「日本海軍私論」について

「日本海軍私論」は、始め『わがトラック島戦記』の第7章であった。

しかし[トラック戦記]とするには後段がかけ離れており、それにもまして他の人の孫引きが多すぎ(池田清著『海軍と日本』その他)、体裁が悪い、ということで一応引っ込めることになったものである。

「海軍私論」とは、題名ばかり大きく、私論とは云うが他人の論の寄せ集めに過ぎない、とはいうものの、残しておきたいものもある。私の〈認知の欲望〉に駆られての所産である。

           終戦      1945年
   『わがトラック島戦記』初版1993年
   『同』〈日本海軍私論〉を除く1996年 (いずれも手刷り少々)

 


トラック環礁春島 コンチネンタル.ホテル裏庭風景

 

     第1章 日本海軍私論 

 1 「海軍」とトラック島基地  

  戦後、開戦当時の海軍の責任者だった人が、「近衛内閣が和戦決定の瀬戸際に立たされたとき、海軍は自分らの戦力が到底アメリカの敵ではないことを承知しておりながら何故最後まで開戦反対に徹しきらなかったか」という問に対して、「(開戦派の陸軍に対し、)『海軍は戦えない』などと言える情勢ではなかった。

 そんなことを公言すれば、海軍存在の意義を失う」と答えたという。

 ここには海軍は何のためにあるかの基本問題があるが、それは置くとして、それならば、海軍は『おのれの存在意義のためどう戦うつもり』だったのか。

 

(艦隊決戦主義とトラック基地)

 そもそも日本海軍の対米基本戦略は、太平洋上で艦隊の主力(戦艦を指す)同志が戦い合って勝敗の決着を着ける、艦隊決戦主義にあったという。

  「アメリカの主力艦隊が日本近海に近づくまで、潜水艦と南洋群島に展開する飛行機で先制の奇襲攻撃をくりかえし、---米艦船の3割まで脱落させる「漸減」の策をとる。

 こうして7割に減少した米艦隊に対して、日本連合艦隊が1対1で決戦をいどみ、これを撃滅して西太平洋の制海権を防衛するというのが、(昭和16年度作戦計画の)対米海軍作戦の骨子であった。」(池田 清「海軍と日本」)

 しからば艦隊決戦主義におけるトラック基地とは如何なるものであったか。

 トラックは、アメリカ側に「日本の真珠湾」とか「太平洋のジブラルタル」と呼ばれた時期があるそうだが、この島はたしかに中部太平洋諸島基地の中でも中心基地として第4艦隊司令部が置かれ、竹島、春島には飛行基地が設けられ、開戦の翌年からは連合艦隊主力艦船の泊地となっている。

 だが、日本海軍の「艦隊決戦主義」の基地の役割は、艦隊の泊地・休憩地であって、戦闘は艦隊が基地から外にでてやるものであって、基地自らが戦闘する思想はなかった。

 もっとも、海軍の内部に、『艦隊決戦主義』を否定し、『基地航空決戦』を主張する思想がまったくなかったわけではない。たとえば、

「航空戦の攻撃目標を従来の敵主力艦隊から敵航空兵力に転換し、基地航空兵力を主体とする、いわゆる航空決戦の思想は、昭和15年3月の「海戦要務令」(航空戦の部)の草案に現れているが、大艦巨砲主義にこり固まっていた海軍首脳の大勢を支配するものにはならなかった」(池田清著『海軍と日本』)

ということで日の目を見ていない。

  航空決戦について、もう少し具体的に書かれたものを引用してみよう。

阿川弘之によると、井上成美海軍大将は開戦に反対した海軍きっての知性派だが、この人が昭和16年1月、まだ海軍航空本部長であった時、「新軍備計画論」なる意見書を及川海軍大臣に提出した。それは次のようなものであった。

「『航空機、潜水艦ノ異状ノ発達』により、将来の戦争では、日本海海戦のような主力艦対主力艦の決戦は絶対生起しない。 日米戦争の場合、太平洋に散在する島島の、航空基地争奪が必ず主作戦となる。

故に、巨額の金を喰う戦艦の建造なぞ中止し、従来の大艦巨砲思想を捨てて、海軍は『新形態ノ軍備ニ邁進スルノ要』がある。米国と量的に競争する愚を犯すなかれ」という骨子のもので、

 新形態軍備の最優先課題として彼が挙げたのは、

1、基地航空兵力を中心とする航空の飛躍的発展と基地の要塞化、

2、海上交通路の確保海上護衛の重視、

3、潜水艦部隊の増強

であった。‥‥‥ 」(阿川弘之「井上成美」)

  その後の戦争の経緯からみても、この「新軍備計画」が卓見であったことは、論を待たない。

だがこれは大艦巨砲主義、艦隊決戦主義に凝り固まった「海軍」の決してとるところでなく、その対米戦略が、航空第一主義に転じたのは航空消耗戦で痛めつけられた昭和18年に入ってからだ(池田清「海軍と日本」)という。

しかし、この変化も艦艇に関してのことであって、私の見る限り、島嶼基地を戦闘力とする動きは戦争の終わりまでなかった。

 もう一つ、これに関連して、つぎのことをどう考えればよいのか。

 この「新軍備計画」の提案者である井上航空本部長は、その年の8月、第4艦隊司令長官としてトラックに赴任、そこで開戦を迎え、翌17年の10月までそこにいた。

 もちろん、その間にウエーク島攻略、珊瑚海海戦などの指揮はあったが、第4艦隊の本来の任務は島嶼基地の守備にあった。

前記「井上成美」よれば、彼は、トラックで、宿舎も宏壮、身辺を世話する人も多い優雅な長官生活を送っている。井上ともあろう人が、ここで島嶼基地建設についも、それなりの自説の展開があってよさそうにおもうのだが。

 

 最近読んだある「戦記」(実松譲著「海軍大学教育」)によって、井上自身が、これについて戦後語った言葉のあるのを知った。孫引きになるが次のようなものである。

「----自分の主張した南洋群島防備の責任を負わされた。行ってみて何も出来ておらず、また開戦になっても何もやってもらえずまことに驚きもし、また苦労もした。(井上成美、「思い出の記」) 

 第四艦隊司令長官」はトラック基地について何もできないのか。何もやってくれない「海軍」の実体はいったい何なのか。

 戦争中、軍令部の参謀であった人がこんなことを書いている。

「海軍は、体質として攻撃は極度に重視するが、防御は関心が薄い。
---中部太平洋諸島の防備は、したがって、開戦にあたっても、ハダカどうぜんだった。
---島基地に滑走路を造ろう、そこで艦艇の小修理はできるようにしよう、などと計画するのは、軍令部の作戦課だが、それについての防備をどのように手配するかは、軍令部の2課、つまり防備担当課だ。

作戦課の影響力は飛ぶ鳥も落とす勢いだが、防備担当課は、まるでいけない。

---課長と、御付武官兼務部員が一人いて、そのほかにもう一人いたりいなかったり。滑走路はできたが、防備施設は何もできていないということになった。」(吉田俊雄著『海軍参謀』)

 航空機が戦闘の中心とならざるを得なくなった時になってもなお海軍の中枢には、島嶼は航空機の駐留地・発進地であっても、基地自体に戦闘機能を果たさせる思考が生まれなかった。
そして現地は、命令がない限りなにもしない。

 島嶼基地要塞化の主張者で、かつ第4艦隊司令長官である井上の膝元のトラックが、かくのごときであったのだから、井上が去ったあとのトラック、ましてやトラック以外のサイパン、グアムの防備が如何なる程度のものであったか想像に難くないであろう。

 

 南洋諸島の基地防衛の遅れについて、「海軍」に弁明のあることを、これも最近、P.カルヴォコレッシー他著「第2次世界大戦(TOTAL WAR)」によって知った。

 それは、旧ドイツ領を日本に委任統治領とする際の国際連盟の規約の中に、永続的な防衛施設の建設を全面的に禁止する条項があったこと、1922年のワシントン条約のなかで日本は委任統治領の防備強化はしないことを保証していたこと、そして開戦まで海軍はこの条約の義務を守っていたことである。
このことは、東京裁判の時行われた調査によって明らかにされた。

  「確かに後継政府及び軍部の政策が、驚くほど最後の段階になるまで、島を要塞化しない約束を守っていたのは明白である。」そして、「1941年(開戦年)以降に海軍は初めて南洋委任統治領に要塞の建設を実行に移すことを決定した。」

 ただし、ここから後が、さきの井上のぼやきに続くのである。

 

(基地防衛のソフト面)

 基地防衛(戦闘)思想の欠如は、昭和19年2月の米海軍機動部隊の空襲の際の第4艦隊(トラック基地)司令長官以下の警戒怠慢によく現れている。

 1月末、米軍はトラックの前衛であるマーシャル諸島クェゼリン、メジュロに来攻、2月初めにはこれらの島は占領された。

トラックへの来撃は必至とみて、トラックにいた連合艦隊の旗艦「武蔵」以下の主力部隊の内地やパラオ基地へ退避した。空母は全部内地で修繕中でトラックには1隻もいなかった。

  トラック側では、15日午前に無線傍受班は、米機動部隊の艦載機の電話通信をキャッチした。
「第4艦隊司令長官小林中將は16日午前3時以後第1警戒配備を下令した。しかし16日午前6時35分、空襲がないので第3警戒配備にもどし、午後には兵員の外出を許可した。」

 翌朝、17日午前4時55分、ミッチャー部隊の第1次攻撃隊70機が、トラックに殺到した。トラックのレーダーは、米機来襲の30分前にその姿を捕らえたが、---搭乗員の多くが外出中だった。」(児島襄著『大平洋戦争(下)』)

(小林孝裕『海軍よもやま物語』によると春島の搭乗員らは夏島へ遊びにでていたとある。春島に戻るには小1時間かかろう。

このようなトラック将兵の対応は、それから数カ月後着任した私には信じられない怠慢であるが、当時はそういう基地の姿勢が当たり前としてまかり通っていたのだ。)

 「2日間の空襲で撃墜破された航空機は約300機。撃沈艦船は艦艇9、輸送船34、‥‥‥ 倉庫、建物、食糧2000トンのほか、17、000トンの燃料タンク炎上、陸上だけで約600人が死傷」
米側の損害は、飛行機25損失。空母1小破のみ。」(児島 襄著『太平洋戦争』)

 この米機動部隊の成果は、日本機動部隊の真珠湾奇襲のそれを凌駕するものといわれている。日本の真珠湾攻撃は、宣戦布告なしのまさに奇襲であったが、この時の米機動部隊のトラック来襲は明らかすぎるほど予測されていたものである。 

 *      *

 ところで、アメリカでは真珠湾奇襲攻撃により、手痛い損害を受けた太平洋艦隊の司令長官ハズバンド・キンメル大将は、攻撃を防げなかったという理由で、この日から1ヶ月を経ずして退役処分となり、やがて軍法会議にかけられたが、日本では、第4艦隊司令長官が、トラック防衛怠慢を問われた形跡がない。

 この日米の差はどこからきたのか。そもそも「昭和海軍」には、形式主義があっただけで、本質的な戦闘能力は欠如していたのではなかろうか。

 艦隊決戦主義は、その象徴にすぎなかったのだ。

 

 

 日本海軍論

日本海軍がなぜ艦隊決戦主義に縛られていなければならなかったのか。これは日本海軍の本質論になり、もはや「わがトラック島戦記]の域を越えるものではあるが、せっかく読んだ『戦記類』からの半端な孫引き知識に多少の体験的見解をまじえた「わが海軍論」をもって締めくくるとしよう。

 「海軍」は、明治政府の近代国家建設過程において、帝国主義時代における欧米列強に抗し、あるいはそれらに伍すための一要件として作られた軍事機能集団である。

 そして初期の海軍は思いのほかの華々しい成功を収めた。しかし、その後の巨大に成長したかに見えた昭和海軍は、打ち上げ花火のような、あっけないともいえる終末を遂げた。

 

 この過程を、ある論者は、明治期に創設された(陸)海軍は立派な機能体(ゲゼルシャフト)であったが、専門家教育機関が整備して行くに従って共同体(ゲマインシャフト)し---国を守る(戦争に勝つ)目的達成よりも構成員の満足私利を追う方に走る---、それが滅亡に導く病原となったと説明している(堺屋太一「組織の盛衰」)

 共同体化という用語にすこし引っかかるが(老朽化ぐらいにいっておきたい)、論旨には同意できる。

 いちいち列挙するわけにはいかないが、その線にそって海軍という集団を眺めてみる。

 明治政府は海軍を創設するには、人員養成から艦艇建造までをすべて先進国に依存しなければならなかった。しかし、それが幸いして明治海軍は必要な外向的思考を身につけた軍事集団となり得た。これが、日清、日露戦争に勝利できた基礎であった。

 しかしながらその後の海軍は、藩閥から抜けだ出すことに務め、近代技術志向の専門職業組織化したが、同時に、国内権力を身につけた閉鎖的特権集団となって内向性を強めていった。

彼らは集団秩序維持の確保に専念し、方策として独自の人事管理方式とその基礎となる教育態勢をつくった。

具体的にいえば、海軍兵学校の型紙的教育によって成績順位を決め、その成績順位で将来の海軍首脳を予約する---はなはだ簡明なシステムであるが、ここでは内部秩序だけ重視され、本来の目的が忘れられた夜郎自大的な集団となっていった。この態勢のなかで、日露戦争で成功した「艦隊決戦主義」も教条化されていった。

 集団を無事安泰に治めていくには、行動基準を教条化するのが明確・安直な常道である。

 (海軍軍人の政治権力上の位置)

「明治18年に内閣官制がしかれてから、昭和20年の敗戦の日まで、60年間に15名の陸海軍人が総理大臣になった。」(池田清著『海軍と日本』)

 同書に掲げてある数字によれば、軍人総理大臣の在任年数の合計は31年で、実に総数60年の半分強を占めている。うち海軍軍人の総理大臣は、延べ7名、8年4月の在職年月である。開戦時の陸海将校数比率は5対1であるから、海軍軍人の政治に占めた比率も極めて高かったことが分かろう。

 また、陸海軍大臣が軍人で占められたことは当然として、軍部大臣は現役の武官でなければならないという制度改正(明治33年)によって、軍部は陸海軍大臣を内閣から引き揚げて後任を送らないという倒閣手段で内閣の生殺与奪の権力を握った。

 

 (組織構成員の硬直性と排他性)

 海軍兵学校(立身出世時代の少年の憧れ)は、全国の(旧制)中学校卒業生から毎年百数十名ていどのエリート生徒を選抜入学させ、その卒業成績順位で将来の将官が予約され、それらがまた先述の政治権力者席に結びついた。

 また、年功序列主義で、卒業期が後の者が前期の者を追い越して進級することはほとんどなかった。
この卒業成績順位と卒業年次による構成員の順序付けは、軍令承行令という法令によって固められた。

 軍令承行令は、戦闘中に指揮権を受け継ぐ順位を定めたものであるが、組織内の順序付けのみならず、兵学校出の排他的地位保全の役があった。 

軍令承行令)

 第1条 軍令ハ兵科将校官階ノ上下任官の先後ニヨリ順次コレヲ承行ス タダシ召集中ノ予備役及ビ後備役兵科将校ハ同官階ノ現役兵科将校ニ次イデコレヲ承行スルモノトス

 第2条 兵科将校アラザルトキハ機関科将校軍令ヲ将校ス、ソノ順位ハ第1条ニ準ズ

 

(海戦要務令)

 「大艦巨砲主義の風潮は、大なり小なり日露戦争後の世界的な傾向であった。だが日本ほど、国防政策全体のなかで海軍をどう位置づけるかという戦略的視野に欠け、戦艦中心・艦隊決戦の戦術的発想が先走って神話化され絶対視されていた国は、世界に例を見なかった。そしてこの艦隊決戦主義を教条化し、海軍士官を精神的な動脈硬化に陥らせたものは、『海戦要務令』の聖典視であった。」(池田清「海軍と日本」

 海戦要務令は、海戦戦術の基本マニュアルであるが、改正には天皇の勅裁を要するという大層なものであって、時勢に追いつけるようなものでなかったらしい。

 

(海軍の良識派の後退)

 海軍軍人は陸軍に比べてリベラルで国際的視野があったといわれるが、それもロンドン軍縮会議以降、これを契機に海軍部内の良識派は艦隊派(好戦派)に押さえられてしまった。

 それは、(大正期の軍縮時代、社会的評価が低落していた)この軍人集団の構成員にとって、軍事の拡大のみが彼らの社会的地位を高める方法であるととられたからである。

 しかし社会的評価ないし地位の向上と、戦争における能力向上とは無関係である。このことは戦時中の生活(衣食)上の軍人特権と戦場における実績とで遺憾なく証明された。

 かくして、集団秩序維持の方策が、海軍の戦術を現実から浮いた形骸化したものにしていったばかりでなく、構成員の資質、思考能力が現実の変化に対応できない非実用的集団をつくった。

 海軍の教育が戦闘技術一辺倒であったという当時の部内者の自省の声もあるが、戦闘技術でありえたかさえ疑問である。海軍を崩壊に導いたものは、艦隊決戦主義という戦術思考よりも、それに象徴された組織・構成員(の思考)の老朽化にあったと言うべきであろう。

 このような、機能集団の老朽化、形骸化の起きる現象は海軍だけかぎらない。たとえば次に述べる書物(「太平洋戦史読本」)の著者は、批判を受けている海軍の人事制度は海軍ばかりのものではない。同類が戦後のいまも日本の各省庁に受け継がれていると弁明している。

 しかし、陸海軍人集団は、明治憲法の「統帥権」の名の下に、内閣・議会から独立して強大な地位を持ち、侵略政策を推進し、戦争を引き起こし、自集団の崩壊にとどまらず、何十万、何百万の生命を死に追いやり、人々の財産を灰燼に帰せしめた直接責任者である。

 しかも、恐るべきことに、彼らの行為にはつねに「天皇のため」「国体護持のため」という自己責任回避の呪文にかくれていたのである。

 

 (盗人にも三分の理)

 大戦から半世紀もへた今、町の書店で注意して見ると、太平洋戦記物が意外に多いのに驚く。とくに海軍の参謀クラスのものが多いのは、かれらが情報を得やすい立場にあったからであろう。それらの多くが海軍擁護をどこかに秘めているのは心情的にやむをえないと思うが、すでに述べた昭和海軍根性の典型と思われるものがいまだ健在しているのを知った。 

 個々の事例について興味ある見解が述べられているが、とくに結びの章は見事と言うほかない。

 「戦争のために、身命を賭して戦った多くの将兵の努力は何であったか」「戦火で、生命、財産を含む計り知れない代償を払わされた一般市民の犠牲をどう考えればよいか」と自ら設問して、次のように答えている。

 中国と仏印からのわが軍の撤兵と、日独伊三国同盟の破棄を要求したハル・ノート(日米交渉の内、開戦直前にだされた米側案)を受け入れて、戦争を回避することは、「わが国が二流、三流の国になるのと同然であった」

 「いま一つ重大な問題があった。 ---戦争を回避することは、わが国の政治、経済の規模が縮小されると否とにかかわらず、老齢の指導階級の人々が依然として残ることであった。したがって、わが国が、自力で、抜本的な改革を行って、民主的な国をつくることは不可能に近かった。

 前大戦後、わが国のあり方を大きく変えることができたのは、敗戦の結果、国土の主要部分が焦土と化したばかりでなく--- (連合国による財閥解体、農地解放、指導者の追放があって)ーーー国家再建が30代、40代の手に任されたためである」

 「私は、あの戦争中における、陸海軍人を含む日本人の努力を高く評価している。そして、多くの人々が払った高価な犠牲には深甚なる同情が寄せられるべきであると、固く信じている」(大和健志『太平洋戦史読本』)

 諺「盗人にも三分の理」とはこのために用意された歴史的哲理というべきか。

                   次へ進む    (1993年12月稿)

   (本文の引用図書はすべて戦後1960〜90年代に現れもの)              
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