胎児の不思議

ごま書房刊ムック「精神世界」の第一号から第五号(1998.11〜1999.4)に連載。

             

胎児の不思議
     出産と精神世界4

 リード
 女性は出産を通して自然の大いなる知恵を学ぶ機会を持つことができる。

   クジラの唄

ハワイ・マウイ島へ旅行した。ザトウクジラを見るためである。以前からずっとクジラを見てみたかった。それは私が胎児や水中出産に興味を持つ以前からではあるが、このテーマについて様々なことを知ることによってその興味はさらに深くなってきた。

ザトウクジラを見ながら、私はかつて会ったひとりの男の子を思い出した。名前はイリヤ。イリアは水中出産で生まれた。前々回にベルギーの水中出産の話を書いたが、その取材の際に出会った。ベルギーの高名な科学者イリヤ・プリゴジンに因んで名付けられたそうだ。イリヤは私が話す英語をずっと不思議そうに聞いていた。彼はフランス語しか話さない。だから私の言葉は彼にとっては枯葉のささやきのようなものだっただろう。にもかかわらず彼は私の表情を見、目が合うとニコニコしていた。私たちのあいだには言葉のコミュニケーションはなかったが、それにまさるとも劣らないコミュニケーションがあった。彼の目に私は何を話すかわからない異邦人としてではなく、遠くから来た友達のように映っていたと思う。そしてその思いはイリヤの態度から私に伝わってきた。イリアのそのような性格はたったひとつの理由で説明できるものではない。しかし、その理由のひとつとしてイリヤが水中出産で産まれたことが上げられることは否めない。

今回のマウイ島の旅行には「クジラたちの唄」と題された本を持っていった。著者はロジャー・ペイン。(訳 宮本貞雄、松平頼暁、青土社刊)サックス奏者ポール・ウィンターが実際の鯨の唄を使って演奏したアルバム「鯨の詩」の共同制作者でもある。彼は長年クジラの研究をし、その集大成として「クジラたちの唄」を書いた。そのなかに以下のような一節がある。

    ---------------------------------

ほ乳類の羊水は驚くほど海水に似ており、いずれも同じ種類の塩類をほとんど同じ比率で含んでいる。実は、羊水は私たちの遠い祖先が生まれた海の名残りなのである。ほ乳類の母親は、命を育むのに最適な状態を胎児に与えるため、それを自分の体内に作り出す。子供が産まれる直前に妊婦が破水して、失われるのがこの祖先の海である。私たち人間は、母親の羊水という古代の海から生まれて、乾燥した地上の存在へと移行することによって生命の進化を再現するのである。「人間の苦悩の多くは子宮を去るときの喪失感に端を発している」と考える心理学の一派がある。だが、クジラはそのような喪失を嘆く必要はない。なぜなら、それは母親の羊水から生まれて海の羊水へと送り出されてゆくからである。
(中略)
 クジラが浜に乗り上げて息を引き取る時、その死こそが海からの初めてかつ本当の誕生なのではないだろうか? クジラが浜に打ち上げられて死を迎える時、人間の子供が母親の子宮を出て乾いた世界に取り残されたことに怒って泣き叫ぶ気持ちを、初めて感じるのではないだろうか? 陸生動物がお互いやその他の生物に対して感じる怒りは、海での一体感を失ったことに起因しているのではないか? すなわちそれは、海の外に生まれることを選んだ私たちの祖先が犯した過ちに対する遺恨の念なのではないだろうか? そしてそれは人間が初めておそるおそるクジラと一緒に泳いでみて、クジラは尾の一振りで自分を殺すのではなく、大昔から存在している深遠な海の平和の中で自分を迎えてくれることを発見した時に知る、海の生き物との一体感なのではないだろうか?
(一部翻訳訂正 つなぶち)

    ---------------------------------

つまりクジラが穏やかな動物なのは羊水から海水へと生まれ出るからであり、空気中へ生まれでるのとは心的ダメージがまったく違うというのだ。その証拠のひとつが私にとってはイリアとの出会いだった。

   アクアティック・エイプ

人間はDNAを調べることによってもっともチンパンジーに近い動物であることが知られている。では、チンパンジーからどのようにして人間となったのか。その進化の説のひとつに「アクアティック・エイプ理論」、つまり水棲のサル説がある。人間として発達した種は一時期、海と密接な生活を営んだのではないかというのだ。そしてその証拠が私たちの身体に刻まれているという。

人間は体毛が少ない。チンパンジーと見た目でもっとも異なっていると感じるのはこの点だろう。もし人間が水棲の時期をもっていたとすると、このことには簡単に説明がつく。体毛が多いと水中では抵抗が大きくなり移動が難しくなるのだ。さらにわずかにはえている産毛は人間が泳ぐとき抵抗とはならない方向にはえている。

若い女性は皮下脂肪を気にするが、これも人間が霊長類のなかで特異な存在であることを示している。サルにも多少の脂肪はあるが、それはおもに腹部のまわりにのみ集中する。一方、水棲のほ乳類には皮下脂肪の層が共通して存在する。皮下脂肪のおかげで熱の放出が防げ、水中を泳ぐ際に流線型に近い体型となる。

そして、人間のもっとも大きな特徴は二足歩行だ。なぜ四本の足を手と足にその機能を分離したのか。水に入れば自然と呼吸のために立つことになる。さらに水を蹴って泳ぐために背骨をしなやかにする。背骨がしなやかになることによって、微妙なバランスを保つことにそれが使われるようになる。サルは背骨を人間のようにそらせることができない。一方水棲動物はしなやかな背骨を持っている。しなやかな背骨を持つことによって二足歩行が容易になったと考えられる。 他にも発汗、性行動、涙腺、呼吸などに水棲動物の性質が見られるが、ここでは最後に脳の発達について書こう。人間の脳はチンパンジーの脳の四倍ある。その理由をある栄養学者たちはその脳に含まれる脂肪酸に求めた。脳の発達にはオメガ3高度不飽和脂肪酸が不可欠であるとしたのだ。この不飽和脂肪酸は人間の母乳と海の食物連鎖のなかだけにみられる。人間の脳はサルの脳の構造に海のほ乳動物の栄養を組み合わせたものなのだ。ここからも人間がかつて水棲のサルだったことがうかがわれる。

もし、実際に人間が水棲のサルだったとして、なぜもう一度陸に上がったのだろう? その理由は恐らく手の使用による道具の発達にあると考えられる。二足歩行をするようになり、人間は手が自由になり、道具を使いはじめる。道具を使うことが人間の脳の発達に拍車をかけることになったのだろう。そしてそれは、自分と環境という二項対立の端緒だったかもしれない。

   環境を変えるか、順応するか

人間は手を持つことによって環境を生み出す動物になった。この場合環境とは、自分以外のすべてのものだ。しかもその環境を自由に変更させるだけの知能を持つに至った。私たちの知性は自分を心地よくする環境を生み出すことに特化して使われているように思える。

何か「問題」があったとき、それを乗り越える方法はふたつある。ひとつはいわゆる解決だ。外部を変化させ、ある環境を生みだし、問題は何かの利益を生み出す。人間はあらゆる場面で解決を求める。そしてもうひとつの乗り越える方法は、多くの人にとってそれは問題を乗り越えたとは考えられないようなものだ。つまり、ある問題を問題だとは見なさないことだ。自分の内面を見つめることによって処理する。「あきらめる」に近い心の動きだ。順応とも言える。「あきらめる」と聞くと、たいていの人は「敗北」をイメージする。環境に順応したとは考えない。そのくらい人は外部を変化させ、自分の思うとおりに環境を操ることに執着している。あらゆることは自分以外の何かを変化させることによって得られると考える。しかし、順応するということもひとつの知恵ではないだろうか。

たとえば「なぐさめる」という行為。なぐさめたり、なぐさめられたりすることによって、何も環境は変化しない。しかし、なぐさめられた人の内面は明らかに変化している。この変化が重要なことを私たちは知っている。しかし、「なぐさめ」は最後の手段だ。手を尽くして環境が変化しないことに動揺し、そして最後に「なぐさめる」。「なぐさめ」はほぼ「あきらめ」に近い。

人間の知性は環境を変化させることによって発達した。だからなかなか環境を変化させない知恵を知性とは見なさない。現在の医学もその性質を帯びている。そしてそれは医学のせいだけではない。人間の文化全体がそうなのだ。不治の病にかかった患者を「なぐさめる」のがうまい医師がいたとする。しかし、たいていの患者はなぐさめられて気持ちを落ちつかせるより、あくまでも治してもらうことに執着する。こう書くと当たり前だと思う人が多いだろう。しかし、「なぐさめる」という言葉で表現せず、次のような表現にすると受け入れられるのではないだろうか。「自分の状態を受け入れ、ポジティブに物事を考えるように勇気づけられる」。これからは環境を変化させるだけではなく、自分の内面を変化させることを私たちは学ばなければならないのではないだろうか。

クジラはかつて陸棲動物だった。それがいつしか進化の過程で生命が生まれでた海へと帰っていったのだ。手を使うことによって自分と環境を分離していった人間とは正反対の方向への進化である。そして彼らなりの知性を発達させる。それは環境を変えるような知性ではない。クジラには環境を受け入れることに対する深い知恵がある。クジラはあの大きな脳を、環境を知ること、そしてコミュニケーションに使っているのだ。クジラの唄を調べれば調べるほど大いなる知恵によって奏でられていると考えざるを得ない。

   出産の心

水中出産で生まれたイリアは、私のことを受け入れてくれた。私のあるがままを楽しんでくれた。私たちも自分以外のすべてのものをありのまま受け入れることを学ぶ必要がある。

自然出産のパイオニア、産科医のミシェル・オダンは出産の際、妊婦が何の常識にもとらわれず、自由に産むことが大切だと語っている。水に入りたければ水に入り、立ちたければ立ち、座りたければ座る。そうして妊婦は自分の身体と胎児とのコミュニケーションを取る。どうにかして胎児をまるでモノ扱いで出そうとするものではない。胎児とどのように折り合いをつけるか、その深いコミュニケーションがある。コミュニケーションは伝えることと、聞くこと。その双方が機能しなければならない。

はじめての出産の際、女性はあるがままを受け入れることを学ばざるを得ない。そのことを「しようがないこと」「我慢しなければならないこと」ととらえるのではなく、大いなる自然の知恵を知るチャンスと感じることが大切なのではないだろうか。

  

next

胎児の不思議

tsunabuchi.com