ミライクルクル/ニブロール [ CRITIQUE ]

ダンスの条件
ミライクルクルさもなくばニブロール


     「ダンス批評」というもの始めてからそれなりの年月になる。しかし、
     今ごろになってよーく考えてみたら、おのれの足場すら怪しくなりかね
     ない「ある事実」に気付いて愕然とするのだ。どうやら私は、その間
     次々に登場した日本のコンテンポラリー系グループのあれこれを「カッ
     コいい!」とか「これは新しい!」とか、もっと単純に、ストレートに
     「面白い!」と思ったことはついぞなかった気がする。
     と、のっけから私事で恐縮だが、今年になって相次いで出会った二つの
     ダンスがそれに気付かせてくれた。すごく面白かったのだ。
     
     まず、ミライクルクル(『Pinkin山脈』於スフィアメックス)。今どき
     のガーリー4人のポップ&カジュアル? という予想に反し、舞台に出現
     した身体と風景は、頭から全身びっしり花で覆われた女が、かさぶたを
     剥がすように花をむしっていく導入部から全編、優れてシュルレアリステ
     ィックな肌触りを持っていた。手垢にまみれステレオタイプ化した誰某ふ
     うの、というのではなく本来の意味で。つまりきわめて個的な妄想が膨れ
     上り現実化される幻影のもつ(超)リアルだ。
     グループやタイトルのネーミングからしてそうだが、発想、思考回路、欲
     望の在り処・在りようとその強度において、単なる「不思議ちゃん」の夢
     想の紋切型とは似て非なる、見事に「ワケわかんねーよ!」な魅力がある
     のだった。
     しかし最も特筆すべきことは、そのダンスには「どこかで見たような」表
     現(テクニック、ボキャブラリー)がない、ということだ。(新作『箱入
     りムスメ・箱出しムスメ』−於枇杷系スタジオ−でもやっぱり唖然とさせ
     られるシーンがあった。膝をついた状態のままで前進し舞台を練り歩く。
     ただそれだけのことなのに、その美しいこと! 三人縦に並んでぞろぞろと
     進むさまは、膝から下がワンピースに隠すともなく隠れ、水鳥が泳ぐ姿を
     思わせた。そして、ちょっとだけサーカスの小人少女も。だがこんな単純
     な動作も、舞台の上で「ダンス」として踊られたのは、おそらくこれが初
     めてなのではないか。)今ある日本のコンテンポラリー・ダンスの何が面
     白くないかというと、結局、みんな猿マネ、とまでは言わないにせよ既存
     のダンスのテクニックやボキャブラリーに対して無自覚・無批判である、
     ということに尽きる。ところが、彼女たちのように、オブセッションの命
     ずるままに動けば、他者の言葉(ダンス)が入り込む余地もその必要もな
     いのだ。
 
     そうは言っても、このような表現がめったに成立しないのが今という時、
     我々の立たされているポスト・モダンという状況なのだろう。それは欲
     望の枯渇、ありていに言えば「夢見たい風景がない」ということだ。
     ニブロールの立つのもそうした地点に他ならない。作品タイトル(『東
     京市営第一プール』於セッションハウス&トリイホール)にある「プー
     ル」とは、コンクリートで囲われた決して溺れることのない安全な海=
     トウキョウのことであり、そこで泳ぐ=生きる者のリアルは限りなく希
     薄である。
     ところが、「ダンス」とは本来的には陶酔、高揚のかたちであり、20
     世紀モダン・アートとなってからは疎外や抑圧あるいはトラウマを起点
     とする(危機に立つ)肉体の声であり、いずれにせよそれは「せっぱ詰
     まった」身体のための形式なのだ。ところが、今、我々の立たされてい
     るポスト・モダンという場所、それは「どうやってもせっぱ詰まれない
     場所」ではなかったか。
     もちろんこんなことは今では世間の常識だ。だから「この場所」の表現
     は、「リアル=せっぱ詰まること」がない、という「現実=リアル」を
     こそ切り取らねばならない。にもかかわらず、依然として“ダンス”す
     る、つまりせっぱ詰まったフリをするのが、日本のコンテンポラリー・
     ダンスなのだ。それは、「終わりなき日常」を生きる覚悟がない者が無
     理やりにリアルを虚構する(オウムや326!)ようなもの、さもなけ
     れば、状況認識はあるのだが、自分の手持ちのツール(ダンス)が完全
     にこの状況下では使用期限切れであることに気付かないバカ者というこ
     とか。
     こうした意味においてニブロールは決定的に正しく、かつ新しい。ニブ
     ロールはまず、当り前のように「どこかで見たような」ものには目もく
     れず、さらにその上、「ダンス」のテクニック、ボキャブラリーを「偽
     のリアル」としてあっさりと廃棄処分にするのだ。カンタンじゃん!何
     で今までそれをする者がいなかったのかね。
     だがそれは何もしない怠惰な身体の提示(昔デュシャンやケージが使っ
     た手みたいなの)ではない。そこにはフツーの身体(というリアル)、
     フツーの動き(というリアル)があるだけだが、それはおそろしくめま
     ぐるしく動き回り、そこかしこに「出来事」(というリアル)を生産し
     ていくハイ・デンシティな「運動」である。その場所では、複数個の身
     体が、通りががり・出会い・すれ違い・関係し・ずれ行き・離れる、つ
     まり出来事の「組織化と消滅」とが繰り返される。ただし、心理的な一
     切を伴わず、「物語」を生まず、どこまでも意味のない、時間の埋め草
     として。
     こうしてダンスするフリをやめた身体のダンスは、表現=作為から遠く
     離れた子供の遊びのようなものとなり、(それはもはやダンスと呼ばれ
     ない?いや、今やそれこそをダンスと呼ばねばならない。)ちょうど、
     一回転してミライクルクルの隣に並ぶのだった。



    (この文章は『バレエ』誌2000年7月号に掲載された原稿に、加筆・修正し
     たものです。著者の許可なく複製、転載をしないでください。)



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