天使の行進 〜アイルランド紀行 その7 「ツイードのハンチング」
アイルランドの町は小さい。首都のダブリンでさえ、中心部は半径10kmの円の中に納まってしまう。ダブリンの人口は105万。広島市とほぼ同じだ。首都がこの規模であるから、地方の町は本当に小さい。町からちょっと離れると山羊や羊がのんびりしている。人口より羊口の方が大きいそうだ。アイルランドではバスで移動した。2時間に一度は休憩をとる。そのために近くの町に寄るのだが、たいていの町は商店が20軒から多くても100軒程度だった。ときにはたった10軒の商店しかない町もある。そんな小さい町で感心するのは、ちゃんとしたホテルがあること。たった10軒程度の商店しかない町に、こぎれいなホテルがあるのは驚きだ。 バスを降りると、用を足した後、町を歩いた。東京で休憩時間に町を歩くとしたら広すぎて途方に暮れるが、休憩した町はどこも町のはじからはじまで10分あれば充分だった。 イニシュモア島からアイルランド本土に戻り、スライゴーへ行く途中で70〜80軒程度の商店が並ぶ町で昼食をとった。町の名は・・・、忘れた。正確には聞かなかった。「アイルランドの名もない小さな町」ということにしておこう。「ここで降りて昼食でーす」というガイドの声を聞くと、町の名などどうでもよくなってしまう。そんな男だ、僕は。 イニシュモア島で買ったアランセーターに、黒の革のコートを着、えりを立てて昼食を予約してあったパブへと歩いた。アイルランドでは、雨に降られることはほとんどなかった。雨が降ったとしても霧雨だった。ところがその町では雨らしい雨が降っていた。ザアザアというほどではないが、シヤーッという程度だ。僕は傘を持っていなかったので、髪が濡れた。 お目当てのパブに入ると、予定より早く到着したため、一時間ほど待てと言われる。仕方ないので僕はひとり町を歩くことにした。その町は中心に十字路があり、東西南北に20軒ずつ程度商店があった。 パブはその町の中心の十字路にあった。パブを出て、シャーッの中を適当な方向に歩いていくと、しばらくして雨が頭皮に達する。額から顔に雨が流れてくる。そのくらい歩いたところに大きな衣料品店があった。アイルランドの衣料品店はどこもショーウィンドーにアランセーターが飾られている。僕が買ったアランセーターより良いものか、値段はいくらかとつい見てしまう。展示されていたアランセーターのえりの上に、ツイードのハンチングが飾られていた。 「そうだ、帽子を買おう」 店に入り、飾られているセーターやらジャケットやらを見ていくと、奥の棚にお目当ての帽子が輝いていた。ツイードのハンチング。ライトアップされていた訳ではない、ただ僕にはそう感じられたのだ。その輝いていた帽子を手に取ると、あろうことか僕にサイズがピッタリだ。僕は図体がでかいので、たいていあうサイズを探してもらわなければならないのだが。 鏡をのぞく。 「ちょっとキザかな、照れくさいな」 その帽子をもとの場所に戻してそこを去るろうとする。 カクッ。 足が止まってしまった。うーむ、まさに後ろ髪を引かれる思い。回れ右。 もう一度手に取りかぶってみる。 「いらっしゃいませ」 英語で何て言われたか覚えていないが、「買っても買わなくてもいいよ。来てくれてありがとう」みたいな挨拶をして店員が脇を通っていった。 「お買いあげですか?」って聞かれたら迷わず買ったろうに、通り過ぎて行くだけなんて悩むじゃないか、などと勝手なことを考えながら、しばらく黒目を上に向けて考えた。 「買おうか、買うまいか。日本でかぶるか? 恥ずかしいよな。アイルランドでしかかぶらないのなら、もったいないかなぁ。うーん・・・」 アイルランドにはめずらしく黒人が入ってきて、僕のそばでジャケットを選びはじめた。 「よし、買おう!」 なにが「よし」なんだかわからなかったが、買うことに決めた。 「Thank you」という声に背中を押され町にでると、得意げなツイードのハンチングが頭にのっていた。 雨で頭が濡れなくなったので、町をはじからはじまで見てまわった。 町をひとまわりしてパブに戻ると、「似合うね」とか「どこで買ったの」という声に照れながら、カウンターでギネスを頼んだ。 アイルランドはギネスビール発祥の地だ。日本で飲むギネスよりずっとうまい。泡はとろとろ。アイルランドの海は茶色く濁り、波打ち際にはアイボリーの泡が寄せられる。その泡と同じ泡だ。黒い液体は苦みより甘みを感じる。その色はアイルランドの川の色だ。アイルランドの川は鉄分が多く、どこも黒く濁っている。 川の水に海のトッピングを飲みながら、どうして僕はこの帽子に魅かれたのか、考えた。 「ツイード・・・」 かつて僕はツイードのコートを着ていた。二歳か三歳の頃だ。寒い日、ツイードのコートを着て、転びそうになりながら走る僕と兄と母の写真があった。きっと親父が撮ったのだろう。幼い頃、その写真を見たとき、兄がこんなことを言っていた。 「これで新聞記者がかぶるようなツイードの帽子をかぶったら、もっと似合ったね」 そうか、僕は家族のことを思い出していたのか。 窓から日が射してきた。晴れた。 「アイルランドの名もない小さな町」に降るシャーッは、粋なはからいをするもんだ。 |