな身体の動きを強制するものである、という事実を物語っているように受け止めました。
 
 Mさんは男性である新聞評の筆者が、男の視点だけで書いているということに
疑問をもたれたわけですが、仮にあの新聞評の筆者が女性だったら、あるいは男女の性別が
不明であったら、どのように感じられるのでしょうか?


「ヴィクトール」レヴューとネットの価値 投稿者:YOGO  投稿日:06月11日(金)00時54分25秒

ヴィクトールを「男根主義」かどうかは、海野さんがおっしゃるように難しい問題なのでしょう。
しかし、ごく素朴な感想として、
僕もMさんの「ヴィクトール」に対する気持ちは分かります。(僕は海野さんのレヴュー未読です)

「タリウスのイフィゲニーア」でもギリシャ悲劇という設定だから仕方ないのでしょうが、
男性、女性のジェンダーが露骨に固定されたダンスや仕草で、
これを見て逆にバレエの方が余程、ジェンダー的なダンス、仕草が少ないと思ったほどでした。
思えば、バレエの、女性が大股開きで足をあんなに高々と上げる仕草は、
ジェンダーフリーの感覚により近い。

ピナ・バウシュが、なぜあのような固定的なジェンダーを敢えて見せているのか?
とても不思議ですね。
「人間噴水」などは、おかしいだけではちょっとすまされない痛ましさがありました。
好意的に解釈すれば、「人間噴水」的なばかばかしいことを
我々の世界は行っているということを、感じさせるということでしょうか?

ジェンダーの視点から離れて見れば、
「変な」人間達の悲喜劇として楽しめる部分もあります。
ただ、この「変な」人たちは、
与野本町からの帰りの電車の方が余程たくさんいたようにも思えました。
86年の初演時ならともかく、
90年代末の東京は、
この作品の人物達をとっくに越えた「変な」人々がいっぱいいるように思えるのです。
だから、作品としての衝撃をそれほど感じません。
コンセプトがやや古いように思えました。

さて、先に書いたように海野さんのレヴューは未読ですが、
>ちなみに、私がはじめてバウシュを見たときは、性暴力の執拗さに、身のおきどころが
>ない気分を味わいました。それがなぜ「心地よい」ものへ反転するのか、私の記事では
>説明できていなかったようです。
海野さんがそう仰る、この説明できていない部分はぜひお伺いしたいものですね。
Mさんとの議論も、「男根主義」は棚上げにしても、
ここを説明なされば、かみ合ってくるのではないでしょうか?

まりあさんが、イングランドの新聞文化欄と日本との相違を述べていますが、
確かに、残念ですね。
伝統芸能などでは、「都新聞」以来の流れを受け継ぐ「東京新聞」が頑張っていますけどね。

でも、そういうマスメディアの間隙を埋めるのが、ネットではないかと思うのです。
未だに活字メディアの方が「上」という幻想があるようですが、
実際は、ネット上の内容の方がダンスバレエに関しては充実しています。
活字メディアに余りこだわる必要もないと、僕は思います。

「社会啓蒙活動」という面ではまだ絶対数でかないませんが、
接続可能な人なら誰でも参加でき、紙面制限のない利点を活かした
充実した議論は、ネット上でこそ可能なのではないでしょうか?


ピナ 投稿者:みかん  投稿日:06月09日(水)00時29分18秒

私、関西在住なものでピナバウッシュの公演はダンソン1プログラムしかないので、
今回東京まで見にきけなかったので、他のプログラムについてどうでしたか?
皆さんの感想をお聞きしたいです。
かなり昔に創られた作品の再演ということですが、今それらを見てどう思いましたか?
いろいろな感想読みたいです。よろしく。


新聞の舞台評に思うこと。 投稿者:まりあ  投稿日:06月08日(火)23時57分50秒

毎晩夕刊を開くたびに、何かダンス関係の記事がないかしら?と楽しみにしている読者の
一人としては、新聞に舞台評をお書きになられる側の立場からのご意見、とても興味深く
拝見いたしました。
新聞に舞台評やダンス関係の記事を書かれる場合、筆者の方がどの様な影響力を期待なさって
いらっしゃるのかはわかりませんが、一般の、バレエとは日頃縁の無い読者にこそ
とくに新聞記事の意義は大きいと私は思っています。なぜなら、もしこの記事がなければ、
ダンス関係の専門誌を購入して読む以外、ほとんどバレエに関するあれこれを目にするチャンス
はなく、しかも、書店での部数も少なく、値段も高いそれらダンス雑誌を買うのは、一部の
ダンスファン達に限られていると思うからです。

ダンスを生で見る機会などほとんど無かった頃の私にも、舞台評は、外国のバレエ団の
素晴らしい来日公演の様子を知らせたり、日本の様々なバレエ団が意欲的に新しい作品に
取り組んでいることを教えてくれたりしました。
いろいろな公演を見るようになってからは、舞台評と自分の感じ方との間に新しい発見を
することも多く、また、記事を読んでその公演に興味を覚え、当日券に並ぶこともあります。
こういったことって、実は、とっても大きな影響力で、きっと多くの方たちが同じような
経験をなさっていらっしゃると思うのです。

ただ、いつも感じるのは、日本の新聞の芸術関係の記事にさくスペースの少なさ!
インターネットのおかげで、茶の間の主婦でも簡単に外国の新聞が読めるようになった今、
時々、イギリスやアメリカの新聞をながめていますが、ダンス関係の批評記事が週に何回も
朝刊に掲載され、しかも、プリントアウトするとA4版で数枚におよぶ長さです。
最近のイギリスのデイリー・テレグラフの批評のページを例にとっても、Kバレエについて、
マイケル・ナンと熊川クンに大いに語らせていますし、インタビュー嫌いのバリシニコフの
様子や、マカロワから亡命当時のロイヤル・バレエでの苦労話しを引き出したりしていて、
ダンサー達の生き方そのものまでかいま見ることができる記事になっています。

日本の新聞のページ数にも関係しているのでしょうが、新聞はその国の文化のバロメーター
とまで言われるくらいなのに、夕刊の芸能欄にちょこっとしかスペースが与えられないの
では、優れた批評家の方々にとっては、ご意見を発表する場が少なすぎるのではと感じられて
なりません。朝日新聞のKバレエの批評についても、長い記事が許されたのなら、もっと理論を
展開した掘り下げた内容になったことでしょうにと、残念に思いつつ読ませていただきました。

日本の新聞の状況が簡単に変わるとは思っておりませんので、これからも、短い中にも
深い内容のあるダンス記事や、ダンサーのインタビューなどを楽しみに、またワクワクしながら夕刊を開くことにいたします。


バウシュの舞踊評について 投稿者:海野敏  投稿日:06月08日(火)06時49分56秒

Mさんへ

書き込みを拝読しました。私の記事に対するご意見をありがとうございました。
Mさんの疑問に回答するには、かなりの分量を書き込む必要がありそうですが、当面時
間が作れません。ほかの方の書き込みも拝見した上で、時間の作れるときに回答いたし
ます。しかし、とりわけ、

> 海野さんの評では、私にとっては男根中心主義に安楽している人がのんきに舞台で
> 起こっていることに感想を述べた、としか思えません。

この部分に対しては、おそらく書籍1冊分ぐらいを書かないと、誠実な回答にはならな
いような気がしております。なぜなら、家父長制に根ざした男根中心主義社会における
ジェンダー間の権力関係(支配/被支配、抑圧/被抑圧)は、振付家本人が意図してい
るかどうかは別にして、バウシュ作品を読み解く鍵だと思われるからです。バウシュの
舞台の「痛ましさや切なさ」の多くは、男性による女性へのあからさまな暴力、攻撃の
演技に由来していると思われるからです。では「男根中心主義」とは何か、「ジェンダ
ー間の権力関係」とは何か。これらを「…と思われる」というあいまいな水準ではなく
「…である」というはっきりとした水準で論じるには、私にそれを書く機会と能力があ
るかは棚上げして、書籍1冊分のテクストは必要な気がしております。ですから、この
掲示板で、Mさんが納得するような十分な回答はできないかもしれません。

ちなみに、私がはじめてバウシュを見たときは、性暴力の執拗さに、身のおきどころが
ない気分を味わいました。それがなぜ「心地よい」ものへ反転するのか、私の記事では
説明できていなかったようです。(新聞社から金曜日の夜にあった「翌日お昼までに原
稿用紙1.8枚でヴィクトールの批評記事を」という突然の依頼を、気安く引きうける
べきだったかどうか、いま反省しています。)


Kバレエの舞踊評について、再び 投稿者:海野敏  投稿日:06月08日(火)06時48分38秒

あさみさんへ

書き込みを拝読しました。さまざまな情報をありがとうございました。とりわけ熊川氏
のファンが観客のマナーについて、いろいろと神経を使っておられるとの具体的なお話
しは、存じませんでしたのでたいへん参考になりました。

> Kバレエカンパニーの冬のツアーにはおいでになるのでしょうか。

チケットの電話予約ができませんでした。まったくつながりませんでした。
どこかからチケットが手に入るようでしたら行くつもりです。

桜井さんへ

新聞の舞台評についての、

> 社会的な影響力、「効果」の点でははかなり低いのではないかと思うのです。

という部分、同感いたします。自分で書く以前は大きな影響力があると想像していまし
たが、書いてみてさまざまな方の話しを聞きますと、日本ではかなり小さな影響力しか
ないことがわかりました。


本日の朝日のレビューについて 投稿者:M  投稿日:06月08日(火)01時02分54秒

はじめての書き込みです。以前一度こちらのサイトを見させていただいた時、批評をやって
らっしゃるという海野敏さんの「ご意見お待ちしてます」という書き込みを見たのを、今日、
朝日新聞のレヴューを読んだときにふと思い出し、書き込みをさせて頂くことにしました。
はじめて書き込むのですから、今までの発言等押さえた方が良いかとも思いましたが、
とりあえずそちらは今後ゆっくりフォローさせて頂くことにして、とりあえず、本日の海野さんの
ダンス評についての感想を書きます。

バウシュに関しては私は今回が初見でしたが、今の段階でタウリス、ヴィクトール、フェンスター
プッツァーと見てきたところです。私は今まであまりダンスには興味がなく、フォーサイスしか
みたことがないという状態であり、バウシュに関してもあまり何もしらないというのを
お断りしておく必要があると思いますが、その新米ダンスゴアの私にとって、海野さんの
ヴィクトールの評にはとても疑問が残りました。

私にとってもヴィクトールは悪夢ではありましたが、私と海野さんの違いは、それが心地良く
なかったということです。私は別にフェミニストでもなんでもありませんが、あの痛々しく
執拗に繰り返される虐げられている女性のイメージ、そして終わりにまた始めのシーンが
執拗に繰り返されあくまでも永遠に続くということを暗示させる終わり方は、見ていて
とても暗くなるものでした。あれが、「心地よく、楽しくさえある」というのは私にとって
とっても納得できるものではありません。確かにいくつかのシーン、例えばソシアルダンスを
やっているかと思われる日本人のおじさんたちの存在、そして男のダンサー達のバカで単純で
なにも分からず(もちろんダンサー達は意図的にやっているのだと思いますが)「女」という
存在を消費する、軽薄な存在であるのはコミカルではあります。ただ、それは女の
私にとって「男ってバカよね」というレベルでコミカルなのであり、見ている観客の男の人が
楽しくなってしまうというのは、どうも分かりません。バウシュが今まで考えてきていること
というのを私ももう少し押さえないと良く分かりませんが、私は今回、バウシュはそういった
コミカルな男の存在というものも辛らつに捉えて表出しているのだと思いましたし、そういう点で
意味を持ってあの作品を作っているとも思いますから、それが「意味も寓話もない」というのも
良く分かりません。もちろん、フェンスタープッツァーを観る限り、ヴィクトールとの違いも
感じさせられ、バウシュの思考の時間の経過というものも意識しましたが、ヴィクトールを
みる限り、海野さんの評では、私にとっては男根中心主義に安楽している人がのんきに舞台で
起こっていることに感想を述べた、としか思えません。

ここでこのページの書き込みだけチェックさせていただきましたが、桜井さんが新聞の劇評
なんていうのは影響力もないし、やりすごして良いのでは、と書きこんでいらっしゃるのを発見。
確かに、それはそうかもしれません。でも、私にとってマジョリティーである新聞がのほほんと
したマジョリティーの(ここでいうならば男の)感想というものを載せるいうこと自体にも、
なんだか暗澹たる思いにさせられるのです。

始めに書きましたが、私はダンスにも詳しくもないし、別にフェミニストとして意見がある
というタイプでもなく、何かバウシュを取り違えているだけなのかもしれませんが、
他の方達はどのようにヴィクトールを観、私が男の視点からだけの評だと思った海野さんの評を
どのように考えていらっしゃるのかということをお聞かせ頂ければと思います。
あともちろん、私は海野さんの評を中傷するために書いたわけではなく、ただ本当によその人が
どう考えていらっしゃるのかをおききする機会として海野さんの評を出させていただいた
だけです。



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