メディアテクノロジーの進歩と地域情報メディア

-マスコミ集中排除規制緩和のもたらすもの-
(その1)




・ローカル局のピンチとチャンス
次々と実用化する、ハイテクを利用したコミュニケーション技術。ネットワーク社会の構築は着々と進んでいる。そしてその変化はマスメディアの世界にも押し寄せている。一方アメリカの電気通信法の改正は、メガインフラの登場の可能性を生み、水平統合を特徴とするビジネスドメインの再編も視野に入ってきた。このようなコミュニケーション環境の変化は、ローカル局に代表される、地方局・地方紙といった地域情報メディアをどう変えてゆくのだろうか。
かつて十年ほど前、ニューメディアブームの頃には、「炭焼き小屋論」というものがもてはやされた。曰く、衛星やケーブルの普及により、中央発の情報が洪水のように拡がるため、もともと中央の番組を中継するしか能のないローカル局は、朽ち果てた炭焼き小屋のようになるだろう、という論理だ。
しかし、その後の十数年の歴史の流れを見る限りそういう傾向は見られない。それどころか、社会の情報化が進むとともに新たに高まったニーズを見てゆくと、中央指向、国際指向がうすれ、ローカル指向、コミュニティー指向という地域の復権が、一層明確になってきているようにも感じられる。
果して、メディアテクノロジーの進歩は、地域情報メディアにとっては、ピンチなのだろうかチャンスなのだろうか。そして、もしチャンスだとするならば、それをものにするためのカギはどこにあるのだろうか。ここでは、その未来を開くためのキーワードは何かについて考えてみたい。

・地域指向の高まり
すでに日本はばらばらになり始めている。中央指向が強いのは、一部の利権にしがみつく特権官僚と政治家、そしてその運命共同体だけだ。彼らだけが、その利権を守るべく、陳腐化した中央集権システムにしがみついている。しかし、今や分散処理のネットワーク社会の時代だ。経済システムも分散化している。政治機構、行政機構も分散化、ネットワーク化してゆかざるをえない。忘れもしない冷戦構造の崩壊も、東の陣営が抱えていた中央集権管理機構が、そのオーバヘッドの大きさゆえに自滅したモノともいえる。守旧派の政官連合は、この流れに対する最後のあがきに過ぎない。
日本においては、無党派、政治無関心に代表される国民の中央離れが、昨今の守旧派官僚の繰り広げる茶番劇の効果もあってか、いっそう顕著なものとなっている。もはや日本人の意識の中には、日本という地域はあるが、日本という国はない。ましてや、日本という国への帰属意識はない。あるのは大阪人、仙台人といった、地域への帰属意識だけだ。
実際、この傾向は国民の意識調査を見てもわかる。余暇開発センターと電通総研が1995年11月に行った「21世紀への価値観変化」調査によれば、「自分が所属する単位は」との質問に対し、56%のヒトが「市区町村」をあげているのに対し、「日本」に帰属意識を持つヒトは22%にすぎない。それだけでなく、「日本人としての誇りを感じない」とするヒトが37%にのぼっている。
いままで、利権政治家と官僚たちに騙されていたことに気付かなくてはいけない。国民にとっていらないのは、中央の情報なのだ。中央の政界・官界の情報、国際経済・政治の情報。こんなものは生きてゆくためにはこれっぽっちもいらない。政治だけではない。経済活動においても同じことだ。
これからの世の中、消費者の満足する商品を提供するには、競合社の動向をいくら追いかけても、マーケットの情報をいくら集めてもムダだ。作り手の心や気持ちを、どれだけその製品の中で表現するかがカギとなる。心が豊かになる商品なら、どんなに高くても間違いなく売れる。機能やスペックだけを競う製品では、価格破壊競争がまっているのがオチだ。これを実践するためには、常にお客さんの顔が見える距離にいなくてはいけない。中央の情報がいくらあってもモノは売れないのだ。
誰も必要ない情報をいくら流したところで、誰も見向きはしない。この忙しい世の中、お金をくれたって見ないだろう。しかし、自分達の心を豊かにする上で役にたつ情報ならば、時間を作っても見るだろう。そのような情報とは、とりもなおさず、なごみの情報たる「エンターテイメント」と、自分達の生活に密着した「地域の情報」なのだ。
それにこれを支えている「地域」の実力についても、もう一度見てゆく必要があるだろう。日本のローカルエリアの多くは、県域が基本になっている。しかしじっくり見てみると、日本の県域というのが、これでいてなかなか侮れないものなのだ。人口をとってみても、経済力をとってみても、ヨーロッパの中位の国と比しても、それを凌ぐか、遜色のないレベルの実力を持っている。これを見ただけでも、日本の「地域」が決して中央に頼らずとも、成り立つ基盤を持っていることがわかるだろう。
それだけでない。血で血をあがなう民族紛争。彼らが命を掛けて戦っている「民族」とは、そのヨーロッパの国より小さい単位なのだ。それを考えれば、日本の県域経済が、充分な実力を持った存在であることは容易に理解できよう。


社内文書(96/5)



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