Silvan Note 7 老人の吐息

 

唐代の詩人杜甫が暮らしたといわれる草堂を訪ねた時だった。

慈竹といわれる太い種類の竹が密生している辺りから

掠れた低い音が聞こえた。


その音を頼りに、薄暗い竹林に入っていくと、

白い髭をたくわえた老人が竹笛を吹いていた。

どこかなつかしい、それでいてうら悲しいゆっくりとしたメロディーだ。

ひと息ひと息が心の襞に突き刺さる。

まるで老人の吐息が響いているかのようだ。

しばし目を閉じてその場に立ち尽くす。

老人の吐息

どれくらい佇んでいただろうか。

ふとわれに返ると、老人の姿はなく、竹笛の余韻だけが残っていた。

鎌倉山の一角にあるしんとした竹林の中を歩いていると、

あの時のメロディーが響いてくるようだった。

すっくと伸びた竹から凛とした気迫が伝わってくる。

身が引き締まる思いだ。


中国では、竹の内部の空洞になっている部分を「虚心」と呼んでいる。

この言葉には、心に何のわだかまりもなく素直だという意味がある。


背筋がピンとする。この気迫はなんだろう。

竹笛の音色が右脳に響く。老人の指先が見えるようだ。


しかし、ほどなくすべては春霞の中に消えていった。


Silvan
's Monologue

第2部のはじめは、「聴覚」から。中国の成都に林松さんという古くからの友人がいます。ガイドとして一緒に何度もチベットを訪れたものです。彼から、成都の杜甫草堂の竹林で、「虚心」のことを聞きイメージが広がりました。ここに出てくる老人は実は、存在しません。春霞の中で、自分の曲がった心の背筋を正してくれる竹の化身のようなつもりで表現してみたのです。霞って、仙人を思い起こさせませんか?


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