[ CRITIQUE ]

リアルの条件6──「基礎の基礎」その1

「♪メガネは顔の一部です、だぁ? 嘘つけっ!」という話


 ここ半年のあいだに急激に視力が落ちたりして、オヤジ化の進行を感じる今日この頃41才。老眼じゃなかったけど。で、生まれてはじめてメガネを作った。店頭でとっかえひっかえかけてみるのだが、ことごとく「似合わない」。あきらめて、とりあえず最も違和感の少ないフレームを選んだ。数日後、床屋に行き髪を短く刈った。するとどうだ、買ったメガネ、笑っちゃうほど似合わなくなったよ! 私は憤慨しつつ考えた。フレームというのは、どういうふうにデザインされているんだろうか。誰かの顔(デザイナー本人?メガネ専門のモデル?のっぺらぼうのマネキン?)を想定しているには違いないが、それは絶対に私の顔ではないよ!
 さて、ダンスの話をするのであった。今月のベスト・ヒットは日玉浩史“Feed me, baby ! ”。所詮ギャルにいいようにされるしかない「マチョ野郎」の悲哀/滑稽といった線を狙った作品。はっきり言って好きなテイスト。作品の方法論、方向性も支持できる。日本人には珍しくバタくさい(いわゆる「ほとんどガイジン」な)パーソナリティゆえ、マチョ日玉(だけどヘナチョコ!)のキャラ立ちはかなりイイ。が、女性ダンサー二人がヒールで日玉の背中を踏んだり、ビールをジャバジャバとぶっかけたりするのだが、これがいかんせん「似合わない」。「取って付けたような」というヤツだ。育ちは隠せないというか、あまりにもお上品で、必要とされているはずのキャラ「カワイコちゃんだけどビッチ」感が出てこない。たしかに、この手のアクションが自然と「様になる」ような女性(つまりは「日常的にやり慣れている」ってことか?)は、ダンサーであるなしにかかわらず日本人では滅多にいない、ということはわかる。こういう場合、彼女たちに「似合う振り」を付けるか、振付に「似合うダンサー」を起用するかのいずれかだが、実はこの「マチョの批判的研究」路線、2月に上演された『AMGOD』からの延長なのだ。ということは、おおもとの設定じたいが、この2人のダンサーの身体からは発想されていないわけだ。結局のところ、この作品はこういうテイストが「似合う」ダンサー日玉的にはOKだが、振付家として女の子2人のことをどう考えているのだろうか、と。(前回は日玉のローザス時代の仲間の「ガイジン」ダンサー(♂)2人と組んだのが成功の大きな要因だったのだろう。)あるいは、こうも言える。「戯曲」「楽譜」と同じ意味での「振付」がイコール作品と考えるならば、この『Feed me,baby !』、大いに評価したいのだが、作品とはあくまで「舞台」のことだと思うのだ。
 振付家にとってダンサーの「身体」は他者(の身体)であり、ダンサーにとって「振付」は他者の身体(の痕跡)だ。「♪ネガネは顔の一部です」と言われても、メガネ初心者には納得いかないのと同じように、本来は自分の身体ではない。だから、作品というか「舞台」は、何らかの方法で、両者の折り合いをつけなければ成立しない。「ダンスとはコミュニケーションである」というのはまさにこの意味においてだ。作品とは「出会い」あるいは「出会い損ね」。これ、ごく「当たり前」なことを何をいまさら、って感じに聞こえるかもしれないが、日常的に、ダンサーも振付家も気心の知れた「仲間」同士で作品をつくったり、ソロ・ダンサーとして自分で自分の作品を踊ることが多いと、案外忘れてしまいがちな気がするのだ。
 別にPC的なことを言いたいわけでは決してないが、「振付」という「システム」の抱えざるを得ない抑圧的な側面と「マチズム」は無関係ではあるまい。日玉の場合はたしかに、箸の上げ下ろしまで細かく指定するような強権的な「振付」では全然ないが、それだけにかえって、ダンサーにとっては、その「似合わなさ」を踊り込むことによっては解消できないということになるのではないか。これは、戦後リベラルの父親の自由放任が単なる無責任であった、というのと同じ意味でやはりマチョでないかい?オヤジとしては、ここはひとつギャルと向き合うしかあるまい、そうしてはじめて本当の意味で自らのマチョ性を相対化できるのではないでしょうか(ぬぁーにをエラソーに!ですが)。
 ところで、今日も人に「メガネかけて生まれてきたヤツはいない」などと慰められた。でも、言いながら笑ってるからな、ソイツ。


    
    (この文章は『バレエ』誌2001年9月号に発表したものに、若干の加筆・修正をしたもの
     です。許可なく複製、転載をしないでください。)
 



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