雲と水面

人工内耳を考えている
お母さんへ
(1)
 このページは、子どもさんが高度難聴と分かったときから、人工内耳を選択・決断するまでの苦悩。そして、人工内耳の子どもさんのその日その日をありのままに綴った記録です。
 子どもさんの人工内耳をお考えのお母さんたちへ送る真摯なメッセージです。ぜひ、お読みください。
「人工内耳を考えているお母さんへ」というテーマで、「人工内耳愛すランド東京」の管理者から寄稿を依頼されました。
 しかし、どう考えてみても、お母さん達にアドバイスできるような話は浮かんできません。あくまでも私達のたどってきたあしあとをお話するだけだと思いました。
 そして、この機会に、思い切って、私達の長男、大輔(仮名)の誕生から今までを振り返ってみようと思いました。
くじけることも大事
 
1.難聴がわかったとき(H9.6、大輔10ヵ月)

 大輔は、H8.8、元気に誕生しました。妊娠中も何の異常もなく、出産時も問題ありませんでした。育児にいくらかゆとりのできたH9.6初旬、レンタルビデオ店で何気なく借りてきた『陽のあたる教室』という洋画を主人と2人で見ていました。とある音楽教師の人となりを描いた感動的な作品でした。彼の息子が生まれつきの難聴、2人の関わりが映画の中でスパイスになっていました。その映画を見終わって、主人も私もふと、不安になりました。”大輔って、音にあまり反応しないような気がするんだけど、聴こえてるのかなぁ”。・・・思ってもいなかった事でした。
 
 7月、病院で検査の結果、先天性高度難聴100dbと診断されました。トランペットを耳元で鳴らしても、聞えるかどうか、という聴力です。すぐに補聴器をつけ、難聴児のための通所施設へ通う事になりました。

2.実は難聴を受け入れられてなかった。(H9.12、大輔1才4ヵ月)

 私は学生時代、ボランティアを通じて、ハンディのある人達と関わる機会に恵まれ、彼らの積極的な生き方に心を動かされていたこともあり、大輔のハンディに対しても、ある程度、抵抗なく受け入れたつもりでいました。最善を尽くすべく、難聴に関する本を読みあさり、あちこちの医療機関を調べ、よいお医者様がいると聞けば東京までも足を運び、教育機関を見学し、その頃たまたま知った人工内耳についての資料も集め、涙を流す間もなく、毎日夢中でした。それが、半年ほどたった頃、緊張の糸が緩んだのか、涙ばかりがあふれてきたのです。

 元気なフリをしていたけれど、今思えば、大輔のハンディが分かってからずーっと、大輔の将来に不安を覚え、どのように接すれば効果的に少しでも多くの音を届けられるのか悩み、思うように言葉かけや音遊びができていない自分にいらだち、近所の健聴のお友達の言葉の発達をうらやみ、何気ない人の言葉に傷つき・・・。ずっとそんな状態だったのです。そういう状況を自分なりに見つめてみて気付いたことは、本当の問題は、大輔の耳が聴こえない、ということにあるのではなく、私の心の中にある、ということでした。自分の弱さをどう克服するか、自分がどう変わるのか、それがまず問題なのでした。

3.くじけることも大事

 重い気持ちを引きずって、その年末年始は実家に帰っていました。いつもより時間があったので、実家にあった、相田みつをさんの本を何冊か読みました。そのなかで見つけた言葉、『幸せはいつも自分の心が決める』これが私の心に強く響きました。私はいつも、〜がない、〜ができない、〜しかない、〜してくれない、と、”ない”の数ばかり数えていました。〜がある、〜ができる、と、”ある”の数を数える考え方に変わることができたら、案外幸せは近くにあるのではないか。そう思えてきたのです。時を同じくして、私がSOSを出した友人達から、次々と返事が送られてきました。心のこもったお便りに、とても勇気づけられました。そしてある文を読んだ時、私はきちんと前を向くことができるようになりました。言葉の届いていない大輔に、私の愛情が伝わっているのか、何よりも確信がもてなかった私に、大きな自信を持たせてくれたメッセージでした。
「手紙を通してですら、大輔くんを想う気持ちが痛いほど伝わってくるよ。愛情がどんな風に伝わるのか、知ってるでしょう?真心は必ず伝わるから、この点に関しては絶対心配いらない。」学生時代から私が信頼している仲間の言葉でした。
 
 私は、母親として、どのように大輔を導いていけばいいのか、どのように育てなければならないのかに心を砕いていました。でも本当は、大輔の前を歩くのではなく、並んで歩き、時には大輔に手を引っ張ってもらう時があっても良いような気がしてきました。一緒に成長すればいいや、と思うと少し気が楽になりました。聴こえにくくても、大輔がしっかりと自分の道を歩んでいけるように、また家族みんなが楽しく明るく積極的な人生を送れるように・・・、そんな力を自分たちの中に持ちたいと思いました。
 
 この頃読んだ、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の中に、こんな文章がありました。「相手に自分の気持ちをわかってもらおうとする時に必要なことは、分かってもらおうとする努力と、勇気と、誠のこころだ。」誠のこころがにじみ出て、相手に通じるんだ、というものでした。大輔の場合、よりクリアな発音に近づけるための訓練は不可欠でしょう。でも言葉と同じか、それ以上に大切なのは心・・・。大輔にも努力・勇気・誠のこころを持ち合わせて欲しいし、私もそうありたいと思いました。

 「くじけることも大事、人間は自分の弱さを確認しながら強くなるんだよ。」と言ってくれた友人がいました。これから先、何度も何度もつまずくだろうけど、1つ1つ乗り越えて行くうちに少しずつ強くなっていくんだろうな、と思いました。「焦らず、力まず、あきらめず」大きな山を1つ越えたときの心境でした。

 ☆テストジャンパー、高橋選手☆
 ちょうど、その年、長野オリンピックでした。スキージャンプの代表選考を兼ねたSTV杯ジャンプ大会で、K点を大きく越える130mの大ジャンプをし、五輪代表の岡部選手らを抑えて優勝した23才の聴覚障害をもつ青年がいました。高橋竜二さんです。その成績が認められ、五輪の競技前にとんで、風やスキーのすべり具合を確認するテストジャンパーの一人に抜てきされました。コーチの指導は唇で読み、練習を重ねてきたそうです。ジャンプというと、一見聴力障害には関係ないように思えるけれど、他の選手のように風をきる音で、平衡感覚を整えることができません。しかし、彼は「空中で風を全身で受け止める感覚は、誰にも負けない」と話していました。TVで彼のドキュメンタリーを見て、小さい時の高橋選手の映像が、大輔とダブりました。大輔はどこに向かってとんでいくのかなぁ、と夢をふくらませたものでした。

 ☆手話講座に行ってみました☆
 町主催の、手話講座(計5回)にその頃行ってみました。大輔が手話を使う事になるのかどうか、分かりませんでしたが、大輔の友達のお母さんに耳の不自由な方がいらっしゃって、そのお母さんと少しでも上手くコミュニケーションをとりたいという思いで通っていました。
 
 手話というのは、手だけではなく、顔の表情、体全体での表現方法で、見ていて優
しい感じを受ける手話、きつーい手話、色々です。でも、手話で話をしている人達は、伝えよう、という気持ちがあふれていて、また必ず向き合って会話しているので、とてもあたたかい印象を受けます。私は最近、主人と見つめ合って話をしているだろうか。こどもとの関わりでも一緒。何をするにも手をとめて、そっちを向いて、伝えることに神経を集中しなくちゃ話しになりません。(台所してたりすると面倒な時も多いんだけど・・・。)だけど、これは聞こえていても、いなくても、関係なく大切なことだと思いました。手話は美しい言語だと思っています。

4.第2子の妊娠(H10.3、大輔1才7ヶ月)

 H10.3月末、主人の転勤で、引越しをするべく、荷物を片付けている最中でした。どうやら、妊娠しているらしい、と気付きました。大輔の難聴は原因がわかりません。それだけに、2人目も難聴だったらどうしよう、いや、ほかのハンディを持っていたりしたら・・・。大輔の聴覚障害が分かった当初は、第2子出産はしばらく考えられない状態でした。でもハンディに関係なく、弟妹のいる暮らしをさせてやりたいな、と思った矢先のことでした。それから11月の出産前日まで、お腹の赤ちゃんを抱えての、大輔との聾学校への通学が始まりました。

5.はと時計(H10.5、大輔1才9ヶ月)

 難聴がわかった年の1才の誕生日、おじいちゃん達からはと時計が届きました。健聴のお友達は時計が時を告げるごとに、「ぽっぽだ!」と喜んでいたのに、大輔は全く反応しませんでした。それが、補聴器をつけて10ヵ月ほどたったある日、はっと、振り向いて、はと時計を指差すようになったのです。音に対しての初めての反応でした。大輔の耳に届くまで、10ヵ月を要しましたが、この出来事によって、焦らず、あきらめず、繰り返し関わり続けていけば、いつか必ず良い結果が生まれると信じられるようになりました。

6.決めつけ(H10.9、大輔2才1ヶ月)

 季節の移り変わりと共に、おなかの赤ちゃんも順調に成長していました。超音波での測定値を見る限りでは、頭の大きさが実際の週数よりも大きく、逆に足の長さが平均以下。あれっ? 

 ある日、”親子で楽しむパン作り”という1泊2日の企画に参加しました。おいも掘りをしたり、牛や豚を見たりしながら、自然のなかで過ごしました。メインのパン作りでは、”どうせ、飾りのレーズンをくれ、と騒いで終りになるんだろうなぁ、”という私の思いをよそに、小ちゃな生地をこね、レーズンを3粒ほどねじ込んで、ツマミ食いすることもなく、きちんと作りあげていました。それを見て、もしかして、”この子にはまだ無理。”と親が勝手に決めつけて、させていないことがたくさんあるのかもしれない、と思いました。

 ☆要約スライド・手話通訳つきの講演会☆
 自分の関わっているテーマ上、要約スライドや手話通訳つきの講演会に出席することが増えました。慣れていないせいもあるのでしょうが、スライドにせよ、手話にせよ、とても目が疲れました。また要約スライドを見ていると、実際に語られている4分の1ほどしか文字になっておらず、微妙なニュアンスなども全く伝わっていないように思えました。入ってくる情報がいかに少ないかを感じました。それでもスライドのビニールの束をみると、すごい量になっています。私たちが何気なく耳から得ている情報がいかに多いか、痛感しました。

 ☆手話劇を観に行きました☆
公民館にやってきた手話劇。150から160名の観客が入っているのに、あちこちでの会話が手話のためか、とても静かでした。役者さんたちの活き活きした姿、観客の楽しそうな姿が印象的でした。効果音も、おなかにドーンと響くようなものを多く使い、光の使い方にも工夫がたくさんあったように思えました。私は健聴者のためのアナウンスで台詞を把握していましたが、手話自体が体ごとの表現でもあるからか、視覚だけでも充分楽しめました。ただ、平らな会場に椅子を並べた客席だったので、手話が頼りの人には見づらかったかも。耳が聞こえにくくても、何でもできるんだ、と嬉しく思った記憶があります。

  ☆レーナ・マリアさんのコンサート☆
 生まれつき、両腕がなく、左足は右足の半分ほどしかない、スウェーデン生まれのゴスペルシンガー、レーナ・マリアさん。パラリンピックの開会式でも歌っていました。彼女のコンサートへ行くことができました。車椅子の方たち専用に、様々な配慮がされていて、納得しながら席につきました。おなかの子に聞えるといいなぁ、と思いながら開演を待ちました。コンサートは彼女の生い立ちのスライドから始まりました。予想していなかったのですが、手話通訳者が壇上に立ちました。続いて、マリアさんが現れ、コンサート中、ずっと手話はついていました。コンサートに手話がつくなんて、考えもしていなかったので、驚いたし、感動したし、大輔もこれからどんどん音の世界を楽しむチャンスがあると思うと、嬉しくてたまりませんでした。
音に対する根強い願望

7.難聴が判ってからの、大輔の訓練内容


 ※病院での訓練(11ヵ月〜週1回)
  難聴とわかってからすぐに通い始めました。防音設備の整った部屋で、私達の感覚では騒音に近いボリュームで音楽を聴き、それがぞうさんの歌だったらぞうさんのカードのところへ、汽車の歌だったら汽車のカードのところへ行く、といったことや、実際に音の出ているスピーカーに触れて、その振動を感じたり、太鼓が鳴ったら輪投げを1つ入れたり、といった内容でした。気をつけて聞く、精聴の訓練だったかな、と思います。

 ※難聴児のための通所施設(11ヵ月〜1才7ヵ月まで、週1回)
  保健婦さんからの紹介を受けて、通うようになりました。子供達が楽しく音と関わっていけるように、様々な工夫をこらして、一緒に遊ぶという雰囲気でした。音のみにとらわれず、体全体・あらゆる感覚を活用する印象を受け、健聴の子供でも、十分に楽しめる内容だったと思います。例えば、紙吹雪を部屋中撒き散らして吹く練習をしたり、風船でひとしきり遊んだあと、目の前でパーンとわって見せたり、シーツの上に寝転ばせて、ぶんぶん揺り動かしたり、時には生きているセミを取ってきて、手の中でみんみん鳴く感触を感じたり・・・。実際に難聴の子供を育て上げた方々も指導者の中にはおられて、大輔との関わり方の具体的なアドバイスだけでなく、 母親の私に対しての心のケアもして下さったので、当時の私には必要な場所でした。いろんな感覚を使って聞くこちらの訓練は、多聴といった訓練だったように思います。

 ※聾学校(1才8ヵ月〜2才7ヵ月、1才児クラス週2回通学)
 登校したら、自分の手帳を出し、名札を付け、自分のリュックを所定の場所へかける。自由遊びの後、オルガンの合図でお片付けをし、トイレへ。出席カード(自分の写真が貼ってある)を使って名前を呼ばれたら手を上げてお返事する練習。その後はその日の遊び(お遊戯・おえかき・水遊び・しゃぼん玉・シールぺたぺたなど。)をした後、みんなでおやつを食べて終りの挨拶。集団生活の基礎を学んでいたように思います。

 こういった指導を受けて、家でもできるような遊び(訓練?)は取り入れるようにしていました。来客があった時など、頼める相手だったらもう一度ブザーを押してもらったりして、大輔の注意を促すようにしたりもしました。この頃、初めて巻き笛や、シャボン玉ができるようになりました。”吹く”という作業は、意識して取り組んでいかなくてはならないことでもあったので、できるようになって、とても嬉しかったのを覚えています。また、はと時計も、単に音に気付くだけではなく、「ぽっぽ」の口形をし始めたように思え、確かな反応ではないけれど、じっくり見ていきたいと思っていた頃です。

8.音に対する根強い願望

 以前書いたように、私は大輔の障害をすんなり受け止めたつもりでいたけれど、実はそうではありませんでした。実はこの部分がとっても大切で、専門的には『障害認識』といわれるものであると、”難聴児親の会”主催のセミナーで学びました。障害をどのように捉えているか意識化し、どのような状態になることを目指すのか、その価値観と目的が妥当なものなのか、常に見なおしていく必要があるということです。私は”聞えにくいことなんて、たいした問題ではない。”という殻をかぶっていたけれど、自分の心の声を素直に聴いてみると、まだまだ”音”を届けたい、と強く思っていることに気付かされていました。

 例えば、夢の中で大輔が、「おかあさーん」といいながらニコニコ駆け寄ってくるのを抱きとめて、”おかあさん”と呼ばれたことにうれし泣きして目が覚めたり、自分を素直に出せる場所だと、大輔の障害を話しようとするだけで言葉につまって話せなくなったり・・・。

 こんな事もありました。同年齢のお友達を預った時、何気なく、普段大輔に話しかけるのと同じように喋りながら遊んでいると、その子が相槌を打ったのです。言葉のやりとりが成り立ちながら遊べるということで、なんて楽しいんだろうと思ってしまいました。久しぶりに会う友人が我が子の成長振りを嬉しそうに話してくれる時、「A子が最近、こんなこと言ってねぇ。」と、その可愛いらしい発想や表現を教えてくれることが多く、そういう話を聞いた後には、もし大輔が話せたら、何て言うかな、と想像したくなったりしました。
 
 以前はそんな自分を情けなく思っていましたが、無理に受け入れようと焦らずに、今はまだ、受け入れきれない時もある自分を認めながら、少しずつ大輔のハンディと自然に付き合っていけたらいいな、と思い始めました。「きこえ」に未練があるという自分の気持ちが見えてきて、それはそれで大きなことだったと思います。そうやって見つめているうちに、納得のいく結論が出るような気がしました。そう思えるようになって、少し楽になりました。

9.次男の出産(H10.11、大輔2才3ヵ月)

 H10.11、大輔が2才3ヵ月の時に次男が誕生しました。出産の前前前日は動物園、前前日は徒歩30分の友人宅へ、前日は聾学校と、臨月の妊婦にしてはかなりの運動量だったと、今になって思います。当日も学校にいくつもりでお弁当の準備をしていました。

 大輔は次男の登場にとまどいつつも、比較的協力的でした。その時の気分によって足蹴にしたりする時もあったので油断はできませんでしたが、次男のお風呂の間、とりあえず待っててくれたし、おっぱいの間は何とか見守ってくれてたし(でも、ゲップまでは待ってくれない。)食べるものは分けてくれるし(これはちょっと困るときもあった。)、抱っこはしてくれたし(これは非常に危険だった。)、基本的には世話好きだったようです。
 
 この頃から、私は、なんだか妙な感じになっていました。前だったら、「さあ、おうちに帰ろうね。」とでも言っていたのが、ふと出てきたのが「よっしゃ、帰ろ。」こうやって、一般的に、男の子ばかりの母親は、がさつ(がさつじゃない人もいますね。)になっていくのかも、と思い始めた頃でした。

10.この頃の生活(H10.12、大輔2才4ヵ月・次男1ヶ月)

 この頃は大輔の聾学校への通学は週3回でした。次男はこの年、保育所に入れず、大輔の登校日には有償のボランティアさんに自宅でみてもらって乗りきりました。始めは人に預けることに抵抗があったのですが、いろんな人の手をかりて、いろんな人に見守られながら成長していけることって、この時代、なかなか出来ないことかな、と思うと、これもよいかも、と思いました。気付いたところを丁寧に掃除してくれていた人、契約の時間が終っても、私の話に付き合ってくれた人、肩をもんで下さる方までいらっしゃいました。疲れて帰ってきたときに、「おかえりっ」と明るく出迎えてもらうことで、随分元気をもらいました。
人工内耳への迷い
11.人工内耳への迷い(H11.3、大輔2才7ヵ月)
 
 人工内耳を知ったのは、大輔の難聴が判った直後でした。たまたま実家の母親が新聞で、人工内耳の話を読み、その切り抜きを送ってくれたのでした。その記事に出ていた教授の連絡先を調べ、連絡をとってお話を聞きに伺ったのが、ちょうど補聴器を付け始めた生後11ヵ月の頃でした。

 しかし、その後、補聴器の効果を見極めるための時間も必要だったし、次男の妊娠・出産もあったし、人工内耳のことは後延ばしにしていました。しかし、いよいよ3才の誕生日を迎えるにあたって、人工内耳のことを具体的に考え始めました。手術をするなら、3才までには、と思っていたからです。手術への不安、後遺症の不安、術後に生じる制限の不安、電磁波の影響への心配・・・、いろんなことが私たちの判断を鈍らせていました。それとは別に、考え方として、”聴こえにくい”ということの受け止め方が私たちの中でまとまっていないこともありました。”ハンディを受け入れて生きていく道が必ずある。
聞えがよくなることだけが大輔の将来の幸せにつながるわけではない”。ずっとそう思ってきたし、今もそう思っています。でも、年齢が上がるにつれ、健聴のお友達との違いに愕然としてしまい、つらくなることも増えてきました。大輔が私たちの手を離れて行く時のことを考えると、その何倍もの辛さを大輔が味わうことになるのかもしれない、そう思うと、ほんの少しではあっても、聞えがよくなる可能性があるのだったら、将来大輔のプラスになるのかもしれない・・・。そんなことを悩んでいる時に、人工内耳友の会のメーリングリストを知り、登録しました。私の知りたい情報は、ほとんどそこから得ました。その一つ一つをしっかり、じっくり受け止めながら、考えていきました。装用児の親御さんや、成人の装用者の方々のお話や励ましは、私たちにとって、大きな力となりました。

 当時の大輔は、聾学校の1才児クラスに通っていました。補聴器を付けていれば、後方2mの電子レンジの音、後方からの呼びかけに気付いていました。身振りを交えてのコミュニケーションもかなり出来るようになっており、口形を真似して発音しようとしたり、声も良く出ています。表情も豊かで、人の顔をしっかり見ていました。聴力は110db、105db・・・、先生方からは手術をするかしないかのボーダーだ、と言われていました。補聴器でも十分、表情豊かで、表現力もそれなりに見についてきているので、どんなに補聴器以上の効果があると判っていても、本当に大輔にとって必要な手術なのか、わかりませんでした。

 主人は、補聴器より確実に、少しでも効果があるなら、早ければ早いほど良いと言われているこの手術に、将来の可能性も含めてかけてみたい、と言っていました。一方私は、人工内耳をしてのデメリットや、将来人工内耳に劣らない補聴器が出るのではないか、幸せって何???といったことまで考えて、うだうだしていました。正直言って、手術を受けさせるのが怖かったんです。でも、心のどこかに、大輔と言葉で話をしたい、ちゃんとしゃべって欲しいという気持ちもありました。その頃の私に欠けていたのは、信じる気持ちと決断力でした。自分の気持ちを整理しないうちは踏み切れなくて、限られた時間の中、精一杯、悩みました。だけど、しっかり悩むだけ悩んで、方向を決めたら、その道を迷わず歩んでいこうということだけは、決めていました。

 将来「なぜ手術をしたの?」あるいは「なぜ手術をしてくれなかったの?」と聞かれる日が来た時に、自信を持って説明できるような決断を、という一心でした。大輔にとって私達が考えられる限りの幸せを願っての選択だった、ということだけは、間違いありません。

一体私は何を不安に思っていたのか、挙げるときりがありません。

・今まで補聴器で聞こえていたものが聞こえなくなることはないか?
・せっかく今声が出ているのに、発声しなくなったりしないか?
・命、他の機能への心配は全くないのか
・成長に合わせての器具の交換、電極の入れ替えがあり得るのか?
・故障、埋め変えなどによる再手術の危険性は?
・頭を打つなどして、もし器械が壊れてしまったらどうなるのか?
・もっと高度なものが開発された場合、今手術したがためにそれが 試せなくなることがあり得るのか?
・術後、顔面まひ、耳鳴り、めまい、味覚障害、舌のしびれ、頭痛な どがあったとして、それは一過性のものなのか?
・電子レンジ、携帯電話、科学館、中耳炎、金属探知機・・・。
・運動制限(激しく転んだりしないようにすることによって子供の活動に 支障が出て発達に影響を及ぼすのではないか。)
・補聴器の限界をどこで判断するのか。
・補聴器にせっかく慣れたのに、人工内耳装用を嫌がらないか?
・どのようにリハビリに協力して頂けるのか、病院と学校の体制と方針。
・手話を使っても良いのか。
・補聴器と人工内耳の併用も考えられるのか。
・考え方として、聞こえる事がよいという優勢思想を助長しないか・・・。

 これはほんの一部です。こういったことを1つずつ、聞いたり調べたりして、考えていました。どこかでまとめて教えてくれないかな、とあの時は思っていましたが、今思えば、自分の疑問に思うところを自分で気付きながら解決していくこと、その過程こそが、子供のことを真剣に考え、自分が何に気をおいて子育てしていくか考える、いい機会だったと思います。

12.子供達のキャンプのスタッフに参加して(H11.6、大輔2才10ヵ月)

 頭が煮詰まってしまった私は、ちょっと気分転換したくて、子供達のキャンプの生活スタッフとして、1週間過ごしました。子供達のご飯をつくったり、洗濯物をたたんだりする毎日の中で、頭がからっぽになっていくにつれ、感じることがありました。それは何てことのないシーンでした。

*玉ねぎを切っていて・・・。
 8mmの輪切りといわれ、玉ねぎをひたすら切っていました。「ふーん、8mmね」と思いながら、段取りをしていましたが、何か落ち着きません。”この玉ねぎは、どんな料理になるんだ?”が判らないまま切ることがとても不安なんです。先輩に聞いてみると、甘酢漬けとのこと。それを知ってから切っていると、ほっとするんです。その後、どうなろうと、8mmの玉ねぎは8mmの玉ねぎなんだけど。ふと、玉ねぎが大輔に見えてきました。大輔がこれからどんな風に育っていくのか、育てていきたいのかが見えないまま接している毎日。その思いが私を不安にし、私をキリキリさせているのかも、と思いました。玉ねぎ(大輔)はただそこにある(いる)だけなのに。ありのままに受け止めることの楽さ、自分をしんどくしているのは自分の思いの強さにある・・・、そんなことを玉ねぎから感じました。

*おいなりさんを作っていて・・・。
 その日はおいなりさんを500個つくる日。延々と続く揚げの開きにうんざり。まだあんなにある、いつまでかかるんやろう、早く終らないかな、と思っているととてもしんどいでした。
 次の日、昨日開いた揚げに、寿司飯を詰める日でした。昨日と違い、この日は目の前の1個をいかにおいしそうに、可愛く詰めるか、そんな事を考えながらゆったりと詰めていると、なんだか楽しい。楽しんでしていると、山積みになって待っている揚げの開きは全く気にならず、目の前の1個を楽しむことができました。その時、楽しい”今”を積み重ねて行けたら、幸せになれそうに思いました。

 日常と離れたそんな1週間を過ごす中で、私の気持ちは固まっていきました。将来のことじゃなくて、今目の前にいる大輔に何をしてやりたいか、それを考えて、それを受け止めて楽しめば、それでいいような気がしました。主人の言うように、人工内耳をしてみよう。そう思えたのです。

13.手術を決めて(H11.7、大輔2才11ヵ月)

 数々のデメリットを知りつつ、それでも手術に踏み切った最終的な理由は、結局簡単に言うとすれば、大輔が生きていきやすくしたかったからです。聞えることが幸せかどうかは別として、聞えることが当たり前の世の中で暮らしていくには少しでも聞えやすい方が楽だろうし、少しでも多くの人とコミュニケーションがとれるほうが楽しめるだろうと思ったのです。とは言っても、手術を決めてから当日までも、”本当にこれでいいのか”と悩み続け、眠れませんでした。

 *入院についての説明
 今でこそ、”後で”とか、”明日”という観念が多少入っているようですが、3才になるか、ならないかだった当時は時間の感覚がまだ完成されてなかったように思ったので、あまり不安にさせるのを避けたいこともあり、朝起きて、検査の日は「今日は病院行くよ。レントゲン撮るよ。」と、今のこと、(せいぜい今日のこと)位の説明にしていました。いっぺんに全部を説明する必要はないと思いました。

 入院については、当日の朝、時間をきっちりとって、用意していたぬり絵の冊子をもとに、ドーンと入院の荷物を見せて、私がお話しました。そしてその後はその都度、(病院に着いてから病室のページを見せて「一緒だね。お母さんと、ここでネンネするよ」とか、看護婦さんが現れたらそのページを見て「一緒だね」とか。)お話しました。

 リハビリの先生から提案をうけて、大輔に似た人形も作りました。先生のお話を聞いた時には、とても私に人形なんて作れない!と思いましたが、それで大輔の不安な気持ちが少しでも解消されるなら、と思いなおし、作ってみることにしました。なにせ、初めての人形づくり。見本もないので、材料から頭を悩ませながら、手探りで、何とか仕上げました。点滴をするとき、包帯を巻いた時、同じように、”だいすけ人形”にもさせてもらって過ごしたので、多少は大輔の不安も和らいだと思います。

14.次男のこと
 
 入院に際して、まだ小さい次男をどうするか、ということも大きな問題の1つでした。病院というのは、どんな菌がうろうろしているかわからないし、そして、やっぱり、その時だけは、私は大輔だけを見てやりたかった、ということもあって、病院に次男をつれて行くことは考えていませんでした。

 うちの次男は大輔と2才3ヵ月違いで、大輔の手術の時には、9ヵ月でした。私は母乳オンリーで、大輔の通学のために、次男をヘルパーさんに預ける時も母乳を絞って、冷凍しておいたのでした。手術を8月に決めてからは、徐々にミルクもあげられるように慣らしていきました。私からではなく、ヘルパーさんからあげてもらったのがよかったのかも、と今になって思います。私だったら、私もおっぱいをあげたいし、次男も甘えてミルクは飲まなかったかもしれません。

 結局、お義母さんに、田舎から出てきてもらってお願いしての3週間でした。ちょうど次男は後追いが始まった頃でした。もっとあげていたかったんだけど、先程も書いたように、手術の付添いのために断乳もしました。病院から、会いに帰れない距離ではなかったけど、私は敢えて帰りませんでした。その方が、次男にとってもお義母さんにとっても良いと思いました。せっかくペースをつかんで暮らしているところへ数時間でも母親が姿を現すと、また1からになってしまうと思ったんです。つらかったです。可愛い盛りだし、私が留守の間に成長していく次男を見逃す事も寂しかった。
 
 お義母さんは、そんな私のために、毎日の様子を育児日記につけていてくれました。写真も撮ってくれていました。それを見て、涙が出そうでした。3週間ぶりに会うと、とっても大人びて(?)見えたものです。

 お義母さんにはしんどい思いをさせたことと思います。それを承知で、引き受けてくれた義母や、3週間義母を貸してくれた(?)お義父さんには感謝してもしつくせません。みんな(小さい次男も含めて)の協力があっての手術であり、それほどのみんなの願いがこもった手術でもあったわけで、今は恩を感じ、感謝することしかできないけれど、決して無駄にはできないと思ってます。

入院中の過ごし方

15.入院中の過ごし方(H11.8.12〜8.29、大輔3才)
 
 入院生活、大輔はとってもエンジョイしていたように思います。母を独占でき、その母も家事がないのでべったり遊んでくれ、夏休みだったので子供の入院患者も多かったから、消灯まで遊び呆け・・・。

 術後、手術室に迎えに行ったときには、全身麻酔だったのに、既にベットの上に立ち上がろうとして、スタッフの人達に押さえ込まれている状態でした。「ゾンビのような子だ」とドクターにも言われました。結局その日もぐたっとすることもなく、翌日からは点滴をしたまま走り回っていました。点滴のルート確保の為に左手に添え木をして包帯をグルグル巻いてあるのを見て、どうも腕が重症だと思っていたらしく、ずっと手を大事にしていました。誰に似たのか、ちょっとマヌケ。
 
 発熱したり、顔が腫れたりしたけれど、おおむね順調に回復し、8月29日に退院となりました。朝「家に帰るよ」と言って荷物をまとめ始めると、大輔も大喜びで荷物をバッグに入れ始め、自宅のマンションのエレベーターを降りてからは一目散に我が家へ。家に着くと、留守中にすっかり大きくなった(ように見えた)次男と万歳!を繰り返していました。当時の日記があったので、主なところを抜粋します。

●8月12日(木)●  
いつも通り、6時起床。時間をしっかり取って、病院でもらったプリントと、私が作った”だいすけ人形”とで、「今からお父さんと、お母さんと、大輔は、あの荷物を持って、出かけるよ。おばあちゃんと弟はおうちでお留守番だよ。」と説明すると、旅行か何かだと思ったんだろう。喜び勇んで、きゃっきゃっ言いながら歩いていく。そんな後姿を見るのは辛かった。

病室の前で一瞬ためらったので、再びプリントで、「大輔とお母さんはここで、ご飯を食べたり、本を読んだり、一緒にねんねしたりするよ。看護婦さんもいてくれるよ」と説明すると、納得したのか、入室。

最初のご飯、大輔、ごはんが少なすぎて、涙ながらにおかわりを要求。早速次回の食事から量をふやしてもらうことにする。

夕食を見届け、主人が帰る。私はとても心細くて、帰ってほしくなく、わざとグズグズ用事をしたりした。でも、どうせなら、この入院生活、大輔と一緒にゆっくり楽しみたいと思った。

21:30、眠そうにし始め、手をつないで寝入る。

●8月13日(金)●
昨夜は空調が寒かったこともあり、私は何度か目がさめた。大輔も夜中、何度かわーんと泣いて、そのたびに手をつないで寝る。中庭を散歩したり、折り紙をしたり、売店を見にいったりして過ごす。

めまいの検査と、聴診と、のどの検査。

大輔は私の、介護人用の簡易ベッドで寝るというので、じゃあ、私は大輔のベビーベッドで寝たふりをして誘おう、と思ったら、私も寝てしまった。看護婦さんが、おやつを持ってきてくれた時に、私は大輔のベッドで目が覚め、かなり恥ずかしかった。

まだごはんのカートが来ていないのに、物欲しそうに待っている。そのくせあまり食べない。と、思ったら、小学生のお姉ちゃん(Rちゃん)が登場。試しに野菜のあんかけを食べさせてみてもらうと、パクパク食べるではないか。うれしいけど、どういうことー?

麻酔のドクター。一通りの説明と診察のあとで、わざわざ大輔を抱き上げて、「よろしくねー、大輔くん。」と、ぎゅーっと抱き締めてくれた。何だか涙が出るくらい、ほっとした。

●8月14日(土)●
私が身支度をしていると、いっしょにお化粧をしたがる。(私はその後、いつのまにかお化粧をしなくなっていった・・・。)

中庭散歩、シェルティの子犬と遊ぶ。昼前、主人が来てくれる。

再度、めまいの検査と、聴診と、のどの検査。

●8月15日(日)●
今日は日曜日だったが、主人には今日一日、ゆっくり休んでもらうことにする。私もしんどいけど、2人で一緒に疲れることないもんね。

下の食堂へ、プリンを食べに連れていってあげる。もっと喜ぶと思っていたけどそうでもなく、拍子抜け。

みんなと折り紙をするが、大輔は、折ってもらったのをすぐにくちゃくちゃにするので、私は肩身が狭い。

Rちゃんと、ずーっと一緒に遊んでもらう。Rちゃんに寝る前、ラブレター(?)をもらい、大輔は真剣な顔で読んで(?)いた。

●8月16日(月)●
小児科受診。2歳時の発達として、心身ともに、問題なし。「今までのお母さんの子育ては間違っていませんよ」といわれ、ちょっとほっとしたりする。

大輔は、結局あの日以来、私の簡易ベッドで寝ていたのだが、やはり術後、まずいということで、ベビーベッドを大人のものに替えてもらった。大輔も気に入ったようで、夜もそこで寝てくれるようになった。弟と同じように、赤ちゃん扱いされたのが嫌だったのかな。

友達が何人か、激励に来てくれる。(お見舞いのミニカーは、いざという時のために隠しておく。)

夕方、手術をして下さる教授による、バリカンがり。てっきり散髪屋さんでしてもらうと思っていたので、前も後ろも揃えてもらおうと思っていたんだけど・・・。とても頼めなかった。

●8月17日(火)●手術当日
私、あまり眠れず。いよいよ朝5時50分、大輔起床。6時までならお茶が飲めるので促したが、”いらない”というので水筒もコップもしまう。

6時半、浣腸。

7時半、いつもの食事時間ぴったりに”おなかがすいた”と言い出したので、昨日友人が持ってきてくれた、とっておきのミニカーがもはや登場。どうにか気をそらして、何とか8時。浴衣(手術着の代わり。)を見せると、”着たい”と言うので、着せてやる。ポーズをとって、写真を撮るように催促するので、撮ってやる。

8時、主人到着。夏休みをここでとってくれたので、今日・明日は一緒にいてもらえる。ぼんやりする薬を飲ますが、一向にぼんやりしないまま、8時20分、ベッド搬出。

抱っこで手術室まで。最後は看護婦さんから、手術室のスタッフへ。にっこり笑いながら行ったらしい。

手術中、私たちは待つことしかできない。ホントに無力だなぁ、と思った。一緒にいると、ややこしいことも多いけど、元気に笑って、そばにいてくれることが、こんなにありがたいことなんだ、と感じながら、大輔の帰りを待った。

14時前、手術室へ大輔を迎えに。術後、麻酔が覚めてすぐに、立ち上がろうとしていたらしい。そのガッツに教授もスタッフも驚いておられた。私の姿を見、主人の姿を探す。術後1時間ほどで、カメラに向かってピースをする。寝てたらいいのに、ずっと座って点滴をうけていた。

おかゆ1口、プリン1/2カップ、キウイ1個、ヨーグルト、水コップ1杯。気道確保の管を抜くのが痛かったらしく、話してくれる。
今日は主人も病院に泊まってくれる。

●8月18日(水)●
レントゲンを極度に嫌がり、睡眠薬を飲ませてもだめ。結局教授の回診までに撮れず。大輔、機嫌悪い。38.2℃。「熱がどこまで上がるか見るのも大事」と言われる。

大輔は耳の後ろより、点滴のルート確保をしているだけの左手の方が重傷だと思っているらしく、大事に大事にしている。

あごを動かすと耳にひびく、ということと、内臓の回復待ちということで、食事は今日もおかゆ。

●8月19日(木)●(大輔3才の誕生日!)
血液採取、泣いて泣いて、結局失敗。教授によるガーゼ交換。ほっぺたが腫れているのをみて、「もともとむくれた顔だけどなぁ。」だって(^_^;)。
軽い中耳炎になっていて、熱はそのせいかも、ということ。

誕生日なので、売店にガーベラを1輪買いに行く。主人は仕事で来れないので、ケーキは土曜日までおあずけ、と思っていたら、友達が誕生日を覚えていてくれて、ケーキを買って来てくれる。いただきます!(*^。^*)

●8月21日(土)●
主人と、お義母さんが、思いがけず次男を連れてきてくれる。次男、久しぶりにおもちゃを大輔に取られ、憤慨!みんなでろうそくに灯をともして、バースデーケーキを食べる。大輔、とっても嬉しそう。

●8月22日(日)●
今日1日、熱は出なかったが、点滴はまだ外せず。
朝食から、みんなと一緒にロビーで食べてみた。

大輔、ロビーに行くと、みんなに挨拶してまわる。一生懸命本を読んでいるおじさんの横で絵本を広げ、「ぞうさーん」とか、「きりんさーん」とか説明し始めるのでヒヤヒヤ。

●8月23日(月)●
昼食前、睡眠薬をのみ、ぐっすり寝た状態で、やっとのレントゲン。6枚撮り終えて、無事22本の電極と、ダミー5本も入っていることが確認でき、一安心。

●8月24日(火)●
ずーと、大輔の寝返りで傷口にさわらないか、気にしながら寝る毎日。食事と言えば売店のおにぎりとパンと簡単なお惣菜。一日中人に見られているストレス。朝から立ちくらんだ。結構疲れてきたなぁ、と実感。誰か、ねぎらって欲しいなぁ、なんて思った。大輔は一日、元気。

●8月25日(水)●
朝、1番に抜糸を試みるが、大輔が動いてしまうので、断念。

今日も何人かお見舞いに来てくれたが、人工内耳装用児の先輩ママさんが、SPケースを作ってきてくれて、感動。帰ったらすぐに作らなきゃ、と思っていたので、何よりのお見舞いだった。

●8月26日(木)●
朝、1番に抜糸。看護婦さん一人にヘルプをお願いして、なんとか3針できた。あと1針は明日。

プレ音入れ。聾学校の先生方も来て下さる。いつもの聴検と同じ要領で、比較的順調にいく。この分だとマップが取れそうだけど、音入れの最初の瞬間には主人にも立ち会って欲しくて、今日は途中まで。

●8月27日(金)●
聾学校の同級生のお母さん達が、手作り弁当をもって来てくれた。ずーっと売店のおにぎりだった私には、その気持ちがありがたく、誰かが今の私と同じ立場になったら、是非お弁当を作っていきたいと思った。

夜、最後の1針の抜糸が完了。これでやっと手術が終ったような、ほっとした安堵感がどーっと押し寄せた。

●8月28日(土)●
ダミーの人工内耳をつけてみる。特に嫌がらずにつける。大丈夫そう?

疲れもピーク、精神的にもピーク。明日退院となると、随分長いこと病院にいたので、ちょっと淋しいというか、心細いというか、複雑なところもある。ドクターや看護婦さん、Rちゃん達やそのお母さん、入院患者のみなさんや、清掃のおじさん・・・。みんなのおかげで、なんとかギリギリのところで頑張れた。また、次男の世話をしてくれていたお義母さん、不自由をかけたお義父さんの協力なしには出来ないことだった。毎日神社へお参りを続けてくれたひいおじいちゃん達、ずーっと心配してくれているひいおばあちゃん達。
みんなの力のおかげでやっとここまでこれたなぁ。

周りの人への気兼ねや、私自身の疲れもあって、随分大輔を叱った。
でもこんなに大輔と、大輔のことだけを考えて過ごす2週間余りが、とても貴重な時間だということだけは常に考えていた。

大輔、本当にお疲れ様。とっても良く頑張ったね。(*^。^*)

●8月29日(日)●(退院)
いよいよ退院。朝「家に帰るよ」と言って荷物をまとめ始めると、大輔も大喜びで荷物をバッグに入れ始める。

主人が迎えに来てくれて、車に乗れることが判ると、病院のエレベータでは見送りにきてくれた人達へ、得意げに、嬉しげに手をふる。今まで見送るばかりだったので、やっと自分の番だと思ったのかな。自宅のマンションのエレベーターを降りてからは一目散に我が家へ。家に着くと、留守中にすっかり大きくなった(ように見えた)次男と万歳!を繰り返していた。とっても平和で幸せなひとときだった。

これからまた、ドタバタ・ぎゃーぎゃーの日々だけど、せめて家族が揃って食卓を囲める幸せを感じるゆとりぐらいは持っていたいな、と思った。


●9月1日●  音入れ
いよいよ音入れ。病院につくと、もう馴染みの場所になっているのか、喜んで、なかば小走りで外来玄関向かう。

聾学校から先生方が、聴検用のおもちゃをたくさん持ってきてくださっており、恐縮。マッピングの続きをし、いよいよ音入れの瞬間。喜ぶでも泣き叫ぶでもなかったが、ぱっと頭のコイルをとってしまい、てこでも”もうつけない!”のいっ点張り。

さあ、これから始まり始まりだ。

装用1年後の夏休み

16.手術をして2ヵ月半(H11.10、大輔3才2ヵ月)


 手術から2ヵ月半、音入れしてから2ヵ月。週に3回の聾学校に加えて、週1回の病院でのリハビリに通う毎日でした。人工内耳のおかげかどうかは手術をしなかった時とは比べられられないので判らないけど、かなり音が聞けてきているように思いました。玉葱のみじん切りを炒めるジャッという音、爪きりでパチンと爪を切る音・・・。言葉らしきことも2・3語出てきて、自分から身振りなしで伝えてくる言葉も出だしました。「おん(本)」「うおー(ぶどー)」「ばああ(バナナ)」「おーし(帽子)」「にゅーにゅー(牛乳)」など。口元を隠しての「んー」や「はー」「しー」「ぱっぱっ」などの聞き取りも出来てきました。

 難聴児は1つの言葉につき、300回以上聞かなければ覚えられない、と聞きました。一日に何か一つでも知ってる事が増えればよしとしよう、と同じ立場の先輩ママさんが言っているのを聞き、焦らないでおこう、と思っていました。

  ☆しゃべりの大輔☆
これは、嬉しかった出来事です。ある日曜日の夕方、主人が大輔を散歩に連れ出してくれました。私はその間に次男と食事の支度をし、帰ってきた二人とともに夕食。大輔がゴルフのスウィングみたいな事をしながら、なんだかんだとしゃべっていました。”むむっ”と思い大輔に、「お父さんとゴルフに行ったの?」と聞くと横から主人が小さな声で、「バッティングセンターに行ってきた・・・。」”これはっ!”と思った私は大輔に、「お父さんと、外で何か食べた?」と聞くと、大輔は嬉しそうに「ソフトクリーム」と身振り。、主人は大輔の散歩ではなく、自分の娯楽に行った事、夕食前にソフトクリームを食べさせた事を内緒にしておきたかったらしく、「しゃべりな男は嫌いや」と大輔に言ってました。 ソフトクリームはともかく、バッティングセンターなんて 私との散歩では体験できないことで、大輔も楽しかっただろうから、いいのにな。それより何より、今まではこちらが「こう答えてくれよ」という何かがあってのやりとりだったのが、この時初めて、私の知らない事を大輔が教えてくれて、何だかとっても嬉しい会話でした。 

   ☆困り者の次男☆
 次男が1才の頃。大輔の人工内耳や補聴器を外す事にハマっていました。おもちゃの取り合いなんかだと容赦なしに次男を押しやるのに、大輔もこの時だけは何故か次男になされるがまま。外されると被害者を気取って、「弟にやられたー」と訴えに来ます。耳の事だと絶対親が駆けつけてくると知っている。とても厄介。次男除け耳カバーを作らんとあかんかな、と思っていた頃でした。

17.大輔の幼稚部(H12.4、大輔3才8ヵ月)
 
 聾学校の幼稚部に入園し、この春から毎日、電車通学しています 。9人クラスが2クラス。お友達と毎日顔を合わすようになり、家に帰ってからも友達の名前を出して話をすることが増えました。お絵描きしていても、「これは□□ちゃん、これは××ちゃん」とお友達にプレゼントするつもりらしく、1枚ずつ描き上げては通学リュックに入れたりします。私の方も毎日の付き添い通学で大変になりましたが、少しずつ子供と離れてお母さん達だけで過ごす時間が増え、課題(絵日記やカード作り)をしながらでも悩みやグチを話し合えて、学生時代のようなノリで楽しんでる一面もあります。  
 
 人工内耳をして10ヵ月、言えるようになってきた言葉や、聞き間違いが増えてきました。今まで、聞き間違いをするほどのボキャブラリーがなかったので、多いに喜んでいます。聞きたい気持ちがある時には、自分から人工内耳をつけてくれ 、と言ってくるようにもなり、コードの断線や電池切れなども知らせてくれるようになっているので、大輔にとって人工内耳が”必要なもの”とわかってきているのかもしれません。
                                       
 涙が出るほど嬉しかったのは、今年のお正月、大輔が電話をとったことです。次男が大ウンチをし、大騒ぎしていたところに電話が鳴り、「今とれないよー」と諦めていたら、電話のベルが鳴り止んでしまいました。”あー、きれちゃった。”と思ったら、なんと大輔が受話器を持ってしゃべっている!初めて大輔が電話をとった記念日でした。

 補聴器だけの時よりも、ずっと楽に声かけができるようになりました。大輔も、以前より、楽に聞けているのかな、と思います。

 *聞き間違えた単語 〜そういえば、似てますよね〜
納豆と学校  チーズと椅子  フォークとトーフ  カニと貝
海苔と鶏  糸と白  ズボンとふとん 車と熊

 *はっきり言うようになった単語〜ということは、私の口ぐせ?〜  
わー。  えーっ。 いってらっしゃーい。 びょーき。  オッケー。
わーい。 元気。 あった! あかん。 こわーい。 学校。 病院。  
おかしーねー。 めっめ! はっぱ。  どっち?  いーよー。   
お友達の名前

  ☆次男との会話
 次男が、もう十分飲んだのに、お布団に入ってから「おちゃ、おちゃ」と騒ぎ出しました。私はもうあげなくていい、と思っていたので知らんぷりをして寝たふりをし、様子を見ていました。すると大輔が、「あした、明るくなったら、いっぱい飲もうね、今日はおしまーい。あっあ?(わかった?)」と言っている。(いつも私が言っていること・・・。)次男は「あ。(わかった。)」と言ってすんなり寝た。「あっあ」と「あ」で会話しちゃうところがスゴイ。

18.私の一日(H12.4〜、大輔3才8ヵ月・次男1才5ヵ月)

 この頃は、いつまで体がもつかな、という感じでした。慣れるまでなんだろうけど、私がなかなか要領がつかめないでいました。

 私の毎日は、6時起床(私と子供達)、身支度とお弁当・朝食作り、次男のおたより記入、洗濯、主人のお茶入れ、子供達朝食、主人をエレベーターまでお見送り、8時に、大輔と次男を自転車に積んで(?)、次男を保育所にいれて、大輔と電車でろう学校に行って、15時頃帰ってきて昼寝させて,その間に掃除機と夕食の準備、洗濯物たたみ、お風呂の用意、17時に大輔を起こして、次男を迎えにいって、洗濯しながら、お風呂に入れて、ご飯食べさせて、片付けて、ちょっと遊んで、次男が寝て、22時ごろにやっと大輔が寝る。その後、残った家事と、ろう学校の課題の絵日記やメール。そのころ主人が帰ってくる。。。

 思うように起きてこないし、寝て欲しくない時に寝る。ちゃっちゃと着替えないし、さっさとご飯食べない。これに雨でも降ろうもんなら、疲労度倍増って感じでした。世のお母さん方がこれを元気にしている、と思うと、頭がさがる思いです。朝、学校についた時点で、私のパワーはほとんど消耗してるかんじです。今もそれが続いています。早く慣れて、生活を楽しみたいものです。

19.健康と笑顔

 その頃、すごく体調が悪いでした。1ヶ月に1回は38度以上の熱が出て、たちくらむような症状、微熱、倦怠感・・・。前は少しでも時間が出来たら、することを探してでも忙しくしていたのに、この頃はすることが山積みでも、する気になれなくて寝ていたい、という感じでした。血液検査もしましたが、異常なし。(栄養状態もいいって.(^_^;))異常ないって言われると、なんだか怠け病みたいで、横になるのも後ろめたくなってしまいました。

 健康と笑顔を失って(?)みると、それさえあれば、子供って勝手に育つのかも、とそんな気がしてきました。元気で明るいお母さんになりたい!

  ☆聴力検査をしました
 先日、大輔のリハビリに行ったとき、私の聴力検査をしてもらう機会がありました。まずは普段、子供がしているのと同じ、閾値を調べるやつ。ピー、とか、ヒュルヒュルとか、いろんな高さの音を聞き、聞こえたら合図します。次に、雑音のある中で、男の人の声がして、何か文章をしゃべります。例えば、「今日は天気が良いので布団を干しました。」とか、「このところ、残業ばかりで疲れています。」とか。こちらは、聞こえた通り、復唱します。
 
 30分ほど、ヘッドホンをつけて検査を受けました。やってみて・・・。ものすごく疲れました。やってる最中も何かクラクラする感じで、しんどかった。ちょっとでも意識がそれると、聞きとれなくなったりしました。文章の聞き取りは、全部が完全に聞こえるわけではなく、前後から推測して判断したり、経験から考えたりして、聞こえたのは不確かなのに、文章を完成させている時もありました。何のつながりもない話題で、次々文章が出てくるので、神経を集中していても、判りにくいでした。電話で英会話した感じ。とにかく、どっと疲れました・・・。

 後日あった大輔の定期聴力検査では、たった3才で、30分以上、きちんと座って集中して検査に取り組んだ大輔がとっても偉く感じて、思わず抱きしめて、誉めちぎってしまいました。今までは、「どうして、ちゃんと座れないの。」とか、「なんで、ちゃんとできないの。」とか思ってたけど、これに、いままで小さな大輔が取り組んでいたのかと思うと、また、普段の生活でもこういう状態なのだと思うと、涙が出そうでした。きっと、母の豹変ぶりに大輔、びっくりしていたことでしょう。

 健聴者のデータ集めの協力、ということで、お手伝いした形ではあるようですが、私としては、とても貴重な経験をさせてもらえたと感謝しています。日々、人の立場に立って考えるように努めていますが、何でも、実際に自分がその立場にならないと、本当のところはわからないのだろうな、と思いました。勿論、わからなくても、相手の立場で考えていく姿勢は大事でしょうが。

 聞こえにくい人達の苦労や、しんどさがどこまで理解できているか、あやしいもんだな、と痛感しました。

  ☆補聴器の友達について
 「人工内耳の子どもたちが、10年後、ろう学校の中等部、高等部に進学した時、ろうの友達とのコミュニケーションや、関わりはどうなるのか。対立しないだろうか、苛めはないか、疎外されないか、このことに危惧の念を抱いたことはありませんか?」と聞かれたことがありました。

 心配といえば心配です。だけど、その時までに、きっと大輔から問われる日がくると思うんです。「どうして僕に人工内耳をしたの?」って。その時しっかり、決して聾文化を否定しているのではないことや、聾の世界も尊重したくて私達も手話を勉強していること、大輔には聞こえにくい自分というものを受け入れて、そんな自分を丸ごと受け止めて生きていって欲しいと願っていること、など、今は漠然としていますが、私達の考えや願いを話することになると思っています。

 それを大輔がしっかり聴いてくれたら、もし、こういう問題が生じた場合でも、大輔自身が友達と話し合って解決していけると願っています。そもそも、大輔にはろう学校の友達は大切にして欲しいと思っています。いくら親が頑張っても、やはり彼の気持ちや真の悩みを分ってくれるのは、その年齢になると、同じハンディをもつ友達なのでは、と思います。そういう意味でも大輔には(私も。)口話・手話のバイリンガルになってほしいと思っているのです。(欲張りでしょうか。)

20.装用1年後の夏休み(H12.8,大輔4才)
 
 盛りだくさんだった夏休みを振り返って、術後1年の大輔の言語の状態、4才になった大輔の表現してくること、大輔の宿題を通して、私が感じたことを思いつくまま書きます。

 この夏休みは、楽しかったなぁ、の一言でした。(そりゃあ、たくさんイライラもしたんだけど、そんなことは忘れよう。(^_^;))今までの長期休暇が、何だかしんどかったのは、子供達を楽しませることばかり考えていたからかも。この夏は、私自身が楽しむこともたくさん企画して、実行しました。あー、楽しかった。

 去年の夏の殆どを病室で過ごした大輔。今年はこれでもかぁ、というほど遊びました。夏祭り、盆踊り大会、花火大会と夏らしい行事。いろんなお友達と布団を並べて一緒にお泊りする機会もたくさんありました。MLで知り合った人工内耳装用児の親子に会いに行ったり、家族旅行、先輩ファミリーとの1泊旅行と、遠くへ出掛けることもありました。実家への2週間の里帰りでは、自然にたくさんふれて、のびのび。なす・トマト・きゅうりの収穫、かえる・とんぼ・アリにきゃーきゃー、せり市の見学で逃げ出すタコを発見、海水浴、庭での会食、満天の星・・・。

 新幹線・飛行機・ロープウェイ・観覧車・辻馬車と、いろんな乗り物にも乗りました。大輔が、盆踊りと温泉が、あんなに好きだとは知りませんでした。(おやじだ。)初めて、”回らない”お寿司を食べて、タコや、えび、ウニも食べていました。(帰ってきてから、包帯を頭に巻いて、おすし屋さんになりきって、何かを握っては私達にくれていました。)
工作もたくさんしたし、私の念願だった、スーパーへの買い物も、大輔とゆっくり行きました。ホットケーキも一緒に、楽しみながら焼きました。

☆大輔の言葉も随分育ってきました☆
(この夏休みに聞き間違った言葉)
ちくわ=手話
おふとん=お風呂
柱=明日
ビール=見る
ロッカー=おっはー(信吾ママが好きなのです・・・。)
ペンキ=ペンギン

(はっきり言えるようになった言葉)
上手ね・遅いね・早いね・こわい・おもしろいね・よかったね・おかしいね・ありがとう・ごめんね・きをつけて・あぶない・うわーっ・留守番・買い物・汗・まちがった・しまった・しっぱい・重たい・冷たい・着いたよ・ロープウェイ・パトカー・救急車・にんじん・御寿司・たこ・カレンダー・うさぎ・月・海遊館

(ことばでお話していたこと)
ミニカーをたくさん出してきて、弟に、『どれ、すき?』

おもちゃの取り合いで弟をたたき、怒られた後で、
『しんかんせんで、たたかない。はんぶんこ、やくそく』

おじいちゃんがお仏壇の前でお経をあげているのを横で聞きながら、
『おかあさん、ここにきて、いっしょに、しずかにすわって』

「晩ご飯はなんだと思う?」や、「ここにくるバスは何色だと思う?」などを、2人で考えて案を出し合っている時に、『大輔は、じゃあねぇ・・・』

弟がコップにあふれるほどお茶をいれそうになるのを見て、
『おちゃ、たくさん、いれない。よくみてぇ。』

久しぶりに12時間ほどぶっ通しで寝て、起きた朝、トイレで
『いっぱいねんね、ちっち、いっっぱい。おふとんでじゃー(おもらし)は、しないよぉ。』

言葉だけでなく、大輔の気持ちも育ってるな、と感じました。

・私は実家の倉庫から古ぼけた自転車を引っ張り出し、タイヤに空気を入れていました。「お母さん、郵便局に行 ってくるよ」と言ったら、『こけないように、きをつけて』と言ってくれて、感激。

・布団に入ってから、その日にあったことを話するようになりました。私の手を握って、昼間のことをああだ、こうだ、と話(?)するのです。昼間どんなに怒っても、この時間は大輔が可愛くて仕方ない。最後に「お母さんは、大輔が好きよ」と言って「おやすみ」をいうと、大輔も『おかあさん、すき。おやすみ』と言って目を閉じる。満足そうに寝入るのを見ると、幸せだなぁ、と思います。

・『つめたいお茶を2つ、ちょーだい』弟の分も自分で考えて言ってきてくれたのが嬉しかった。

・行きつけのカメラやさんに、久しぶりに行った時。色々とおもちゃをくれたので、私は大輔にいつも通り、「ありがとう、は?」ともう少しで言うところだったのだったのですが、その時、大輔が自分から『ありがとー』と言った。そこの女主人さんも涙ぐんで、「よく言えたねー」と喜んでくれた。私は、これから、もう少し大輔を信じて、待ってみるように心がけようと思いました。

・テレビで、子犬が引き取られて行くのを見送る母犬を見ました。夜、布団に入ってから、『おかあさん犬、ばーいばい、えーんえーん。』と言い出しました。勿論犬は涙を流していたわけではないのだけど、気持ちを察することができたんだな、と思うと、嬉しかったです。

 私も少し、大輔の宿題を通して感じたことがありました。以前、私は、宿題を済ませてからでないと遊べないタイプでした。それが、今回は、何だかとってもいいかげんで、発音や”せんべいなめ”など、殆どしませんでした。他の人がしてるから、とか、先生になんて言われるかな、などが全くといっていいほど、気にならなかったんです。焦る気持ちも出てこなかったなぁ。机の前の勉強よりも、大輔とはこの夏、たくさんの体験を通して、
たくさん言葉を出し合って暮らしてきたから、ある意味、自分なりに納得できる過ごし方が出来ていたからかな。自分なりの考えができるようになってきたのかもしれない、と思います。

 子育てや、難聴児の教育って、何が正しくて何が間違っているかわからないことの方が多いと思うんです。方法も、考え方も、たくさんある。この夏の宿題のように、自分なりに納得できることを、自分で自信を持って、していくことができたらいいな、とちょっと思いました。(だけど、やっぱり宿題はしなくちゃいけない??)

 それと、大輔の誕生日に、今までの4年間を振り返って思いました。まちがったことや、怒りすぎるなど、可哀想なこともいっぱいしてきたけど、自分なりに4年間、一生懸命やってきたってことだけは胸をはっていえるなぁ、と。主人に話ししたら、「それで充分ちゃう?」と言ってくれて、なんか、ほっとしました。

1〜20まで、2000.8.15寄稿・掲載

 大輔への手紙

大輔への手紙、(入院中、大輔にあてて書いたものです。)


 人工内耳の手術をすることに決めました。
 今、手術の2日前、病院のベッドで大輔は昼寝中です。  

 大輔がおなかに宿っているのを知った時のことをお母さんはとてもよく覚えています。とても嬉しくて、その後、風邪を引かないように細心の注意を払い、薬も絶対飲まず、食事や体調管理にも気を配って、出産に臨みました。妊娠中も出産時も何の問題もありませんでした。しかし、H9.7、生後11ヵ月の時に先天性高度難聴と診断されました。何故大輔の聞えが悪いのか、原因は誰にも判りません。
  
 その頃、人工内耳のことを知り、以来ずっと考えてきました。人工内耳をするのか、しないのか、どちらが大輔にとって幸せなのか。考えれば考えるほど判らなくりました。1年半ほどいろんな人の話を聞き、情報を集めた上で、お父さんと2人で今の大輔にしてやれる最善のことは何なのかを、一生懸命考えました。大輔の気持ちを聞いて決める事ができないだけに、決断には相当な勇気がいりました。決めるまでも大変でしたが、決めてからいよいよ入院するまでは、ぐっすり眠れない毎日でした。

 大輔は毎日毎日幸せそうに笑っていました。そんな大輔を見ていると、聴こえにくいこと=不幸だとは決して思いませんでした。だから人工内耳をするのかどうか、とても悩んだのです。これから一生大輔の頭に機械が埋め込まれているということに対する大輔の負担、わずらわしさ、再手術の心配、日常生活の中での制限、運動制限・・・。いろんなデメリットを思うと、このままの大輔でいいと何度も思いました。聴こえにくいというハンディを持って生まれてきたその事を、丸ごと大輔と受け止めて生きていきたい。聴こえが良くなることだけが大輔の幸せに結びつくとは思わない・・・。そう考えていました。

 では何故手術をすることにしたのか。それは簡単に言うと、大輔が生きていきやすくしたかったからです。聞えることが幸せかどうかは別として、生きていくうえで楽なことは確かだと思ったのです。聴こえにくいことは悪いことじゃない。でも現実には聞える人が中心の世の中なわけで、そんな中で生活していくには少しでも聞えやすい方が暮らしていきやすいと思うのです。少しでも多くの人とコミュニケーションがとりやすい方が楽しいと思うのです。
 
 この選択は、私たちの親としての精一杯の選択でした。色々なものを見、調べ、人の話を聞き、私達なりに理解し、覚悟したうえでの選択です。人工内耳が大輔にとって幸せかどうかの答えを見つけたくて悩んでいましたが、幸せかどうかなんて、将来の大輔にしかわからない。そして、その”幸せ”も、人工内耳だけの問題ではない。今の私たちにできることは、人工内耳と決めた以上、その方向ででき得る限りの努力をし、しっかり大輔と歩んでいくことしかありません。

 大輔はいつか、自分の聴力障害について、家族の中でどうして僕だけなのか、僕のつらさは聞こえる人にはわかるはずがない、などと、様々な想いをいだく時がくるかもしれません。そんな大輔の想いをその時、私たちはただ、聞いてやることしかできないかもしれません。でも、1つだけ、聞えにくくても、聞えていても、私たちの大輔に対する愛情に全く変わりがないことは、しっかり頭に入れておいてほしいと思います。そして、大輔には、聾文化も大切にしながら、聞えにくい仲間とも手を取り合って、決して自分のハンディを卑下せず、自分に自信をもって、生きていって欲しいと願っています。

 先天聾の場合、現代の医学ではできれば3歳までに手術することが望ましいと言われています。大輔の手術は3才の誕生日の2日前です。今、決断するしかありませんでした。1つの挑戦です。いつか大輔が成長して、”人工内耳なんて嫌だ!”と・・・、もしそう思う時がきたら、その時にはあなたの意思で、どうするのか責任を持って考えたら良いと思います。その時には一緒に考えながら、大輔の生き方、考え方を尊重してやれる親でありたいと思っています。

 大輔がこれからもその笑顔でいられますように。
 大輔がいつまでも幸せでありますように。
 今想うことは、それだけです。  

                      1999.8.15 母より

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