Mr.ビーン [ CRITIQUE ]

Mr.ビーン最高!
―土方巽没後13周年によせて



          「Mr.ビーン最高!」
                        桜井圭介

    「ダンス」とは何か?という問いに対して「真直ぐに歩けば
   いいところを、くねくね歩いたりするもの」と言うこともでき
   るだろう。目的(地)に向かって最短距離を黙々と足を運び続
   ける身体とは反対に、非効率、不合理、「道草」のような無意
   味な娯しみにかまける身体は笑っている。「笑う身体のエクボ」
   、それが「ダンス」だ。そこでただちに翻って、単なる「歩行」
   といえども「真直ぐでないもの」は「ダンス」であると言おう。

   「歩行」

    ローワン・アトキンソン演じる「Mr.ビーン」の魅力の第一
   は、すこぶるダンス的なその「歩き方」である。そのなんとも言
   えずイイ感じに「ひょこたんひょこたん」する身体は「脚を上げ
   つつ同時に下げる」という「二律背反」的な動作によって生じて
   いると思われる。しかしそれは、どうみても障害者の歩行に似て
   しまう(『モンティ・パイソン』の名高い「シリー・ウォーク」
   や「馬鹿者競走」からの流れか?)。ここで、不具者=無垢なる
   ものの「聖性」とかなんとかの話に持っていければPC (Political
    Correctness) 的にも安全なのだが、残念ながらMr.ビーンは
   意地悪で、ズルすることばかり考えている、セコくてイヤな奴で
   ある。にもかかわらず、嫌悪感を与えないばかりか、歩き姿を見
   るだけで顔がほころんでしまう!それはその身体が笑っているか

   らだ。つまり身体そのものが(人格と関係なく)無垢なのだ。例
   えば、「チャールストン」の    ステップはびっこの黒人の
   歩くさまに由来する、という事実がある。アメリカ南部の町チャ
   ールストン、昼下がりの街角を横切っていくシルエット、それも
   又Mr.ビーンのひとりだったに違いない。そしてそこに「ダン
   ス」を見た者がいたのだ。当然、最初にチャールストンを踊った
   者にはそのモデルの身体に対するリスペクトがあったはずだ。そ
   して、そのステップを見た者たちは、居ても立ってもいられなく
   なり、自分でも踊らずにはいられなかった。笑う身体の伝播であ
   る。「ダンス」とは現実における不都合・不具合の肯定的な転用、
   役にたたないものの正しい (Correct) 使用法なのだ。

   「マリオネット」

   「Mr.ビーン」の歩行には妙な「軽さ」がある。それは「脚を上
   げつつ同時に下げる」という動作が、「地面から数センチ上を歩い
   ている」ような、「弛みを持たせて吊られている」ような印象を与
   えるからだろう。そこでこの歩行のもうひとつの見方として「マリ
   オネット」からの発想というものが考えられるかもしれない(それ
   はヨーロッパの道化の伝統やパントマイムの人形振りからも当然だ
   ろう)。操り人形のなかでもヨーロッパのそれは身体の部分部分に
   付けられた糸を上から引っぱられることで動く。これは文楽人形の
   ようなものと比べると操作する力がかなり逃げやすい。重力という
   下への力と上からの力のあいだにある人形の身体は、傀儡師に動か
   されていると同時に、その思惑をすり抜けて勝手に動いてしまう。
   その操作からこぼれる部分、自然にぶらんぶらんしてしまう「揺れ」
   が「ダンス」である。このダンスは人形使いがヘタであればヘタで
   ある程、よくなるのだ。もちろん、同様にこの世界の物理的諸条件
   から逃れる願望であるダンス芸術は、バレエに端的にみられるよう
   に、跳んだり跳ねたりしてみるのだが、跳べば跳ぶほど落下によっ
   て重力の存在が目にみえることになってしまうとも言える。いっぽ
   う「Mr.ビーン」は脚を「上げつつ下げる」という力の相殺によっ
   てまんまと軽さを獲得してしまうのだ。パペットの囚われの身体が
   上下の力の引き合いによって、無重力であるように。

   「陰陽・太極」

    この「二力」の同時に存在する身体として思い出すのは、韓国舞踊
   だ。かつてほんの一時間ほどその「キボン(基本)」を教わっただけ
   だが、まず「足の上げ下げ」つまり「歩行」の心構えとして言われた
   のは「丹田」(みぞおち)から天地に引っぱられる力をイメージしな
   さい」ということだった。実際の歩き方としては、足を下ろすときも
   上に伸び上がるように意識するわけだ。ヨーロッパとの単純な比較で、
   アジアの舞踊についてしばしばいわれるのは「大地に根を下ろす」
   「大地を踏みしめる」云々といったものだが、本当は「陰陽・太極」
   という思想から考えても、天地に吊られてある身体であるべきなのだ。
   しかし実際は、とりわけ日本の場合、伝統芸能の身体訓練にみられる
   如く(「腰を落せ」「踏ん張れ」)重心の安定への留意から下への働
   きかけに傾いていることは確かだろう。その誤解によるもっとも悲惨
   な例は、鈴木忠志のいわゆる「鈴木メソッド」の歩行だ。あれは歌舞
   伎や能、そして暗黒舞踏から想を得て考案されたのだろうが、オリジ
   ナルにはあったであろう「上」への意識、しなやかな身体の呼吸・表
   情を殺してガチガチに固めてしまったというべきものだ。ダンスから
   もっとも遠い身体。僕にはプロシャ流の軍隊(旧日本軍もそう)の行
   進しか似たものを思いだせない。

   「俳味」

    つい先日、田中ミン(ワープロに漢字がありません:三ずいに民)
   の舞台『征服』(A・アルトー原作)をみた。つんつるてんの背広と
   スラックスの彼が歩きはじめてあっと驚いた。まるっきり「Mr.ビ
   ーン」なのだ。おそらく彼はそんなキャラクターの存在は知らないだ
   ろう。あれはアルトーであり、土方巽であり、田中ミンの舞踏なのだ。
   ならばこういうことになるはずだ。「器官なき身体とはMr.ビーン
   のことである」と。こんなにわかりやすく、目からウロコのイメージ
   把握はちょっとないのではないか(フランシス・ベーコンやハイ・リ
   スクなドラッグ体験など必要ないくらい)。あるいは「舞踏の本質な
   いし可能性としてのMr.ビーン」!とか(なんだか楽しくなって来
   たよ)。そもそも土方巽の踊るさまはどうであったか?例えば、ほう
   けたように地べたに尻餅を突いて足の指をこの上なく繊細に動かす
   (『疱瘡譚』1972年)とき、その身体はみずからの重さを支えられ
   ずに床に転がっているのではない。脚を「まっとうな歩行」の道具に
   することを拒否し、ただ「父さん指と赤ちゃん指を対話させる」ため
   だけに使用することを欲したのだ。それによってその身体は内実、実
   存という重さを廃棄しており、カラカラ(空・空)と明るい「軽さ」
   を獲得している。当然、尻餅(下への力)を突きながら差し上げられ
   た脚(上への力)の指先はなんともいえずのびやかである。今日の
   「暗黒舞踏家」に、こうした屈託のなさ、乾いた明るさ、「俳味」と
   でもいえそうな「笑う身体」があるだろうか?「舞踏とは命がけで
   突っ立った死体である」という有名なアレにしても、要するに「立ち
   ながら同時に倒れる身体」ということなのに、舞踏家の多くが「死体」
   というロマネスクなイメージに拘泥するから「スリラー」(マイケル
   の!)ゾンビのようなものにしかならないのだ。

   「モルフィング」

    舞踏の身体はたしかに「成る身体」である(筆者は『西麻布ダンス
   教室』1994 でこの問題を論考したが、ここではそれを踏まえつつ若
   干の意見修正をすることになるだろう)。そこで、鳥やらケモノや
   お地蔵さんに(?)なるために鋳型に生身の身体をはめ込んで固めて
   しまいやすい。しかし、やわな身体のままでは舞踏的とされる「身体
   の物質性」は獲得できない。大方の舞踏家はこのジレンマにはまって
   しまっているのかもしれない。しかし「Mr.ビーン」の教えてくれ
   るダンスの条件は「二力の同時使用」ではなかったか?ケモノになろ
   うとする身体に、それに逆らう身体をぶつける。固めつつ溶かす。あ
   るいはほとんど同時的に次々に、なるべき「対象」を変えていく。ち
   ょうど三次元CGの「モルフィング」のような具合に、ある貌の内側
   から別の貌が隆起し、さらにそこからまたもうひとつの貌が、という
   連鎖(しかも身体上での「ヴァーチャル・リアル」は「ヴァーチャル」
   とは言い得ず、つまりはひとつの「リアル」ではないか)を続ける。
   その時、それはもはや「暗黒舞踏」の型から切れてしまうのかもしれ
   ないが、だとしても土方巽の身体に接近することになるはずだ。つま
   り「Mr.ビーン」に、ってことだが。ところが既に、田中ミンの
   『征服』で踊ったブラジルのダンサーたちがそれを実践しつつある。
   サンバの身体、スキあらばいつでも踊り出す身体が、ブトーのいわば
   「堪える身体」と合力し、拮抗し、膝がガクカクし始める─それを
   「膝が笑う」というのではなかったか─瞬間を捉え炸裂する。僕とし
   てはただ単に「まぎれもなくダンスだ」と言い切りたいところだが、
   たしかにそれは「舞踏」という思考のもたらした(現時点では例外的
   な)勝利には違いない。

   「パフォーマンス」

    さてここで、最初の命題「ダンスとは、真直ぐに歩けばいいところ
   をくねくね歩いたりするものである」の乱用、誤用について考えるべ
   きかもしれない。時には真直ぐ歩くべき場合だってあるのだ。ダンサ
   ーがみずからの身体をして表現たらしめよう、ゲージュツたらしめよ
   うという「よこしまな」考えからダンスするとき、「意味もなく」と
   いう意味で「くねくね歩き」を選択する。ただ単に真直ぐ歩いたので
   は誰もダンスとして見てくれないのではないか?という危惧によって、
   「くねくね歩き」のフリをするのだ。フリをするものはこわばる。
   「ダンスのフリをする」「しなやかであることをよそおう」身体ほど
   忌まわしい身体はない。しかし「振り付け」といい「振りをおぼえる」
   というように、「フリ」というのは常にダンスにつきまとう問題では
   ある。ダンスの動きを「振り」つまり「型」としてなぞるとき、それ
   はもはや(未だ)ダンスではない。ダンスのフリ(振り)をしている
   だけだ。「コンテンポラリー・ダンス」の別名ともいえる「パフォー
   マンス」という語には、「政治家のパフォーマンス」というように否
   定的ニュアンスがあるが、「芸術家のパフォーマンス」も似たような
   ものかもしれない。私見ではゲンダイビジュツな自称アーティスト
   (自称ダンサーも含む)はたいてい「はったり」である。なかには本
   物もいるだろうが、それにしても日常性や道理や快感原則には何が何
   でも従わないぞという「頑是なさ」を「表現」としてわざわざ行為す
   る=パフォ−マンスするというのは、やはり何のつもりかと思ってし
   まう。もちろん、そういうことに意味があると思う人達がいるので
   「アーティスト」として通用しているのだろう。しかしその場合、も
   うその行為は「道草」のような「無意味」な娯しみからは切れている
   だろう。つまりそれは「ダンス」とはなんの関係もない身体だ。

   「Mr.ビーン」

    さらに始末におえないのはそうした輩に限って、「アルトーが」
   とか「ドゥルーズ=ガタリは」とか言いたがるということだ。だか
   ら「アルトー=Mr.ビーン」とカマすのもそれなりに処方箋たり
   得るとは思うのだが、本当は「Mr.ビーン最高!」と言うだけで
   済ませたいのだ。だって、申し訳ないがアルトーなんて「ゲージュ
   ツ」であるぶんだけ「ダンス」としては弱い(その意味では田中ミ
   ンも)。ところが「Mr.ビーン」は(マイケル・ジャクソンのダ
   ンス同様に)子供から大人までに、過不足なく正当に評価されて
   いるのですよ。

                 
   ※蛇足 TVコメディ『Mr.ビーン』のコントじたいは、「とんが
   ったギャグ」で「爆笑の連続」といえるようなものではない。むしろ
   「あまりにもクダラナイ」ので、こちらの身体が緩み切ってしまい、
   その急激な弛緩の「反射」として笑いが衝いて出てしまうのだ。それ
   は意味もなく可笑しい、文字通り「身体的笑い」である。それは、
   ダジャレという「あまりにもクダラナイ」行為(をする人)に対する
   笑いに近い(ダジャレじたいが可笑しいわけではないのだ)。
 


(この文章は『早稲田文学』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。
 許可なく複製、転載をしないでください。)



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