たしかにこれは、映像と身体が共働する「いわゆるマルチ・メデ
ィア・パフォーマンス」には違いない。あるいは、これはたしかに、
実像と影像が交錯する「いわゆるヴァーチャル・リアル・アート」
には違いない。しかし、どうもそんなふうに呼ぶのを躊躇してしま
う質感の舞台ではある。だってコレ、たとえばICCあたりでやり
そうな「テクノ」なやつとはなんの関係もないのだ。ハイテクじゃ
なくてローテク、サイエンティフィックというより空想科学的、コ
ンセプチャル・アートじゃなくて見世物小屋。ドゥクフレ本人もこ
の作品を「ファンタスマゴリア」と呼んで欲しいと言っている。
19世紀に流行した「ファンタスマゴリア」は、光学的な錯視を利
用したトリックによるマジック・ショーで、この『 SHAZAM ! 』
という舞台もまさに特殊効果「見世物」というにふさわしい。もち
ろん本当にローテクというわけではない。というか、その使われ方
がローテクな肌触りを醸し出すのだ。ちょうど、これみよがしに
SFXを見せびらかすハリウッド製SF映画に対するフランスのそ
れ−『ロスト・チルドレン』『ティコ・ムーン』etc.−の持つレト
ロ・フューチャーな質感のようなものだ。
スクリーンに映されたビデオ映像のなかのダンサーと舞台上の生
身のダンサーのデュエット。しばらく見ていると、ある瞬間どちら
がホンモノなのかわからなくなる。あるいは、等身大の三面鏡の前
で踊るダンサー。実はこの鏡、ハーフミラーなのだ。つまり、ダン
サー本体とその鏡像、鏡像の鏡像がまずあり、その上に後ろで同じ
衣裳をきて同じ動きをするダンサーがいて、更にそのダンサーの鏡
像、その鏡像の鏡像が…。おまけに、鏡にはスリットがあり、前後
のダンサーが入れ替わりさえするのだ。もう何が何だか。隣り合せ
の錯視効果によって、映像は生身に、そして生身は映像に引っぱら
れ、どちらも「ホログラム」のように、つまり「二次元半」になっ
てしまうのだ。
また、あるシーンでは、いくつかの額縁状のフレームが、舞台を
斜めに横切るようにして並べられている。ダンサーたちはフレーム
の中でそれぞれ異なった動きのパターンを繰り返す。それを前から
すべてのフレームが重なるように位置をあわせ、ビデオで撮影する。
すると、スクリーンには、例えば「ある人物が殴る。殴られた者は
吹っ飛ぶ」という映像が映し出されるが、それは実際には、一番手
前と一番奥のダンサーの無関係な二つの動作からつくられた「だま
し絵」なのだ。これは「遠近法」の逆説である。斜めから見ること
(斜投影法)によって「遠近=奥行」が出るということは、真正面
から見れば「奥行」は消失するのだ。
「ヴァーチャル・リアリティ」は普通、現実らしさ(=奥行・立
体感)を捏造しようとする。ところが、ドゥクフレの場合、現実の
現実感を歪ませたり、希薄にするために利用するのだ。彼はどうも、
世界を二次元化したいという欲望、さらには自分が何かの「絵」の
一部になってしまいたい、とか二次元の「単なる視覚の対象=映像」
になり切ってしまいたい、とか変なマゾ的な願望があるんじゃない
か。ま、単に「子供」(幼児性)ということかも知れないけど。
我々が、目によって世界を把握する限り、目の前にある対象が現実
物であれ映像であれ、視覚の上では等しく「映像」と見なし得る。
これは、あまたの哲学者を悩ませて来た「近代の主体」の大きな問
題ではある。しかし、組体操による前人未到の「人間ピラミッド」
(中国雑技団的なアレです)!?と思いきや、単に床に寝てるのを上
から撮影しただけ、といった人をくったおバカな(もちろん仕掛け
はバレバレ)映像をしれっと作っちゃうようなフィリップ君にとっ
ては、「もっけの幸い」というわけだ。
ところでこれは世間的には一応「ダンス」の公演、ドゥクフレは
「振付家」ということになっている。だけど、今見たような彼の性
格から考えれば当然だと思うが、「いわゆるダンス」的なもの、つ
まり「汗くささ」というか、切れば血の出る肉体の「リアル」を期
待するのはマチガイ。でも一ケ所、すぐれてダンス的なシーンがあ
った。これは「音楽に合わせてまばたきする瞳のダンス」と言いた
いような、キュートなダンス。ただしこれもまた、リアルタイムで
ビデオで撮影されスクリーンに拡大される瞳の「映像」なのだった。
(この文章は『早稲田文学』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。
許可なく複製、転載をしないでください。)
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