1.W.ジェームズ。文が始まるところで思想はすでに完成している。どうしてそれを知ることができるのか。

-------しかし、その思想を述べようという意図は、その最初の言葉が語られる以前に、すでに存在していよう。というのは、誰かに「あなたは自分が何を言おうとしているのか知っているのか」と尋ねるならば、しばしば、知っている、と言うだろうから。

2.わたくしは、「あなたに今・・・のテーマを口笛で吹いてあげよう」と誰かに言う。わたくしは、それを口笛で吹こうという意図をもっている、また自分が何を吹こうとしているのか、すでに知っている。

 わたくしは、このテーマを口笛で吹こうという意図をもっている。それではわたくしは、ある意味で、そのテーマを頭の中で、もうすでに吹いてしまっているのだろうか。

      『断片』 ウィトゲンシュタイン著

           菅 豊彦訳

           大修館書店刊 ウィトゲンシュタイン全集9より


 ある聡明な男が船旅に出た。船に乗り込んで来た乗客たちはその男がいかに聡明かを知っていたので次々と彼に助言を求めた。男は一人ひとりに同じ話しをした。

「死について知るまで、常に死を意識しなさい」

 しかし、たいていの乗客たちはかくべつその言葉に動かされているようには見えなかった。

 船は港を出て大洋を渡っていった。途中 嵐に見舞われ、船員も乗客も神に祈り、狂ったように助けを求めたりした。

 やがて嵐は止み、海や空が穏やかになるにつれ、嵐のあいだ聡明な男がいかに落ち着いていたか思い起こしはじめた。

 乗客のひとりが聡明な男にたずねた。

「あの恐るべき暴風雨が吹きあれていたとき、われわれと死とのあいだには、たった一枚の板しかなかったことに、あなたはお気付きでしたか?」

「もちろん知っていました。でも、嵐のときだけでなく、海の上では常にそうなのではありませんか。しかも、日常生活ではその板一枚すらないということに私は気づいて、陸にいるときにも絶えずそのことに心を集中していたのです」

    『スーフィーの物語』  

         イドリース・シャー 著

         美沢真之助 訳 

         平河出版社刊

          (一部 割愛させていただきました)


 全宇宙にどれだけの数の生命、意識、自己意識、あるいは意志主体、総じて心あるものが存在するかは知らない。だが、そのうち<私>であるのはたったひとつである。それは、今これを書いているこの人間である。そこで次のように問わざるをえない。この人間だけがこの私であって、他の無数の自己意識をもち意志的な諸主体はこの私ではないのは、なぜなのか、と。そこにどのような違いがあるのだろうか。中曽根康弘や福沢諭吉やデカルトやランランやこれから生まれてくるまだ名のない赤ん坊ではなく、永井均だけがこの私と呼べる特殊なありかたをしているのは、どうしてなのか。その特殊性はどこから来ており、その実態は何であるのか。また、およそ世界に、この私は存在せず、ただ無数のある「私」(自己意識や意志をもった主体)が存在するだけであることもできたはずなのに現実にはそれ以上のことが実現されているのは、どうしてなのか。この私の存在する現実の世界とそうでない世界とは、厳密にいってどこが異なっているのだろうか。すなわち、永井均というこの人間は、現在の私とまったく同じあり方で存在しているにもかかわらず、彼はこの私ではなく、単なるある「私」のひとりにすぎないことも可能であるはずなのに、現実には、たまたま彼がそれ以上のありかたをしているのは、どうしてなのか。

     『<私>のメタフィジックス』

           永井 均 著

           勁草書房刊

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