ソフト・クリエータにとってのテクノロジー

(その1)




はじめに テクノロジーとビジネス

ここで、視点を変えて、技術そのものではなく、ビジネスからみた技術、およびそれを成り立たせる基盤としてのソフトという観点から論じてみたい。
いうまでもなく、日本は市場経済、自由競争の国である。したがって、どんなに優れた技術が開発されても、それがビジネス化され、事業として成り立たなくては、世の中に受け入れられるものとはならない。これが、なによりも重要な「基本原則」である。
では、ここで議論されるようなマルチメディアの技術が、ビジネスとして成り立つための要件とは何だろうか。このためには、オーディオ・ビジュアルのような、マスエンターテイメントの分野におけるビジネスの構造を考えてみる必要がある。
消費者は、何にお金を出すのだろうか。末端ユーザである消費者は、一部の「ハードおたく」を除けば、決してハードそのものを目的としてお金を出しているのではない。ましてや技術そのものにお金を出すことはない。
消費者はあくまでもソフトに対して、それもソフトが提供してくれる楽しみに対してのみお金を払ってくれるのである。
ユーザにとってハードウェアとは、ソフトを楽しむ上でのプラットフォームでしかない。もちろん、ソフトを楽しむためには、ハードウェアは必要不可欠のものである。しかし、かつて三種の神器といわれた頃の家電品のように、ハードウェアの所有それ自体が目的ではないのだ。
こういう条件のもとでは、技術は「その技術を活用することで、いかにおもしろく、アピール力のあるソフトが作れるか」、あるいは「その技術によって、ソフトを作る側のクリエータのイメージがどれだけ広がるか」という視点から評価されることになる。
以下、このような視点から、議論を進めていきたい。

その1 オーディオ・ビジュアルにおけるハイテクの位置付け

オーディオ・ビジュアルといった最終的に人間の知覚に訴える分野においては、ハイテクが進めば進むほど、テクノロジーそのものは、音声や画像といったアウトプットからは人間に見えないものとなり、あたかも自然のままのモノとして感じられるようになる。技術が、ハイテクだハイテクだとイバった顔をしている間は、まだ「こなれたテクノロジ」とはいえない。この段階では技術は一部のヒトのものであり、社会に溶け込んだ状態とはいえない。
ex1.CG
かつてCGが登場した10年ほど前には、どぎつい色使いと、ジャギーのでた画面構成など、非日常的な描写しかできず、それがまたCGらしいとしてもてはやされていた。当時は、CGの利用は高価だったため、このようなCGの特徴をマネして、手書きのアニメーションや、アナログのオプティカルエフェクトでつくった、「ニセCG」のCMも多かった。
しかし、いまやマッキントッシュなどパソコンレベルでも、1600万色のフルカラーを使うフォトレタッチソフトが登場する時代となり、そんな個人のデスクの上の機械でも、つくろうと思えば全く実写と変わらない画像が合成できるようになった。それとともに、印刷などの分野では、写真をコンピュータに取込み、修正や合成を行なうことも日常的なものとなった。もちろん、このような合成は動画レベルでも行なわれている。だからジュラシックパークの画像合成のように、ミニチュアとオプティカル合成を駆使した昔の特撮とは違い、見た目にはどこが本物で、どこが合成かわからなくなっている。だれも、これを「CG」だとは思わなくなってきている。
ex2.コンピュータミュージック
かつてはコンピュータミュージックといえば、シンセサイザーをコンピュータで演奏する「テクノミュージック」が、その代表であった。この時代の音楽は、いかにも機械仕掛という感じで、それがまたウケる理由だった。しかし、いまやほとんどの音楽がコンピュータ制御でつくられている。しかし、技術が進んだぶん、ノリも違和感なく、ちょっと聞いただけでは人間の演奏と区別できない。
さらに、人間の唄や管楽器など、コンピュータでは演奏できない要素も「サンプリング」により、コンピュータデータとして取り込むことにより、コンピュータをテープレコーダがわりにも使い、フルディジタルで音楽をクリエイトできるようになった。しかし、そこから流れ出てくる「音」は、限りなく生の音に近い。
このように、コンピュータがコンピュータとしてユーザの前に現れてくるのは、コンピュータ技術がプリミティブでこなれていない時代だからこそ起こる現象である。
受け手にとっては、コンピュータを使っていようがいまいが、同じレベルで「自然」なものとして受け止められなくては、作品として評価できない。

その2 ユーザにとってのハイテク

情報の消費者であり、そのために情報機器やメディアを使っているユーザにとっては、その情報がどういう経路で、どういうデータの形式で届くかというのは関心外であり、ただ、その情報の中身だけが興味の対象となる。だから、面白いソフトは、それがやってくる経路が、地上波のVでもUでも、衛星放送でも、CATVでも、ビデオでも、同様に面白いし、その規格がNTSCだろうと、PALだろうと、ハイビジョンだろうと関係がない。
電話はその典型だろう。幹線部分では、同軸、マイクロ、光ファイバー、衛星などいろいろな回線がある。さらにアナログ、ディジタルの違いもある。厳密に測定すれば、これらの違いはわかるが、「DDIはマイクロだから人気がある」などというハナシは、一部の電話オタク以外はしない。要はつながって安ければいいのであり、ユーザからみればこれらの技術的問題は意識の外である。
すなわち、情報機器やメディアにおけるユーザにとっての関心とは、最終的にCRTやスピーカーより人間側で「どういうメッセージが流れるか」だけであり、システムの中身は関心外、いわばブラックボックスなのである。
ハイテク化・ディジタル化は、こと制作者の側にとっては、新しい表現ができたり、より複雑な表現ができたりという質的メリットになるが、ユーザ側においては、なんら質的なメリットは生み出さない。多くの場合、技術が直接的メリットにつながるのは、「ローコスト化」できた場合だけである。
それよりユーザにとって、ディジタル化が新しい枠組みとして受け入れられるのは、コンパクトさとか、使いやすさといった、マンマシンインタフェース面でのメリットにつながるときのみなのだ。これだけが、新技術への積極的なモチベーションとなる。
たとえば、CDはディジタルだからとか、音がいいからといった理由で受け入れられたのではない。アナログディスクよりも、カセットテープよりも、コンパクトである上に、ランダムアクセスなどが可能で扱いやすい。音そのものではなく、音の器としての「利用しやすさ」があったからこそヒットにつながった。
音の良さが差別化のポイントなら、スゴいオーディオセットで聞かれるはずである。しかし、CDの時代になって、パッケージソフトはほとんどCDラジカセやディスクマン、カーオーディオで聞かれれるようになった。音楽の楽しみ方が変わり、ユーザはコンパクトで使いやすいパッケージメディアを求めていた。そこにCDがぴったりフィットしたからヒットにつながったのである。。
この類推でいえば、コンパクトで扱いやすいMDはヒットしそうだが、コンパクトさや扱いやすさではアナログカセットと変わらないDCCはメリットがなく、定着しないだろう。
ユーザにとっては、技術そのものが、直接メリットとなることはありえないのである。


講演資料(93/08)  



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