恋人たち [ CRITIQUE ]

恋人たちの‥‥
―W・フォーサイス


W・フォーサイスのダンス、とりわけデュエットが想起させる
もの、それは「愛の行為」だ。もちろん、2個(以上)のからだが向き
合うことから始まるダンスについてはいつでもそうした「比喩」が成立
する、ともいえる。しかし、フォーサイスのそれはカーマ・ストーラ
やら四十八手のようなというかAVで追求されるような「ウルトラC」
の連続からは遠い。むしろバレエ(相手を頭上高く抱え上げたり、
キリキリと回転させたり)やモダン・ダンス(逆立ちしたり)のほうが
「そこまでやるか」なものではないだろうか。だからこう言い直すべき
かもしれない、それは恋人たちのあてどない、からだとからだの「まさ
ぐり合い」だ、と。それはあくまで「結合点」を中心とした体位変化で
はなく、一瞬一瞬シフトしていく任意の「接触点」が契機となって
〈差延〉していく彷徨なのだ。そしてここでは、行為主体と操作される
客体(バレエにおけるような、支え手と呼ばれたりもする男性とバレリ
ーナ=女性の支配/従属)の区別はなく、すべての瞬間、動きは二個の
身体のどちらにも帰することが出来ない。たとえば―あるひとつの動き
「相手の腕を引っぱる」は“同時的に”相手によって「相手に向かって
腕から先に身体を倒れこむ」動きとして捉え返される。すると「相手の
腕を引っぱった」動きは、“そのままで”「肘を引いて後ろ向きに倒れ
る」動きになる。―このようないわば「合わせ鏡」の無限連鎖において
は行為の主語(主体)など存在せず、あるのはただ「関係」というほか
ない非=主体としての「ダンス」(二人の「ダンサー」ひとりひとりでも、
ひとつひとつの動き=「振り」でもなく)だけだ。ちょうど、相手のな
かに自己を消滅させてしまいたいという熱望に突き動かされてある二人
の「まさぐり合い」のように。
 これに比べて今日の「ダンス」たとえばヌーヴェル・ダンスに特徴的な
のはむしろ「関係」の不成立、断絶、孤立であり、ダンサーとダンサーが
デュオを組むことだけは周到に避けられ、時として暴力的なリフティング
や体当りといった古典的なダンスの反語的使用がみられるばかりだ。それ
はおそらくあらゆる場で起こりつつある「主体」の消滅(ポスト産業社会
におけるアイデンティティ・クライシスってやつですか)という事態に際
して、いわば自己の砦と考えられてもきた「身体」による「ダンス」とい
う表現のほとんど身体的な「反動」といったものなのだろう(ボディ・
コンシャスとしてのピアッシングやタトゥーのような?)。翻ってフォー
サイスはといえば、さきにデュオ「関係」をみたが、実際はそれも固定的
な(“ステディな”)カップリングでなく次々にチェンジしていく交換可
能なというかモビリティのあるデュオ、さらにはトリオ(三人)プレイや
グループ・プレイであり、その性別はしばしば同性であるというまったく
“オージーな”「関係」なのだ。あるいは“インター・ネットな”
「関係」=「交通」といってもいい。
 フォーサイスが作ったCDーROM“improvisation technologies”は
彼のダンス作品を素材にした、かなり「エデュテイメント」なソフトだ。
4台のキャメラをスイッチングできるパフォーマンスのライヴと、細かく
項目化されたフォーサイスのムーヴメント理論を起点として、
 ^彼自身による解説
 _そのデモンストレーション
 `パフォーマンス上での実例 
 aその箇所のリハーサル・シーン
のどこにでもアクセスできるプログラムが用意されている。
 ここでの彼は繰り返し「想像」せよ、と言っている。点を、線を、面を、
つまり「世界」を。そして想像したものとあらゆるアプローチで「関係」
せよ、と(例:肩の一点に指先を想像し、想像された円柱に螺旋を這わせ
てみること)。するとダンスはソロにおいてさえ、目には見えないが確か
に存在(/偏在/潜在)する恋人との「まさぐり合い」である。では、これ
を見れば誰でも“フォーサイスできる”のだろうか?ある意味ではそうだ
が、実際のところ彼はひとつひとつの「振り」=「型」を示しているわけ
ではない。むしろここで明らかになるのは彼のダンスには彼がデザインし、
 され得るという意味でのフォルムなど存在しないということなのだ。
例えば、[ ALIE/N A(C)TION ]について「自分が振り付けた動きはひとつ
もない」と彼じしん言うように、彼は作者=主体を作品のなかに消滅させる
ことを欲望する。そして「作品」とは、彼の控えめだが適切な示唆をたより
にダンサーが泳いでいく空間=世界の潜在的可能性、つまり「関係」じたい
のことだ。さらにそれは上演毎に“すべてが”変わるように仕組まれた「非
=プログラム的プログラム」によって(非)支配されている。つまり、恋人
たちの掌にあらかじめ決められた道筋(“まず、耳の後ろからうなじ、そし
て肩へ…”)などないということだ。そしてもちろん彼等が愛し合う場所は
偶然という必然に(非)支配された「この世界」なのだ。


(この文章は『スタジオボイス』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。また、許可なく複製、転載をしないでください。)



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