雲と水面

遼(りょう)のこと
 私は、息子(遼)が通っている「日本聾話学校」のことを主に書いてみようと思います。昨年80周年を迎えた日聾は、現在も、80名あまりの難聴児で毎日にぎやかです。
 子どもの人格を無視した従来の厳しいろう教育が昨今見直され、トータルコミュニケーション=視覚に訴える手話・指文字などを取り入れるろう学校も増えてきたように聞いておりますが、まだまだ難聴児には言葉を「教えてやらなければ」という学校や訓練施設も多いようです。病院の(リ)ハビリもその一つです。
 
日聾はそのようなろう学校や訓練施設とはちょっと違ったやり方を貫くため日本でただひとつの私立のろう学校として存在しています。 私も遼も、他の多くの難聴児もここで心から救われて生きております。このようなろう学校があることを少しでも多くの方に知って欲しくて書きました。

2001.8.25 ご寄稿頂きましたので、掲載致します。(管理者)


遼は3歳9ヶ月になりました。
遼の難聴児としての始まりは1才7か月でしたが、それはあまり早い方とは言えません。親として難聴の知識も何もなく、自分の子供がまさか障害を持って産まれるとは想像もしていなかったので、発見がおそくなったのです。
 遼は赤ちゃんの時から表情が少なく、あやしてもあまり笑わない子で、気分が乗ったときに2日に1回くらい、「キャッキャ」と声を出して笑うくらいでした。
 2ヶ月くらいの時から、「おもちゃを振っても振り向かないよ」と夫が言い、私の母も「あなたが赤ん坊のころは、眠ると『シー』っと静かにしないとすぐ目を覚ましたけど、大きな音がしても起きないのはおかしい」と言い、お耳がきこえないのかも、と思っていたので、もっと早くに検査に連れていく機会はいくらでもあったことを考えると悔やまれてなりません。が、もしや、と思い、保健所に特別相談に行ったり、定期検診の際に小児科の先生に相談したりしても、親の心配しすぎのように「大丈夫」と言われたことにすがるより他になく、検査の機会を伸ばし伸ばしにしてきたので、そのような機関は、これからもっと難聴児についてより深い知識を持てるようにし、親の訴えには真摯に耳を傾けて欲しいとも感じます。少なくとも、おかしいと思うなら検査を勧めるくらいの対応は必要ではないかと思います。

 しかし、この1年と7か月の間に、遼を「障害児」としてでなく「普通の子」として扱ってきたことは、決してマイナスではなかったとも感じています。毎日ごく普通に話しかけ、お散歩に連れて行ったり、お友達と遊ばせたりしていました。
私達夫婦や周りの大人が、遼を「かわいい、かわいい」と無条件で可愛がって育てたことは子供にとってもとても気持ちがよく、安定した情緒を育てるのに不可欠だったと思います。現在では厚生省の通達で、生後まもなく、退院までの間に、聴覚障害発見のため脳波検査を全新生児に行うことになりそうですが、これが本当に子供本人のためになるのかはとても疑問です。
 出産のあとは、全ての母親は程度の差こそあれ大変なストレスとマタニティブルーに侵されています。その時期に「あなたの子供は耳が聞こえません」と宣告されたら、いったいどれだけの親が子供の将来に希望をもって育児ができるでしょうか。
また、やっと前向きにがんばろうと思っても、現在日本のろう教育のほとんどは、程度の差こそあれ、「訓練」の名のもとに子供の個性よりもいかに健聴児の言語獲得に近づけるかの競争のようになっていて、「母親のがんばり次第で子供の発達に差が出る」という考え方が大勢を占めています。親が「訓練しなければこの子の発達はあり得ない」と考え、子供をのびのびと子供らしく遊ばせる機会がとても少なくなっているのではないでしょうか。
 教育施設によって方針の違いがあるのは当然としても、現状では親がそれを選ぶことのできないことも事実です。
 私と遼の場合は、この1年7か月、ピッタリ寄り添って楽しく過ごせたことが、今現在での私達の関係の基礎になっていると感じます。
 私個人としては、聴覚障害発見と同時に、親の精神的なフォローが出来る施設なり環境なりが整い、迅速に検査施設から親の望む方針の教育機関への紹介が行われるようになるまでは、少なくとも生後半年くらいは、しあわせな親子関係でいて欲しいと思います。

 遼の場合、病院へ検査に連れて行った時にはすでに、「この子は絶対に耳が聞こえていない」と親が確信していたので、脳波検査の予約がいっぱいで、検査までの間に2ヶ月も待たされたこともあり、インターネットで難聴に関する情報を集めようと毎日のように検索して、人工内耳という手段があることを知ることができたのは収穫でした。


難聴の発見

 脳波検査で高度難聴とわかり、それを医師から告げられたときには、「やはり…」と覚悟はしていたものの、あふれてくる涙を押えるのに必死でした。それは、インターネットで得た人工内耳のことを、医師に実際に詳しく伺ってみなくては、という思いからでした。
 しかし、その小児専門病院の耳鼻科医師は、「そういうこともあるようですねぇ」としか答えて下さらず、「年令的にはどうなんでしょうか」という問いにも「最近はだんだん、小さな子供にもしてきているようですがね」という具体性に欠けるものでした。もちろん、その時点で遼が人工内耳適用の聴力レベルかどうかはわかるはずもありませんが、せめて、知りうる限りの施術病院等の情報や、これからどんなことが必要なのかの最低限の情報を与えて下さってもよかったのではないか、と今になっても寂しい・悔しい思いは抜けません。帰りの電車では無邪気に抱っこされている遼を腕に、夫と私はなんとも言えない脱力感と不安感にさいなまれていました。


ろう学校へ

 聴力障害がわかり、同じ病院の言語治療科に廻され(それも、2週間後の予約を、なんとかお願いして1週間後にしてもらい)、小児科の医師が「まず補聴器をつけて」と言っていたので、すっかりその場で補聴器をつけてもらえる気になっていましたが、2つの学校を紹介されただけで次の予約もなく、どちらの学校に決めたのか連絡を下さいと言われただけでした。それだけのことで2週間後の予約とはどういうことなのか、怒りに身をふるわせたことが思い出されます。
 紹介された2つのろう学校とは、そのとき住んでいた地域のろう学校と日本聾話学校です。早速、両校とも見学の予約はしたのですが、我が家からは、地域のろう学校の方が4分の1くらい近かったのと、日程的に最初に伺った地域のろう学校で「来週からでもいらっしゃい」と言ってくださったこともあり、早く何かに頼りたい一心で、そちらに決め、日本聾話学校の見学予約はキャンセルしたのでした。

 しかし、はじめに行ったろう学校は、当初決して居心地の良いところではありませんでした。通い始めから、遼は集団の音遊びや指導を嫌がり、帰りたいと泣き続けるということが2〜3回続きました。4回目でやっと泣かなくなっても、なかなか集団に入れず、輪の外で見ている状態で、そのまま夏休みになってしまいました。
 遼はもともと人見知りが強く初めての場所に慣れるのに時間がかかる性格で、1週間に1度くらい会う私の妹(遼の叔母)にさえ、抱っこを拒むような赤ん坊だったのですが、乳幼児クラス担当のベテランの先生には、それが子供本来の個性というよりも、母親の精神的なショックや、ひいては家族間がうまく行っていないのが原因ではないかと言われ(そのようなことは全く無く、我が家はとても仲の良い家庭です)、2重に責められているような心境で、指導日から帰ってくると、夕食時に今日あったことや言われたことを夫に泣きながら話すような日々が続きました。
 また、同じ乳幼児クラスに、遼よりも聞こえがよく(補聴器を付けたその日に名前を呼んだら振り向いたそうです)活発で、喜怒哀楽をはっきりと表わしてよく声も出し、1才半でオムツもとれている子がいて、なにかにつけては彼と比べられるので、私も遼がまるでダメな人間、劣った人間であるかのように思われて、学校に行くたびに暗澹たる気持ちになるのでした。
 以前に病院で紹介されたもう一つの学校である「日本聾話学校」のホームページをパソコンで眺めては、転校したい、という思いが徐々に強くなり、夫もそこまでつらい思いをして行くことはない、転校もありうる、と言ってくれたのもこの頃でした。


東京医大病院への通院

 ただ、学校に通い始めてすぐに人工内耳のことを乳幼児担当の先生にご相談すると、幼稚部にも装用している子がいるとのことで、すぐに東京医科大学病院のK先生をご紹介下さり、受診できたことは、大変に幸運だったと思っています。
 夏休みには病院の人工内耳装用児・検討児親子交流会に参加することで、詳しい説明を伺ったり、日本ではまだ中途失聴者にだけ適用だったころアメリカで装用して日本聾話学校に通う小学生のお子さんの様子を拝見したり、そのお母様からいろいろなお話を伺うことができ、ますます人工内耳手術を受けさせる決意が固くなったのでした。
 しかし、遼は、病院でもかなり慣れるのに時間がかかり、最初の何回かは言語指導の部屋に入っても泣いていやがる状態でしばらくは冷や汗ものでした。
 K先生は、一見すると鋭い視線をメガネの奥から覗かせる、とっつきにくい雰囲気ですが、親子交流会で子供たちが遊んでいるときに、遼がその会場の壁際に置いてあったオーディオセットのような器械のつまみを触ったりして遊び始めてしまったときに、そのことに気づかれた先生が、私はてっきり子供たちが遊んでいる場所を少し移動させるのかと思っていたら、そのオーディオセットを「こっちの奥に移動しよう」と言いながら一生懸命動かして下さっているのを見て私は、あ、この先生は何があっても子供中心に考えて下さる方だ、と深い信頼感を持つことができたのでした。


ちびっこ健康教室

 このころ、補聴器を付けて2ヶ月ほど経った夏休みに入ってすぐ、地域の保健所で「ちびっこ健康教室」という催しがあり、近隣の同じ学年に相当する子供が一同に集まり、身体測定のあと、親子で楽しく遊ぶ方法を保健婦さんに伝授してもらうという機会がありました。保健所としては、このご時世ですので、育児に悩む母親を発見したり、その手助けや、母親達の顔合わせの意味もあるのだろうと、気楽な気持ちで私も参加したのですが、遼は広いホールに入って、徐々にお友達が集まり出した頃から、その場のなんだか日常にはない空気を感じてか、帰りたいとぐずりだしたのです。公園でよく一緒に遊ぶお友達もいるのに、50〜60人の子供とその親が輪になって手遊びしたり、高い高いをしたり、音楽に合わせてお遊戯したりしても、絶対にその中に入らず泣きながら部屋のドアのところで靴を履いて出て行こうとするのです。でも、一人で出て行くことは出来ず、私に抱っこして帰れと大泣きし、私が「ほら、みて、とっても楽しそうだよ」と何度も言い聞かせてもどうしてもダメでした。他のお母様方はチラチラとこちらを見て気にして下さる様子だし、私もとうとう耐えられず、保健婦さんに相談して帰ることにしたのでした。
 たぶん、ろう学校での音遊びや体操などととても似た雰囲気があり、同じことが出来なければ許されないような空気を敏感に感じ取ったのではないかと思うのです。
 帰り道の自転車では、「どうしてあんなにたくさんの子供がいるのに、遼一人だけが嫌がるんだろう」ととても落ち込み、「もしかして、やっぱりお耳が聞こえないからなのかも」と浮かんでくる涙をこらえ気持ちを落ち着かせるために遠回りして家に帰ったのを今でも覚えています。健康教室が終わってから仲良しのお母さんが心配して家まで来てくれた時には、思わず涙がでてしまいました。
 このように、この頃の遼は、親や家族以外には、たまに会う夫の両親にさえも引いてしまう引っ込み思案の子供で、私は時としてそういう遼の持って生まれた性格までも、難聴のせいかもしれないと思ったりしていました。


日本聾話学校見学

 2学期に入り、やっと遼も地域のろう学校に慣れてきて、少しずつ遊びや体操に参加できるようになり、これならやって行けるかもしれないと思い始めた頃、幼稚部の学芸会の練習を見学させてもらえる日がありました。その日はちょうど、遼が体調を崩しお休みしたので、あとで同級のお母様に様子をうかがったところ、大変に厳しかったそうで、セリフをちょっと忘れたり声が小さかったりすると、普段お話が上手な子でも激しく叱られていたとのことでした。それを伺って、いつか遼も幼稚部に入ったらそのような扱いを受けるのか、それを私は見ていなければならないのかと思うと、今までのこともあって、私にはどうしてもそれは耐えられないことのように思われ、いてもたってもいられず、ついに一度はキャンセルした日本聾話学校に見学の予約を再度お願いしたのでした。

 電話口で、日聾併設の難聴幼児通園施設「ライシャワ・クレーマ学園」の施設長でいらっしゃるN先生は、まず毎日通うためには引越しが必要でないか、とおっしゃいました。こちらがそれも覚悟の上であること申し上げ、言葉通りの「見学」ではなく入学を前提とした「教育相談」をお願いしたのでした。

 11月中旬の約束の日、夫も休みを取って3人で最寄駅である小田急線の鶴川駅からタクシーに乗ると、「いったいどこに連れていかれるのか」と思うほどの距離を走り、とんでもない田舎の山の上に連れてこられてしまいました。家を出てから1時間半が経っていました。内心では、頑張れば今の家からでも通学できるかもしれないと思っていた私ですが、その期待はもろくも崩れさったのです。
 学校の外観は、公立のろう学校と比べると、古くて汚い印象は否めませんが、ぽかぽかのお天気だったこともあってか、とても暖かい、なごやかな感じがしたのを覚えています。
 9:30に受付にお伺いすると、すぐにN先生が来て下さり、まず学校内を案内してくださいました。
 乳幼児のフロアには各担当の先生ごとに個別室が設けられ、親子の遊びや交わりをマジックミラーの向こうから先生が見ていて、子供との接し方を指導してくださる、というやり方にまず驚きました。
 グループ指導と、基本的には個別指導が中心、とのことで、これなら他の子と比べて焦ったり嘆いたりすることなく子供と過ごせると感じました。
 オージオロジー部門には聴力検査室の他に補聴器修理室や調整室などがあり、学校で耳型を取ったり、簡単なメンテナンスをしてくださるとのことでした。
 公立ろう学校で紹介された業者に、ハウリングや、箱型補聴器に水分がかかったりして音が出なくなったりするたびに何度も何度も通っていたことを思うと、夢のようでした。

 また、幼稚部のフロアには広いホールがあり、毎朝登校後1時間はそのホールで自由に楽しく遊ぶと同時に、ある子どもと先生は個別話し合いが並行して行われるとのお話しでした。各部屋に赤外線補聴システムにより先生の声が直接補聴器(人工内耳(N22)はFMシステム)に入る仕組みになっていて離れた場所からもマイクをつけた先生の声が良く聞こえるように配慮されていました。

 それにしても、とにかく一番驚いたのは、幼稚部になると普通幼稚園と同じで親は送り迎えだけの保育となり、今通っているろう学校のように教室の後ろで親がメモをとって家に帰ってからも復習する、などというやり方をしていないところでした。
 N先生は「親同士が子供を比べてしまう弊害と、親がもう一人の教師になってしまう弊害、母親は家で母親としての必要なことをしっかりやってもらいたい等のことから、我が校では30年前から親は同伴していないのです」とのこと。
 また、幼稚部の個別話し合いを見せていただいたのですが、教師と子供が向き合って座らずに、同じテーブルに並んで座り、ニコニコ笑いながら楽しくやりとりしているのがとても印象的でした。

 ことばの学びについても、日本人が英語を学ぶことに例えて、先生に教えてもらい覚えて言うようなやり方でなく、外国に住んで日々の生活の中で子どもが必要な日常会話を身に付けるように導いていくやり方であると説明を受けました。

 教育相談室で遼や家族の現在までのプロフィールを記入したあと、N先生とオージオロジー部のK先生も入ってくださり、遼の詳しい話を聞いてくださったときにも、保健所や小児科で大丈夫といわれ発見が遅くなったことについて、現状では仕方ないことだと同情してくださり、自分を責めていた親にとって少しだけでも胸のつかえが取れたような気持ちになりました。
 また、聴力検査の後には、遼が付けている箱型補聴器の特性を測ってくださり、もっと最適の耳掛け型補聴器があることを教えて下さいました。オージオロジー部の若いT先生が、外した補聴器を付けてくださったのですが、遼はひざにちょこんと座って、おとなしくつけてもらっていますし、N先生もまるで親戚のおじさんのように自然に遼と遊んで下さり、初めての人にはなつかないはずの遼が普通に一緒に遊んでいるので親の私たちの方がびっくりしました。やはり、子供にとって肌で感じるやさしさや安心感のようなもので学校や先生が満ちているのかもしれないと思いました。

 もう見学の前から日聾への転校を決めていましたが、想像以上にすばらしい学校で、帰り道には眠ってしまった遼を抱いて、夫と2人、これから先の光明が見えたような穏やかな気持ちになったものでした。

 それからは引越し先を探したりと慌ただしい日々が続きましたが、一番ドキドキしたのは通っているろう学校の担当の先生へお話する時でした。しかし、先生は「日聾はとても良い学校だから、私もお勧めします。徹底した口話法だから、これから遼くんが人工内耳にしたら、より向いていると思います」と賛成して下さり、心から安堵したものでした。


補聴器の効果

 この頃、箱型補聴器をつけていましたが、一つ目の課題である「音の存在に気づかせる」ことがまだ目標でした。夏には近所の盆踊りにつれていき、太鼓の音を聞かせたり、花火大会に連れて行ったり、ノドに手を当てさせて声を出したりという段階でした。
 9月末のろう学校での聴力検査では、だいたい平均して50dbくらい出力している補聴器を付けたままでやっと110dbの音に反応した程度でしたが、徐々に私の「オーイ」という呼びかけに振り向いたり、すこしずつ真似をするように声をだしはじめ、11月中旬にはやはり補聴器をつけてですが、250や500Hzには70db前後の反応があったりして、少しずつ音というものの存在を知ってきたようでした。
 ついに11月末には、朝起きて補聴器を付けると、試すように「あー」と発声したり、12月初旬には鳩時計が鳴ったら自分から初めて見上げたりして、補聴器をつけてから4ヶ月、親もやっと一つ目の課題はクリアしたように感じていました。


日聾への通学

 冬休み中に引越しを済ませ、3学期の始めから日聾に通うことになりました。遼は2才3ヶ月になっていました。定員の関係で正式な入学は新年度(4月)からということでしたが、それでも他の方と同じプログラムで指導が開始されました。
 担当の先生はS先生とおっしゃる私と同年代の女性で、とにかく最初から私のことも遼のことも本当によく誉めてくださるのです。誉められることに慣れていないので、なんだかこそばゆい。でも、とっても嬉しくなって、アドバイスを頂くともっとガンバロウと言う気になるから不思議なものです。

 入学が決まるとまず親に渡されるのが「聴力に障害のある幼児の育て方」という冊子です。これを読むと一貫して、ことばというものは耳の不自由な子供に対しても、何か普通と違ったやり方で「教え」なければならないことでないし、また、「教えることができる」ものでもない、普通の子供と同じように、親と子が日常生活の中で楽しく嬉しく語り合って行く中で、言葉は育って行く、ということが書かれています。
 また、新入の親達は、母親(主に子供を世話する者)は6回、父親は3回の講義を受けることが義務付けられていました。
N先生の講義が3回、オージオロジー部の講義が2回、校長先生の講義が1回です。

 私が遼を育てて行く中で、目からウロコが落ち、たいへんに感動した新入の親たちへの講義の内容を少しお話したいと思います。

新入講(1)

 N先生による第1回目の講義は「子育てを楽しむために両親でもう一度考えて欲しいこと」と題されたプリントが配られて、難聴のあるなしに関係なく、基本的な育児の心構えについてのお話でした。
 まず、平均聴力の出し方を教えてくださいますが、これは検査した時の数字である、現在の機械で測れる限度であり、その日の気分や子供の性格によっても日々上下することがあり、これに縛られることのないように、とのことでした。

 あるろう学校や訓練施設では、教師や親が考えた、【子供にとって必要だと思う言葉】を記憶させたり真似させるという方法で言葉が教えられ、子供の意思はあまり考えられていないのではないか。
本校では、
子供が何を言いたいか
子供が何を考えているか
子供が何を思っているか
を、親が判断し、汲み取って援助・補助してあげる、という方法で、たとえ通じる言葉はまだ無くても、親子が心で分かり合うことが大切であると考える。それには子供をよく知って、受け入れてやる心の広さが必要だが、これは子供の思うがままにさせるのではなく、しつけとの線引きが難しくなるところである。
 それにしても、難聴児といえども、人間同士としての信頼関係がなによりも大切で、心の通じ合いが、言葉の通じ合いに育って行くということを心に刻むように言われました。

 それから、おもむろに黒板に「good」と書かれます。
これはゲームですからあまり深く考えないで下さい、と前置きされ、
日本語に直すと「良い」だが、これを点数に例えると、子供がテストで何点取ってきたら「good」といって誉めてあげますか?と聞かれました。
私は80点くらい、と答えました。結論からいうと、欧米では40点でgoodだそうで、
 20点−−−−fine
 40 −−−−good
 60 −−−−very good
 80 −−−−excellent
100 −−−−perfect
となるそうです。パーフェクトはもう完璧、神の領域。
また、たとえ20点であっても「たったの20点?だめじゃないの」などという否定的な言葉ではなくfineという誉め言葉であることに着目してほしい。
 日本の文化は伝統的に上昇指向であり、No.1になれ、と叱咤激励するが、子供に対して要求水準が高いと、自然と無理を要求することになる。お勉強ができればOK、できて当たり前、の社会で、その子の良い所を見つけ誉め、伸ばして自信をつけてやるという考え方が少ない。出来て当たり前で育てられるのは人間としてはどうなのだろうか?
 子供にどういう生き方をしてほしいのか、親自身は今後の人生をどのように生きていくのか、を考えて育児をしていってほしい。子供の悪い所ばかりを見ずに良いところを見るように。
 親が子供の「存在そのもの」、あるがままを愛し、人と比べることをしない。あなたが生れてきてくれて本当によかった、と思い、手間と時間と「心」をかけて育てる。
 難聴だとわかる前にはいつも子どもの立場にたって話し掛けていたはず。それが、難聴だと判った途端に、今までのように話しかけられなくなり、いつでも聴力のことが頭から離れないで、言葉を教えよう、わからせよう、としていませんか? 子供が赤ちゃんだった時の気持ちに戻って、親がいつも笑顔でやさしく抱きしめてやることが、子供の心を安定させるのです。
 夫婦で楽しく、仲良く、笑顔で語り合う場面を子供の前で見せてやることが子供の至福の時であるし、会話をしているモデルにもなるのです。
ほぼ、以上のような内容でした。

 私は、「本当に、遼が赤ん坊のころには毎日いつでも、いろいろな子守唄に遼の名前を入れて替え歌にして歌っていたなぁ」とあの頃の幸せな気持ちを思いだし、あふれる涙をぬぐうのに精一杯でした。
 そうなのか、あの頃の気持ちに戻って、遼と楽しく生活していけばいいのか、と思うと、心のモヤモヤがすーーっと晴れて明るい光が差しこんできたようでした。

 講義の最後に、私には夫のいいところを5つ紙に書き出し、夫には妻である私のいいところを5つ書き出してもらい、そして二人で相談して子供のいいところを5つ書き出して全部を家の中で一番目に付くところに貼っておきなさい、と言われました。

 夫も父親新入講として別の機会に同じ内容の講義を受けましたが、プラス、父親としての心得として
家庭生活を支える
母親を精神的に支える
社会生活に子供ともども積極的に参加する
母親に月に最低2〜3時間は自由な時間を持たせる
仲の良い夫婦となる
子育てを一番の優先順位とする
などといわれたそうです。

新入講(2)

 2回目の講義では、聴覚障害児を育てる親の心得(毎日、生活をする中でことばをはぐくむために)と題されたプリントが配られ、コミュニケーションの基礎を育てる会話の基本、などの具体的な講義が始まりました。
 しかしここでも一貫しているのは、「何か極端なことや無理なことはやらなくてよい」ということです。
1)楽しく過ごす
2)子供が声を出したとき、必ず応えてやる
3)普通の会話をする
  @年令に合った話をする
  A普通の口型で話す
  B年令にあったスピードで話す
  C文で話す(最初は2〜3語文)
  D質問ばかりしない
  E子供に考える間をとる
  Fわからないときは繰り返し話をしてやる
4)ありとあらゆる機会に話す
などと、12)まで続きます。

 耳の障害がわかった途端に親が子供に「言葉を教えなければ、わからせなければ」となってしまっているが、障害がわかる前の気持ちに戻って、子供の立場に立って話し掛けるように。
 1対1の関係で、対話(相互理解:インターラクション)のできる人(インターラクショニスト)になるように。
 絵本などで楽しく遊んでいる時にも、これはなに? これはなにいろ? これはなにしているの?などと、答えがひとつしかない質問(closed question)をせずに、これはどう思う? どうなるのだろうね?などの子供が自分で考えられる質問(open question)をする。
1番病(なんでも一番でないと気が済まない)にはしないように。(親の価値観のあわられであるから)
言葉をわからせようと極端な話し方や発音をしたり、大きすぎる声で話したりすると、そういう話し方をする親の言うことしかわからなくなり、社会へ出た時に他人の話がわからないという現象が起こるので、自分の子供と同じ歳の健聴の子供に話し掛けるのと同じスピード、内容でよい。
などの講義がありました。

新入講(3)
 
3回目の講義はいままでの総括として、
毎日の生活で子どもがやるべきことをわかるようにする。
子供にことばを話して「もらう」ために、その他のことでは甘くなり、かしずいて育てることはしない。きちんとしつける。
家族の中でかやの外におかない。
ことばのシャワーをあびせる、ことばのお風呂につける、などは一方通行であって、「会話」ではないので、しない。
必要な時に適切な言葉をかけてやる。
子供が声を出して呼んだら、どんなに忙しくても必ず応えてやる(振り向く、近くへ行く)。
大人も「心のやりとり」を一緒に学ぶ。
母親がインタラクショニストになる。
いつも笑顔でいるよう心がける。急にはできるようにならないので、具体的には自分が女優になったつもりで演技していると、自然にそれが身に付く(かもしれない)。夫が「最近、なんだか変わったな」と言ってくるように努力し、明るく楽しく家族に接する。
学校・指導、と意識して緊張せず、教師にありのままの姿を見せ、どんなことでも相談し、話しにくいことは日記に書いたり、電話してもよい。
食事は、子供が食べられるであろうと思う量の半分にして、全部食べる達成感を覚えさせ、強要しない。楽しく笑いながら食事をする。よく遊び、よく運動させ、空腹感を持たせる。
などでした。

教頭先生の講義
 校長先生の講義は、校長の交代時期と重なって、教頭のN先生の講義となりました。日本聾話学校の教育方針について、何を大切に考えたいのか、という点で、施設長のN先生の講義と重なる部分も多く、それだけ、どの先生も変わりなく学校の方針を深く理解され、それに基づいて一貫した教育をなさっていると再確認できるものでした。

 本校の教育は「言葉」を育てる教育である前に「人間」を育てる教育です。で始まるプリントが配られ、従来のろう教育=聞こえない=言葉が無い=言葉を教える教育 でない『人間教育』でありたい。
「教えられないものがある」、それは「関係」の中で「育つ」しかないもの、イコール「心」と「言葉」である
真に身に付いた言葉の発達を目指したい。「教えられた」言葉vs人間関係の中で「育ってきた」言葉、「全人的発達の中で」こそ「言葉」は発達するし、「日常生活の中で」こそ、「言葉」は発達する。
 また、ご自身が米国のろう学校へ留学された経験から、言葉(英語)がわからないつらさ、聞こえるのではなく聴こうとする姿勢の大切さ、などのお話や、日本で唯一の私立聾学校としての経営の大変さ、本校を卒業またはインテされた親御さんたちで作る「親の会」が事務受付でクッキーを販売しその収益を学校に寄付されているお話など、別の視点からのお話も頂けました。
 その日の下校時にはまっさきに事務受付へ直行し、おいしそうなクッキーの詰め合わせを買って帰ったのを思い出します。


オージオロジーの講義(1)

オージオロジーの講義ではオージオロジストのK先生により、詳しいプリントが数枚配られて、
音と聞こえについて、
聴力とオージオグラム、
耳の構造と難聴の種類、
聴力の低下と中耳炎・外耳炎などについて、
補聴器の使い方と保守管理の方法、
言葉を良く聞き取りやすくするための配慮の仕方、環境作り、話し方、
毎日の補聴器の電池チェック・イヤモールドのチェック・実際の音を、ステゾスコープを使って聞いてみるやり方、
補聴器の防汗対策…
などについてのお話がありました。
また、ヘッドフォンを使って、子供が実際に補聴器で聴いている音を技術的に再現して下さり、聴いてみることができました。

 オージオロジーの2回目、T先生の講義では、音を聴く生活と題したプリントを元にして、
1)なぜ「踏み切りのカンカン」と「カエルのゲコゲコ」は違った音に聞こえるのか?
2)「リンゴたべますか」と言うときひとつにしても、上機嫌で思わず鼻歌がでてしまいそうな時の声、次にはケンカしたあとなどの何だか機嫌が悪い時の声、つぎには途方にくれた時の声…などといろいろな感情を込めて言ってみる(順番に親がやってみる)と、おなじ言葉なのに、全く違ってきこえる。ゆえに、ことばとは、話をしたり、物事を考えたり、知識を学ぶためだけのものではなく、嬉しい、楽しい、悲しい、好意、悪意、落ち着き、あわてる…など、心を伝え合うためにも大切なものである。
3)「良く聞こえる=音の意味を理解できる」ではない。音の意味を理解するとは、今までの経験によって、その音が何の音であるかを知らないと、聞こえても理解することはできない。したがって沢山の音を聴く経験が理解につながる
4)子供に、自分の声と気持ちを確かに伝えるための具体的な配慮と工夫について考えてみましょう
などという内容でした。

 以上のような全部で6回の講義を受けることにより、難聴というものへの理解も深まり、自分が実際に子供にどのように接したらよいのかの精神的・環境的な部分での大いなる手助けになりました。
 とにかく、一番に印象に残ったのが、公立のろう学校では、真っ先に、常識のように「言葉のシャワーを浴びせなさい」「言葉のお風呂につけなさい」と言われていたのに、「一方的に言葉のシャワーを浴びさせるのは、会話ではないので、しないように」ということです。
 講義や話し合いはたいてい、木曜日や土曜日に行われるのですが、その時には、毎回ボランティアのおばさま方来てくださり、、ホールで子供たち(ときには赤ん坊)を遊ばせたり、おやつを食べさせたりして、終了後親たちが戻ると、きちんと子供の様子を話して下さるのです。
 遼は、最初のうち、気が狂ったように2時間近く泣き続けましたが、そのうち、泣きながらもバイバイするようになり、だんだんと親と離れることができるようになっていきました。

個別指導
 講義と並行して担当の先生による個別指導も始まりました。
 家から何か遼のお気に入りのおもちゃや絵本を、時には遼と相談して持って行き、時には内緒で買っておいたびっくりするような物を持って行ったりして、私が遼と2人で個別室で遊びます。それを先生がマジックミラーの向こうから見ていてくださり、少しして入ってこられ、「あの時はとてもよかったです、あれを渡す時はこのようにした方がよかったと思います」などと指摘して下さいます。
 その後にはカセットテープに合わせて、一緒にいろいろな歌を歌い、また、先生のお部屋にあるゲームやおもちゃで遊んだりします。
 私が読んでやって、いまいちの反応だった絵本も、「ちょっとお母さんは見ていてください」とおっしゃって先生が読んでくださると、遼も目を輝かせて見て、よく声を出したりします。
 どこが違うんだろう…。すぐに気づきます。先生は絵本を開いても一言もおっしゃらず、遼の目が何を見ているか、遼の顔をご覧になっています。そして、遼が指差したり、先生の顔を見たりした時に初めて「ああ、ぞうさんがいるね」などと遼が言いたいことを替わりに言葉にして話し掛けてくださるのです。
 遼の心が動くまで待っているのです。この「待つ」ということを、日聾で初めて教えていただきました。
 子供の興味とは関係なく、絵本に描かれている物や言葉を「教えよう」とこちらが一方的に読んでいたのでは、子供の心に届いていかないばかりでなく、絵本が嫌いな子供になってしまう。子供が何を思っているのかを十分に察してやった上で、そのことを話してやると、すーっと子供の心にその言葉が入っていく。
 絵本だけでなく、日常生活でも「待ちなさい」と言われました。ろう教育の基本である「言葉をシャワーのように浴びせる」は否定している日聾の教育ですが、それでも、「ありとあらゆる機会に話す」とは相反するもので、無言になってしまうことに私は恐怖すら感じていました。ところが、先生方は「沈黙を恐れない」で待つ教育に徹していらっしゃり、それを親にも教えて下さるのです。

 日聾も昔は聴覚口話法を日本に最初に取り入れた学校として、他のろう学校の先端を行く口話法の教育方針だったそうです。ところが、数年前にお亡くなりになった大嶋元校長先生が、これでは子供の心は育たない、として、15年ほど前からは、英国のバークデールろう学校のクラーク先生の教えを取り入れ、より充実した内容にされたそうです。
 そして、子供を一個の人間として尊重し、子どもの身になって育て他の子と比べない聴覚主導の教育が行われているのです。

 たぶん、日聾に来て、子供も親も誉められる生活になったおかげで、私自身の心の持ちようが大きく変わったのではないかと思うのですが、遼も徐々に明るく表情豊かになってきました。

 今にして思えば、難聴発見後は私の心が「耳」と「言葉」ばかりに向いていて、遼の気持ちを考えていなかったなぁ、と思うのですが、あの頃の私は、「母親のあなたが頑張らないと子供は話せるようにならないのよ」という叱咤激励に押しつぶされそうになっていたのです。私のような親に必要だったのは、日聾の先生のように、なによりも「大丈夫ですよ、あなたの子供は愛情をたっぷり注いでやればそのままで立派に大きくなって行きますよ」という暖かい心からの抱擁であったと思うのです。

 また、以前のろう学校の先生は、「日聾は口話法の学校だから」とおっしゃっていましたが、単なる口話法ではなく、聴覚主導の人間教育であり、無理な発音指導や絵カードを使った訓練などはなく、かといって「手話」も全く使わずに、「言葉」の前に「人間」を育ててくれるところだと解かり、やはり入学してみないと、実態はわからないものだと感じました。

 その後も、「学期始めの話し合い」「学期末の話し合い」「わがままについて」「絵本の読み聞かせ方」「反抗期について」など、定期的に開かれる講義や、先生と親たちとの話し合いの場においても、さまざまなことを学びました。
 「わがままを持たせないために」という講義の機会には、そもそも「ワガママ」ということ自体、大人の側から見た状況であり、子供の側から見ると、自分の意思が出てきて、自分で判断したいことが、大人の意思と合わないのでイヤイヤ状態になるのであって、成長している証拠として本来なら喜ぶべきことである。
 子供にとっては「迷いの時期」であるので、即断するようなことを要求しすぎないように。
 そして、現在の一番子供がワガママと思うときはどんな時か?と訊かれ、私がちょうど指名され、私は食事のときに好き嫌いが激しくワガママを感じる、と言いました。
N先生は、「じゃぁ、子供にどうあって欲しいのか」と訊かれるので、
私は「何でも残さず食べて欲しい」と言いました。
N「それは、どうして、なんでも残さず食べてほしいのか」
私「栄養がつくから」
N「どうして栄養がつくと良いのか」
私「身体が健康になる」
N「どうして体が健康になると良いのか」
私「病気をしないで元気に毎日学校へ来られる」
N「どうして元気で毎日学校に来られるとよいのか」
私「子供が楽しく一日を過ごせる」
N「どうして子供が楽しく過ごせると良いのか」
(このあたりから、私も周りのお母様お父様方も、クスクス笑い始める)
私「私も楽しくなって、親子楽しく仲良く過ごせる」
N「どうして親子仲良く過ごせると良いのか」
私「怒らないで済む」
N「どうして怒らないと良いのか」
私「子供がのびのび成長する」
N「どうして子供がのびのび育つと良いのか」
私「大人になった時心に傷が残らない」
N「どうして大きくなって心に傷がないと良いのか」
(皆だんだん不安になってくる)
私「バランスのとれた人になる」
N「どうしてバランスのとれた人になると良いのか」
私「………………(沈黙)」(内心:あー、もうそんなこといったって、わからないよー)
N「そうすると、子供は幸せになれますかね?」
私は、ここで、ハッと気づく。「そうか、私達は、日常のどんなに小さなことでも、究極の目的は子供の幸せを望んで、しているのか!」
N先生は続けます。
子供にとっては、すべてのことが上手にできるようになるまで、いつでも「練習中」です。
好き嫌いせず食べろ、身の回りのこともできるようになれ、言葉をしゃべろ、、、
一体、私達大人が子供に要求していることは、【何のため】なのか?をじっくり考えて行動して下さい。

 私は、講義が終わってからもしばらくの間、「遼が幸せになってほしい」という究極の目標をついつい見失い、目先のことばかりに気を取られて、毎日小さなことで遼に理不尽な要求をしていたのではないか、などと思い当たることがいっぱい浮かんできて遼に対して申し訳ない気持ちと、自分の身勝手さを恥じる気持ちで、席を立てずにいました。


人工内耳の手術

 遼の聴力検査も進み、徐々にハッキリした聴力がわかってくると、やはり遼は高度難聴であり、人工内耳適応のレベルであることがわかりました。ほぼ月に一度の通院を重ねSTの先生にも慣れてきて、音が聞こえたらビーダマを入れる、などの条件付けもできるようになり、我が家では、大して悩むこともなく遼が3才になる前に手術をすることを決心しました。なかなか手術日が決まらないので、こちらから「先生、いかがでしょうか」とお願いしたくらいでした。
 いろいろと悩んで手術を迷われる親御さんの話をよく伺いますが、私は人工内耳によって補聴器よりも良く聞こえている先輩装用児を見たりその親御さんに話を伺い、人工内耳による恩恵を受けている人が実際にいる以上、遼にも同じようにしてやるのは親としてむしろ当然と考えていました。もちろん、いろいろな本を読んだり人から話を聞いたりして、人工内耳手術のリスクやデメリットなどについて勉強をしました。その上で時期的なものや手話を使わない学校を選んだことなどを考えて決心したのです。

 いよいよ、2000年5月9日、人工内耳の手術日を迎えました。遼は2才7ヶ月になっていました。
前日の入院の日、夫も会社を休んで車で病院に向かうときには、遼は遊びに行くつもりで、機嫌よく母にバイバイしたものでした。
 小児病棟に入り、私が看護婦さんと打ち合わせをしている間、夫が遼をパジャマに着替えさせたのですが、パジャマになるのをとても嫌がって大泣きし、なんとか着替えた後ではパパも遼も汗びっしょりになっていました。
 そのあとは、落ち着いて病棟のプレイルームで遊びだしたのですが、でも、やはり夕食後19:00の面会時間終了と同時に、ベッドの柵を上げ、バイバイするともう、この世の終わりのように泣いて、夫も思わず涙ぐんでいました。
 恐る恐る21:00頃病棟に電話を入れると、泣き疲れて先ほど眠ったと看護婦さんが教えて下さり、改めてそばについていてやれない苛立ちを感じました。

 当日は朝8:00に病棟に行くと、姿を見ただけで泣いて抱っこし、8:30に手術室へ向かうエレベーターホールでバイバイする時にも、しがみついて私から離れず、無理矢理ベッドに乗せると、ベッドの柵を両手で持って座り、大粒の涙を流しながらなかばあきらめるようにしてこちらを見ながらエレベーターに乗って行きました。

 手術は三時間ほどで無事に終了し、病棟に戻ってきてから少し顔を見たのですが、抑制チョッキで動けないのに、抱っこされたくて起きあがろうともがくので、「よくがんばったね、えらかったね」と声を掛けただけで、返って遼の負担になってはいけないと、すぐに出てきてしまいました。
 15:00の面会時間からは、私が手を握り、夫が足を握り、少しでも動くと帰ってしまうのではと泣くので、ずっとそのままで見守りました。ウトウトしたり、目を覚ましたり、の繰り返しでした。
 それでも夕飯には、おかゆをお茶碗一杯食べ、ほっとしましたが、それもつかの間。夕食が終わるとすぐに面会時間終了だとわかっているらしく、抱っこをせがんで泣くのです。後ろ髪引かれる思いで振り向かずに病室を後にするのが、余計に遼にとっては見捨てられたように感じるのでは、このまま遼が気が狂ってしまうのではないかとまで心配したほどでした。

 翌日に行くともう歩いて迎えに来たりして、それから4日めまでは順調に回復し、点滴もとれたのに、5日めから嘔吐と下痢と発熱が始まってしまいました。便の検査の結果、ロタウイルスという、胃腸に来る風邪の菌に感染したことがわかり、同室の子供への感染を防止するため、ナースステーション横の観察室に移ることになりました。
 その上、点滴の液が腕の中で漏れてしまい、二の腕から指先までパンパンに腫れあがり、シップの為にグルグル巻きにされて、もう一方の腕にはまた点滴で、両手が使えなくなる始末。
 何も食べられず、少し食べては戻してしまい、オムツからも漏れてしまう水のような下痢のため、どんどん痩せて行き人相が変わってしまって、あまりにかわいそうで、耳鼻科や小児科の医師に「人工内耳手術と関係ない症状なら、退院させて欲しい」と頼んだのですが、下痢が治まるまでは無理といわれ、手術以外でこんなことになるなんて思っても見なかったので、どうして遼がこんな目に会わなければならないのかと何か怒りのような気持ちが湧いてきても、それをどこにぶつけるわけにも行かずにとても苦しかったです。
 やっと、熱が下がって嘔吐が治まり、下痢も軽くなって、結局、入院から13日めに退院、その日のうちに音入れとなりました。
 はじめての刺激に3回くらい「えーん」とぐずってコイルをはずそうとしましたが、そのあと付けることを嫌がることもなく、無事音入れを終了しました。
 音が入って反応したことよりも、やっと退院できる嬉しさが先に立ち、あまり感動はなかったような気がします。
 真新しいスピーチプロセッサを手作りリュックに背負って、大雨の中帰宅する車中で、今までがウソのような食欲にビックリし、やはり精神的なものも大きかったのだ、と改めて気づかされました。
 最初は控えめなマップだったこともあり、補聴器で振り向きがあった呼びかけにも反応しなくなりましたが、1週間後の第1回目のマッピング以降は、どんどん環境音に気づき出し、毎日が新しい発見の日々でした。
 家の外で(遠い)犬の吠え声や、トイレの水を流す音、ボリュームの大きくないインターフォンのテュルルル、電話の音など、ありとあらゆる音に、手のひらを耳に当てて「聞こえるポーズ」をしてくれるので、いちいち誉めてやり、笑顔がお互いに増えました。

 また、遼の入院中感染の事例から、遼の後に手術した子は、皆、手術日から5〜6日足らずで退院となり、その後、通院での音入れ、という形に変わったので、遼の苦しみも少しは他人の役に立ったのかな、と良い方へ考えることができました。

(リ)ハビリ
およそ2ヶ月間、週1回の割合でマッピングを繰り返し、おおよそ反応が落ち着いて来た
夏休み明けの9月に、(リ)ハビリが始まりました。
口を隠して声の長さの分だけ豚のおもちゃを移動させる遊び。
太鼓・ラッパ・鈴の絵を見せて音を聴かせ選ばせる遊び。
あ・し・ん、などの声により、それぞれ違う動物の消しゴムをジャンプ移動させる遊び。
どれも音や声の(長さの)弁別ですが、わかっているのかいないのか、集中できず、私にやれといったり、好きな場所へジャンプさせたり、後ろを振り向いてしまったり、太鼓をたたかせろ、ラッパを吹かせろ、とうるさく、訓練にならず。
このころ、ちょうど反抗期の真っ最中で、といっても、遼はそれほどひどくなく、手を焼く、お手上げ、などということは少なかったので、まぁ、このくらいは仕方ないかな、という感じでした。(充分、困ってはいたのですが)
それからは、2週間に1回程度の通院がずっと続き、ハビリの内容も少しずつ進歩してきました。当初は弁別だけでしたが、聞き分けができるようになり、物の名前が言えるようになり、課題は発音的なことに移ってきました。
マップが落ち着いてからは、4ヶ月に1回、多少の調整をするだけで、それが最良かどうかはまだ不明ですが、ほとんど安定したマップになっています。


幼稚部入学

 遼にとって、幼稚部入学は、イコール、親と離れることです。入学式の日から、親は子供を教室に残し、先に講堂へ入っています。遼の学年は11人いますが、ママから離れられず泣いた子は一人だけで、まずまず順調なスタートでした。
やはり、乳幼児クラスの時から、毎週1〜2回は、さまざまな講義や話し合い、おもちゃ作りなどで親と離れる機会がたびたびあったことが、土台になっていると思います。
 最初の3週間ほどは、遼も、彼なりにストレスや不安があったのでしょう、下唇を噛むクセが現れて、唇の下にもう一つ唇ができたみたいに赤く腫れてしまっていたのですが、幼稚部の生活に慣れていくと同時に、いつのまにか唇の腫れも治まっていました。
 3ヶ月経った今では、夜いつまでも遊んでいる時に「明日も学校だよ、朝、眠くて起きられないよ、早く寝なさい」というと、すぐにふとんに入るようになりました。
 クラスメート11人と、年中、年長のお友達、先生方の名前も全部覚えて、毎日学校で経験したいろいろなことを私に話してくれます。
「ももぐみさーん」「はーい」先生の呼びかけにも上手に応えられるようになりました。


待つ教育

 今まで、私が日聾に通ってきて、日聾のことをひとことで表現するとしたなら、日聾の教育は「待つ教育」である、ということです。
 子供の成長、それも、自らすすんで成長しようとする力を信じ、それを待ってやれる親にならなければ、子供の真の自立はありえない、ということです。
 それを肝に銘じて日々遼と生活していると、なんと、子供からの訴えかけの多いことか。それを言語化してやることで、どんどん言葉は成長していく。心も同時に成長していく。
私達親が遼のことをかけがえのない、たった一人の、あるがままの存在として愛してやることで、遼自身の他人への信頼が育って行く。それは人とコミュニケーションをとりたいと欲する心となり、外の世界へと開かれた心となっていく。
 綺麗な発音で、美しい文章を話す、それができるに越したことはないけれど、それよりももっと大切なものがある、ということに気づかせてもらえて、本当に日聾と出会えてよかった、と感謝の気持ちでいっぱいの私達夫婦なのです。

 まだまだ未熟な至らない母親で、毎日遼のことが待てずに叱ったり感情的になったりしてそのたびに反省するし、小さなことでくよくよ悩んだり、揺れ動いたりしていますが、少なくとも私達親にとっても日聾が心の拠り所となっているし、これから私も遼と一緒にいろいろなことを吸収して少しでも成長していけたらと思っています。

 今の私は、遼の将来のことはまったく、といっていいほど心配していません。日聾の中学部では、普通の中学ではなされることのない、「自分自身と向き合う」ということをさせてくださるそうで、自分の性格、障害と向き合い、卒業後の進路まで自分で考えて決めるように導いてくださるそうです。中学卒業まで日聾にお世話になりたいと思っているし、その後、健聴者の社会に出ていって辛い目にあうこともあるでしょうが、日聾の土台があれば、大丈夫だと確信しています。
 ただ、周りの人の気持ちを察することのできる優しい人間になって欲しいと思うだけで、しかもそれは、このままいけば決して高い望みではないような気がするのです。それ以外のことは、遼が自分で決めて行けばいい。子供の真の自立を妨げないよう、親も共に学んで自立していかなければ、と思っています。



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