Let it be  心の話 Vol.5     咲くと咲うの話

「咲う」と書いてなんと読むかご存じだろうか?

 いまでは滅多に見られない読み方だが「わらう」と読む。この読み方はかつてはポ
ピュラーなものだった。古事記の有名な場面でこの「咲う」が登場する。

 天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天香山(あまのかぐやま)の天日影(あまひかげ)
を手次(たすき)に繋(か)けて、天真拆(あめのまさき)を鬘(かつら)として、天香山の
小竹葉(ささば)を手草に結ひて、天岩屋戸(あめのいわやど)に槽伏(うけふ)せて踏み
轟(とどろ)こし、神懸かりして、胸乳をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れ
き。ここに高天原(たかまがはら)動(とよ)みて、八百万神共に咲(わら)ひき。

 天照大神を天岩屋戸から引きずり出すのに天宇受売命が踊るシーンだ。八百万神が
ともに咲ふと書かれている。

 花は草木にとって生殖器である。桜が咲く季節に「どうして草木の生殖器を人は美
しいと思うのだろう」という疑問をニフティの会議室に書いたことがある。すると、
ついたレスは「つなぶちさんって変なこと考えるのねぇ」というものだった。まあ、
この感想は至極一般的な返事と思える。しかし、なぜ草木の生殖器は美しいのかとい
う疑問は僕の心からは拭えなかった。実は草木の生殖器を美しいと思うことが不思議
なのではなく、人は人の生殖器を美しいものとは見ていないことが不自然に思えたの
だ。なかには美しいものと見ている人もいるだろうが、それは少数派だと思う。試し
に誰かに男性器の写真を見せて感想を聞くと良い。たいていの人は顔をしかめるだろ
う。

 なぜ性器は美しくないのか。その理由のひとつは猥褻罪にあると思う。ご存じの通
り性器を公共の場で露出すれば猥褻罪となる。この事実が人に性器を美しいとは思わ
せない。猥褻という言葉には美しいという含みはもちろんない。新明解によれば、

わいせつ【猥褻】
1.人前でみだらな行為をしたり、隠すべき所をわざと出して見せたり のぞきこんだ
りして、いやらしい様子。
2.その物が、それを見たり聞いたりする人に性的興味と興奮を感じさせる様子。

とある。つまり性器を美しいと思うための土壌が日本にはないのだ。公で見たり露出
すれば罪になるということが「性器を悪い物」と思わせがちだ。

 しかし、古事記の記述を見れば天宇受売命の性器(陰)が悪い物だとは思われない。
それが見えかくれする様子を神々が明るく咲っているのだ。性にまつわるできごとを
咲っているのだ。

◇アロハの国の性意識

 ハワイでは西洋文化が押し寄せる以前、独特の文化を育てていた。日本では「胆
(きも)の座った奴」とか「大胆」などといって、胆をその人のエネルギーの源のよう
に表現するが、胆のハワイ版を「マナ」という。影響力の強い人はつまり「マナの強
い人」なのだ。マナの強い人の子を身ごもるのはハワイの女性にとって最大の関心事
であったという。

 カメハメハが統一する以前のハワイには王国がいくつか存在したが、その王のナマ
を受けるのは大変な名誉だった。そのため、ある女性が王の子供を生んだ後で、夫を
持つと、夫は王の子供を誇りにしたという。「わが国で最高のマナを持つ我が息子」
が自慢になるのだ。そこには自分の息子が自分の遺伝子を受け継がなければならない
という思い込みはない。

 かつてのハワイの性意識を端的に示す例がキャプテン・クックのハワイ上陸にまつ
わる話である。何日もの航海の後に各地に上陸した船員たちは、もちろんその土地土
地で女と交わることが楽しみだった。普通はどこの土地に行っても、いかに女をもの
にするかが話題となり、苦労を重ねたところだが、ハワイだけは違ったのである。ハ
ワイに着くと船に女たちが押し寄せたという。ハワイの女たちは見たこともない大き
な船で来た人たちはきっと偉大なマナを持っているに違いないと思ったのだ。しかも、
クックが入港したのはロノの神のお祭りの日だった。昔からの言い伝えで、その日に
ロノは白い布でやってくると言われていた。クックたちは白い帆船で来たのだった。
ハワイの人々はクックたちをロノの神だと思い、手厚くもてなした。

 ハワイの女たちはマナの強い船員たちを我先にと寝間に誘ったのである。すると、
普段は女を追い回していた船員たちが女から逃げ回ったという。このときハワイに性
病が持ち込まれた。後に性病で何万ものハワイ人が亡くなったという。性病を知らな
かったため防ぎようがなかったのだ。彼らは性行為に対してオープンだった。

 古いハワイの歌はすべて二つの意味を持つという。表向きの歌の意味は多くの場合
自然賛歌だ。そしてその歌の隠された意味は陰陽の交わり、つまり男と女の恋歌だっ
たという。太陽と水平線の交わり、花と蜂の交わり、そのようなもののなかに男と女
のひかれあう喜びを歌い込んだのだった。つまり自然の営みと男女の営みに強い結び
つきをハワイの人たちは感じていた。花が咲き、果実が実り、種を落として新しい樹
が生える。この命のつながりを男女の営みに感じ、それを大事にしていたのである。
かつてのハワイの文化では性的なものは神聖で、必要なもので、恥じるべきものでは
なかった。ところが、西洋文化と共にキリスト教が輸入され、性病が輸入され、性行
為の地位は地に落ちてしまった。

 ハワイではトップレスが当たり前だった。しかし、宣教師たちがハワイ人に服を着
させて裸は恥ずかしいということにしてしまった。さらに性行為を意味する明らかな
言葉がハワイにはなかったのだが、隠語のように性行為を意味する言葉がたくさんあ
り、しかもそれぞれに微妙なニュアンスの違いがあった。だから西洋では「Sexは禁
止」で通じるところをハワイでは「(ある)性行為はいけない」と禁止すると、自然に
「別の性行為なら良い」という意味に聞こえてしまい、宣教師は苦労したという。

 キリスト教という新しい価値観が来て、ハワイ人は混乱した。しかし、それを素直
に受け入れていったのには訳があった。「ロノの神は箱を持ってくる。その箱には神
の言葉が詰め込まれている」という言い伝えがあったのだ。宣教師たちは聖書を持っ
ていた。それがハワイの人々には箱に思え、しかもそこには確かに神の言葉が書かれ
ていたのだ。だから人々は宣教師の言うことに逆らわなかった。

 その結果、ハワイにあったおおらかな文化は失われていき、性行為は卑猥な行為と
なっていった。

◇桜の樹の下には屍体が埋まっている!

 梶井基次郎の小説に「桜の樹の下には」と題される二千字程度の短編がある。「桜
の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まるその掌説は桜の美しさが信じられず、
根元に屍体が埋まっていると考えるならその美しさが納得できるということを訴えて
いる。この小説から僕が読みとるのは花の性行為があれほど美しく旺盛なのに対し、
人の性行為の貧しさを直接には言わずにほのめかしているのではないかということだ。
連綿と続く命の連鎖を大いなる喜びとはとらえることができず、どこか陰にこもって
性の喜びを屈折させざるを得ないその時代の人々への悲しみを表現しているように思
えるのだ。

 その作品にこんな一節がある。

  一体どんな樹の花でも、所謂真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気
 のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完
 全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻想を伴
 うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)
 たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
  しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺に
 はその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安に
 なり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。しかし、俺はいまやっとわかった。
  お前、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まってい
 ると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前に納得が
 行くだろう。

 このようなことも書かれている。

  二三日前、俺は、ここの渓(たに)へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水
 のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロデ
 ィットのように生まれて来て、渓の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。
 お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。暫く歩いてい
 ると、俺は変なものに出喰わした。それは渓の水が乾いた磧(かわら)へ、小さ
 い水溜まりを残している、その木のなかだった。思いがけない石油を流したよ
 うな光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何
 万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被
 っている、彼等のかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を
 流しているのだ。そこが、産卵の終わった彼等の墓場だったのだ。
  俺はそれを見たとき、胸が衝(つ)かれるような気がした。墓場を発(あば)い
 て屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍なよろこびを俺は味わった。

 作者が実際にはどう考えたかは確信がないが、僕には果てしなく続く命の連鎖につ
いて、梶井は死を連想し、鬱々としたのではないかと思える。それは生の明るい側面
を見るのではなく、暗い側面にフォーカスした結果だろう。桜の旺盛な開花のエネル
ギーを陰惨な雰囲気にとらえざるを得ない時代の匂いがあったのだろう。この小説で
は桜が咲くことを咲うととらえる感覚はどこにもない。咲うではなく、皮肉に嗤(わら)
う感覚が感じられる。しかし、最後の一行だけに、梶井は桜の見方を裏返していると
読めるような文章を残す。最後の三段落を示そう。

  ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
  一体どこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはま
 るで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
  今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、
 花見の酒が呑めそうな気がする。

 酒宴をひらいている村人たちは咲っているのだろうか、それとも嗤っているのだろ
うか。もし咲っているとしたら、それは梶井が最後の一行で桜の見方を変えたことを
意味するように僕には思える。桜の美しさに徹底的に嫌気や恐怖を味わって、そのの
ちに感覚が麻痺するように桜の美しさを受け入れたのだと思わせる。

 文化が咲き乱れるほど、命はその価値を失っていくのかもしれない。文化が発展す
るほど素朴な命の喜びは忘れ去られていくのかもしれない。

◇桜が咲う

 中国ではもともと「咲」の文字は「笑」と同じ意味だった。それが日本に伝来し、
「(花が)咲く」という意味を与えられた。だから漢字が伝来した頃の日本人の感覚は
咲く花を見ると笑っていると思えたのだろう。その笑いは素朴な性の喜びに通じるお
おらかな笑いだったのではないかと僕は推測する。ハワイの人々が性を謳歌していた
ように、日本人もかつては充分に性を謳歌していたのではないだろうか。ハワイと日
本はかつて縄文の時代から航海を通して交流があったという説がある。ハワイの古い
文化と日本の文化に共通点があっても不思議ではないのかもしれない。

 古の日本人はハワイの人々と同じように誰に恥じることなく性的な話をしていたの
だろう。そこでの笑いは、命にまつわる話であることを暗黙のうちに理解し、どこま
でも続く命の偉大さに畏怖の念をもこめたうえでの咲いだったのではなかろうか。

 坂口安吾の小説に「桜の森の満開の下」がある。
 山賊をしていた主人公は美しい女を娶り、都へ行くが、女は都で本性を顕す。山賊
は桜を見て山が恋しくなり帰るのだが、その途上で女が鬼に思え殺してしまう。この
小説では文化のある場所(都)と素朴な場所(山)との対比がある。

「桜の森の満開の下」で安吾は主人公に
「(満開に咲いた)桜の下は涯(はて)がないからだよ」
 と語らせる。
 この言葉は花吹雪で空気が染まり、遠くの景色が桜色におおわれている風景を思わ
せる。そしてその風景は僕に、命が果てしなく続いていくことを思わせてくれるのだ。
どこまでも続く命の連鎖は、大いなる喜びと底なしの恐怖を紙一重で与えてくれるの
だ。

 もうすぐ桜の季節。桜吹雪のしたで咲ってみようか。現代文明に毒された僕には、
嗤いしか出てこないかもしれないが。

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