噂には聞いていたロマンチカのストリップティーズを観た。
と、いきなり書いてみたが、説明がいるだろう。ロマンチカは
美大出身の女の子たちの「劇団」で、過去10年、「演劇界」
において確実に評価と支持を獲得してきたのだが、じつは「劇
団=演劇の集団」と言うにはきわめて特異な表現を志向するユ
ニットであった。その「芝居」の身上は、と言えば、まず「美
術(セット)」ありき。その中でテキストは棒読みされ、演技
は極端に誇張/省略されることで、女優の存在はオブジェ化さ
れ、さらに全体として「活人画」のような二次元性に溶け去っ
ていく、というものであった。こんな過激なものがよく演劇と
して認知されていたものだ、やはりさまざまな「誤読」があっ
たのだろう。ここ二年ほど活動を休止していたと思ったら、い
きなりコレだ。「芝居」じゃないよ、「ストリップ」なんだか
ら。
会場は三つのテーブル席のほかは立ち見で、にぎわうパブの
よう。突然、照明と音楽が変ると同時に女の子がテーブルに上
がり、そこがステージであったことに気付く。早めに来てテー
ブル席を確保できてよかったなどと思っていた客は、いきなり
「カブリツキ」野郎にさせられてしまったのだ。もっとも、そ
こは銀座の目抜き通りに面したガラス張りのスペース、外は帰
宅途中のサラリーマンなどが立ち止まって黒山、我々全員が
「ストリップ客」として覗かれる身ではあった。
ボンド・ガール・ライクなコスチューム&メイクとラウンジ
系ミュージックに彩られ、このショウは、例えばドラグ・クイ
ーン・ショウ(露悪的、過剰にデコラティブなキャンプ趣味)
の対極にあるような、きわめて「古典的ストリップティーズ」
としてデザインされていた。
そもそも「古典的ストリップ」とは、“男性による男性のた
めの”ものだ。男性であり職人である振付師は、「媚態」とい
うもの、女性にとっては無意識の「しな」、表情を知り尽くし
ており、きわめて適格な媚態の表現が女の身体に振り付けられ
る。いっぽう、“ゲイのゲイによるゲイのための”ショウであ
るドラグ・クイ−ンのストリップは、もともと古典的ストリッ
プの「パロディ」であり、そのため表現(女性的セックス・ア
ピール)は極端に誇張され、際限なく過剰に走る。考えてみれ
ば、ゲイ(的)であるかにかかわらずこの志向/嗜好が今日の
「表現」のいたるところに蔓延している。
ところがこのロマンチカのストリップは、古典的ストリップ
を意図的、意識的に模倣(パロディには非ず)する。すると誇
張は極端に減じられ、きわめて適切な媚態の表現、「しな」、
表情が回帰してくる。その結果、一見、非常に「反動的」な
「スノビスム」(ピチカート」的なアレ)に酷似してしまうと
しても、この表現は決定的に新しい。それはこれが“女の子の
女の子による女の子のための”の表現だからだ。
古典的ストリップでは、「媚態」は男性によって外からあて
がわれたものであり、ストリッパーは男客の視線(欲望)を意
識することによってかろうじて主体の地位を付与された(踊り
子さんとしての誇り)。だが、ここでは「彼女たち」は主体的
選択として「媚態」するのであり、男客の視線(欲望)を自己
の中に取り込んでしまい、「対象であり同時に主体」の地位を
獲得するのだ。 ドラグ・クイーンの(もはやルーティンな)
「性の撹乱」も、ピチカート的な「脱=性」化も、実際、女の
子ではない他者が捏造したイメージ、いわば「フィギュアとし
ての女の子」によってはじめて可能になったものに過ぎない。
そのかすめ取られた身体の所有者自身が、フェミニズムの言説
なら「社会(男性)に規定されたジェンダー表象の最たるもの」
と言うであろうような「媚態」を選び取ったのだ。誰も文句は
言えない。
もちろん、それもまた「女性が女装しているようなもの」と
みなすこともできるかもしれないが、イマジナリーな場所に終
始するしかない「男性の女装」と違って、おそらくそこには
「身体(としての自己)の再発見」があるだろう。いきなりな
ことを言うが、これはある意味で「リサイクル」でもある。
「限りある自己の身体」への回帰=recycle=再利用である、と。
(この文章は『早稲田文学』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。
許可なく複製、転載をしないでください。)
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