天使の行進     〜アイルランド紀行 その1 「好天」


						

 トランジットにアムステルダムに降り立つと、虹が出迎えてくれた。これはきっと吉兆に違いないと、次のアイルランド行きの便を指定されたゲートで待っていたが、いつの間にか便名報告のスクリーンからアイルランド行きの便名が消えていた。フライトがキャンセルされたのだ。理由はわからない。あわててデスクへ行き、次のフライトの席を確保する。ひやひやものだ。同行の、超能力者として名高い秋山眞人さんは「きっと僕たちがアイルランドに入るための、見えない準備が必要だったのでしょう」と涼しい顔だ。

 僕たち九人はジャパン・メディカル・アーツの企画した「魂の島、アイルランド」ツアーに参加している。メンバーは、僕と秋山さんが講師として参加。添乗員はツアー会社の田上さん。参加者は、かつてヒーリング・ライティングを受講した関山さん。ひとりで参加している松村さん。そして高橋さんを中心とした岡部さん、新町さん、三戸さんの四人組み。成田で初対面の人ばかりなので、みんなまだ余計な気遣いにひきつった笑みを顔に張り付けていた。

 ダブリンで落ち合うはずの十人目のメンバー、ジャパン・メディカル・アーツの浅見さんは空港で長く待たされ、困っているのではないか? ダブリンで出迎えてくれるバスの運転手はこの事態について情報を得ているのだろうか? 共通の心配事が九人の仲間意識を作り出していった。

 次のフライトも遅延をし、夕方には着く予定が、ダブリン着は夜の十時に近かった。しかし、無事に浅見さんとバスの運転手ダニーに会うことができた。

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 翌朝、雨が今にも降りそうな空を見上げてトリニティカレッジへ行く。この大学はアイルランドの東大だ。ノーベル文学賞を受賞したサミュエル・ベケット、劇作家のオリバー・ゴールドスミス、「ガリバー旅行記」のスウィフトなどがこの大学の出身者だ。ここに来たのは「ケルズの書」を見るためである。

 めまいがするほど緻密な装飾を施された「ケルズの書」は、暗闇のなかで拡大され、ラーメン屋の看板のように背後から電球で照らされ、輝いていた。「ケルズの書」とは九世紀に作られたマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の四つの福音書の写本である。その写本は単に内容を写しただけではなく、キリスト教伝来以前のケルト文化を微妙に反映させたデザインが施されている。拡大されて闇に浮かび上がった表紙や各ページには、複雑にデザインされた文字とともに、人や動物の顔、編みあげられた紐、何重にも組み合わされた渦が、見るものの心をとらえて離さなかった。

 キリスト教は一神教である。ケルトの宗教は多神教。しかも、キリスト教では認められない転生を認めている。「ケルズの書」は文章では福音書をそのまま写しているが、装飾部分にケルトの宗教性が反映されている。複雑に絡まり合った線や紐は、永遠に尽きることのない生命のネットワークを表現していると考えられ、あちこちで部分的に登場する人や動物は、転生の可能性を示唆していると言われる。そしてマンデルブロ曲線のように書き込まれた渦の嵐は無限の力を秘めた生命を表しているとも。

 博物館のように展示された看板を抜け、奥の部屋に行くと「ケルズの書」の実物がケースに収蔵されていた。ページは紙ではなく、牛の革で作られている。しかも、単なる牛の革ではなく、まだ母親から産み落とされていない胎児の革を使ったという。実物は目を細めないと見えないほどの細かい装飾に埋め尽くされていた。きっとチベット密教の砂曼陀羅のように、描くこと自体が修業となっただろう。

 細胞のなかを顕微鏡で覗くように、深い迷宮が渦巻いていた。

 展示場の暗闇から出ると、外は太陽の光が雲間から射していた。芝生が緑に輝く。アイルランドの緑は、なぜか不思議に色濃い。これからずっと見続けることになるその色濃い緑が、深い雲と同じグレーの校舎に映えた。

 輝く芝生を見て田上さんがつぶやく。

「アイルランドでは、天使が旅行すると晴れるって言われているのよ」

その2 「セントパトリック教会」

アイルランド紀行「天使の行進」

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