『ドン・ジョバンニ』 [ CRITIQUE ]

人は皆オペラを知っている
P・ブルック『ドン・ジョバンニ』


  
           
      舞台を見ながらA・レネの映画『恋するシャンソン』を思い
     出していた。あの珍作は、「複数の男女のどこにでもありそう
     な恋愛模様」といったふうのストーリーの一コマ一コマに、フ
     ランス人なら誰もが知っているシャンソンの数々を「セリフの
     かわりに」はめ込んでいる。しかも口パクで。にもかかわらず、
     それは、たとえば『シェルブールの雨傘』の「小っ恥ずかしさ」
     とはまるでちがう、不思議なナチュラルさを持っていた。「形
     態」としてはミュージカルなのに、「ジャンル」としてはロメ
     ールやトリュフォーのエッセイ的な質感に近いのだ。『シェル
     ブール』の場合、しょせんはベタな純愛映画に過ぎないのに、
     「シネ・オペラ」を作りました、というような浅ましい魂胆が
     みえみえだ。まずコンセプトありき、形式ありきでつじつま合
     わせをするから、「全編歌で語る」わざとらしさばかりが鼻に
     つくのだ。いっぽうレネの場合、“人生の悩みのいろいろなん
     て、すでに全部シャンソンに歌われているじゃないか、じゃあ
     いっそのこと…”というわけだろう。すると結果として、こう
     してシャンソンにすべて語らせてみると、人生も案外捨てたも
     んじゃない、ということにもなる。
      そうなのだ。この『ドン・ジョバンニ』の演出も、名作オペ
     ラをいかにして現代に甦らせるか?といった野心的表現ではな
     く、いまどきの「しょうもない女好き」と彼をめぐる「女たち」
     の話をするために、たまたまそこにあったからモーツアルトの
     音楽を使った、という風にみえるのだ。つまり普通の逆。「古
     典」を「現代の演劇」として読みなおす、といった場合、大抵
     設定を「今」に置き換えるわけだが、おおかたは主役のキャラ
     の設定ばかりに頭がいってる。ロメオを「族」のリーダーにす
     るとか、『椿姫』のヴィオレッタはエイズにかかったスーパー
     ・モデルでいこう、とか。結核をエイズに、というところまで
     は、まあいい。その上にスーパー・モデルはくどい、やりすぎ
     なんだよ。それじゃあ田舎芝居というか、結局は依然として
     「コスプレ」じゃないか。だって問題の核心は、オペラに本来
     的に付随する「コスプレ」性すなわち様式性とどうやって手を
     切るか、なんだから。
      ピーター・ブルックという人は「何もない空間」の演劇で知
     られているわけで、ここでも、背景や装置はおろかほとんど小
     道具もない空間が舞台となっている。つまり、からっぽの空間
     に投げ出される俳優=歌手の「リアル」だけに、すべてが賭け
     られるわけだが、その彼等の衣裳も単に「普通にカジュアルな
     服」というに過ぎず、たとえばジャケットにパンツのドン・ジ
     ョバンニが金持ちの馬鹿息子か、ヤクザの成り上がり者なのか、
     といったことはわからない。それは「コスチューム」というよ
     り、単にその歌手=登場人物の「着ている服」なのだ。こうし
     て、あらゆる面で説明的な「絵」が回避された舞台づくりの徹
     底したシンプルさは、しかし抽象的な冷たい質感にはならずに、
     むしろ「カジュアル」であることのもたらす「親密さ」を生ん
     でいる。
      白い床の「主舞台」のまわり三方の薄暗がりに椅子が置かれ、
     歌手たちは序曲とともにそこにすわる。そして出番になるとお
     もむろに立ち上がり、明るい主舞台に入っていく。ここではじ
     めて彼等は「登場人物」になるのだが、その移行があまりにも
     さりげないので、役と彼等自身の境目が、われわれの目に入ら
     ない。これはある意味、「異化」的手法だが、実際は逆の効果、
     健全な「感情移入」を生む。彼等のみせるいきいきした存在感
     は、役の要請によってではなく、彼等一人一人の個人的な生か
     らごく自然に出てくるもの、というふうに思えるのだ。「われ
     われの生きているこの今」が、ここにはある。つまり“人生の
     悩みのいろいろなんて、すでに全部オペラに歌われているじゃ
     ないか…”なのだ。そしてその時モーツアルトの素晴しい音楽
     =「歌」は、もはやストーリーの冗長な説明ではなく、登場人
     物そして我々自身の生の場面場面を肯定するエンブレム=指標
     のようなものになるだろう。そう、ドン・ジョバンニの最後の
     晩餐のBGMにオペラ『フィガロの結婚』がかかるように。そ
     こで彼は「この曲はよく知っている」というのだが、ちなみに
     A・レネの映画の原題は「人は皆シャンソンを知っている」な
     のであった。
    

    (この文章は『太陽』誌に発表したものに、若干の加筆・修正をしたもの
     です。許可なく複製、転載をしないでください。)



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