■◇■僕のおしゃべり   Vol.36     本質的なこと
      
 政治はいま大騒ぎである。田中真紀子を外相からはずし、その原因となった鈴木宗男がやり玉に挙げられ、そのかたきとなった辻元清美は辞職に追い込まれた。いったいなにをやっているのか・・・? 

 そんなニュースに接しながら最近読んだ本の一節を思い出した。明治二十九年にラフカディオ・ハーンによって書かれた「祖先崇拝の思想」のなかの文章だ。そこには明治の日本の人々がいかに祖先のことを大切に思っていたかが書かれている。この文章のポイントを紹介しよう。まず、日本の神道が多神教であることを認めている。
    
  この古代心霊学の最も興味ある附加説は、人間の衝動や行為を、死者の影響に
 よるものだと説明している点である。いかなる近代の思想家といえども、この仮
 説を不合理なものだと、断定することはできない。なぜかというと、この説は、
 心理学進化の科学的学理からいって是認しなければならないからである。心理学
 進化の学理からいうと、生きているものの脳髄は、いずれも無量無数の死者の生
 命から構成されていることを示している。けっきょく、人間の性格は、すでに死
 滅した無数の善悪の経験が、やや不完全ながらも平均化された総計だということ
 になる。この心霊の遺伝ということを否定しないかぎり、われわれは、われわれ
 の衝動や、感情、または感情によって発展した高度の能力などが、文字どおり、
 死者によって形をあたえられたものであり、死者によって譲られたものであると
 いうことを否定することはできない。同時に、われわれの精神活動の一般の方向
 が、われわれに譲られた特殊な性向の力によって決定されてきた、ということも
 否定することができない。こういう意味で、死者はいかにもわれわれの神であり、
 われわれのすべての行為は、まことにそれらの神々の感化をうけていると言える。
 物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである。神道がみとめる八百万の
 神々よりも、もっと数の多い幽霊のすみかである。
    
 この文章のあとでキリスト教の批判が続く。キリスト教では善か悪かを判断し、徹底的に悪を排除しようとする。しかし、神道では完全な悪はどこにもなく、どんなに悪い神もなだめることが可能であると考える。この点が神道の合理的な点だと指摘する。
   
  動物的な欲情や、猿や虎のような衝動は、これは人間社会ができる以前からあ
 ったもので、これが人間社会を毒するほとんどあらゆる犯罪に拍車をかける。し
 かし、これを絶滅させることはできることではないし、確実に餓死させることも
 できることではない。これを絶滅させようと企てると、これと離れがたく入り混
 じっている、もっとも高い感情的な能力のあるものまでを破壊することに努める
 ような結果になる。原始的な衝動は、人生に美とやさしさとをあたえる知性と感
 情の力を犠牲にしないと、とても絶滅することができないものだ。その、人生に
 美しさとやさしさとをあたえる知性と感情の力というのも、じつは、欲情という
 ごく古い土壌に、深く根を張っているものなのだ。人間のなかにある最も高いも
 のも、すべてその種子は、最も低いもののなかにあるのである。禁欲主義者は、
 人間の生まれながらの感情と戦うことによって、多くの残酷な人間を生みだして
 きている。それと同じように、神学上のおきても、人間の弱さに逆らうように不
 合理に当てはめていくと、ついにはかえって社会の紊乱を助長するに終わる。快
 楽の禁制が、かえって淫蕩に油を注ぐようなものだ。そこで、神道の悪い神たち
 にも、ある融和の必要なことは、道徳の歴史が明白に教えているとおりである。

 さらにキリスト教では死者をかえりみることがないと指摘した後で以下のように書いている。
    
  日本では、死者に対する感情は、ぜんぜん違っている。日本人の死者に対する
 感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。おそらくそれは、日本人の感情の
 なかでも、一ばん深く強いものであるらしく、国民生活を指導し、国民性を形成
 しているのも、この感情であるらしい。

 この感情があるからこそ、日本人はあらゆる物を大切にするという。どんな物も考え方も、死者が残してくれた大切な物と考えることが当たり前になっているからである。
   
  古代人を地獄に落とし入れ、かれらのなしとげた事業を褒めたたえることを禁
 じた信仰----物に対する感謝は、すべてヘブライの神にこれを捧ぐべしと、われ
 われを教えた教えは、考える習慣と、考えない習慣とをつくり上げた。この考え
 る、考えないの習慣は、ふたつながら、ともに過去に対する感謝の念に反するも
 のであった。やがて、神学の衰頽と、さらに大きな知識の勃興とともに、死者は
 そのなした事業をみずから択んでしたのではない、かれらは必然のなすがままに
 従ったのだ、われわれはただ死者から、必然の結果をうけついだのだ、という教
 えが起こってきた。そこで、こんにちでも、今もってわれわれは、その必然その
 ものが、それに従った人たちに対して、当然、われわれの共感同情をしいること
 や、また、譲りのこされたその必然の結果は貴重なものであり、感動すべきもの
 であるということを、けっして認めようとしない。こういう考え方は、われわれ
 のために尽くしてくれている、現存の人たちの仕事に対してさえ、われわれには
 起こらないのである。自分たちの買ったもの、自分たちの獲たものの代価は考え
 るけれども、それを作ったものの労力の代価というものを、われわれは少しも考
 えようとはしない。それどころか、そんなものに良心の表示めいたものなど見せ
 たら、それこそ笑いものにされてしまう。
   
 さて、ここまで内容を説明してやっと書きたかったことが書ける。僕がニュースを見ていて思い出したのは次の下りの後半である。
   
  いろいろな不幸や、悪徳や、犯罪が、われわれのいわゆるキリスト教文明のも
 とで、どこの国にも比類のないほど、ものすごく発達したけれども、しかしなが
 ら、多く生き、多く旅をし、多く物を考えた人には、人間の性は善であって、し
 たがって、過去の人類からわれわれが受けついだ衝動の大部分も、善であるとい
 う、この事実は歴然としているにちがいない。また、社会状態が正常であれば、
 そこに住む人間も善良だということ、これも確かだ。過去の世を通じて善き神は、
 いつも悪の神が世界を制覇しようとするのを、邪魔しつづけてきた。この真理を
 承認すれば、われわれの正邪の観念は、将来、大いに拡大されるにちがいない。
 そうなると、義勇行為や、なにか崇高な目的のために果たされた純粋な善行が、
 従来考えられなかったほど、貴いものに考えられると同時に、ほんとうの罪悪と
 いうものが、今の人間や社会に対するよりも、むしろ、人間の経験の総量とか、
 過去の世の倫理的向上の全体の努力に対するものとして、見られるようになるに
 ちがいない。そこで、ほんとうの善行というものが、一そう尊重されるようにな
 り、真の犯罪は、一そう厳格に判定されることになろう。そうなって初めて、
 「倫理の法則などというものは不必要である。人間の行為の正しい規則は、つね
 に、その人間の愛情に尋ねて知るべし」という、初期神道の教えが、今日の人間
 よりも、もっと完全な人間に、承認されるようになることは、疑いないだろう。
    
 ハーンは日本が世界の規範となることを希望していたが、実際には日本がハーンの書いた「キリスト教文明」のようなものに飲み込まれてしまったと感じる。いまの日本では倫理の法則ばかりが喧伝されて、誰も「その人間の愛情に尋ねて知るべし」と語らなくなってしまった。ハーンの言うとおり<「倫理の法則などというものは不必要である。人間の行為の正しい規則は、つねに、その人間の愛情に尋ねて知るべし」という、初期神道の教えが、今日の人間よりも、もっと完全な人間に、承認されるようになる>という日が来るのだろうか。

    

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