クインテット [ CRITIQUE ]

クインッテット
―フォーサイス&フランクフルト・バレエ


その舞台―フォーサイスの最新作『クインッテット』(93)―
 が始まって間もなく、驚くべきことに、異様な「生々しさ」の
 感覚に襲われ、次第に強くなっていくのだった。それは、ま、
 クサイ言い回しですが、他者との、世界との、人生との
 「関係性」にまつわる痛み/悦びの感覚だ。瞬間、自分がピナ・
 バウシュの舞台に来てしまったという錯覚をいだく。だが何故?
 言うまでもなくフォーサイスは、80年代つまり様々な「物語」
 という意匠が散乱したポスト・モダン全盛の頃から一貫して、
 「ダンス」というものを徹頭徹尾「形体と運動のシステム」と
 みなし、そのシステムの容量と操作を過激に加速させていき、
 そしてそのことによって逆にシステムの自己矛盾を突き
 「機能不全」を呼びよせるというデリダ的作業を続けてきた
 作家であり、男女五人のダンサーが様々な組み合わせでペアを
 組み、ひとしきり踊っては離れていくことに終始する『クイン
 ッテット』においてもまた、五個の身体によるいわば“五声の
 (対位法的な)”「器楽曲」としてみることができるような、
 まさに「五個の身体の様々な接触がつくる形体と運動」以外の
 なにものでもない。確かに、ある種「心理的読み」を誘う環境
 はある。ホームレスの呟くような歌声と弦楽アンサンブルに
 よって延々と繰り返される「イエスの血は私を見捨てない」と
 いうリフレイン。(ギャビン・ブライヤーズ「イエスの血は
 決して私を見捨てたことはない」)ステージの床に(まるで
 『ハムレット』の墓穴のように)ポッカリと開けられた人の
 背丈ほどの長方形の「穴」。その端に短く立った道路用の
 「サイド・ミラー」。ホリゾントには舞台上のプロジェクター
 から投影される雲の浮かんだ「青空」。しかしそれらを「適
 切な舞台効果」としてともなうがごときそぶりで「ドラマ」が
 進行することなどなく、さらに、踊られる「動き」じたいは
 断じて、現実動作やそのミメーシス、抽象ないしデフォルメさ
 れたもの(それが「いわゆるダンス」というものだが、このこ
 とはピナ・バウシュの「タンツ・テアター=作品」でも、個々
 の身体レヴェルにおいては“とりわけ”妥当するはずだ)では
 ない。
  にもかかわらず、やはりなおそこには「リアル」を招来して
 しまうようなものがある。怪訝だ。
 それは言ってみれば「抽象的なもののリアル」というような
 ものだ。だが、間違っても、かつての「暗黒舞踏」における
 ような即物的な身体そのもののリアル(「命がけで突っ立った
 死体」とかいうもの)あるいは、シンディ・シャーマンの死体
 シリーズや、最近の若手アートでは臓物や肉を使ったインスタ
 レーションなどの「死体派リアル」とは関係ないことは言うま
 でもない。
  ではやはり「動き」じたいのシステムに、つまりフォーサイ
 スの追求してきた「バレエのデコンストラクシオン」の
(副)産物である彼の新たな「ダンス言語」になにかがあるのだ
 ろうか?
  さしあたって、フォーサイスの「身体/運動」に対する驚く
 べき精査と操作がどれ程までダンスの「身体/運動」を
 “サイバーに”進化させたのかは振り返って、みてみるべき
 かもしれない。
 
  まず『アーティファクト』(84)の時期にはバレエの言語の
 アルファベット=表音文字性を利用してアナグラム、ネオロ
 ジーを展開する。あるいはバレエという「説話論的磁場」すな
 わち「モダニズム、抽象主義、フォーマリズム」をオートノ
 ミーとして徹底的に引き受け、自己矛盾をきたす瞬間を捉える
 あらゆる可能性をフル・スピードで演算していた。(ここで
 「脱=構築派」(Ph・ジョンソン)建築、アイゼンマンのとり
 わけ住宅0号〜10号での作業を思い出すべきかも知れない。)
  次いで身体の「運動域」の拡張の時期。身体運動の古典
 (主義)的オーダーである「バランス」=「重心」は、建築
 の古典(主義)的オーダーと同様にそっくりモダニズムに化け
 ていたが、ルドルフ・ラバンの二十面体モデルによるシステム
 を利用し多重心・多中心化を目論む。非ユークリッド空間を
 シミュレートし、具体的にはきわめてトリッキーにではあるが、
 あらゆる動きの際に軸線をずらし、運動の方向線を断ち切り
 別の方向線をぶつけ、見る者の網膜上に定着されない
 「ブレ続ける像」を与えるようにした。ここにおいて操作され
 る素材はなお「バレエ」=「西欧的身体運動のスタンダード」で
 ありきわめて力学的な諸条件に依ったものである。
  しかしその作業の頂点ともいうべき『肢体の原理』(90)に
 到って顕著なのは軸線、運動線、フォルムともに「正弦波」、
 立体として言えば「螺旋」でありそれは、あらゆる地点から
 波状に伝播する「動き」つまりあらゆる点、瞬間が始まりで
 ありピークであり終止=完成点であるような「生成」としての
「動き」なのだ。さらに、『失われた委曲』(91)第二部では、
 完全に「バレエ」から解き放たれたかにみえる無垢の身体が
「機能不全の身体」=身障者の身体として否定形の輝きで悦びに
 打ち震え、わなないていた。それは例えばJ・Bのカウント
 を取る足の「ガクガク」のように、突っ張らかりであり同時に
 しなやかなバネのように弾む、あの奇妙な「弛緩と緊張の同居」
 としての「グルーヴ」に満ちていた。ところが驚くべきことに
 これらのきわめてサイバーな「動き」ですら、もはやなんの
 つながりも失われてしまったとはいえ「バレエ」を契機として
 いる!! そして『クインッテット』も「動き」じたいとしては
 この延長にある。
  さてここから、問題の「リアル」だ。結論から言ってしまうと、
 おそらく「動き」じたいではなくその動きの「働き方」に
 「リアル」をみてとってしまうある種の質があるのではないだろ
 うか?今まで、触れないできたのだが、フォーサイスはかなり
 以前から、作品に「即興」を介在させてきた。最初はあるシー
 クエンスに幾つかのヴァリアントを用意するといったものだっ
 たが、それがシークエンスを構成するフラグメントの組み合わ
 せの選択のレヴェルを経て、今では「フォーサイス言語」を
 自在に操ることが出来るようになったダンサー達によって殆ど
 「即興」で踊られたものが「作品」と呼ばれるという段階に
 達している。しかもその「作品」はそうと知らずにいれば極めて
 厳密に設計された精緻な「振付け」と見なされかねないほどだ。
 「即興」というコンセプトが「リアル」を可能にする、などと
 60年代的な言い草をするつもりはない。そうではなくて、
 (か程高度な)動きが“複数で”形成されていること。それを
 可能にする「成文法」をフォーサイスとダンサー達が「開発」
 したことが重要なのだ(完璧に作り上げられたダンスにおいて
 さえ「デュオ」程難しいものはない)
  どんな類にせよ「リアル」が発生する場とは「交通」の場に
 違いあるまい。「動きという個体/個体の動き」が接触=交通
 する場、それは「身体」というより「複数としての身体」であ
 るところの「関係性」ということだ。その意味では、あらゆる
 ダンスが二人で踊られるとき、いや一人であろうとすでにそう
 なのだが、どこでも成立し得るはずなのだ。ピナをみればわかる
 ように、なにも特別な身体、バレエやブトー(フリークス的な)
 の「特権的肉体」ないし特殊な(制度的といってもいい)言語が
 必要というのではない。むしろそのようなツリー状にコード化
 された凡庸な「ダンス」ではしばしば、それが何人で踊られよ
 うが「単数としての身体」、「単数としての運動」として空間的、
 静的な「図」として作られ、認識される。ありていに言えば、
 そこでは「出会い」は起こらないようになっている。
 このようなレヴェルではそれが「即興」か「再現」かなどほとんど
 差異ですらない。
  ではフォーサイスの、とりわけ『クインッテット』における
 「デュオ」=「関係」はどのように成立するか?パートナーに
 向かって「問い」のように投げかけられた「動き」(例えば、
 崩れるように倒れ掛かる)は相手の「動き」を生み(受け止
 め/押し戻し)、その「動き」に動かされる「動き」となる
 (方向転換され/掬い上げられ/移動される)。
  ここではすべての「動き」が相互介入し合うことによって
 同時的に「動き」であり「動きの始まり」であり「動きの帰結」
 となり、さらに「動き」とは二個の身体/運動の総体としての
 「単数」でも、それを分割した二個の「単数」の身体/運動でも
 なく「複数」としての「関係」となる。それは、こしらえては
 波に洗われ、またつくり、波が洗う「砂の城」の遊びのような
 もの、つまり不断の「生成」のフォルムだ。あるいまた、あて
 どない「まさぐりあい」(恋人達の身体と身体、と等価の)と
 いってもいい。そしてそれはあまりにはかない瞬間のつらなり
 としてこの世界のあらゆる関係の「理不尽さ」(良きにつけ
 悪しきにつけ)と照応するだろう。繰り返して強調したいのは
 これが、ピナに比すべき強度の「リアル」を露呈させるのに、
 なんら感情の表象としての「身振り」(ピナのそれがいかに
 切断され浮遊したものだとしても)をともなわないというこ
 とだ。フォーサースは言う。
 「出来事はおのずと自らを変容させる。だから演技も、
 感情も必要ない。ただ出来事に身を委ねること。」

(付記 字数の都合引用による言及は出来なかったが、 
 この原稿を書くにあたって、浅田彰氏によるフォーサイスへの
 インタヴュー(インター・コミュニケーションNo.11)、
 中沢新一「はじまりのレーニン 」(岩波書店)、
 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」(増田一夫訳 
 哲学書房に多く示唆された。感謝。)

(この文章は『インターコミュニケーション』誌No.12 NTT出版 に発表した
ものに若干、手を加えたものです。また、許可なく複製、転載をしないでください。)



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