フォーサイスの舞台には「動き」はあるが「踊り」はなかった、
という田中泯のコメント(朝日新聞)に対し、浅田彰がすこぶる
痛快な批判を書いている。浅田は、田中の考えるような「踊り」
とは、田中自身が言うように「ダンサーの身体に自分が入ってい
く」ことが出来るような、つまり感情移入できるようなロマンテ
ィックな同一化の対象のことであり、フォーサイスの舞台にその
ような意味でのダンスがあるわけがない、と切り捨てるのであっ
た(『批評空間』−22)。
ダンスとは、一義的には「徹頭徹尾、運動」である他ない。情
動=エモーションは運動=モーションによって起るのだから。し
かし実際は、そういう前提はこの国のシーンにおいては通用しな
いようだ。人はダンスに何を見ているのだろうか。例えば、この
『アブソルート・ゼロ』について書かれた評(初演時および今回
のもの)をいくつか。
《これほどの狂いのなさ、これほどのコントロールがどうして
可能なのだろうか。もはやテクニックうんぬんのレベルではない。》
《これほどの速度、これほどの呼吸で踊った人間は見たことがない。
舞踊の原子がはじけとんでいるとでもいうほかない。》
《成熟したものだけが示す、恍惚の一瞬が、ここにはある。歴史的
な時間の永遠を感じざるをえない。》等々。
たしかに彼等は自分がみたものの「運動」を記述しているように
見える。しかし、これらの文章を読んだ者はどう考えても、神の舞
踊、ニジンスキーの踊る姿、さもなくばサイボーグ・ダンサーでも
イメージするほかない。それくらいすごい勅使川原とは一体?と思
うだろう。ところが、私は同じ舞台(昨年と今回)を見ているにも
かかわらず、とてもじゃないが、そんなふうには見えなかった。動
きは速いどころか鈍かった。私の常套句で言えば「眼にも止まらぬ
速さのフリ」「超スローモーションのフリ」をしているだけだ。
しかし、どうしてこうも違って見えるのか?自分の眼の精度が人
より高かったり、低かったりするということではないだろう。思う
に前出の評者たちは、運動ではなく何かイデエ(アプリオリな)を
見ているのではないか。恋する者の眼は曇る。ホフマンのオランピ
アだ。そうとしか思えない。何たるロマンティスト。この国ではダ
ンスとはロマンティックなフェティッシュなのだ。
残念ながら朴念仁たる私の眼に映った『アブソルート・ゼロ』、
そこには「踊り」(振り=フリ)はあるが「動き」(運動)はなか
った。そしてその理由は、これまたムードの無い、即物的なことだ
が、勅使川原の身体じたいが要ダイエット(腹まわりの贅肉が)、
要ストレッチ(腕が縮んでいる)、あと要スタミナ(ちょっと激し
く動いただけでもう呼吸が)、ということにつきる。だから、私は
「ああ!あれ程の天才ダンサーだったのに、もうダメなのか」など
と嘆く必要もまた全然感じていないのである。
(この文章は『バレエ』誌に発表したものに、若干の加筆・修正をしたもの
です。許可なく複製、転載をしないでください。)
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