テレビは不滅だ

(その2)


○メディアのパワーとは何か
・テレビの競争力の源
欧米メガメディアのグローバル化とは、報道を中心とするコンテンツコスト高騰の中で、少しでも回収を多くし、収益を拡大することで、投資家から見た企業としての評価を高めるための行動だ。何も恐れることはない。
もし欧米系ソフトが、日本で視聴率を稼ぎ、ビジネスになるというのなら、激しい視聴率競争の中で、「安いコストで受けるソフト」として、各局が買いまくり、もっとシェアが高まっていてもおかしくない。しかし現実には70年代以降、かつてはあんなにゴールデンタイムにあった外国テレビ映画はすっかり影を潜めてしまったではないか。
偉い大先生方は、ご趣味や関心も高尚なので、国際政治・経済ニュースを伝える、英語の報道番組がお好みかもしれないが、それは世間では少数派。そんなスノッブな少数派のお歴々なら「メガメディア」もお似合いだろう。
しかし、世の中を支えている大衆は、そんな世界の情勢より、スターや皇室のうわさ話のほうに、よほど興味がある。果して、欧米メガメディアは、日本のタレントの不倫ネタを張りついて取材してくれるのだろうか。
「メガメディアの脅威」なんて、なんでテレビが人を引きつけ巨大なビジネスたり得るのか、わかっていない人の発言だ。一度放送局の現場を体験してみるといい。そんな甘い考えでは、マスメディアで稼ぐこともおぼつかない。インフラさえ持てばマスメディアとしてビジネスができるという考えかたは、エンターテイメントビジネスの難しさを知らない、評論家の視点だ。

・ソフトの価値をもたらすもの
努力でどうこうできないものが才能。そしてエンターテイメントソフトの価値を決めるものも、制作者の才能だ。才能ある人間は最初から光っている。能力ある人間が作ったものは、最初から輝きが違う。いかに稚拙で荒削りでも、天才の作品はわかるヒトにわかる。
だから、どんなに新しいメディアがでてきたとしても、そこではじめて才能が見いだされるということはありえない。日本のエンターテイメント市場ほどの規模があれば、天才が水面下に埋もれることは難しいからだ。新しいメディアがでてきても、そこでマスを引きつける作品を作れるのは、メディアの専門家じゃない。すでに光っている、エンターテイメントの天才だけだ。
ビッグステージに立ちさえすれば、それだけで喝采され、誰でも大スターになれるわけではない。ここで勘違いするのは、「芸」とは何かを知らないアマチュアだ。プロなら、ビッグステージだからこそ、ちょっとでもつまらなければブーイングの嵐となり、ウケをとるのが難しいことは、身をもって知っている。大衆を相手にするエンターテイメントの世界とは、こういうものだ。マスメディアも同じ。マスだからこそ、ウケをとるのは一段と難しいのだ。
だから、ソフトビジネスは成長の投資弾力性が小さい。いいソフトを作れる天才は数が限られているから、いくらお金を投資したところで、一定期間に作れるソフトの数には限界がある。またお金をかけて大作にすればするほど、一作にかかる制作時間も増す。そう簡単に儲かるハナシではない。インフラメディアは簡単に増えても、金を生むソフトは、それに応じて次々湧いては来ない。

・ソフトの国際化とは
さらに21世紀は民族化の時代になる。当然エンターテイメントソフトも民族化を目指す。自国内市場で、投資元金分をリクープすることが、ソフトビジネスをローリスクで安定的に運営するカギ。アメリカの劇映画、日本のアニメやゲームソフトも、この国内市場の大きさが、ソフト大国たり得るベースになっている。輸出によるリクープはリスキーだが、それをアテにするのではなく、すでに大方リクープしたソフトで、坊主丸もうけを狙うなら損はない。一次リクープはがっちりと国内で行い、二次リクープを海外で行うわけだ。日本で中国語放送をすべてオリジナルで制作してオンエアしても、市場的に成り立たない。しかし、コスト回収の済んだ中国の放送を日本で流す分には、こすり代さえ回収できればいいのだから、不可能なハナシではない。
だから、マスメディアは地場に密着していなくては儲からない。21世紀のエンターテイメントソフトは、ローカライズされたものでなくてはいけない。大衆の心をつかむためには、地元のヒトがやるのが原則だ。地元の人がもうかって、その上でこちらももうかる仕組みでないと長続きしない。文字通り「地に足が着いた」エンターテイメントを提供し、「大衆」のウケを取ってはじめて、その国でのマスメディアビジネスをテイクオフできることを忘れてはいけない。

○ソフトビジネスとしてのテレビの論理
・許認可の対象は「電波」
オウム報道をめぐるいわゆる「TBS問題」が起きてから、マスメディアに関する議論が喧々諤々繰り広げられている。しかしその中身たるや、冷静で論理的な論議から大きくズレてしまった。確かに「ウソをついた」という道義的な責任はあるのだろうが、放送法云々を持ち出しての責任論は常軌を逸している。
なぜ郵政官僚や族議員たちは、免許行政を盾に、番組内容に口を出したがるのか。なぜ彼ら守旧派は、この電波利権の維持に過剰なまでに腐心するのか。この構図に気付かなくては今回の問題の本質は見えてこない。
確かに、郵政省は放送電波の周波数を管理し、その権限に基づき、放送を免許事業として許認可の対象としている。元来希少資源である電波について、国際間での配分規約等々に基づき、ある種の規制を行い、免許事業として許認可を行うことはわからないわけではない。だがその権限をどんどん拡大解釈し、番組の内容にまでタッチするというのは、もはや越権行為以外の何者でもない。
電波はインフラである。インフラは使われてこそ意味がある。だから、インフラを扱うものは中身にタッチすべきではない。本来こうあるべきだ。しかし技術の発展途上においては、限られた電波資源の有効配分を図るべく、番組制作から電波送出まで一貫して一企業内で行う「垂直統合」の形態がとられた。
だがこれはあくまでも過渡的形態だ。しかし、一つには、利権としてその構造が政官一体で守り続けられてきたこと。もう一つには、高度成長の波とともに、放送局が構造的矛盾を秘めつつも事業体として成り立ってしまったこと。この二つの理由により、本来過渡的な形態が、20世紀も末の今日まで生き残ってきてしまった。垂直統合で行う放送ビジネスは、もはや時代に合わない。この構造にこだわるのは、第二次世界大戦後の南米で起こった「勝ち組・負け組」の議論のようなものだ。

・ソフト文化は規制とは相入れない
そもそもソフト文化繁栄のためには、中身については規制がないのが鉄則だ。公序良俗に反しない限り、出すも出さないも一切自由。これが言論の自由ではないか。主張の数だけソフトはあっていい。もちろんもっとあったっていい。反論があるなら、それもまたソフトにすればいいだけのことだ。
本の場合を考えてみよう。本の世界でも、いろいろ議論が分かれる分野はある。たとえば猥褻。極右・極左テロなどの政治。そして今話題の宗教。しかし本の場合は、賛成派も反対派も自分の意見を互いに出版することで、結果的に本屋は儲かる仕組みになっている。
何でもいいが、たとえば「政官利権教」という宗教があったとする。ここが自分の布教用の書物を出すのも自由。これに反対する人が反論の本を書くのも自由。利権教を否定する別の宗教が、その教義を布教する本を書くのも自由。言論の自由とは何と美しいものだろう。紙屋さんは商売人。さすがに役人のようにアタマが堅くはないので、気にくわないヤツには紙をあげない、なんてことはしない。まことに賢明な限りである。
だが、こと映像となると、なぜ変わってしまうのだろうか。かつて映像ソフトは、伝送チャネルも限られ、制作コストも莫大なものがかかった。だから誰でも作れるものではなかった。その時代ならいざ知らず、今ではこういうハード面の制約はない。垂直統合は、そのような制約があった頃の時代遅れの遺物だ。今は堂々、ソフトの中身で勝負すればいいだけ。免許を持っているから偉いわけではない。何とフェアな世界だろうか。
それをねじ曲げ、許認可権を盾に、本来発言権のないはずの番組の中身にまで介入し規制しようとするなら、電波なんてないほうがいい。それこそ、インターネットでもなんでもいいが、何の規制もないネットワークでも使ってソフトを提供したほうがずっとお気楽だ。誰もうるさいコトいうお上の電波なんて使いたいとは思わない。

・「天下の公器」とは何のこと
百歩譲って、インフラストラクチャの部分なら、広くあまねく天下の公器といってもいいだろう。しかしその上をながれる番組は、たかがソフトである。報道だろうと、スポーツだろうと、娯楽だろうと、ソフトはソフト。そんなもの、公器であるはずがない。
ソフトとは、天才が産み出し、不特定多数に向かって届けるメッセージだ。いわば、天才の個人的メッセージ。結果的にそれが世の中の過半数から支持されたとしても、公的なものにはなりえない。私信は私信だ。
ベストセラーの本がそうだ。たとえば、歴史を越えて親しまれるシェークスピアの名作は、彼の個人的メッセージだからこそ、永遠の命を持っている。ヒット映画もそうだ。ETやスターウォーズシリーズは、スピルバーグやルーカスからのメッセージだからこそ、ヒット作になった。これは絵画でも写真でも音楽でも、人の心にアピールするものは全て同じ。テレビ番組だけが別であるわけがない。
放送局が、電波独占の「利権」をバックに、力づくで見せようとしても、視聴者は番組を見てくれない。「テレビの限界」を主張する論者は、この構造だけに着目しているに過ぎない。確かに「マスメディアは天下の公器だ」といわんばかりの押しつけ番組は、もはや誰も見ない。そういうテレビは滅びるだろう。
だが、テレビの本質はそこではない。大衆の心をとらえることができる、ソフト作りの天才たちのパワーにこそ、その本質がある。そして彼らは元々、天下の公器でもなんでもないからこそ、パワーを発揮している。ここに気付けば、今回の事件の本質が見えてくる。
電波独占の利権、人々の心をとらえなくても強制的に見せる利権、こういった守旧派の政治家・官僚たちがこよなく愛する利権群は風前のともし火となっている。メガインフラの時代になれば、メディアのイニシアチブは、許認可権を持った彼らから、ソフトの天才たちの手に取り戻される。その時代はもう視野の中にある。そして今回の事件は、この流れに棹さそうと、必死の抵抗を繰り広げる、頑迷な連中の最後の抵抗として長く記憶にとどめられることになるだろう。


月刊ニューメディア(96/7・8月号)  



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