テレビは不滅だ

(その1)


○ネットワーク社会で何が変わるのか
・メガインフラ時代のメディアビジネス
今年(96年)の2月、1934年以来62年ぶりのアメリカ電気通信法改正が行われた。この改正では、いままでFCC規則という運用面で対応してきたルールを法律に取り入れるとともに、大幅な規制緩和や、競争原理の導入という新たな方向付けを行った。「強いものをより強く」は、アメリカの基幹産業に対する経済政策の原則だ。したがって、この改正は電気通信をアメリカの基幹産業としてより強化する施策と読むこともできる。
この結果として、メガインフラ企業の出現が予想される。装置産業に特化するメガインフラは、広くあまねくニーズを取り込み、少しでも利用度をあげなくては、ビジネスとして成り立たない。このためには囲い込みでなく、全方位外交で、あらゆるソフトニーズを取りこめる体質が必要になる。これは、今までのメディア企業の論理とは大きく異なる。特に免許制度に守られた日本のメディア政策は、早晩、世界の基本ルールとなるであろう、アメリカの新ルールとの整合性を取る必要が生じることになる。
また、メガインフラの出現は、メディアインフラとクルマの両輪の関係にあるソフトビジネスの変化も呼び起こす。日本のソフト業界の問題点は、ストックとしての資金力にある。海外のソフトビジネスは、この面で強い。さらに「金は出すが、口は出さない」のが基本。その国でアタって儲かってくれるなら、制作者の好きなようにさせる。金を出す人間は、作り手の論理でなく、資本の論理だけで動いている。これは、日本のプロデューサーとは大違い。多国籍化する映像ソフトビジネスも、日本の業界に大きな影響を与えるだろう。このように、マスメディアをめぐるビジネス構造は、日本においては「外圧」として大きな変化が起こりつつある。

・知の時代の終焉と天才の時代の到来
一方、技術面でも急速な構造変化が訪れようとしている。ネットワーク社会の到来は「知の時代」の終焉を意味する。そこでは情報や知識はあって当たり前。そんなものいくらあっても価値など持たない。過去の事実を収集・整理するだけの学者センセイや、マジメに与えられた作業だけをこなす小役人は、コンピュータ以下の存在としてさげすまれ、天才的なセンスを持つアーティストだけが、価値を生む人間としてもてはやされる。クリエーティビティーだけが人を評価する基準となる。
ネットワーク化されたコンピュータ社会の掟とはこういうものだ。しかしこれは、エンターテイメントを身上とするマスメディアにとっては、何よりもプラスになる。真のエンターテイメントとは、天才のクリエイティブなセンスが生み出すもの。勉強や努力によってどうこうできるものではない。エンターテイメントへの評価は一層高まる。だから、ディジタル化、ネットワーク化された来たるべき社会には、マスメディアが一層飛躍する可能性がひそんでいる。まず手始めとして、そのチャンスをものにするためのカギは何かを探ってみたい。

○メディアビジネスの本質
・メディアビジネスでは水平統合しかない
技術が進むと、まったく異なる技術をベースとしても、利用者からみた使い勝手が変わらない「代替メディア」を構築することができる。メディアとしての送り手と受け手の関係はそのままに、伝送路だけが新しいバイパスを利用できる。次々と並行する新幹線が開業するようなものだ。競争が激しくなれば、利用者はより安く、よりサービスのよいものを選ベばいい。インフラメディアの囲い込みは意味がなくなり、利権でもなんでもなくなる。こういう状況でのインフラメディアのキーワードは、水平統合だ。広くあまねく全方位を基本とし、インフラ機能に特化し、水平統合でスケールメリットを追及しなければ、新たに登場する競争の中で、投資の回収さえおぼつかない。逆に水平統合である分野に特化していれば、自ら新しい技術を率先して取り入れることも可能になる。
これは、市場原理に任せ自由な競争が行われれば行き着く、当然の帰着だ。もし実現しないとすれば、それは規制の弊害だ。今日本で、ソフトの制作から送り出しまでを一つの企業の中で行う「垂直統合」が行われているのは、郵政省による免許規制が自由な競争を妨げているからだ。本当にいいソフトであれば、特定のチャネルだけで流通させ、自らリクープのチャンスを減らすのは愚の骨頂だ。二次利用、三次利用とチャンスを拡げてこそ、ビジネスはより拡大する。
三大ネットワークの買収ブームは、この意味を考える上でヒントになる。何で今、アメリカでネットワークが注目され、M&Aの中心になるほど高い評価を受けているか。それはネットワークがメディア・ウォーズの勝者となり、今後ともその収益性が保証されたからだ。三大ネットワークが勝利を得た理由は、ネットワークはテレビビジネスではあるが、日本でいう「放送局」ではなく、ソフトを金に換えるシステムに特化したものだからだ。インフラメディアが整備されることにより、それを利用するソフトビジネスの競争がクローズアップされ、その中で三大ネットワークが評価された。ここから、マスメディアのカギになるものは何かを読み取ることができる。それはソフトを富に変える力だ。

・テレビの強みはどこにある
実は、アメリカにおいてネットワークの最大の競争相手は、シンジケーションだった。ネットワークの視聴率を喰ったのも、ケーブルの最大の恩恵を得たのも、皆シンジケーションだ。ケーブルの最大のサプライヤは、地元の独立局だ。そして独立局の目玉は、シンジケーション番組だ。ソフト制作者にとっても、ケーブルの普及によりカバレッジでひけを取らなくなった独立局は、有力なパートナーとなった。最大のシンジケーションたるFOX-TVの成功がこれを示している。だからフィンシンルールの緩和も、ネットワークにとっては、自らソフト制作者と組んで、シンジケーションビジネスに進出するチャンスと映った。これもまた、ネットワークの収益性を高めることにつながった。
ケーブルTVでは、オペレータとサプライヤという異なる業態が組み合わさり、それぞれの領域に特化することで、効率的なビジネスシステムを作り上げた。まさに水平統合のパワーだ。アメリカでも放送は免許事業であり、それなりに規制はあった。しかしケーブルの普及が、それを打ち壊した。
ネットワーク同様の制作費と人材を投入しながら、規制に束縛されないビジネスであるシンジケーションこそ、ケーブルTVの生み出した寵児だ。これからのネットワーク時代のマスメディアの成功のカギも同じ。インフラ屋とソフト屋では業態が違う。それぞれに特化することで、ビジネスチャンスが拡がる。
テレビ局は、早く免許を返上して身軽になろう。伝送経路なんて、いくらでも安くて規制のないものがでてくる。それを使えばいい。その一方で、金になるソフトを握っていれば、インフラ屋さんはこぞって自分のところを使って欲しいと頭を下げてくる。ソフトのパワーを握ったものが、富に一歩近づく。
このためには更なる規制緩和を行い、インフラのオペレーションとその上でのサービス提供を、別のビジネスとして特化できる環境作りが必須だ。その場合、ネットワークや電波、衛星等を保有し管理運営を行うインフラビジネスには、広くあまねくアクセスの確保など、ある程度の規制も必要だろうが、放送やコミュニケーション等、インフラ上で提供するメディアサービスについては、あくまでも自由競争を確保し、あらゆるビジネスチャンスに対応できるシフトを取ることが望ましい。

・ソフトパワーを握るのは誰か
メディアが増えれば増えるほど、魅力のあるソフトがものを言う。新しいメディアができても、金を生む魅力的ソフトがなくては、儲からないのは常識だ。では、大衆をつかむ魅力的なソフト作りのノウハウを持っているのは誰なのか。現代のメディア先進国においては、それはテレビ局をおいて他にない。
マスメディアのパワーの源泉は、利権や独占的地位ではなく、人を引きつける力にある。これがソフトの力だ。すでに常識となっているはずなのに、ことメディア論になると忘れられることが多いのはなぜだろう。
テレビ局自身は、ネットワーク間の激しい視聴率競争に常にさらされている。この競争に生き残らなくては、収益確保がおぼつかない。おのずと、大衆にアピールし心をとらえるソフト作りのノウハウがたまってくる。このパワーこそがマスメディアたり得るための最大の武器だ。利権があるだけでは、誰も見てくれない。利権は武器にはならないのだ。

・メディアだけでは売れない
インフラメディアなんて、一般人にとってそう使うもんじゃない。電話だって、一日平均数分も使われていない。だからこそ、インフラメディアをそれだけで売ることは難しい。そこで使われるのが、ある種のまやかしだ。役にたつと期待させて売る。パソコンしかり、ネットワークしかり。だが、そう言ったら騙しになってしまう。そもそも役に立つはずもないものを、しかつめらしいまじめな顔をして売ったのでは、メディアの荒廃が待っているだけだ。しかしエンターテイメントソフトなら、役にたたなくてもニーズがある。いや、もともと「ワハハ」で済んでしまうものだ。騙されてこそ意味がある。ここに、メディアの普及にはソフト、それも他愛もないエンターテイメントが必要な理由がある。
そういう面から見ると、ソフトの王者はアダルト物だ。どんなにハズれでも、騙され感が許されるところが、アダルト物のいいところ。最初から期待なんてしていないんだから強い。スカで結構。場末の温泉場のストリップみたいなものだ。実はこれこそが、人々がメディアに求めているエンターテイメントの本質だ。だからアダルト系は、メディア興隆期には欠かせない。メディアへのニーズは、実利じゃなくて快楽の問題。一般の商品のような価値観は通用しない。



月刊ニューメディア(96/7・8月号)  



つぎにすすむ

「メディアとテクノロジについての雑文」にもどる


はじめにもどる