|
この「集中連載」は、NHKの大河ドラマ「新撰組」を素材として、講談師としては日本でも「幕末モノ」の権威となるべく始めるものです。 いままでに「坂本龍馬」の新作を三本連続で書いている自分としてはどうしたって「新選組」は「敵方」なので、そういう立場で書きつづってゆきたいと思っております。
さて、今、第一回を30分ほど見たところです。初っぱな、京の話から始まって、多摩時代の近藤に戻られても、視聴者は戸惑うのではないかと感じつつ・・・・・。新撰組という幕府側の治安維持組織と、幕府転覆を狙う「勤皇の志士」坂本龍馬や桂小五郎が顔見知りという設定はどの程度史実に基づいているかといえば・・・・・・同時代にこの英傑たちが江戸で青春期を過ごしていたことは間違いないし近藤たちが出稽古をしたり、桂小五郎や坂本龍馬が道場破りを防ぐために近藤の道場に依頼を受けて出張していた可能性は否めないので「絶対ウソ」とは言えないんです。 ですが、記録が残っていない以上、多分知り合った機会はなかったろうと推測されます。
ただし、昭和四年発行の「講談全集」には桃川如燕先生の口演として近藤勇と坂本龍馬が知己であったという設定で一席ものが掲載されております。早速、次の高座にかけてみようかな・・・。
結局、NHKは講談から70年も送れているというわけです・・・。
| | |
|
|
NHKの放送に添って書くかどうかは未定。 今回の感想だけいうと「あの近藤が、平然と人を斬る近藤になるのか?」というものであった。 この世界に「人を殺してもまったく問題にならない」文化というものはない。最近は死刑廃止の潮流で何人も人を殺したものを罰する場合ですら殺さないのが文明的、という流れである。そんな中で、公然と人を切り、また、身内を粛清する新撰組の「人殺し」をどう描くのかは最も難しいテーマのはずである。 暮れに放送された『竜馬がゆく』は、龍馬が暗殺された時、鞘におさまった刀をふるっていたことから「徹底した非殺人主義者」の龍馬を描き成功していた(そのために下関戦争がスッ飛ばされたが)。力業で見事だったが、現代において龍馬側を是とするのはた易い。なにしろテロすら否定していたのだから(「すら」と書くことに違和感があるかも知れないが、このこともいずれ書きたい)。
うう、文章が面白くないな。
新撰組関係の本を読みあさっているが、今日読んだのは『新選組流血録』(園田光慶・久保田千太郎)これは凄かった。龍馬や勝は薄汚い陰謀主義者、岡田以蔵はアヘン中毒・・・・・なにしろ、普通新選組を主役にする場合ですら悪役になる芹沢鴨を主役にした話なのだから。とにかく、新選組の「人殺し」は、相手が徹底的な悪、それも凶悪な場合の正当防衛としてしか肯定的には描き得ないはずだ、現代では。なのに、いきなり第一話で維新側を同列、いや、ほとんど主役に描いてしまった・・・・。
今日の話にしても、「土方を守るための正当防衛の殺人」が成立するかどうかギリギリだった。しかも、その事に苦悩する近藤・・・。 正直、読めないです。この話がどうなっていくのか。それはつまり、「正義」をどう描いていくのかにかかっている。つづく
補遺:揚げ足とりがこの連載の目的ではないが「あなたに切られた盗賊は、生きたいという思いがあなたより弱かった」という土方為次郎のセリフは最終回まで忘れぬように記録しておく。 | | |
|
|
・・・・っていうか、タイトルにいちいちNHKのサブタイトルを載せてたら、単なる「ドラマの感想」になっちゃうので・・・。 いちおう、今日は「母は家出する」という話で、近藤勇が養母に「お前は武士ではない」と言われて「武士よりも武士らしく生きる」と決意するお話しでした。 お話の出来については感想は控えます。
龍馬の方の話をします。今日も江口龍馬が本筋にかかわっておりましたが、あまりかかわらせ過ぎると、実際の事件を描く段になって破綻をきたすのではないかと心配です。その龍馬、司馬先生の『竜馬がゆく』では「お田鶴」さまが、小山ゆう・武田鉄矢の『お〜い竜馬』では加代さんが、藩の家老のの娘として出てきます。しかし、そのモデルであるはずの「平井加尾」は龍馬と同じ低い身分の平井収次郎の妹です。つまり、作者が「身分を超えた恋」のフィクションを付け加えることで龍馬の「新しい日本」へのモチベーションを高めたことになります。 さて、近藤勇が「武士になることを」強く望むきっかけとして、今日のお話が適切であったかどうか・・・・。それは長い目で見て判断することといたしましょう。 あと、新作講談を新撰組で一席書こうと思っていますが・・・「芹沢鴨はブッシュ」というモチーフでどうでしょうか?
再放送で第四回を見てしまった。 まだNHKとも利害関係はないし、正直な意見を書こう。 今の時点では、「全然ダメ」です。特に脚本が。 二点。まず一、現代人の心情から描こうとし過ぎて題材を活かしきれていない。もちろんそれはドラマの基本だが、要はバランス。その二、登場人物自体の心情に矛盾がある。今回も心の葛藤の「原因」と「結果」がまったくつながっていない。ドラマの根本がダメ。詳細を書けばかくほどイチャモンになるからやめとこうかな?(いちおう一個だけ書く。「武家の娘を嫁に?
身の程を知りなさい」今回のテーマモチーフのはずだが、勇はその嫁を断ってるではないか?
つながらない心情の上にドラマは成り立たない)(より厳密にいえば、心の葛藤を強める方向にドラマが動いていないのだ。私が書き直すなら「武家の嫁」>「勇もけっこう乗り気」>「冷や水を浴びせられる」>「身分への憎しみ」とならなければいけない。沖田の姉への思いも、この葛藤の中で強める描き方は簡単。ダラダラ続いているだけ。まさに現代人の「何の緊張感もない」日々のぼやけたコピーである。
↑芸人であると同時に「物語作家」でもあろうとする自分への戒めをこめて。三谷さんの才能はもちろん信じています。 | | |
|
幕末のポリシーチャート(制作中です・・・・いかがでしょうか?) | |
←クリックすると拡大します | | |
|
|
「天地ひっくり返る」と、タイトルをつけると、最早「感想文」のコーナーなってしまうので。ただ、きっかけとしては、日曜の夜に書くのが一番いいのかと。 斉藤一が江戸にいることとか、山南敬介が近藤に負けたとか、史実なのかどうかの皮膜をうまくくぐってはいる。先週の感想で批判した人間描写の浅さも、テンポのためには犠牲にしてしかるべきなのかも知れない。ただ、ここまで「維新側」に肩入れをした書き方が、どう後の新選組につながるのか、どうしてもわからない。もしかすると作者の術中にはまっているのかも知れないが。 桜田門外の変だが、よくはとバスで解説しながら通ったので光景が目に浮かぶ「大老というのは、総理大臣兼、外務大臣兼、大蔵(当時)大臣みたいなもんですよ〜。だから、コイズミさんと、タナカマキコさんと、宮沢さんが一変に殺されたようなもんなんですよ〜」と解説した。そりゃあ天地がひっくり返るわな。 それ以上に「幕府」という権威が「武」によって動かし得るということを天下に示した事件。なのだが、その「驚天動地」さを描き得なかったというのはやはり減点。「○○○○○○向きのドラマ」でなければ視聴率がかせげない世の中では、昔の大河など望む方が間違っているのであろう(○の中には適当に字を入れてください)。 あと、インターネット上でも「暗殺なんだからアルカイダと同じ」と言われていたテロ行為についてどう描いてゆくつもりなのか、まったく見えない。
ご参考までに http://www.alpha-net.ne.jp/users2/longhill/bogonomittutyoku.html | | |
|
|
もちろん、NHKのドラマも見ました。 一体、あんなに桂小五郎と親しくなって、この先どうするつもりなのだろう。「青春群像グラフティ」にしたいということなのだが、彼らは当然殺し合う訳でしょう?
人気の度合いから、坂本龍馬を登場させない訳にはいかないとして、倒幕・維新側の人間をあまり肯定的に描くのはいかがなものか。それ以上に気になるのが「近藤勇の人柄にひかれ」という視点。ゆくゆくは今でているメインキャストのほぼ全員が近藤と土方の命令で切腹・殺戮されることになる。どうもドラマはその段階までいかないそうだが、よもや池田屋以前で終るというのだろうか。その意味でもこのドラマから目が離せなくなってしまった。しかし、毎回見ていても、「人物が必然に則って動いていない」気がする。たとえば土方が山南をなぜあんなに嫌うのか、何度ビデオを見返してもよくわからない。まるで「史実として山南は土方と反目して切腹をする」以上、「会った時から嫌いでなくてはならない」という理由を説明するような嫌い方である。展開への興味とそういった表現への反発とどっちが勝つか。 もうそろそろ読者も少なくなった(笑)頃かも知れないので、今の時点での結論をそっと書いておく。あくまで「今の時点での自分の解釈」ドラマの解釈ではない。 新撰組とは「女形である」。 女形の役者さんが多く本物の女性より色っぽいのは、自分が女性でないことを理解した上で女性を表現しようとするからである。しかも、男性が女性のどういった部分に惹かれるかを女性自身よりもよく知っている。新撰組の中核を成す人々は生来の武士ではない。また、武士であっても浪人や素性不肖など「武士として自分を作っていかなくてはならない人間」である。ゆえに「より武士らしくなろう」として、勢い原理原則に固執し、強硬に武士の形を己が身に纏おうとする。その最も明確な表現が「何でも切腹」のあの隊規である。「武士とは立派に切腹ができること」死を賭した決意ほど己のアイデンティティ(誇り)を確かにしてくれるものはない。 実際、「反対側」にいるはずの海援隊ですら、龍馬の腹心、近藤長次郎は切腹を強いられ、しかも自ら実行している。それほどに切腹は「武士・志士」と他を分かつ免許証(免罪符)だったのであろう。
もうひとつ、メッチャ怖い結論も出ているが・・・・それはまた。 | | |
|
|
引き続き、NHKドラマの感想ではない。習慣的に日曜に書いているが。 木原敏江『天まであがれ』を読んだ。これは沖田総司を主役としてまさしく少女マンガの世界観で新撰組をとらえたもの。フィクションとしては沖田を慕う少女と、土方を慕う会津藩のお姫様が男装して新撰組に入隊するという奇想天外(マンガとしては、さほどでもないのだが)な発想から、新撰組が「儚い青春の夢を追い続けた集団」として描かれている。黒乃奈々絵の『ピースメイカー鐡』の原点ともいえる作品である。泣いた泣いた。そして『ピースメイカー』の最新刊・四巻も買ってきた。こちらは、龍馬の薩長同盟と暗殺を中心に、もはや新撰組モノではなく、幕末群像劇の様相を呈している(ここで描かれてた桂小五郎は、たぶん、デフォルメ度ナンバー・ワン!)。
昨日、新撰組の故郷ともいえる、多摩を歩いてきた。NHKのパビリオンもあったが、今はただの静かな住宅街である高幡不動の北、浅川の河原を歩きながら、沖田や近藤とともに、出稽古のあとこの河原に寝ころんで夢を語ったであろう彼らを思っていた。 人は人生に夢を見る。けれど実現のための飛翔の機会は鮮やかに訪れるとは限らない。単に進学であったり、就職であったり、結婚であったり・・・・・・。新撰組、特に試衛館道場からの仲間たちは「命をかけて、武士になりに行く、日本を守りにいく」といった夢を京都で実現した若者たちだった。それが時代の流れと逆行するとか、結局は敗北するとかは関係ない。彼らが殺人集団であったことへの批判を一旦置くならば、『天まであがれ』の描き方も可能であろうとは思う。ただし、それは、「新撰組」の物語ではない「はかなき青春の物語」である。新撰組の活躍した期間が、高校や大学といったほんの短い期間であったことも意味深いであろう。
NHKのドラマ?
はあ・・・・とうとう、近藤勇が異人に土下座しちゃったよ?
どうするの? | | |
|
|
まさかと思うけど、0.5人くらいはこの連載を待っている方もいるかも知れないので、習慣的に週明けには書くようにいたします。
実は昨日、NHKで放送を見ながら書いていたのだが、かなり長く書いたところで突然フリーズして文章が消えてしまった。かなり辛口に書いていたからか(?)。いわく「オタク的な脚本だ。原田左之助の腹の傷が<切腹の痕>であることを説明もせず自己満足に匂わせている。そのうち三谷の<赤いバケツの話>なんて内輪受けも出てくるに違いない」みたいな・・・・。オタク的とは自縄自縛な表現だが、いかにチラッとでも、自己満足、内輪受け的な部分がいかに批判的に見ている観客に不快感を持たせるかわかった気がする。ホントに自戒。それでも、作品自体が良ければ許せる割合というのもあるのだろう。 でも今回は途中で「中継書き」を中断したほどに面白かったのだ。やはり時代劇の醍醐味はチャンバラ。元・剣道部としては一般の視聴者以上に興味を引かれてしまうものだ。「新撰組で一番強かったのは誰だ?」という議論は古来絶えないが、ここの番組では沖田が一番、ということになるらしい。ちょっと早い気もするが(山南に勝ったので)。 あと、龍馬が出てきたが注目は「武市先生」という呼び方。この呼び方で龍馬と土佐勤皇党への解釈がわかる。「武市」と呼び捨てにするか「アギ(顎)」とアダ名を呼ぶか・・・。「武市先生」は最も龍馬が遠い存在になる呼び名。また、なぜ望月が出てきたのかも、わかる人は「幕末ポイント1点」進呈である(ナニサマダ)。
今、必死で「坂本龍馬と新撰組」を書こうとしている。キツイ。このキツさは『テロリスト大石内蔵助』クラスである。 | | |
|
|
NHKの『新選組!』の感想文に堕したくないので、現在放映中のもうひとつの新撰組の話、『ピースメーカー鐡』というアニメ。アニメと言っても深夜二時すぎに放映中、完全に十八禁の内容である。新撰組の最年少隊士・市村鉄之助が主人公(ただし、史実とはまっく違い、池田屋前に入隊している)。十八禁というのは、殺人、拷問は当たり前。そりゃそうでしょう、何にせよ新撰組の話なんだから。 その中で、古高俊太郎を捕縛する場面で「よかった・・・人を殺さなくて」というセリフが出てくる。 およそ現在の我々が受け入れられる物語で、子供が殺人を肯定するセリフは考えられない。殺人そのものは、戦争はじめ、敵を殺すことが是とされる設定で「遠景から」描くことによって(描写ではない、殺される側を単なる「敵」という記号に閉じ込めることによって)爽快にも滑稽にも描くことができる(講談の、たとえば『海賊退治』のシーンなど)。しかし、近景に寄って(相手が独立した人格であることを描写した上で/たとえ極悪人であっても)殺人を主人公の側が躊躇なく犯すということは難しい。「新撰組」という物語はその困難の克服なしには決して描き得ないのだ。
その意味では幕末モノは維新側、特に結果としてリベラルな公武合体派であった坂本龍馬を描くことは優しいと結論づけられるだろう。 余談ながら『ピースメーカー鐡』の最新刊(4巻)の桂小五郎は物語史上で空前絶後の桂小五郎である(笑。 | | |
|
|
□ 伊藤軍兵衛<いとう ぐんべえ>(1840-1862)松本藩士 1861年、水戸浪士達による東禅寺襲撃事件が起こり、松本藩は寺の警護を行っていた
ここで、それまで外国人の横暴な態度や警備で藩の金が浪費されることや
外国人のために日本人同志が血を流すということを憂いていた彼は公使の暗殺を決意するそして、1862年、単身で代理公使ニール中佐の寝室に近づくが発見されるしかし、そこで英国人水夫2人を斬って逃走するそして、その翌日、松本藩邸で自刃する 享年23歳 □
いや〜、インターネットって便利。今日のNHKの『新選組!』がどの程度フィクションを取り入れていたかが、検索すれば一発でわかった。近藤勇がどんどん異人に肩入れする展開になっている。これは何故かといえば、近藤が「尊皇攘夷」浪士の敵となる動機が純粋なものであるためにはこういう展開の他には無いからであろう。私家版『幕末チャート』では新選組は「佐幕・攘夷」になっているが、結果として佐幕である以上、立場は「開国」にならざるを得ない。それでも近藤の攘夷思想は明確な気がするのだが、それをひっくり返してしまった。つまり、「近藤」の位置がチャート上、限りなく「勝海舟」に近づくワケだ。龍馬と知り合いだとかなんだとかより、まずは「近藤=攘夷、でない」という点がいくらなんでも史実に反する、という反発は必至である。 さて、前から何度も書いているが『ピースメーカー』という新撰組もののマンガがあって、とうとう全巻購入してしまったのだが、その中では「一人の少年の心の傷の克服」というテーマで、史実全部を乗り越えて描いてしまっている。つまり、すでに「歴史」を描こうという気がなく、あくまで「新撰組」を題材にした物語なのである。NHK版がここまでゆくつもりなら、今回は「踏み出してしまった」回ということができるだろう。
物語が物語として訴求力を持つ条件は「登場人物に感情移入できる」ということである。(ただ、これに関しては、陳腐に堕するという欠点もあり、様々な超克の試みがなされてきた。もしよければライブラリの「Zガンダム論」などお読みいただきたい)。そのためには何よりも「登場人物の動機が明確」でなければならない。複雑怪奇で毎日性格が変わるような主人公もありえなくはないが、その場合でも、その複雑怪奇さの原因が明確にされる必要があるだろう。「伝記もの」の多くが歴史に足跡を残す青年期以後がつまらなくなるのは、フィクションの介入が困難になりはじめると同時に主人公を縛る枷が社会的に増加するからである。動機は現実原則にねじ伏せられ、ただその軋轢の中の葛藤ばかりが描かれて、テンポが悪くなってしまうのだ。 引き続き、私は「新撰組」を物語にする場合、カットしなくてはならない要素は維新側を描く場合の比ではないと主張する。それほどに新撰組は散文的である。有体に言えば「夢がない」のだ。 | | |
|
|
『坂本龍馬と新選組』を本牧亭でネタ下ろしするのに全勢力を費やしてました。実験アップのものから10%くらい改作いたしましたのでそのうち「新作講談の部屋」に収録いたします。 ドラマの感想でお茶を濁すのも申し訳ないのですが、「清河八郎」をどう描くというのもポイントの一つになります。先月伝通院へ行ってお参りをしてきたばかりですので。それぞれの時代に、それぞれの志士(広い意味で)たちが信念を持って走ってきたのでしょう。徳川幕府がある意味あっけなく官軍(後の)に破れたのは、人材登用の問題があると思います。たとえばですが、坂本龍馬を海軍奉行並にでもできるほどの柔軟性を持っていれば、あるいは今も「徳川政権」が続いていたかも・・・・というのは完全に妄想ですが、あの、幕末の動乱を一人で仕掛けたといわれる(薩摩の寺田屋騒動もこの人が黒幕みたいなもの)清河が、確かに過激な尊攘思想は時代を先取りしているとは思いませんが、長州のように外国と戦ってみて進歩性に目覚めその力を利用しようと考えたら、歴史はずいぶん違った貌(かお)を見せることになっていたかも知れません。
さて、歴史の闇、とは芹沢鴨の暗殺のことです。今でこそドラマや小説で繰り返され、当たり前のストーリーになっておりますが、当時はもちろん内部抗争であるなどという事実は知られていなかった・・・・あえて言いましょう。あの「9.11」は実はアメリカの自作自演だった・・・・というく、ら、い、の「闇」なわけです。時代が動く時人は目先の情熱にとらわれがちです。また、そうでなければ時流に乗り遅れるということになります。しかし、やはりどんな時代にも「闇」が存在している以上、常に自分の行動を検証し続ける努力は必要なのではないでしょうか。 ドラマでもこの後「山南敬介」がどう描かれるかとても楽しみです。今日のセリフにもありました「沖田くん、君の剣が必要となる時がくる」みたいな・・・・・まさかその刃に首をはねられるとは思ってもみなかったでしょう・・・しかし、その事実もけっきょくは「闇の中」。
ついでに、「坂本龍馬と勝海舟」の出会いを一番「事実に近い形で」描いたのは黒鉄ヒロシさんの『坂本龍馬』だと思います。「おめえら、オレを斬りに来たんだろ?」「ハア?」「いーってことよ、カッカッカ・・・」こちらの「闇」は明るくていいのですが・・・・。
| | |
|
|
長くお休みしました。連載、再開します。 正直、「坂本龍馬と新選組」を書いてから、ちょっとサボってました。こんなことでサボるようではとても幕末の権威、とか冗談にも言えないですねえ・・・。 ドラマの感想さえ書いていればカタチにはなった訳ですからね。ホントに反省します。そして、面白くなってきました、先週あたりから。 でも・・・・。シナリオ書きの卵だった観点からいうと、テレビドラマは映画ほど映像に頼ってはいけないんですよね。今回の『芹沢鴨爆発』のクライマックスシーン、近藤が芹沢を説得するところは、やはりセリフで決めなくてはいけないと思います。「もういい!」の一言を言わせるための「溜め」も十分ではないし、それに、かなり集中して見てましたが、近藤勇が命がけで説得している「熱さ」が伝わってこない。表情的にもほとんど「泣き落とし」にしか見えない。つまり、画面的なインパクトも弱いということで・・・せっかく面白くなってきた所だけに残念です。
ちなみに「芹沢=ムチャな焚き火」というイメージは「坂本龍馬と新選組」の中でも使わせてもらいましたが、「火事」というものの恐ろしさが現代とは格段に違うあたり(消火方法が不十分で類焼を防ぐ手立てもない)が感じられないと、単なる「火遊び」に見えてしまいます。その当たりも演出が・・・・。
本来はこのコーナーは「感想」ではなく「ウンチク」のコーナーにする予定だったので、次回は頑張ります。 | | |
|
|
「再開!」といった割に、一カ月も間が空いてしまいました。その間に、ドラマの方も進んでしまいましたが・・・・いよいよ「ホームドラマ」っぽくなってきましたね。今週、見事に青春ドラマしていた人々が、お互いに鋭い刃物で喉とか胸の血管をつつき合うことになる訳でですが、一体どうするのでしょうか、目が離せないですね。 『坂本龍馬と新選組』とは名ばかりの「山南敬介」の一席には、もともとは平山五郎とかも出てくるのですが、なにぶん長くなるので大抵はしょられてしまっています。それにしても、確かに「人間関係」は面白おかしく描かれているのですが、それぞれの「動機」が少しも見えてこないドラマですね。カンタンな話、なぜ近藤勇は「上様に対する敵は自分の敵」とあんなにカンタンに思い込んでいるのか、ぜんぜんわからない。今までで一番「動機」がよく見えた回は、武士の出でないからと言って就職を蹴られるあたりですが、それは現代の若者にもありえる「事件」、それに対して、「命をかけて大義を守る」なんて経験は今の若者、というか、作者の三谷さんあたりにとっても何らリアリティのあるものではありませんから、描けなくて当然なのでしょうね。 佐藤浩一さんの芹沢は十分魅力的なんですが、これまた前回あたりから「なんで近藤のことを気に入ってるのか」がぜんぜんわからなくなってきましたね。 よく高座でも「今の大河ドラマの役者さんは時代劇を経験していないんだから、仕方ない」と口にしますが、時代劇にあるはずの「思想」が何も見えてこない。確かに、「忠義」だの「恩義」だのという観念を持ち出せば持ち出しただけ、現代の視聴者の共感を失うというのはわかるんですけどね、どうして、その「古臭く見える思想」に縛られた姿を、現代の「古臭く見えようと守らねばならない倫理」に置き換えて描くことができないのでしょうか。 たとえば、幕府を正義に、近藤を魅力的に描きたいなら、もっと長州側の苦悩を描くべきだし、どうしても桂小五郎と近藤勇を「仲良し」にしておきたいなら、過激派である久坂との確執を描くとか、いくらでも方法はあるはずなのですが・・・・・ストーリーが重苦しくなる?
そこを軽くやるのが、まさにシナリオの役割だと思うんですけどね。 噂では『キャシャーン』が反戦映画として作られているそうです(まだ見てないが)、別に新選組をそんなふうにしてくれといってるのではないです、「理想を追おうとして、それに届かない悲しみ」をこれから隊内の殺し合いを通じて描くつもりなら、もっと深みのある人間を描いておいてもよい気がするんですがね。所詮、いい女に目がいくとか、そういうことでしか「身近さ」を描けないのでしょうか。『機動戦士ガンダム』の隊内での人間関係を思いだしました。 | | |
|
|
感想でも何でも、とにかく毎週書きましょう。 今週のドラマの中で芹沢鴨が「それがニッポン人の礼儀だろう!」と言った。「龍馬教信者」の間では、この時代に「ニッポン人」という認識を持っていたのは龍馬だけ、という「教義」がある。もちろん、作者(三谷幸喜)だってそのことは意識しているだろう。それを、わざわざ芹沢に(ほぼ対偶の位置にある)言わせるというのは・・・。いやむしろ論理学的には、対偶の位置にあるからこそ「ニッポン人」というものが意識に上ったという考え方もあるのだろうが、それにしては淡々と出たな。 この物語の前半が締まるかどうかは、一重に芹沢の描き方にかかっている。単純な悪役でない相手を主人公が「殺す」ということは、主人公がその人物のもっているモチーフを「完全否定する」ということである。つまり、「芹沢の生き方」の真反対を近藤が「選択する」ということでなければならない。「ならない」とは言い切ったものだが、「殺す」という否定はそれほどのものでなければ「ならない」だろう。少なくとも、近藤のために人まで切った「このドラマの芹沢鴨」を完全否定するほどの動機が今の近藤にあるだろうか。
どうも「感想」を書くとイチャモンに終ってしまいそうでツラい。大河ドラマと比べるのも上見ぬ鷹の振る舞いだが、自作の『坂本龍馬と新選組!』の中では、鴨の行動原理が十分明確な上に、それを「殺す」のは、ほぼ「意図」を持たない人物ということになっている。あと、6/12の広小路亭では、「龍馬」にももう少し意図を持たせてみたい・・・・どんどん話が長くなってしまう・・・・。
| | |
|
|
また感想文なんですが・・・・ごめんなさい。そろそろ限界かも知れない。 時には「目が離せなくなった!」と絶賛した新選組なんですがね。だんだんというか・・・・どんどん・・・というか・・・・。「辛抱がない」んですよね。ドラマに。すぐに罵り合ったり、ケンカしたり、登場人物には信念はなく、ただ「反応」があるばかり。感情だけで思想がなく、欲望があっても愛憎がなく、人が死んでも魂がない。形があっても本質がなく、姿があって影がない。要するに、月並みに言えば「人物に深みがない」。現象面からいえば、「思ったことは溜めず堪えず口にして吐き出して、その結果を予想することもなく、その結果に捕らわれることも責任を持つこともない」。
私が疲れているのでしょうか?
告白しますが、三谷幸喜の脚本で、ウマイと思ったことはあっても「スゴイ」と思ったことがありません。これがホンネです。
どうしてこうも一人一人に「個性がない」のでしょうか?
そりゃ、形だけは違ってますよ。「怒りっぽいやつ」とか「いいかげんなやつ」とか「まじめなやつ」とか。でも、みんながみんな「持って生まれた性格」で終っていて、彼らがその個性を得るに至ったドラマが何にも見えてこないのです。今日のお話で、一番の要である芹沢鴨が、なぜ今の芹沢になったのか(今日はそれがテーマのはずでしょう?)天狗党の説明といえば、桂小五郎がまさに「口先だけで説明」しただけで、芹沢がそれに絶望したのか、逃げ出したのか、そんな「説明」は何ひとつなく(台詞にしろって言ってるんじゃありませんよ、いやしくも映像作品なんだから、何か芹沢の表情ひとつからでも表現できるはず。でも書き込んでありません。それを必死に補おうとする佐藤さんが可哀相で見てられない)従って、芹沢に同情することもできず、反発することもできません。 もちろん、こういったモロモロは、芹沢が死ぬまでにちゃんと決着をつけてくれるんですよね。だとしたら、ものすごい「辛抱のある」ドラマだと感心いたします。 ははは、どうせ作った側が読むこともないだろうと思って、正直なことを書いてしまった。がんばってくれよ、ホントに。
| | |
|
|
結局、先週の分はまだ見てない。 今週の分、40分見たところ。 ドラマ論は古来無数にあるが、今、私なりにデッチあげれば「人物が統一されていること、その人物が魅力的であること、その統一された人物が状況ともみ合って動くこと」。昔、ジェームス三木先生が言ったことばで「ドラマの主人公とは、自分に与えられた困難を自分で解決していく人物だ」というのがある。このドラマの近藤って、何か解決してるだろうか。 芹沢の統一がない、魅力がない。お梅の魅力がない、それにひかれる沖田の統一がない。人物が作り出した状況ではなく、単に歴史的な背景が動いてそれに反応して全員が流されているようにしか見えない。 ただ一人、土方が浪士組統一のために動いているが、その動機もよく見えない。 たぶん、先週の分を見なかったせいに違いない。 さてここだ。 一回見逃したせいで人物の統一感と魅力が失われてしまうドラマが良くできたドラマかどうか。 うーむ。言いたい放題。 自分の書いたものと比べてどうなんだ。 巨人阪神戦見てればよかったかな?
・・・・あんまりにも書き捨てだな。追加で書きます。 今日の新見錦の切腹が残念だったのです。魅力がないでしょう?
芹沢派一番の切れ者で、あれだけ愚かしいリーダーを支えてるのだから、山南+土方なみの人物をあんなにもあっけなく消していいんですかね?
完全に「史実でそうなってるから仕方なく」消したように見えます。で、最後の「先に言って待ってるぞ」というセリフも、まるで歴史を下流から見てるような言い方でしょう?
「山南、あんたほどの男ならわかるだろう?
わからないのか? 」このくらいの問いかけがあるだけでもまったく違うと思うのですが・・・・。 何度も言いますが、海を渡れなかった人間は洋行帰りには厳しいのです。 | | |
|
|
手抜きのつもりはありませんが、今日は試みとして、見ながら書いてみます(前もやったか)。 見事に私家版の「坂本龍馬と新選組!」と重なった盛り上がりになってきてしまった。いや、こんな言が思い上がっていることはわかっていますが。 今、始まって10分、沖田総司が「芹沢は私が切る」と言ってるところです。 不満の数々。「近藤の魅力でついてきた」古参の仲間が、同志を切るなどという大胆な時に、近藤の主導もなし、いやどう見たって不満がありそうな様子なのに、なんで素直に言うことを聞いてるのだろう?
確かにキチンと見なかった回もあるけど、結局、この人たちは何がしたいのか全然わからない。ていうか、「何をしたいか全然わからない人たち」を眺めている自分がわからない。このお話の中でやりたい事がハッキリしているのは土方だけだが、その土方すら、「何故浪士組を都で一番にしたい」か見えない。ただ単に、多摩に帰ったら昔の女が出てきて結婚を迫られるしかないから、にしか見えません。 芹沢もわからない。本気で気配を感じているなら自殺したいから残っているようにしか見えない。先週のラストの「次は俺だ」とまで叫んでいるのに、この人は何がしたいのだろう?
で、これはある種パターンなんですが、「死ぬ寸前にあり得ない将来をほのぼの語り合う」で哀れを誘おうとしているけど、死にたい人にこんな事語られても同情できない。お梅も、だいたいこの展開は彼女の責任なのだから自業自得だし、ここで可哀相に思える訳がない。 相変わらず佐藤浩一の芝居はよい。「行間の芹沢」をなんとか表現しようと必死になっている。けれど、あの、居酒屋で魚をさばいていた「新しい芹沢像」はどっかへ行ってしまって、ただ消えていくだけだ。何故?
ドラマの中の時間が文久三年の九月十八日になったから、それだけにしか見えない。 人は時代に動かされるのか、人が時代を動かすのか。唯物史観など屁でもないが((
≧▽)ノ"Ω へぇー)おそらくは前者だろう。だからこそ、ドラマの中くらいは人が歴史を動かして欲しいのに、みんな予定表に従って行動しているだけにしか見えない・・・・・。 今、源さんが「近藤さんは乗り気じゃない」と聞いたけど、何の動揺もないし、芹沢はいよいよ死ぬ覚悟のようだが、自分から運命を捨ててしまった人間に描かれては、今までの魅力もだいなしだ。 うん。近藤が止めに行くのか? それなら面白いぞ! え?
参加するの? 今回の新選組に新しい要素があるとすれば、近藤が自主的に行動するということだろう。最も注目を集める役者を使った以上そうならざるを得ない。そしてとうとう、今、近藤が斎藤一を説得してドラマの「主役」を取った。これはいい! 面白い!!! え? 暗殺には参加しないの?
ま、まさか・・・・・・・??? ひとの良かったはずの原田サノスケも単なる殺人鬼に見えるし・・・・・・いや、やはり・・・・何よりも絶対納得できないのは、このまま近藤は座っているのか?
ままままま、マサカ・・・・・・。 20時28分、いよいよ襲撃。史実通り雨になっている。フト思うと、自分の講談では、雨が「止む」のを読むのが好きだなあ。
史実としては、定説は襲撃は四人、ただし、サノスケが入っていたかどうかは異説があるようだ。もちろん近藤はいたはずだが・・・・・・。今、立ち回り。それでも、やはり、芹沢は、絶対に近藤が切らなくては「物語ではない」と思うが? え? お梅って何なの?
事態の裏の主役だと思ったら、普通に助け呼びに行ってるし・・・・・・。ああ、なるほど、山南さんをそう描くのね・・・・・・・・。さあどうすんだ?
後半の主役はやはり山南さんにするしかないのかな?
お梅普通に逃げてるし・・・・・・・まだ言うけど、芹沢は近藤が切らなきゃ絶対だめだよ・・・・・・。 うんうん、そういう展開だと見た。 えええええええっ!!!!!!!!!!!
えええええええええええええええええ!!!!!っっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!
うそおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!
総司と土方が切ったよ・・・・・・・・・・・こ、これって・・・・・・・・・・これって、これじゃ、史劇じゃなくて、恋愛ドラマっすよ。冬のソナタ、ドナタ、コナタっすよ!!!
いや、恋愛ものならいいのよ、これが正しいですよ。あ、土方が、長州のマークのついた小物を・・・・・・やっぱり考えることは同じだなあ・・・・・・・。いやだなあ、俺が盗作したみたいじゃん。
で? で? で?
近藤は何をしてたんですか?
主役は何をなさってたのですか?
ただ座ってらしただけですか???
個人的な昔話。高校二年の時だ。クラス会長をやってました。で、文化祭の打ち上げで、クラスの連中が打ち上げで飲み屋に行ったという情報が入った。俺は夜の町を駈けたよ。自宅で飲むならともかく、居酒屋はマズイよ、いちおう進学校だし、停学者でも出たら・・・・・・・・俺はかけつけて、まさか全員を居酒屋から家に帰らせる事もできないから(できる奴なら最初からやらせてないよ)俺は叫んだね「よし!
わかった!
みんなで祝おうじゃないか!」で、グーーーーッと酒飲んだね。 この展開って、イザとなりゃ近藤が、襲撃した一派をぜんぶ罪人にして排除できるじゃない。そんなリーダーについていく実行犯との関係って・・・・・・・・・・・・? ハア?
何誇らしげに「新選組」名乗ってるんだよ???
好き放題書いてます。三谷さん。龍馬派なのに敵のドラマを書いたバツだと思ってください(笑。
| | |
|
|
!!!!!!
8月以後に書いた文章が、消えてしまいました! どこにもありません!
もしかして、山南総長の冥界からのご意志かも知れません。それなら受け入れるしかなさそうです。南無・・・・・・。 | | |
|
|
040919 消えてしまった「山南敬介の死」についての文章は消えたままにしたいと思います。ただひとつ、「新選組」を描く作家として最も力が入るであろう場面だったということだけ書き添えておきます。 さて、本来は「敵側」の功績である『薩長同盟』をこんなに肯定的に書いて、しかもその裏では新選組の非情さを代表するエピソードが続く・・・・・本当にご苦労さまです>>三谷氏(うじ)。
なるほど「第六条」を持ってきましたか。「大義」に「推測だけで叩く」ですか・・・・よくわかるのですが、『ビッグコミック』に連載中の『史上最大のロボットより〜プルート』の「大量破壊ロボット」の方がアイデア的には上ではないでしょうかね、イラク戦争を描くつもりなら。正直、なにかを「書く」人間として慎みもなにもないのですが、「俺の方がおもしろいよね、ね?」とか言いながら今回のは見てしまいました。「戦国時代に逆戻り」のセリフがパクリなどという妄言は吐きませんけども。そして反省すれば自分の最もアイデアであったところの「寺田屋での会見」と「長次郎の手紙」も本当は有機的なストーリィ進行のカタリスト(触媒)としてはまだ改善の余地がある、とも思っています。 ひとつ聞きたいのは、今回のドラマを見て「新選組がより好きになった」人って一人でもいるのかしら。 このへんにしておきます。山南さんが睨んでいる気がしてきましたので。 | | |
|
|
ほかの更新がないのでせめてここだけでもと。 今、8時20分。私が「新選組」の永遠の敵であり続ける理由「切腹」。もちろん、記録に残っている河合の切腹はもっともっと悲惨なものです。土方自身が着服して哀れな河合になすりつけたという説もある。200%くらい新選組に好意的にとるとしても切腹の事実だけは動かない。いろんなところで発言しているが「戦場で失敗する、部下の命を無駄にした、責任を感じて自決する」という自殺すら無駄だと思っている。その分命懸けで再び戦うというのならまだわかる。なんだろう「切腹」って。今、8時30分。このまま河合は死んじゃうの?
なにをどう解釈すればこのドラマを肯定できるのかわからない。 おおおおっ!
「山南さんの死」に言及したな。黙ってられないぞ。不思議な力で消えてしまい完全にどこにも残っていない「山南の死はドラマの上でも無駄」の評論を蒸し返す。「切腹」を「解雇」とかと同じレベルで書こうとしているドラマの力技。届かないですね。ここからしばらくは「あの隊士はなぜ<仲、間、に、殺、さ、れ、た、か>」を描いて乗り切るしかない。苦しいことでしょう。同情します。三回前の文章に書いた通りです。 先日光縁寺に山南総長の墓を詣でた時も「敵との戦いの中で死んだ隊士と<仲、間、に、無、駄に殺、さ、れ、た>隊士」の比率を確かめたくなったけど、やめにしました。 なにを観柳斉を睨んでるんだよ。オメーだよ、ひ、じ、か、た。
「ワシャ新鮮組の敵ですキニ」。
ああ、ラストは見事ですね。 | | |
|
|
あ、いや、今日のNHKは「将軍、死す」だったのだが。どうせタイトルと何の関係もない内容だったし。 こないだとても物知りの後輩に聞いたところによると、現在のJリーグでは先輩に敬語を使わないのだそうだ。それが長年不思議というか不可解だったのだが、答えが出た「上下関係があると、イザというとき、機敏に反応できない」ゲームの中で、ということだ。 野球は違う。たぶん、現代の若者で一番礼儀を心得ているのはスポーツ選手だろうし、野球もまた例外ではなく、かつ、人口も最も多い「礼儀を心得る若者を作る最優良組織スポーツ」であろう。 それを縮小することはつまり古田みたいな若者を増やすということですよ>>自己矛盾>>日本野球機構の皆様。 さて、新選組。私が嫌いなことのひとつに「身内偏重」というのがある。彼らは結果として試衛館の仲間しか信用しなかったし、しかもかつ、他派にいた者は皆去って、剣術といえば試衛館しか知らない人間だけを偏重した(よって芹沢鴨暗殺に原田が入っていた説は否定する)。今日のドラマは史実ではないが、そのへんの傾きがよく書けていたよね。先週は、町人あがりだから何の罪もないと知っていながら切腹させ、今週ははっきり脱走した人間を助ける。何度も書くとまた消されそうだが、「山南さんが死ぬことで新選組が原則を守る集団になった」などという解釈は寝言に過ぎない(俺がした解釈じゃないよ)。結局、新選組って、野球・・・・・いや、応援団だよな。 これに対して「敵側」の海援隊はサッカーかも知れない。龍馬という監督には絶対服従だが、他の隊員は給金も平等ではなかったか(三両二分、これは龍馬自身も)。もちろん私は野球の方が好きなのだが、このたとえは本質をついているところがあるだろう。 ただし、「集団を維持するためには秩序は絶対に必要」なのである。なにも海援隊を「イイモン」にするつもりはない。近藤長次郎の切腹を見ても、結局ルールの適応は原則通りに非情になされた、なされざるを得なかったのだと思う。それを一身に引き受けていたのが新選組では土方個人だった、というのが、土方歳三に対するもっとも好意的な解釈である。もちろん、私はこの「最も好意的な解釈」をもって常に見ていますよ・・・・・。
ところで、西武と日ハムのプレーオフはどうなったのだろうか?
その結果すら伝え切れなかったスポーツ中継に何か意味があるのだろうか。なるほど、これをネット配信にして、100円とか200円とかで売れば儲かるかもしらんな。
| | |
|
|
今日のタイトルは『平助の旅立ち』か・・・。史実を知ってるだけに虚しい響き。しかし、最近、自分の世代を境界として、この『新選組!』が意外と好評なことを実感している。30代も20代も、かなりこの『新選組!』の近藤に共感しているらしい。逆に上の世代は「バチ当たり!」と吐き捨てるくらいに評価が低い。このギャップの謎を解かないと今後の講談は難しい気がします。 つまり、毎回毎回読み切りのつもりで見ると「悪くはない」。たとえば捨助。「おい近藤!
土方! お前ら捨助から金騙し取って返してないだろ!
何が武士だよ! 田舎者の強盗の上に恩知らず!」というツッ込みをグッと呑み込んで今回だけを見れば面白いよな(今書いてて、捨助の気持ちになってちょっと血が燃えた。彼が曲がった道を歩んでいるとしたら、原因は全部この二人にあるよな。・・・・・ホントに、このドラマは連続ものとして見なければ面白いのかも)。
さて冷静さを取り戻して鈴木大蔵(甲子の歳に立志したので伊東甲子太郎・キネたろうではなくなぜかカシたろう)。この人物を肯定した幕末の物語をほとんど見ない。かなり客観的だろうと思った黒鉄ヒロシ版でも龍馬暗殺の黒幕扱い。新撰組を主役にしたものでは策動家の上に卑怯者、腕の立つことなんか描かれたことがない。たぶん捨助とならぶ可哀相なキャラ(と、ちなみに実在の捨助=松本捨助は局長付の立派な隊士)。新選組に関する記述の半分以上を悪意に満ちた創作と考えても伊東一派の殲滅の方法に関しては申し開きができないほど最悪なのだが、ドラマの流れとしてはいかにこの伊東を悪役っぽく描くかに終盤の展開が左右されることになる。たぶんこれだけ龍馬を肯定した新撰組モノもないのだから、暗殺とからめる気かな。三谷氏は劇団の人間関係を投影しつつ書いているというから「分派・独立」などには思い入れたっぷりであろう。しかし平助と沖田クンの関係って・・・・・。
さて、子母澤寛の『新選組遺聞』の中には伊東甲子太郎(変換しにくい名前だ。いちいち「こうしえん」と入力して太郎をつけないと出てこない)の残した和歌がズラーッと紹介されている。どれもこれも元歌がうかがえるような、教養は感じられるがオリジナリティの感じられないる美辞麗句的な歌が並んでいる。なるほど多分こういう人だったのだろう。ただひとつちょっと気に入った美辞麗句的歌があるので紹介させてもらう。
逢うまてとせめて命のおしけれは恋こそ人の命なりけり
あ、悪意をもって、土方の恋の句もならべとこ
しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道
うしゃしゃ(笑。
| | |
|
|
またライブの書き込みですいません。ライブの方がライブ感あると思って(当たり前ですが)。前回の「龍馬暗殺」とても面白かった。面白かったのでけなします(え?)。若い人の脚本だなと(おいおい)思ったのが、平助と伊東が近江屋を出るところ。「先生、お気をつけて」「ウム」無駄な台詞ですね。イチャモンですが、昔は映画一本の脚本を書くのに脚本家が泊まり込みをして喧々ガクガクの議論の末に出来上がった時代もあった。その骨子となる脚本は一滴も無駄もない吟醸されたものだったに違いない。そんな中では時間つなぎのセリフなどは一文字たりともなかったことだろう。「先生、お気をつけて」「ウム」何か意味があるだろうか? 甲子太郎に心服している、夜道に出れば足元を気づかうこともあるだろう。だから「先生、お気をつけて」「ウム」このセリフの前と後とでは何かが変わっただろうか? 二人の関係が変わっただろうか? 内面が発見されただろうか? せめて面白かったり、胸踊ったり、色っぽいとか、憎たらしいとか、観客の内面にさざ波が立っただろうか? ・・・・・このイチャモン以外、面白かったです。 そして、今回。いま、28分でしょうか。「面白い」以上です。あれだけ歴史性の欠如の揚げ足をとってきましたが、伊東・近藤会見は感動しました。これこそ新しい『新選組』だと思いました・・・・・・・・・・・・30分までは・・・・・・・・・なんだ・・・結局「誰か余計なヤツ」を作ってのドラマツルギーですか・・・。それでも大したものです。だけど大石一人に背負わせるのはやっぱり安易ですよね。
あと、近藤局長は言うことばっかり立派で(すごい5分前と意見が変わったよ)イザとなると何にもできない、いや、「何もしない」んですね。果たして「何もしないこと」がドラマに達しているかどうか、それは最終回まで観てからにしましょう。まだ10分近く残ってます。切り合いです。切ってます。切られてます。いま、平助切られました。私の知る限りでは最高の油小路です。普通はどう描いても新選組側の卑怯な作戦にしかならずに後味が悪いものですが・・・。いわば冷蔵庫の残りもので最高のディナーを創作したようなものだと思う。ただ、今回は平助役の中村勘太郎さんが「目」で芝居ができたおかげですごく助けられてた気もします。でも、すごいディナーです。 あ、でも、どう聞いても、どう捉えても源さんのセリフは余計そのものですね。 | | |
|
|
またライブで書いてます。今日のNHKは『源さん、死す』。なに? このタイトル。わかりやすいにもほどがある。つまり、情緒がないこと限りない。タイトルが三谷氏のつけたものとは思えないが、このさい、読まれたら激怒されるイチャモンのまま書き続けます。いま、20時35分。今回のワースト演技は○津藩主。演技者といえば、香取シンゴというひとの演技者としての肉体はすばらしいです。内容に確信の込められないセリフの時は完全に肉体が反応している。まるでマーカーでアンダーラインをひいた如くに。 二代目山陽からいただい「青龍刀権次」。その中に出てくる「錦の御旗」と「トンヤレ節」は嘲笑と憎しみの対象であった。つまり、スンタスを今回の新選組と完全にひとつにしているということだ。「権次」は同心の下ッ引きであり、庶民であり悪党でもある。つまり・・・・・・・・・・。 いや、ここ数回の新選組のドラマ、毎回泣いてるンですよ。ただね、こっちが泣こうとすると、先に登場人物が泣くんですよ。で、いっしょに泣いてるんですけどね。おお、ハイビョン撮影か。おれも三十代の頃、さんざ撮ってもらったなあ。 ああ、だんだんこの評論(イチャモン)を書いてるスタンスに勢いがなくなってきた。そろそろ書く側に、コキ下ろされる側に戻る時が近づいている。今日はここまで。 追記。「トンヤレ節」はもとは猥歌であったはず。歌詞の内容も聞いているが、ちょっと高座では歌えない。ので、この場所に・・・・・・・(みやさんみやさん、おんまのまたに、ブラブラするのはなんじゃいな♪・・・・)。 | | |