「超大衆社会・ニッポン」のメディア


2.メディアは大衆貴族の奴隷か



【「純粋消費者」としての大衆】

「大衆貴族」により構成される、「超大衆社会」としてのニッポン。その特徴は、マーケティングという視点から注目することで、一段とくっきり浮き上がる。かつて、高度成長期においては、人々は商品でもサービスでも、あらゆる面で飢えていた。もちろん、字義通り「腹いっぱい喰いたい」という欲望にも満ち溢れていた。この時代においては、モノさえマーケットに並べれば、それこそコピー商品でもB級商品でも飛ぶように売れる、完全な「売り手市場」だった。この初期体験が元凶となり、日本においては長らく、製造主導による「プロダクト・アウト」が、マーケティングの基本となっていた。

これに対し、ドルショック・オイルショック以降の「安定成長期」に入ると、流石に「どんなモノでも、そこにありさえすれば売れる時代」は終わった。メーカーにおける製造主導的なマインドは変わらなかったものの、マーケティングにおいては、マーケットが求めているモノ、マーケットが付加価値を感じるモノを率先して生産すべきであるという「マーケット・イン」的なスタンスが求められるようになり、「買い手市場」的な性格も加わった。メーカー主導ではあるものの、「生活者に受け入れられる商品づくり」が常識となった。この時点で注目されたのが、先進的消費者、オピニオンリーダー的な消費者であった。まだこの時代では、消費者の中で、旧来同様の「少数のリーダー・多数のフォロワー」的な関係が成り立っていたからだ。当時、そういうリーダー的消費者は「プロシューマ」などと呼ばれ、この層をつかむことがマーケティングの課題とされた。この状況は、90年代、バブル崩壊後の「失われた10年」まで続いた。

しかし金融危機以降、その構造は決定的に変化する。「真実は主観的・相対的」とする生活者が、アクティブな消費者の過半数を占めるようになると、マーケティングにおいても、本来の意味での市場原理が機能するようになる。すなわち、個々の消費者は、それぞれ別の価値観、別の思い入れでその商品を購入するが、結果としてマーケットのマジョリティーに支持された商品が、マーケットの勝者となり、そのままナダレ的にシェアを獲得する、という現象が一般化した。

この構図においては、生活者は、製造のフェーズからは全く切り離された「純粋消費者」である。そこにあるモノを「買うか買わないか」という一点でマーケットに参加し、その結果として数によりマーケットの帰趨を制する。また彼ら・彼女らは、生産プロセスに関わろうとも、意見を反映してもらおうともしない。自分の意思を商品やサービスに反映させるには、購買行動そのものでモノ申せば充分なことをよく知っているからだ。ここに、完全な意味での市場原理にもとづく、「買い手市場」が成立した。彼らは、常に自分のやることが一番正しいと信じ、生産することなくひたすら消費する。21世紀の大衆は、まさに純粋消費者たるがゆえに、今によみがえったギリシャ市民のような「貴族」である。これとともに、日本は「生産主導型の国家」から「消費主導型の国家」へ、完全な変貌を遂げたということができる。

【「おたく」と「オタク」 その1クリエイターとしての「おたく」】

このところ、「オタク」が商売になるご時世となったといわれている。実は、この「オタク市場」の興隆こそ、「純粋消費者」が主導するマーケットの典型例である。そこで、昨今のアキバに代表される「オタク・マーケット」を例に、「純粋消費者」および「純粋消費者に主導されるマーケット」とはどんなものかを見ていきたいと思う。一口に「オタク」といっても、一般の読者の方々は、昨今それがマスになってから知ったヒトがほとんどだと思うので、その「前史」から語りはじめる必要があるだろう。

アニメやフィギュアなど、いま「オタク」アイテムとされている領域は、すでに70年代半ばから、「おたく」と呼ばれる人たちが開拓してきた分野である。「オタク」の前には「おたく」がいた。そして、先駆者たる「おたく」と、いま巷に溢れる「オタク」とは似て非なるどころか、当人にとっては「対立」する概念なのだ。この構図を知らなくては、「オタク」をターゲットとしたマーケットの問題を理解することはできない。

この決定的な相違は、「オタク」は単に消費者だが、「おたく」は創るヒトという点にある。「おたく」の特徴は、趣味にしろ文化にしろ「クリエーターと消費者が同じ次元で存在する」ところにある。「おたく」は、観客ではなくプレイヤーであり、対象となる領域自体も、自身でクリエイトする。これが、純粋に与えられたもの消費するだけの「オタク」とは決定的に異なる。「おたく」は、自らがクリエイターと規定するがゆえに、外側から与えられたものをコレクションするだけの人たちを軽蔑する。

そもそも、そういう「アンチ・マス」の構図自体が、オルタナティブ・カルチャーとしての「おたく」を成り立たせてきた。自分たちは、一般大衆とは違う価値観を持っている。そしてそれをカタチとして具現化するだけの「才能」も持っている。これが「おたく」の誇りを生み出している。実は「おたく」は、「オタク」が大嫌いである。その商業主義的な臭いを嗅ぎ取り、バカにしているからだ。

そういう意味では、「コミケ」こそ「おたく」の原点だ。コミケ自体は、今でもますます拡大しながら続いている。しかし、元来コミケは同人誌を「買いに行く」ところではなく、あくまでも同人誌を「売りに行く」ところだった。第一義的に、「自分の作品を発表する場」であり、そのついでに「他人の作品も買う」と場だったのだ。ある種、レベルはさておき、全国津々浦々の高校球児とそのOBが、「甲子園」を支えていたように、有象無象の「自称マンガ家」たちが、コミケを支えていた。

「おたく」から「オタク」への変化は、それが「純粋消費者」の発生と機を一にする以上、90年代半ば以降に起ったものである。まさに90年代後半が、純粋消費社会への転換点だった。Windows95の登場で、パソコンは「ワクワクする魔法のハコ」から、実用的な道具になってしまった。エヴァンゲリオンのヒットとともに、アニメは表現者を目指すクリエイターの世界から、金儲けを目指す投資家の世界となってしまった。この時代に、才能の問題から「おたく」になりきれず、かといってまだ時代は「オタク」を認めてはいなかったため、居場所を失った青年が起こした象徴的な事件が、「宮崎勤事件」といえないだろうか。

【「おたく」と「オタク」 その2「オタク」が拓いたマス・マーケット】

「オタク」の商業主義的なパワーの前には、基本的に「手作り」を尊重する「おたく」はモノの数ではない。ましてや、市場においてはほとんど存在感を持ち得ない。かくして、「おたく・マーケティング」は、極めて限られたホビーの世界などで細々と続いているものになった。その代わり現れてきたのは、「オタク」をターゲットした、マス・マーケティングの一種としての「オタク・マーケティング」である。全国津々浦々のコンビニでは、食玩の大人買いがアタりまえのように行われ、その象徴として世界の秋葉原が「萌えの百貨店」となる。こういうカルチャーは、純粋消費者としての「オタク」があってはじめて成り立つ。「おたく」ではなく「オタク」の登場と共に、「コダわり市場」は活性化し、巨大化した。もちろん今でも「おたく」な人たちは、元祖おたく世代である40代、50代を中心に存在し続けてはいる。しかし、圧倒的な「オタク」の数の前に、少数派に転落してしまった。いまや世界的にも、「otaku」といえば、「おたく」ではなく、「オタク」のコトになった。

80年代の「おたく」から00年代の「オタク」への変化を、市場の規模や構造という面から考えてみよう。「おたく」の時代には、「おたく」とはクリエーターに他ならなかった。コミケとはなにより、自作のコミックスの「発表」の場だったのだ。その分、濃いマーケットだったが、市場規模は最大でも100〜300億程度といわれていた。それも直接の同人誌やソフトの売上以上に、印刷会社や交通機関といった周辺市場への波及効果の方が大きかったと考えられる。しかし、今世紀になって沸き起こった「オタク」の時代に入ると、「おたく」文化の「純粋消費者」が大量に生まれた。「おたく」とは違い、「オタク」市場として数千億の巨大マーケットが形成される。当然、「オタク」関連グッズには、メジャーな企業が参入するし、その販路もコンビニやスーパーといった一般向けのチャネルが利用されるようになる。その一方で、コミケも「同人誌を売る」場となり、一般の商業誌と肩を並べる売上を記録するものも現れる。

この構造は、情報メディアのコンテンツやサービスでも全く同じである。そのテイクオフ期から成長期までの変化を振りかえると、高度なリタラシーと発信すべき情報を持った、一部の「情報エリート」が、発信者=消費者として主導していた段階がまずある。しかし、このままでは利用者はひろがらない。自ら発信するタイプのユーザーではなく、まったりと暇つぶしに利用するユーザーが中心となってはじめて、圧倒的多数の生活者を集めることができるようになり、マスレベルに「普及」するのだ。ちょっと前にブームだったBlogもそうだったし、一時話題になったSNSも同じ道をたどった。ビジネスのツールと期待された「スマートフォン」も、暇潰しの道具としての「スマホ」になって売れ筋となった。昨今はやりだした「Facebook」も、「普及・定着」するためには、このジレンマを受け入れる必要がある。多くの有識者、学識者たちは、初期型の「知的水準の高いメンバーにより繰り広げられるネットワーク」に対するノスタルジーと思い入れが強すぎるが、大衆化した段階で、全く違うものになっていることを知るべきだ。というより、全く違う接し方、楽しみ方が「発見」されたからこそ、「大衆化」したというべきだろうか。こと、コンテンツやエンターテイメントという領域では、これは王道である。そして、この2〜30年の経験からいえば、こと情報に関することは全て、この法則がなりたつ。この「超大衆社会」での情報消費の掟を理解したものだけが、この世界での成功者となる。

【コンテンツ消費者としての「大衆貴族」】

純粋消費者がマーケットの動向を決めるようになった現在では、情報メディアやコミュニケーションの動向においても、メディアやコンテンツの「純粋消費者」がどう振舞うのかが極めて重要な問題になる。いままでのメディア論では、プロダクト・アウト的な、情報の発信者がどうコンテンツやサービスと関わるのか、という視点が重視されてきた。この延長上で、CGMなどインタラクティブメディアにおけるサービスについては、「発信者でも消費者でもある」という、曖昧なユーザー像を前提に議論を進めることが多かった。少なくとも、80年代以降の日本のメディア論、ネットワーク社会論においてはそうだった。

確かに、限られた層だけがそのコンテンツやサービスに接する創成期においては、極めて高度なリタラシーが要求される。このため、このようなユーザー像を前提としても、「あたらずとも遠からじ」という感じには収まっている。しかし、普及・実用化が進んだ状況においては、ユーザーのあり方を創成期と同じように捉えることはできない。その視点の切り替えこそが、情報の純粋消費者を前提とした、「超大衆社会」における情報消費を解くカギとなる。

そもそも、情報の発信者と消費者とは、単に情報との関係性というだけでなく、求められる能力や人間のあり方からして根本的にちがう。この両者は、非可逆的な関係である。もちろんNEWSセオリーで示されるように、クリエーターである映画の監督が、一方で大のラーメン党であり、グルメ番組でラーメン屋が紹介されるとすぐにでも食べに行きたくなるミーハーだ、とかいうように、一人の人間がジャンルにより発信者になったり、消費者になったりすることもある。だが、ここで問題にしているのは、数として圧倒的に多数の、情報に関しては、ほぼ全ての局面で「純粋消費者」である人たちの動向である。

「大衆貴族」の時代においては、ある領域の「マス化」とは、その領域において「純粋消費者」が市場のマジョリティーを占めるようになり、彼ら・彼女らをターゲットとした「マスベースの生産」が成り立つようになることである。情報メディア、情報ビジネスの「大衆化」、「マス化」においても、この構図は全く変らない。情報社会の大衆化とは、情報の発信者が増えることではなく、情報の純粋消費者が大量発生し、その層をベースにした「マスビジネス」が成り立つことに他ならない。

このように「大衆化」とは、消費者が増えることである。あくまでもクリエーターは少数のままであるが、その消費者が圧倒多数となるのだ。特に情報サービスやコンテンツは、無形の情報データをもとにしているため、リアルな形のあるモノ作り以上に、消費者がマス化することによるビジネス上のメリットは大きい。パソコン用のソフトや映画のパッケージソフトなど、この十数年で、価格の桁が一つ下がってしまったのは、まさしくこの「需要の大衆化」の賜物である。社会の情報化が進むと、「一億総発信者」になる、というのは幻想に過ぎない。社会が高度に情報化する前に、マーケットが純然たる「買い手市場」になり、消費者の求めるものに作り手・送り手が合わせるしかない時代に突入していることを、充分に噛み締めるべきだろう。

【大衆貴族時代の「強いメディア」の条件】

古代ギリシャにおいてそうであったように、超大衆社会では、生産者は消費者としての大衆貴族の奴隷である。大衆貴族が消費する「コンテクスト」を提供するメディアも、まさに彼らの奴隷なのだ。ここでは主従関係ははっきりしている。メディアが大衆を作るのではなく、大衆がメディアを選ぶ時代である。受け手にとって、全ての情報、全てのコンテンツは等価である。「オピニオンリーダー」などあり得ない。「大衆貴族」は、その中から、好きなもの、楽しいものをえらんでいるだけだ。しかし、結果的には選ばれないコンテンツのほうが余程多い。映画でもテレビでも、ヒットは極めて難しく、多くのコンテンツは死屍類類ではないか。メディアはコンテンツを流通させるインフラやチャネルを持っているから強いのではなく、大衆に選ばれて初めて強くなれるのだ。

現場のテレビマンは、最近の生活者、特に40代以下の人達が、「正しい正しくない」ではなく「好きか嫌いか」「面白いか面白くないか」でメディア・コンテンツを選ぶことをよく知っている。だからこそ熾烈な競争を繰り返す。いかに送り手が「正しい」と思っても、「嫌い」「つまらない」と思われたら、逃げられてしまう。テレビでザッピングが起こる理由も、ここにある。ザッピングとは、キライなもの、つまらないものが出てきたときに、ひたすら好きなもの、楽しいものを探す行動。本編とCMの別なく、「見たいものは見たい」、「見たくないものは見たくない」、と、どんどん変えていくのだ。

免許が利権であったのは、オピニオンリーダーが存在し得た高度成長期のことである。大衆貴族の時代、メディアはメディアとして君臨することはできず、大衆の従属物としてしか存在し得ない。とはいっても、テレビはザッピングをされても、面白いコンテンツさえ提供できれば、また翌日はスイッチを入れ、チャンネルをあわせてもらえる、しかし新聞は、契約しなくなったら読んでもらえない。そこがテレビとの違いといえる。いまやコンテンツは、理屈で選ばれるわけではない。「正しい正しくない」の議論から脱する、「脱ジャーナリズム」こそが、メディアの最大の課題といえるだろう。

最近、WOMマーケティングが、話題となっている。しかし、そもそもテレビに代表されるマスメディア自体、口コミとのキャッチボールによる情報の循環でヒットを生みだすシステムとなっている。司会のみのもんた氏と、視聴者の主婦層の反応がいい例だ。「○○が健康に良い」とテレビで言えば、それが口コミになり、スーパーに平積みになる。今度はそれが口コミで広がるのを、さらに番組が取り上げる。強いのは、このような循環を生み出す力である。こうなると、それが本当に健康に良いのかどうかすら、もはや問題ではない。人々は、うまく口コミを喚起する、「話題性を提供できる」メディアに引き付けられるのだ。拾い上げては編集して投げかけ、その波紋をもう一度拾い上げ……、のくりかえしという、口コミとの共犯関係を作れるかどうかがヒットのポイントである。ヒットを創り出せるかどうかは、クリエーターの才能にかかっているのだが、「大衆が選ぶ」大衆貴族の時代においては、ことマスメディアに関する限り、ネタを「拾ってくる」編集型のクリエーターのほうが、ネタを「ひねり出す」創作型のクリエーターよりヒットに近いところにいるのは間違いない。





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