dancing cafe [ 9月のダンス時評 ]
※これは、観た中で発見したこと、考えた事をとりあえずメモしておこうというもので、
充分に推敲したものではありません。「雑記」といったところです。
その点、ご了承の上、お読みください。

「dancing cafe −みんなで踊る現代ダンス」
横浜ランドマークホール 9月25〜27日


    コンテンポラリー・ダンスの振付家に「観客がその場で、みんなで踊れるダンス」    を委嘱、デモンストレーション(ビデオによる)とインストラクター(ダンサー)    によるインスタント・レッスンでもって、レッツ・ダンス!という企画。    出品はドミニク・ヴォワヴァン、ダニエル・ラリュー、アレクサンドル・ブリゴ、    珍しいキノキ舞踊団。F・ドゥクフレもビデオを送ってきたが(これが早回しや    スクラッチの入った完全にビデオ用作品としか思えないもので)、みんなで踊る    プログラムからははずされていた。     アイデアはナイスだが、成功とは言えない。何故か?「振り」がちょっと難し    過ぎた。少なくとも僕には。短時間で覚えて身体のなかに入れて後はさっさと楽    しむ、そのために必要なダンスはもっとシンプルでなければならない。単純なリ    フレインと気の効いたアクセント。大衆のダンスというものはうまく考えられて    いるのよ。    とりあえず振りを把握したからってちっとも楽しくないよ。からだが踊り出すに    はもうちょっと時間が必要。     それから、ひとつ気になったのは、振りと音楽の関係。今回彼等の作ったピー    スすべての基本的な構造は、やはりカウント(拍)であった。まずこの動きを何    カウント(のなかで)やって、次にこれこれを何カウントめで、というやりかた。    ところで、使用された音楽(ポップス、あるいはダンスミュージック)の構造は    「何小節で1楽節」(大抵は4ないし8小節のかたまり)、というもので、つまり    はパターンの単位は「フレーズ」である。フレーズにそって振り付けられていれば、    シロウトでも覚えるのも簡単だし、踊っても楽しいのだが、それをあえて(?)    無視してつくるものだから、振りのパターンのリピートとフレーズがどんどん    ずれていってしまう。身体的違和があるのは当然だ。そういうことは彼等「コンテ    ンポラリー・ダンス」の「アーティスト」にはわかって頂けないのでしょうか?    ( ※このような、コンテンポラリー系のダンス作家の音楽に対するスタンス、    ひいては「ダンス観」については、だいぶ前に名古屋の七ツ寺共同スタジオ25周年    の冊子のために「テクノ的!」という一文を書いたのだが、それがなかなか刊行さ    れない。間もなく出るらしい。それが出たらこのホームページにアップロードしよ    うと思っている。)     ま、正直に言えば、自分がちゃんと踊れなかったもんで、こんなふうに文句言っ    てるというところはありますけどね(まわりの人たちはけっこう覚えるのも早くて、    楽しめた様子だった。それでなおさらチクショーと思ったのだが、何のことはない、    まわりはほとんどダンサーとその「卵」だったらしい)。     でも、ピナ・バウシュの優れてダンス的な「手のダンス」は本当に「誰でもすぐ    さま踊れる」し、見ていて必ず一緒にやりたくなるわけで、それはあれがきわめて    音楽的にも理にかなっているからなのではないか。曲と結び付いた「単純なリフレ    インと気の効いたアクセント」によって。それから、あれだけシンプルだからこそ、    踊る人の身体的個性が生きてくるということがある。そしてそれがダンスのダンス性    (クオリティ)を支えるのではないか。     何度も書いたことだが、単純な「腕の一振り」ひとつでも、それをどんな風にする    かは無限大の可能性があるわけで、例えば、腕を頭上から腰まで下ろすという振りが    あったとしよう。単にカウントとしてみてもそれは言える。1カウントではなく、    4カウントでそれをするとしたら、その時間配分は非常に重要になってくる。さらに    そのスピードのさじかげんやニュアンスの付け方も考える必要がある。それは(音楽    で言うところの)「フレージング」である。このような、カウントで処理しようと    するとこぼれ落ちてしまうものに音楽の、そしてダンスの本質的な部分があるはずなの    だけれど……。
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