「天狗党不始末記〜田無良庵」     



「ライブ録音・音声」





火付け、と申しますと江戸時代におきまし

ては最も罪の重い犯罪でした。昔の家は紙と

木からできている、極端な話町の片っ端に火

をつければ反対側まで燃えてしまうというわ

けで…その火事場につけこんで盗みを働くも

のが絶えません。ですから火付けはたとえ未

遂に終わっても火炙り以外の罰はありません

で、あの有名な八百屋お七の火事も実はボヤ

で済んだがやはりお七は火炙りになったんだ

そうで…。               




さてお話は寛政の半ば、江戸城桜田門外、

今でいう永田町・霞が関、麹町から芝・新銭

座にいたるまでの武家屋敷、町人屋敷を焼き

尽くしその類千数百件におよぶという大火が

ありました、後にいう桜田火事。と同時に湯

島、本郷といった江戸各地で一斉に火の手が

上がりました。この火が付け火である、すな

わち同時多発テロであるとの疑いがたちまし

て、その詮議の任を負いましたのが、当時江

戸北町奉行・津久田伯耆守照影。とこがこの

お奉行さま、とにかくすべてにおいて横紙破

りな方だったそうで、所謂「遠山の金さん」

の逸話もほとんどこの方のお話が元ネタでご

ざいます。ですから着任以来ここ江戸城外堀

の鍛冶橋にある北町奉行所では、実務の助け

手である吟味方与力との間で揉め事が絶えま

せん。奉行御座所で執務する伯耆守のところ

へ、調書を手に顔色を変えて飛び込んで参り

ましたのはすでに六十の声を聞いた助林平左

衛門。                 

「お奉行、お奉行、伯耆守さま!」    

「何用であるか、平左」         

「何用…、ではござりませぬ。また勝手にお

調書をお書換えになりましたな?」    

「さて覚えぬ、何のことであるかな?」  

「これをご覧じませ。餅屋三五郎丁稚佐助、

母の病の治療に用いる薬代を欲すあまり、店

の売り上げに手をつけしこと金・十三両にお

よび…これを金・九両二分とお書換え遊ばし

たは、お奉行に相違ございませんな」   

「…いいじゃねえか、俺が調べ直したら九両

二分だったんだよ。え、左吉てのはまだ十三

の子供だぜ、十三たって十両盗めば首が飛ぶ

んだ。え、平左、おメエはそんなに首が飛ば

してえのか? ニッサン自動車か?」   

「また、そのように下賤の物言いを…事、ご

老中の耳に達しましたら何とします。いかな

伯耆守様といえど、お役御免、重閉門の上、

切腹申しつけられることは必定。そうなった

ら、この平左も…遠き関ケ原の昔より縁深き

津久田のお家、平役を吟味与力にまでお取り

立ていただいた亡き父君様へのお詫びのため

にも、この平佐衛門、腹かき切ってあい果て

ることと…」              

「うまいうまい、泣かせる、もっとやれ」 

「某は講釈師ではございませぬ。そんなこと

より、明日のお取り調べのご準備はお済みな

のでしょうな?」            

「あい分かっておる、今目を通しておるとこ

ろじゃ。ふむ、平佐、この短時日によくぞこ

こまでの細かい調べ。この伯耆、感嘆し言葉

もない。誠、今の伯耆のあるは平左の日頃の

忠節の賜物」              

「はは、もったいなきお言葉にござります」

「だからその歳になっても加役がつかねえん

だよなあ。真面目すぎる奴は出世できねえも

んさ」                 

「上げたり下げたり、某はエレベーターでは

ございませんぞ」            




津久田伯耆守、素行は悪いがとにかく優秀

。御歳四十二にして堺奉行から江戸市中取り

締まりの長たる北町奉行に異例のご出世。 

江戸町奉行は裁判官であると同時に東京都

知事みたいなものですから、当然火事の問題

も扱います。しかし付け火となりますと、本

来専門の担当は「火付盗賊改」略して火盗改

。この時の頭はかの有名な鬼平こと長谷川平

蔵宣為。それがなぜ北町奉行所に回ってきた

かと申しますと、火盗改・有馬千之助が捕ら

えました火付けの容疑者というのが、本郷・

小石川片町に住まいしておりました医師で田

無良庵。ところが良庵は無実である・濡れ衣

であると多くの町人の訴えを受けましたのが

南町奉行の池田筑後守長目、で、その池田長

目が、火盗改と、つまり泣く子も黙る鬼平と

事を起こすのはメンドウと、非番を理由に北

町奉行所にタライ回しで持ち込んだからでご

ざいます。ま、メンドウを嫌がるのは今の警

察も同じことで…。           

さて、テレビでもよく見るお奉行さまの「

お白州の裁き」というのは、ここ一番に一回

あるくらいで、それまでは吟味方与力が徹底

して調べ、奉行の仕事は最終確認にすぎなか

ったともいわれております。こと細かな調書

を熟読いたしました津久田伯耆、     

「なるほど、こりゃマズイな。火盗改の有馬

千之助ともあろう者が、ただ火元近くで見か

けたって根拠だけで、良庵てえ医者を下手人

と決めつけてる。こりゃ神奈川県警もビック

リだわ」                

「そのセリフ、神奈川でやる時は新潟県警に

してくださいよ」            

「で、本郷で焼け残った金助町の長屋の連中

がなんだってまた、良庵の再調べ訴えに及ん

でおるのだ? 別に長屋に住んでたワケでも

あるまいに?」             

「それが…どうも良庵という医者、大変な腕

らしく、噂では先の老中・松平定信公の御主

治医でもあったとか…。そんな名医が、長屋

の連中が来ればタダで診察をして薬代も取ら

ず、時には長屋にまで出向いて熱心に世話を

しておったとか」            

「ほおまるで『赤髭』だな…」      

「おやお奉行、新出先生をご存じで?」  

「昨日ビデオで見た。よかったぞ〜三船敏郎

」                   

「エヘン。とにかく、その『赤ひげ』田無良

庵を助てくれと、長屋の者が家主・五人組・

名主と十数人を引き連れて願い出たわけで…

」                   

「じゃいっそ無罪にしちまおうぜ? だって

、今時の医者で、そんな奇特なヤツはいない

ぜ。貧乏人に好かれて薬代も取らないなんて

。大阪のミドリ十字屋て薬屋なんぞ…」  

「…人物の善し悪しと罪の有る無し必ずしも

一致いたさぬこと、いかな若年なるお奉行に

もお察しあるべし」           

「わかったわかった…」         

その夜も伯耆守は夜の白むまで調書を読み

、また夜番の者に何事か申しつけ床に着きま

した。それにしても町奉行というのは重労働

で、毎朝十時までに江戸城に登城、午後二時

には奉行所に戻り、山積みになった裁判、行

政の書類に目を通し、しかる後お白州の取り

調べ。その仕事は明け方まで続き、火事とも

なれば深夜でも、現場まで駆けつけなくては

ならない…大岡越前の20年を大例外として

、多くの町奉行は四、五年持たず、実際過労

死した奉行も多かったという「激務」でござ

います。                







さて、翌日の午後、いよいよのお取り調べ

。                   

「ご出座ーー」の声諸ともに大打ちの太鼓が

響く寛政六年の春昼下がり、江戸城外堀北町

奉行所お白州の花曇り。三間三尺の雨障子に

下は青砂利。伯耆守照影、従五位朝散太夫の

位頂きたる風位をもって肩衣、横麻小紋の長

上下に熨斗目、腰には小さ刀、手には扇子を

持って威儀を正したるそのありさまはさすが

に与力同心百五十騎の上(かみ)に立つ北町

奉行。その御前に徒目付書き役同心、傍らに

吟味方与力助林平左衛門、さらに見習い同心

二名を従えて唐紙奥に御着座なし、二段下が

ったお白州をジッと見据えております。夏と

いえど膝も崩さす、冬といえども火鉢も用い

ず、ここらが、お目見え三千石のご重役とい

えど「町」人相手に真摯なる所以ともうせま

しょう。                




やがて引き出されて参りましたのは、此度

、本郷界隈の付け火の容疑者となりました田

無良庵。                

「本郷小石川片町に住まいなす本草医・田無

良庵表を上げよ」老いたりといえども威厳を

もった平左衛門の声が響きます。     

お白州には医師らしい着衣に総髪をまとめ

たる田無良庵。調書によりますと齢四十七、

いわゆる神経質そうな容貌で、お白州ですか

ら当然ですが、何か落ち着きがございません

。                   

「火盗改・有馬千之助によれば、其の方去る

一月十日、本郷一丁目伊勢屋付近において、

付け火をしたるとの由、誠なるか?」   

良庵、努めて落ち着いた口調で、    

「そは身に覚えのないことでございます。か

の日、湯島方面より火の手の上がるを見、火

の周りたれば多くの怪我人あるものと存じ、

見回りたる次第…」           

「そうだ、そうだ、先生は、付け火なんてす

る人じゃないよ!」と後ろから大声を上げま

したのは、良庵無実を訴え出ました本郷長屋

のおかみさん連中七、八人。       

「これ、控えよ、奉行御前であるぞ」   

「かまわぬ、申せ」と、この時伯耆守は実は

目を伏せてお白州を見ておりません。ちょっ

と見るとお白州に頭をさげているようです。

最初の調べの時は顔を見ないで声だけをプロ

ファイリングするのがいつものやり方でござ

います。                

「お奉行さま、お聞きくださいまし。この良

庵先生はね、ホント神様みたいな人なんだよ

。あたしら丈夫だけがとりえの貧乏人だって

ね、時には病気になるんだよ。特に生まれた

ばかりの子供なんざ、一晩のうちにポックリ

いっちまうんだよ。そんな時、どこの医者に

言っても『子供にはよくあることだ』とこう

来るんだ。冗談じゃない。あたしらが薬代も

払えないことを知ってるからさ。でもこの良

庵先生はちがうんだ。無駄と分かっていても

一晩中看病してくれて…今の長屋の子供たち

で、先生がいなかったらこの世にいない子が

何人いるか…。そんな先生が付け火なんかす

るわけないんですよ」          

おかみさんの訴えるのを何か耐えるように

聞いております容疑者・田無良庵。続いて呼

び出されて参りましたのが、家主の庄右衛門

「はい。先生には長屋一同のもの大変お世話

になっております。かくいう手前も女房が病

気の時には、江戸中の医者に見せましたが、

漢方・蘭方どちらもお手上げで、結局、心の

臓の病を見つけてくださいましたのが良庵先

生で…あれだけの腕がありなさるなら、それ

こそ御典医にだってなれるだろうに、貧乏長

屋を回ってくださる、そりゃもう仏さまみた

いな先生で……。その先生が付け火なんて、

何かの間違いに決まっております。…こりゃ

余計な話ですが、伯耆守さまは大岡さま以来

と誉れの高い名奉行…。確か大岡さまの頃、

火盗改がつかまえた伝兵衛なるものの濡れ衣

を、大岡さまがお晴らしになったということ

で…。どうか良庵先生の濡れ衣もお晴らしく

ださればと」              

「これ、余計な話をしてはならぬ」    

「これは出すぎたことで…」       

とにかく、出てくる証人、出て来る証人、

ことごとく良庵を褒めるばかり。一方、奉行

所としては、「付け火の疑いのある場所に良

庵がいるのを見た」という有馬の証言がある

だけです。ただ、最後にひとつだけ。   

「金助町長屋で火事に巻きこれまたものはあ

るか」との平左の問いに、        

「ひとり火消し『た組』の纏持ち・三次が命

を落としてございます」との答え。この時、

田無良庵の口からかすれるように「三次…」

と声が漏れたのを、伯耆守は聞き逃しません

でした。                

結局、その日は良庵を弁護するような話だ

けでお終いとなりました。        




御座所へ戻って肩衣、上下を一気に脱ぎ捨

て、ついでに帯もゆるめてひっくり返る伯耆

守。「あーーっ、長げえ長げえ。ダラダラ長

すぎるぜ。どいつもこいつも言うことは同じ

だ。良庵先生は神さまだ、仏さまだ、奉行は

アホだ、与力なんぞはムダ飯食いで税金ドロ

ボーだ」                

「…誰もそこまでは言っておりませんが」 

「言ってるわ。特にあの庄右衛門とかいうヤ

ツ。言うにこと欠いてナンダ? 大岡さまは

濡れ衣を晴らされた? 悪かったな、俺は大

岡さまじゃねえよ。そんなに大岡政談が聞き

たけりゃ講釈場へ行きゃいいじゃねえか」 

「……いかがいたします。ここは素直に濡れ

衣、誤認逮捕であったと発表しますか? 早

めに謝っておいた方が、あとあとマスコミ対

策も簡単になります…。どうせ間違ったのは

火盗改め、それにこの件を持ち込みましたる

は南町奉行・池田長目どの。当方の落ち度に

はなりませぬ」             

と、仰向けになっておりました伯耆守、ム

ックリ起き上がり、真顔になりまして、  

「いや。あの良庵てのは、クロだ」    

「クロ?」               

「クロ、クロ、黒だ。黒田アーサーだ」  

「しかし…、まさに市井の『赤髭』ともいう

べきあの医者が…」           

「天狗党…」              

「は?」                

「火付け盗賊改め方・有馬千之助は、もう十

年も天狗党を追っておったのだ。その有馬が

確信を持って届けてきたのだ、あの医者は天

狗党の一味に相違あるまい」       

「そ、そのような届けはこちらには届いてお

りませんが」              

「たり前だろう。天狗党は今やただの盗賊一

味じゃねえ、お上に盾突く謀叛人だ。事が天

狗党となっちまえば町奉行の手を離れ、三手

掛、五手掛、老中直裁と事が大きくなっちま

う。そうなりゃあ町方掛の俺たちは動きが取

れなくなって、いつものように上の方でグズ

グズしているうちに結局また逃げられちまう

。有馬はそれを案じておるのだ。それよりま

ず下手人を上げて、尻尾を〓んで一網打尽に

と」そこへ「申し上げます」の声     

「誰か?」               

「隠密廻り同心、小山内源吾にございます」

「ん、待ちかねた。よいか、本郷金助町長屋

に住む、火消しの三次、此度の火事で命を落

とした三次について、委細を調べよ」   

「は、かしこまりましてござります」   

「平左」                

「はぁ?」               

「明日は晴れるかな?」         

「は? ええと。177番で聞いてみましょ

うか?」                

「晴れぬなら、晴らしてみしょう、江戸の空

、ときたもんだ」            







ドーン、ドーン、ドーン。晴れました。江

戸鍛冶橋の北町奉行所。前の吟味から数えて

七日後の同じお白州でございます。    

「津久田伯耆守さまご出座ーー」     

七日前と同じくお白州中央には田無良庵、

長屋の内儀連や家主たちも後ろに控えており

ます。                 

「本日はお奉行御自らのお取り調べである、

神妙にして嘘偽りを申さぬように……では、

お奉行…よろしいですか、あまりムチャをな

さらぬように…」            

「あい分かった…。田無良庵、表を上げよ」

自らお調べの時は真っ正面から顔を見据え

ます。ハッと答えて田無良庵、一月の牢暮ら

しで無精髭がたまっておりますが、それがい

かにも「赤ひげ」らしい。けれどその目の奥

に光るものを見逃す伯耆守ではございません

。                   

「その方事取り調べたるも、医技に優れたる

のみならず、貧しき者への施しの数々、この

伯耆頭が下がる思いである」       

これには平左、仰天しました。容疑者に町

奉行が「頭が下がる」なんてムチャもいいと

ころです。               

「七日前より、調べ直したるところ、本郷界

隈の付け火、桜田門外のものとは別組なるも

のと判明いたした。かつ、下手人もあい分か

りしぞ」                

さすがに落ち着いていた良庵も怪訝な顔つ

きで奉行を眺め、お白州も騒然となってまい

ります。                

「金助町長屋、家主庄右衛門に訪ねる」  

「は、はい、何なりと」         

「長屋にて此度の大火により命をお落とした

るものの姓名を今一度あげよ」      

「は、はい。うちは火も回らずに助かったん

ですが、火消しの三次、『た組』纏持ちの鳶

の三次が本郷で崩れた家の下敷きになりまし

たが…」                

「その場所は此度、良庵が捕縛されしすぐ近

くであるな」              

「はい…」               

「此度、本郷界隈にて四ケ所に火を付けて廻

りしはその火消し三次である。よって良庵に

は罪あるべくもなし」          

と、長屋の内儀連が口をはさみました。 

「そんなバカな? ちょっと、お奉行さま。

三次さんならあたしらもよく知ってるよ。ま

じめな火消し鳶で『た組』の纏持ちにまでな

った三次さんが火付……なんで火消しが火付

けなんてするんだい?」         

「火消しには『消し口争い』というのがあっ

てな、どうせ飛び火で燃えてしまうなら火元

にいれば手柄を立てられる。特に三次の『た

組』は湯島の『わ組』との争い激しく、先日

も消し口争いの喧嘩で死人が出たばかりであ

る。加えて火消しの三次は昨年暮れに女房を

亡くし、酒に溺れ前後を無くしていたはず…

…」                  

長屋の住人たちはみな口ぐちに「そんなバ

カな」とか「いやあひょっとして」などと感

想を述べます。ひとしきりザワめきが落ち着

いたところで、             

「のう、良庵、三次の女房を見とったそちな

らば、わかるであろう?」        

あまりの事の成り行きに、良庵あっけに取

られるのはわかるのですが、どう見ても、濡

れ衣が晴れたという喜びの顔ではない。むし

ろ何かに驚いて目を見開いておりましたが、

気を取り直して、            

「……申し上げます。手前も謂われなく火付

け下手人にされましたが、三次もまた、女房

を病気で亡くし、消し口争いのあったことだ

けを証拠に火付けの下手人というはあまりに

ご無体ではありませんか?」       

「ところがな、三次については証拠があるの

だ。これ」と、目配せをいたしますと、見習

い同心が運んできました一枚の地図。一部が

焼け焦げておりますが、明らかに本郷近辺の

地図で四つのバツ印がついております。  

「そ、それは?」と田無良庵。      

「三次の体は焼けなかった、崩れ落ちた家の

下敷きになって燃え残ったのじゃ。これがそ

の時三次の懐に入っておった地図、そして印

のついておるところが付け火のあった大名屋

敷の場所じゃ」             

「それを、それをお見せくださりませ」この

時津久田伯耆守、御座を立ち上がりますと、

ズズーッと白州近くまで下りてきて、焼け焦

げた地図を手づから良庵に渡しました。  

震える手で地図を〓むとひとつひとつの印

を確かめ、落ち着きを装って       

「し、しかし、焼け跡からこの印通りの屋敷

に火付けがあったなどと、よく分かりますな

」                   

「その日のうちに召し捕られたその方は知ら

んだろう。本郷の大火は実は油問屋・伊勢屋

に火の粉が回ったことから発したもの。その

四つの大名屋敷は燃えてはおらぬ。確かに付

け火の跡はあるが、火は何故かすべて消えて

おったのだ」              

これを聞くと、ガックリと膝をつき、地図

取り落とし、その場に崩れる田無良庵。  

「さて一同、動かぬ証拠もあがった故、この

裁きはこれにて開く、一同、タチマセーイ…

」                   

伯耆守が声を上げる。吟味与力、同心たち

も立ち上がりその場を去ろうとした、その時

でございました。            

「お、お待ちを、お待ちを…」      

この時伯耆守、ふたたびズイッと一歩前に進

み出て、                

「なんじゃ、良庵、余の裁きに異存やあるか

?」                  

「…………三次の……三次の死に顔は?」 

「安らかであったとの調べじゃ」     

「……火付けをした者が安らかに行けましょ

うか?」                

「………一同着座。……良庵、申してみよ…

」「……長くなりますが、よろしうございま

すか?」                

「かまわぬ、日本橋亭は9時までじゃ」  




「………。手前の生い立ちから申し上げます

。手前は、人別帳には下総の国の生まれとな

っておりますが…。誠は信州上田・入奈良本

、夫神村の本百姓の子として生まれました。

百姓はどこでも同じでしょうが、子供の頃か

ら飢饉のたび、多くの人が飢えに苦しみ死ん

でいくのを見てまいりました。それでも、一

鍬一鍬、一所懸命に田畑を作っていけばいつ

か楽な時が来ると信じておりました。…あれ

は一四の時です。寒い夏で、前の年の半分も

米が取れず、母も、妹もみな飢え死にました

。それなのに、郡奉行の中村弥左衛門は、自

分の落ち度になるを恐れて倍の年貢をかけて

参りました。そこから信州数十ケ村に広がっ

た上田騒動が起こったのでございます。村や

町が焼かれ、多くの百姓が殺され、結局役人

は郡奉行がお役御免になっただけで、手前の

父や親類はことごとく首謀者として打ち首に

なりました…。生きる望みも絶えた手前は、

騒ぎに乗じて密かに村を出たのでございます

」                   

にわかに始まった身の上話に、役人も長屋

のものたちも耳を傾けます。伯耆守は書き役

同心に速記を忘れぬよう手で合図をいたしま

す。                  




「夫神村を出た手前は西へ向かい、三州で行

き倒れになった所を親切なお医者に助けられ

、弱った体と心を直してもらいました。その

時、自分は医者になろう、多くの命と引き換

えに生き残った自分は、人の命を救う医者に

なろう。そう発願したのでございます。それ

から大坂へ出て、下働きをしながら三年がか

りで金を貯め長崎へ向かい、夜の目も寝ずに

十年かけて医学を収めたのでございます。世

の中というのは金次第で、要所要所で鼻薬を

使いますと経歴なんてどうにでもなる、やが

て江戸へ出た頃には、下総の国の武家の出で

、蘭方まで収めた町医者ということになりま

した……。その頃、杉田玄白先生の蘭学仲間

にも入り、医者としての自信はいやますばか

りだったのでございます。けれど…どんな発

達した医術にも限界があります。私の手を取

って「助けてくれ」と訴える患者を、救えな

かったこともありました。そんな時、私は辛

くて辛くて、夜も眠れぬほどでした。それで

も、目の前の人を一人一人助けてゆけば、い

つか救われると信じておりました。…そんな

時、あの天明浅間山の大噴火、それに続く大

飢饉、そして江戸でまでも打ち壊しが起こっ

たのでございます。何日も何カ月もかかって

やっと救える一人の命が、何千何万と日々失

われてゆく…。手前は、あの子供の頃の、信

州夫神村でみた悪い夢を再びみるような思い

でした」                

ここまで話た時、助林平左衛門が「お奉行

、三次の話になりませんが」       

「急くんじゃねえ」目は良庵から逸らさず答

える伯耆守。              

「手前は運良くご老中、松平定信公のお脈を

取る機会に恵まれましたので、いかに民百姓

が苦しんでいるか、江戸の町でさえ飢え死に

が出る世の中を救ってほしい、切々、訴えま

した。その時楽翁公は          

『あいわかった。余もまた、霊厳島吉祥院に

誓紙なし、天下に金穀融通ある時には命を捧

げると誓っておるのだ』と申されました。手

前はその真摯な心に撃たれました。しかし、

その結果出されたのがあの『棄損令』でした

。武士だけが借金を棒引きにされるというお

触れです。武士は助かり商人は困り、その損

を売値に上乗せして、結局一番困るのは長屋

に暮らす多くの人々でした。何か自分がその

責めを追わねばならぬような気がして、以来

、裏長屋に出入りをするようになったのです

。長屋のみなさん、すみません私は神でも仏

でもないのです…」           

「そうだったの…。でもね、先生、うちの子

は、今年七つんなったけど、先生のおかげで

先生のおかげで生きてんだからね」    




「……。そんな折、あの男と、邪苦滅院雷光

と出会ったのでございます。かつて義賊とし

て名を知られた天狗党、一度瓦解したと聞い

ておりましたが、それを再びまとめあげたの

が雷光でした。初めは偉いお坊様だと思った

から、いくら一人一人患者を直しても世の中

は変わらない。貧しさが元で多くの子供たち

が死んでいく…そう愚痴を申しました…する

と雷公は言いました『だから、天下を根元か

ら変えなくてはいけないのだ』と。かつて慶

安の由井正雪、決して天下を私するを持って

挙兵したにあらず、徳川の世に作り出された

数万の浪人の生きる道を開かんが為なりと。

雷光の言葉には真実がありました。『今、天

下の騒擾は田沼意次がつけし金がすべての世

への道なり、今その道を途絶なくばこの世の

地獄なり』と。手前は、その言に弄され、天

狗党と血盟を結んだのでございます……」 

「なあ、そろそろ、三次の話を聞かせてくれ

ねえか?」               

「……三次……。はい、やつの女房を見とっ

たのは手前です。三日三晩つききりでした。

ああ、三次…酒に溺れていたなんて嘘です。

ヤツは今年になってキッパリと「女房の分ま

で生きたい」と明るく申しました。……そう

かあの時、ヤツの家に薬箱を忘れた時に中の

地図を…。あの日、あの大火の日、手前は確

かに本郷におりました。一丁目の方でゴーッ

という音と共に油蔵に火が廻り、竜巻のよう

な風が起こりアッという間に火が廻り、目の

前の家の中から悲鳴が…その時、為す術もな

い手前の横を走り過ぎて、三次が……最後に

ふりむいて「先生、世話になったな」と…。

あの竜巻のような炎の中を、何の迷いもなく

逃げ後れた者を助けるために…。やがてドー

ンという音とともに、その家が崩れ落ちるの

を見たのでございます。手前は呆然と立ち尽

くし、気がつくと火盗改めのお役人に引き立

てられて…。雷光は言っておりました「世に

害をなす大名の屋敷を焼くだけだ、仮に死人

が出ても、この世の地獄にいるより極楽へ行

けるのだからいいではないか」その言葉に騙

されて……まさか江戸中を焼くような企みで

あったとは……三次、いかに火消しといえ、

なんで迷いもなく火の中へ飛び込めたのだ「

女房の分まで生きる」と言っていたではない

か。それに比べて自分は…医者である自分は

何をしてしまったのだ。手前でございます。

この地図は手前の書いたものでございます。

三次はそれを知って、手前の付けた火を消し

て回っていたのでございます。本郷の大名屋

敷に付け火をしたのは、手前でございます」

「先生、先生……」と崩れ落ちる良庵に駆け

寄る長屋の人々。            




「………。平左」            

「は」                 

「火付けの罪は火炙りと相場が決まっておる

のか」                 

「もちろんでございます」        

「しかし結局火はつかなかったわけだし……

」                   

「いけません」             

「…田無良庵。その方議、本郷の大名屋敷に

対して付け火をして回ったは不届き至極、よ

って火炙りの刑に処するものである」   

白州の町人たちが一斉に「お奉行さま」と訴

える、                 

「控えよ。一度でも火をつけた以上、その刑

は免れぬのだ。…なお、さらに謀叛人の集団

・天狗党に与し、邪苦滅院雷光の世迷い言を

聞き入れ、実践したる罪も軽からず」   

「はは」                

「よって…火炙りの前に八丈送りとし、八丈

の囚人に広がる流行り病を治療し、また島民

にも医療を施す<苦役>を課す。もし、将軍

代替わりなど恩赦ありて帰朝する時もその苦

役は続けるものとする」         

「ちょっとお待ちを。お奉行、それでは、刑

の執行は」               

「いずれの日か、医者としての苦役を終え、

力つき命尽きたその後に行うものとする……

以上、本日の裁きはこれにて開く、立ちマセ

ーイ」                 

「は、は、ハハーっ」          

吟味所廊下を足早に進む伯耆守、必死に取

りすがる助林平左衛門…         

「お奉行、あれではただの島送りの後、死ん

だら火葬にせよと言ってるだけでは?」  

「やかまいし、ここじゃ、俺が法律だ。そん

なことより、平左」           

「ハッ」                

「天狗党首領、邪苦滅院雷光、いよいよ持っ

て許し難し。捕り方同心を一人残らず集めよ

、南町奉行所にも使いを出せ、この上は、伯

耆自ら召し捕りに出る、馬を引けーーい」 

「ハハーッ」              

さて、これから、寛政の世を騒がした天狗

党、そして二代の首領として人心をまどわし

ました江戸の怪僧・邪苦滅院雷光の召し捕り

の段となる。この後が最高ーーですが、また

いつの日か。              










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