Let it be  心の話 Vol.4     物語
     
 人には物語が必要だ。
     
 たとえば、僕の名前にはひとつの物語がある。僕の名前は陽二だ。この名前は誕生
日に由来している。僕は九月九日に生まれた。九月九日は重陽の節句と呼ばれ古くか
ら伝わるお祭りの日だ。一月一日は元旦、三月三日は桃の節句、五月五日は端午の節
句、七月七日は七夕、そして九月九日が重陽の節句だ。九は陰陽の考え方で陽の数と
されている。それがふたつ重なっているから重陽の節句だ。そこから来て重陽の「陽」
と九がふたつだから「二」で陽二。そして「二」は二男の「二」でもある。
     
 僕は陽二という名前がさほど気に入っている訳ではない。しかし、名前に備わる物
語があまりにもしっかりしているので、それ以外の名前はありえないと感じている。
気に入った名前ではないがこの名前をつけてくれた親父に感謝している。よくぞこん
な物語を僕に与えてくれたと。そして「陽二」という音を気に入ってはいないが、付
随した物語は好きである。
     
 神話や宗教は民族に物語を与えてくれる。民族はその物語をよすがに生きることが
できる。様々な風習ははたから見ると無意味に思えることがある。しかし、彼らはそ
の風習を物語とともに納得して生きることができる。その物語は多くの場合、民族の
団結をうながすものであったり、やる気を引き出すものであったり、道徳を説くもの
であったりする。聖書もそういう物語のひとつだ。
     
 日本にもかつては物語がたくさんあった。その物語は私たちの祖先が体験したこと
だからとても尊重された。その物語のなかに私たちの根源がひそんでいるからだ。と
ころが戦後、それらの物語は破棄された。日本人は敗戦と客観的な歴史という物語し
か持たなくなった。人の行動規範は資本主義、つまりは競争原理だけとなった。
     
 昨今の精神世界ブームは物語の回復運動ではないかと思う。自分のなかに物語を根
付かせなければ生きている意味や感動を見いだせなくなっているのではないだろうか。
そのために前世が必要であったり、神が必要であったりする。
    
 こう書くと前世や神にたいした価値はないと書いているようにも読める。しかし、
それは違う。たとえばアイルランドの旅行記「天使の行進」に僕の前世について書い
たが、どんなに自分の前世と思える証拠がそろっても、それが事実であるかどうかは
結局わからない。それを事実として生きていくか、事実ではないと生きていくか、ど
ちらも選べる。その選択は個人の自由だ。しかし、事実として生きる場合、そこから
現れてくる新たな物語がたくさん生まれる。それらを受け入れたとき、自分の今には
価値が生まれ、勇気が湧いたり、感動が生まれたりする。そこに大きな価値がある。
     
 自分がいったい誰であるのか、それをかつては神話や宗教が提供してくれていた。
今の日本ではそれらを自分で作らなければならない。自由に作れるはずの「自分は誰
か」は、受験戦争などで足下の見えない子供たちには成績や偏差値で他人から決めら
れてしまうもののように感じているだろう。実際に私も長い間そう感じてきた。そん
な閉塞感が日本の社会を作ってきた。
     
「自分は誰か」は一種の物語である。両親のあいだに生まれ、生い立ちがあり、何を
学び、何をして、さらにこれから何をしようとしているのか。こういう物語は誰にと
っても大事である。その物語のなかで自分の価値や意義を作り上げることができる。
その延長線上に自分の未来をイメージすることができる。その物語は自分で作るもの
だ。グルやら尊師やらに作らせてはならない。

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