Let it be  心の話 Vol.8     悲しい気持ち

 男の子は泣かないの!

 男だったら一度や二度はこの言葉に出くわしたはずだ。幼い心にはなぜとかどうし
てとか、そんな言葉は浮かばない。特に母親に言われれば「まったくその通り」と思
いこんでしまう呪文のような言葉だ。僕もきっと言われたに違いない。でも、言われ
たときのことをまったく覚えていない。もしかしたら思いこみかもしれない。でも、
僕の心の中には「男の子は泣かないの!」が巣くっている。

 大学生の頃だったろうか。母が僕のことを自慢げに話してくれた。二歳か三歳の頃、
いかにもやくざ風な男が母に近づいてきたとき、まだしっかりと歩くこともできない
僕がその男と母のあいだに割り込んで、その男をにらんだそうだ。別にその後、何も
起こらなかったそうだが、母は僕がもうその年で男なんだなと頼もしく思ったそうだ。

 どうしてそんなことをしたのか、僕はまったく覚えていない。きっとそのときすで
に母親を守らなければいけないと思っていたのだろう。そして「僕は強い」と思いこ
んでいたに違いない。

 こんな風に育ってきた僕はあまり悲しいことを感じなかった。「強い男の子でなけ
ればならない」からだ。だから悲しい映画を見ても泣くことはなかった。どんなにい
じめられても泣くことはなかった。泣く代わりに僕は怒った。

 悲しいことは怒りに転化できる。たいていの男性は悲しいことに出くわすと怒る。
なぜなら「男の子は泣いてはいけない」からだ。

 ある女性にこの話をしたら、その方が再婚前のエピソードを聞かせてくれた。そ
の方をここでは仮にAさんと呼ぼう。

 Aさんはある日、海外への留学を特別に認められた。当時は前夫と一緒に暮らし、
編集者をしていた。願ってもない条件での留学だったので、前夫にそのことを相談し
た。もちろんAさんは自分の能力を認められて、前夫も喜んでくれると思っていた。
ところが、前夫は「お前にそんな能力はない。留学しても無駄だ」と言い始めたそう
だ。

 Aさんに「男の子は泣いてはいけない」という話をしていたときにこの話が出てき
たので、きっとAさんは前夫が「泣いてはいけない」から本心が言えず、そんなこと
を言い出したのではないかと推測したのだろう。そして、僕もそうだろうと思う。最
愛の妻が何カ月か何年か海外に行ってしまうのである。男としては寂しいだろう。そ
の寂しさを言葉にすれば、きっと泣き出すほどに悲しかったのだろう。そういうとき、
ずるい男は、理不尽なことを言って怒る。認めたくはないけど、僕にも似た部分があ
る。
   
 怒りたくなったとき、なにが悲しいのだろうと自問する。すると、怒る必要がなく
なることがある。

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