主体、関係、狂気 [ CRITIQUE ]

主体、関係、狂気
―フォーサイスとバウシュ


 


 座礁し岸壁に乗り上げた客船を背に広がる砂浜、来るあてもない救け
を待つ乗客たち。『船と共に/ピナ・バウシュの世界』の設定は「極限
状況に起こるドラマ」のそれであり、しばしばそのような「物語」では
人間の弱さや強さ、醜さや気高さ、愛と憎しみ、理性と狂気、といった
モチーフが集団内のさまざまな葛藤によって描かれたりする。しかし
この舞台には葛藤はない。あるのは事件ではなく極限状況の日常だ。
冒頭からもう狂った女たちがいる。一心不乱に踊り続ける女。それは
自分の体にまとわりついているなにか「不浄なもの」をはらおうとし
ているようにもみえる。男がやってきて、優しく諭すかに肩を抱き連
れていく。また別の女が踊る。ホースを持った男はまるでそれが必須
の舞台効果であるというように彼女の頭上に雨を降らせてやる。精神
に失調を来した者とそれを保護している者。しかし狂気は緩慢に広が
っていく。女たちを連れ戻すのをあきらめた男たちは、一緒になって
遊ぶことにする。雨をかける役と踊る役は男女の間で交互になされる
ようになり、踊る女に寄り添い、男は彼女がころんだり危ない方へい
かないように注意深く、先回りしながら「支え手」となりデュエット
が成立する。ラップを脚に巻いて(タイツ?)手を椅子にかけ、バレ
エのバー・レッスンをはじめる女。すると残り全員もまた船のデッキ
の手すりを使って一斉にバー・レッスンするのだ。さらに時が経過す
ると、砂浜では「カエル飛び」や「ウサギ跳ね」ばかりがみられるだ
ろう。
 ここには“ピナ・バウシュのタンツテアター”としては(「ダンス
ならざるダンス」であることがタンツテアターだとして)、かつてな
いほど、いわゆる「ダンス」があふれている。バウシュの舞台にデュ
エットなど考えられたろうか?しかもリフトやターンといった古典的
なお約束を踏襲している!昔バウシュはこう語った。「現実はかなら
ずしもダンスによっても表現できない」「ダンスをみるのは好きです
が、ほとんどの場合には間違っているな、と感じます、無理して作っ
たハーモニーという点で。」たしかに今日のほとんどのダンスは無反
省に「ダンス(表現)たろう」としてこわばっている。そこには「型」
ばかりがみえるのだ。そこで、ダンスでないものを持ってきて「どう、
普通の動きのほうがグルーヴィじゃない?ダンシーでしょ?」という
のがタンツテアターだったわけだ。では「ダンス回帰」あるいは「転
向」と言うべきだろうか。いままでの舞台にもダンスがなかったわけ
ではない。そしてそのとき我々は何をみたか?といえば、そのフォル
ムやムーヴメント自体でもなく、それが表現しているとされる意味
(感情?)でもなかったのであり、つまり表現として認識されるもの
である限りの「ダンス」ではなく、端的に「踊る女」をみたのではな
かったか。その意味では今度の作品でも同じである。より多くの場面
で頻繁に「踊っている人物」がみえるのであって「ダンス表現」がみ
えるのではない。しかしそれでもなお、なぜ彼等はそこで日常の行為
(タンツテアターのトレードマークだ)をしているのではなく「踊っ
ている」のか?という問いは成り立つだろう。たしかに、どのような
何気ない「仕草」にも美しさがあるという地点から、ダンスでなけれ
ばならないという地点へのシフトは大きいのだから。言うまでもなく、
ここでは踊ることは狂気と大きく関わっている。「何がみえるか」に
ついてさらに言えば踊っている者はここでは狂ってしまった者か、狂
った振りをすることで正気を保とうとする者のようにみえる。そして
振りをするものも結局はそのことによって狂気が憑依する。
 ニジンスキーを持ち出すまでもなく、「ダンスと狂気」という問題
系があることは確かだが、バウシュの場合もまた「狂気を待って初め
て」でないとダンスが可能にならなかったのか?狂気とは主体の病で
ある。とするとバウシュにとってダンスとは主体のことであり、今日、
主体たりうる場はもはや狂気しか残されていないというのか?ダンス
が「型」としてもう死んでいるという認識から出発したもうひとり、
フォーサイスの場合はどうか?彼はあえてダンスという形態にとどま
りつつ、積極的に「ダンス主体」(自律系としての自己=身体)を免
疫不全させ外部(空間)や非自己(他者そして自己の身体)に向けて
切開していく。すると我々には何がみえるか?それはダンサーのパー
ソナルな身体でも、ムーヴメントの軌跡の描くフォルム、イマージュ
でもなく、絶えず変容していく「関係」じたいである。フォーサイス
にとって「関係」こそがダンスのことでなのある。『エイドス:テロ
ス』は身体、音響、映像がコンピュータを介しフィードバックし合う
ことで、作品そのものが「関係=ダンス」と呼べるものになっている。
関係に主体はない。フーコーに倣って言えば自らを「関係性」のため
に役立て消滅させていくフォーサイスのダンスは、ドゥルーズ=ガタリ
のいうように、分子の交通なのだからいかに分裂(多中心)していて
も狂気ではない。とかいってるうちにドゥルーズは自殺しちゃう。や
はりフロイトをなめたらアカンのか。


(この文章は『スタジオボイス』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。また、許可なく複製、転載をしないでください。)



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