デザイン主義批判(序) [ Critic ]


「デザイン主義批判(序)」


    
     20世紀モダニズムとは、あらゆる事象をフォルム化によって“視覚的に”
    認識するという点で「デザイン主義」といっても過言ではない。ダンスにお
    いて、19世紀的なるもの=バレエの乗り越えという一点を共有する様々な
    スタイル間のヘゲモニー闘争に勝利したのが、ジョージ・バランシンのいわ
    ゆる「抽象バレエ」であったのも、その「デザイン主義」ゆえだろう。

     バレエから意味や物語を取り去り、装飾的な動きを棄却したバランシンの
    ダンスは、きわめて造形的であり「純粋な身体運動による空間デザイン」と
    いうことが出来るだろう。しかし、そうした身体のフォルムや運動の線を幾
    何学的に抽象する試みは、20〜30年代にすでにダダやバウハウス、ロシア
    構成主義の美術家によるパフォーマンスにおいて実践されていた。そこで、
    身体運動のアマチュアである美術家たちの「実験」を経て、バレエ・リュス
    の最後の振付家バランシンがダンスのデザイン主義を完成させた、というふ
    うに整理すれば成程たしかに分かりやすい。

     しかし、二つの意味においてバランシンは先行する「実験」から後退して
    いる。まず第一に、美術家たちの乱暴かつ過激なパフォーマンスにおいては、
    彼等の建築やタブロー同様に「非=ユークリッド幾何学」が追究されている。
    そもそもなぜ美術家がパフォーマンスにひかれるのか。それはキュビスム絵
    画を見ればわかる通り、「運動する物体」は机上の静物と異なり、ダイナミ
    ックなフォルムのイメージの源泉だからだ。バランシンが理解出来るのはユ
    ークリッド幾何学の範囲内の造形である。それゆえ、彼は舞踊家であるにも
    かかわらず、ダンスの本質ともいうべき「運動性」の点でも、美術家たちの
    革新から後退していると言わなければならない。これが第二点である。数10
    分かけて踊られる舞台上の運動を継起的にたどっていって、やっと描くこと
    が出来るバランシンの「デザイン」が、単なる壁紙程度のものであるとした
    ら、一瞬のうちに時間と角度を凝縮させて切り取っているのがピカソのタブ
    ローだ。あるいはF・レジェの映画『バレエ・メカニック』は単純な方形や
    三角形の入れ替わりを点滅で繰り返すことで、運動性そのもののダンスを提
    示してみせたではないか。

     美術家たちの試みが「実験」に終わったのは、おそらく彼等には身体の運
    動の「技法」を開発する暇がなかったという理由が大きい。その点バランシ
    ンにはバレエのシステマティックな技法があった。彼が幾何学的抽象をそれ
    なりにモダン(=スマート)にデザイン出来たのは、そもそもバレエという
    システムがきわめて幾何学的法則によってできているからに他ならない。
    構造的な部分とりわけ空間と身体の関係はそっくりそのままバレエなのであ
    る。

     バレエにおいて舞台(床面)は8方位に分割され、各々に番号が付けられ
    ている。これは「便宜上」に止まらず、バレエという幾何学的システムの総
    体を規定する基本フレームである。バレエのポーズとステップ=「パ」つま
    り8分された床に直立する身体の運動は、身体の各部位の向き(45度=八分
    角単位)の組み合わせで作られる。つまり空間は見事なまでに身体運動を制
    御している。遠近法があるタブローの全てを規定しているように。逆に、身
    体運動の法則性が空間の様態を生むと考えても同じことだ。身体も運動も空
    間も、方形と対角線そして内接する円(ピルエットの軌跡やジャンプの軌跡
    の放物線)に重ね合わすことが出来る。このシステム内では、身体と空間は
    どこまで行ってもトートロジー、同語反復なのである。遠近法が世界認識の
    ひとつの方法であり、同時に世界観でもあるように、バレエのこの法則も身
    体(主体)が空間(世界)をいかに分節化し、認識するかという命題の「解」
    と考えられるが、同時にそのような世界(空間)に在る主体(身体)は「身
    のこなし」も厳格な礼節、規範に則ってなされなければならない。あいまい
    な態度、45度角未満の微妙な姿勢は許されない、ということだ。

     バレエ=バランシンのこうした空間デザイン(身体運動による空間トレー
    ス)は、建築において前述のアバンギャルド・アートの後にやって来るコル
    ビジェやローエの箱型建築の「均質な空間」「人体比例によるプロポーショ
    ン」とアナロジカルに考えられる。バランシン以降、必ず語られるのは、バ
    ランシンの弟子とも言うべきマース・カニンガムの「非焦点化」つまり「空
    間の均質化」という革新だが、この点も含めてカニンガムのダンスは、バラ
    ンシンいや19世紀バレエという古典主義(=非バロック)的芸術と地続きな
    のだ。

     しかしカニンガムによって徹底されたバランシン的特性が、非=運動性とい
    う意味における「デザイン主義」であることに注意するならば、ウィリアム・
    フォーサイスの、いわゆる「脱構築」が何であったかがはっきりしてくる。
    ロシア・アヴァンギャルドの「運動的」な建築を読みなおすことで、コルビ
    ジェ的な箱=グリッド空間を「脱構築」した建築家たちのように、フォーサ
    イスは空間内における身体運動を計測化するラバン理論やバウハウスのO・
    シュレンマーの「身体運動による空間求積法」としてのパフォーマンス等を
    通してバレエを批判的に読みなおすことで、バランシン=カニンガムの非=
    運動性を「脱構築」した。それは、もはやダンスはその運動の軌跡をたどっ
    て再把握し得るような「イメージ」、アプリオリに措定されたイデアルな空
    間に規定されたイメージの表象再現(トレース)ではないということ、見る
    者も共にそこに起る運動そのものつまり「出来事」を生きる場である、とい
    うコペルニクス的転回である。イメージから非=イメージへ、スティール
    (静止)からムーヴィー(運動)へ、レトリックからエクリチュールへ、美
    学的であることから倫理的、プラグマティックであることへ、その全てを換
    言して「デザインから非デザインへ」の転回。

     ところが、今日再びバランシンに起った退行が再現されている。フォーサ
    イス以降のダンス・シーンの「流行」として、バレエ・テクニックの無批判
    な使用やバレエ作家の復活が目立つようになった。またしても漁夫の利は、
    昔ながらの「メチエ」をたまたま持っていたに過ぎない職人にあるらしい。
    しかも芸術家を気取った職人ほど「美学的」に振る舞うものだ。そしてそれ
    は必ずや「デザイン」(意匠)となるだろう。バレエ的身体はスノッブな彼
    等好みの「フェティッシュ」に過ぎない。

     そんなダンスを見るくらいなら、と言わなくても熱狂的に享受されている
    ものがある。サッカーやバスケットだ。これほどフォーサイスに近いものは
    ない。そこでは見る者の視線はボールまわりにあるが、実際にはボールをめ
    ぐってあらゆる動きが複雑に連係して同時に発生している。ではそのゲーム
    を、個々のボール運びによって形成される「空間デザイン」として読むこと
    は出来るだろうか?事後的に「作戦分析」といったものは考えられるが、リ
    アル・タイムの観戦にはそんなことをする意味がない。それは全体(=デザ
    イン)を見渡すものではなく、共に瞬間瞬間を生きるものだから。このこと
    を考えるなら、われわれの感性もそうひどいものでもないだろう。単にダン
    スが遅れているのだ。

    
    (本稿は『PT』誌・1999/第7号に掲載されたものを若干改稿したものです)



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