画材屋で売られている人体デッサン用の木製の人形がある。
人間と同じだけ関節があるので、いろいろなポーズをつくれる
というものだ。しかし実際は、これ、なかなか「自然」なポー
ズにならない。 関節ごとに分かれた各パーツの向き(例えば
膝を曲げる時の、腿とスネ)を正確に合わせないとダメなのだ。
ところが、なまじ関節がよく動くものだから、人間には不可能
なポーズが出来てしまう。こいつ、ほっとくとすぐ「フリーク
ス」になっちゃうのだ。
この「作り損ねたポーズ」によく似た違和感─「なんか変。」
─それが、M・カニングハムの作るダンスに対して、前々から
抱いている疑念だ。カニングハム・ダンスの基本は「頭・胴体
・両腕、両脚を同時に、バラバラの方向に、バラバラに動かす」
ということである。これは人形ならぬ人間の身体にとっては
(特に生理的に)かなり無理を強いるものだ。「ダンス」とい
うものが本来、人間の「自然」な衝動を、人体の「自然」な生
理につなげて、エネルギー変換する行為─踊りたいから踊る、
その時カラダは自然に動き出す─だとするならば、「不自然な
ダンス」というレトリック自体、矛盾しているが、とにかくこ
れほど「不自然」なダンスはない。
しかし89歳のカニングハム翁は「それ」を半世紀も追求して
来たわけだ。凡俗の身ゆえ理解を超えるが、その不屈の反骨に
は頭が下がる。そう思ってまた公演に足を運ぶ。やってる、や
ってる。いつもの「変なの」。ボーっと見ながら考えたことは、
鶴見済の言う「曲芸」という言葉(『檻のなかのダンス』)で
あった。片足で立って何分間もジッとしているなんて、テクニ
ックとしては難しいかもしれないが、そんなことして何が楽し
いの?的なダンス。不自然なことばかり「やらされている」。
カニングハムのテクニックはバレエから来ていて、それをね
じ曲げているのだが、バレエ本来の人工性、「不自然」さがむ
きだしになっているともいえる。考えてみれば、バレエは脚を
外側に180度開く基本姿勢からして「不自然」だし、爪先立ち
でくるくる回ったりするわけだから、立派に「曲芸」してる。
もっとも、バレエはその「不自然」さを何とかして「自然」に
見えるように努力する。だから、初心者のヘタな踊りほど、か
えってバレエの本来的な「不自然」さを理解させるかもしれな
い。一方、カニングハムのダンスでは、それなりの訓練を受け
たプロのダンサーなのに、ものすご−くヘタクソにしかみえな
い。いくらテクニックがあっても全然意味がないのだ。デッサ
ン用人形のように、文字どおり「木偶ノ坊」を演じるダンサー
諸氏には、同情を禁じ得ない。
ところが、プログラムの三番目、川久保玲の衣裳による新作
『シナリオ』で驚くべき事態が…。カニングハムのダンスが
「自然」に見えるのだ。もちろん踊りの振り自体は、例によっ
て例の「カニングハム」。何も変っていない。一体どういう事
なのか? 川久保の衣裳はコブが様々なところに付けられたも
ので、人体(のイメージ)を「不自然」にするものだ。そう、
このデザイナーも又「着やすさ」「機能性」「ボディ・コンシ
ャス」といった「服」に求められがちな「自然」に抗し続けて
きた人ではなかったか。この二人は出会うべくして出会ったの
だ。
しかし不思議な「結果」だ。「極めて不自然な衣裳」で「極
めて不自然な動き」をすると、全体として「極めて自然」にな
るということか。なんだかダンサーたちも楽しそうだよ。おそ
らく、いつもは自分が今なぜかくも「不自然」な動きのために
身体を酷使しているのか、その理由がわからないまま苦行のよ
うに舞台に立っているのだろう。ところが、コブ・ドレスは、
言ってみれば「着ぐるみ」だよ。こんなもん着せられちゃ、も
う変な動きするっきゃないだろう。ここではじめて自分が日頃
やっていること「意味もなくヘンな動き」に実感的な根拠が与
えられた、というわけだ。それは「自然(じねん)」(=惰性、
習慣性)に抵抗する「不自然」が「自然(しぜん)」へ到達し
た幸福な一瞬であった。しかし、じゃあいつものあれは一体?
ってことだけど。
(この文章は『太陽』誌に発表したものに、若干の加筆・修正をしたもの
です。許可なく複製、転載をしないでください。)
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