ソフト・クリエータにとってのテクノロジー

(その2)




その3 クリエータにとってのハイテク

新しい技術が登場すると、それを使った「アート」と称するものがでてくる。先ほど述べた昔のCG、シンセミュージックをはじめ、ビデオアートやハイテクアートはこのところ百花撩乱である。
しかし、「こなれた技術」が登場してきた現在から振り返ってみると、これらの作品は「目先の変化」で面白がらせているだけで、本当の意味で「表現」に至っていないものが多いのに気づく。
これは、これらに使われている技術が、当時はまだ初期的段階で「ソフィスティケート」されていないため、技術を取り扱うだけでも難しく、本当の意味で、クリエータが表現の手段としては使えるレベルに達していなかったためだ。だから、単に操作ができるというだけの「オペレータ」が、表現したいセンスやイメージもないのにクリエータ気取りでつまらない「作品」をつくることになる。
たしかに、今までに見たこともない色や、聞いたこともないような音がでてくれば、それなりに人々はびっくりするだろう。しかし、それだけでは、技術のデモではあっても、「作品」ではありえない。
新しいハイテク技術が、本当の意味で表現の手段となるためには、いわば絵筆のような、クリエータにとってイメージを自然にカタチにできるような道具としてこなれてくる必要がある。特別な勉強をしたオペレータでなくては使えない段階では、クリエータにとって魅力ある表現道具とはならない。
アウトプットできる画像や音声が、ナマと比べてもヒケをとらないようなクオリティーに達しつつある今、これらの技術を新しいソフト作りに活かすためには、クリエータにとって自然なマンマシンインタフェースが必要になる。そして、このマンマシンインタフェースを実現するものも、ハイテク技術なのである。
もっと身近な例でいえば、ワープロもそうだ。初期のワープロソフトは、単文節変換であった。専門のオペレータにとっては、このほうが速く入力できるため、いまでも電算写植など、プロ向けのインプット方式としては広く使われている。しかし、考えながら書くのには至って不向きな道具であり、この段階では鉛筆と紙にかわる思考ツールとはなれなかった。だが、連文節変換、文法解析、学習機能など、使うヒトのクセを取り込んで、思考を妨げることなく入力ができるようになると、充分紙と鉛筆を代替できるようになった。いまでは、ワープロ書きを基本としている作家やライターも多い。
技術を表現の道具として使うためには、進んだ技術をこの自然なマンマシンインタフェースの実現のためにこそ使うことが必要なのである。


その4 ソフトビジネスとマルチメディア

多くのハイテク技術と同様に、マルチメディアも、マルチメディア丸出しでは、一般のユーザレベルではけっして受け入れてもらえないだろう。マルチメディアは、ユーザにとっては、オーディオ・ビジュアルの情報をディジタル化して扱うことで、コンピュータの情報処理能力をもって、より楽しくより多様に楽しめるところにアイデンティティーがある。ユーザにとっては、テレビとか、ビデオとか、映画とか、既存のオーディオ・ビジュアル系の「メディア」と同じ顔をしていてはじめて、気楽に楽しめるモノとなる。どんなに高度なテクノロジを使っていたとしても、コンピュータ剥き出しでは、けっして受け入れてもらえないだろう。
たとえば今はやりのVRも、実写同様のリアルさと迫力でシミュレーションができなくては、こなれた技術とはいえない。実写映像のシミュレータクラスの画像が、リアルタイムで合成できてはじめて、バーチャル「リアリティー」といえる。ポリゴンがぐるぐるまわっているようでは、先ほどあげた10年前のCGと同じことだ。
今回のプロジェクトについても、やはり同様のことがいえる。マルチメディアだからといって、コンピュータがでかい顔をしてはダメだ。コンピュータなんてものは、基本的にはデバイスにすぎない。最終目的ではありえない。ユーザにとってはあくまでもビデオデッキであるが、じつはその仕組みとしてコンピュータやディジタル技術が、ものスゴい処理をしていることが重要だ。ビデオやテレビと同じ顔で、じつはコンピュータがそこで大きい役割を果たしているという姿にしてこそ、マルチメディアは普及する可能性がある。逆に、いくらスゴいコンピュータテクノロジを使っていても、いままでと同じに見えてしまっては意味がない。技術的にいくらスゴくても、直接体験するアウトプットがゲームマシンと変わらなければ、それはユーザにとってはファミコンと比較されてしまうのだ。
さて、エンターテイメントは受動的なところに面白さがある。自分から働きかける「参加型」のエンターテイメントも楽しいときには楽しいが、日常的に受け入れられるものではない。一般に受け入れられるのは、やはりゲームセンターよりディズニーランドなのだ。
これに加えて、多くの場合、メディア接触とは「ヒマつぶし」を目的としている。だから、メディアが提供するエンターテイメントは、当然、気楽に楽しめる受動型のほうがいい。しかし、人間はわがままである。受動的とはいっても、勝手に送り手が送ってくるものでは満足できない。自分の趣味にあうものを楽しみたいのが人情。受動的でも、ヒトと違う楽しみができる仕組みが求められている。ここにこそ、マルチメディアの真の可能性があるのではないか。
知らず知らずのうちに、コンピュータが自分にあった作品を仕上げてくれる。しかし、自分がコンピュータをいじるのではない。この仕組みがウマくつくれるかどうかが、マルチメディアが成功するかどうかの分かれ目となる。

おわりに ソフトからみたハイテクの規格

日本の技術は全体としては優れているが、日本の技術陣が極めて不得意としている分野に、「規格化」がある。なぜか、日本の技術者がつくった規格は、規格として必要にして充分という範囲を越え、全部の仕様を決め、枠をハメてしまわないと気が済まないといわんばかりに、決めが多すぎて、その後の発展や可能性を奪ってしまう。これに対し、規格化がうまいのはアメリカである。アメリカの規格は、共通な環境をつくるのに最低限必要とされる、ベーシックな部分のみ仕様を決め標準化する。だから、ある規格を定めても、その寿命は長い。
個人レベルでいえば、日本にもアメリカにも優れた技術者はいるし、ユニークな技術者もいる。1対1なら、世間でいわれているほどの違いはないだろう。日本とアメリカの技術にもっとも違いがあるのは、もしかするとこの部分なのではないだろうか。そして、この規格のもつ「発展性」が、日進月歩の技術をベースとするハイテクの時代においては、大変重要な問題となるのである。
ハード屋からすると、どちらの規格もありうるものだろう。しかし、ソフト屋からすると、全て枠をハメてしまう「規格」は、自由な発想や可能性を奪ってしまうものなのだ。この点、アメリカ流の「規格」のほうが望ましいのである。
例として、ICカードをあげてみよう。ICカードもいろいろいわれだして久しいが、その割にはなかなか実用になっていない。それは、ICカードが、単にシステム側とカード側のインターフェースの規格でいいものを、カードの中のハード的な構造まで規定しようとしているためだ。そうこうしているうちに、その規格自体が時代遅れのものになってしまった。というわけである。
これは、元来ノートパソコン用のRAMカードドライブの規格だったPCMCIAが、その融通性からモデムをはじめとする各種周辺機器とのインタフェースとしても使われるようになったのと好対象である。
ソフト屋からすれば、共通の基盤の上で、いろいろなものが同じように扱えることが好ましい。スケールメリットのあるハードの上にしか、ソフトビジネスはなりたたない。だから、CD/Iのように、ハードまで含む規格用のソフトに対しては、なかなか食手を動かさない。これなら、一般のCD-ROMでつくって、MacだWindowsだと、各機種用のドライバをくっつけてだしたほうが、ずっとスケールメリットがいきる。
だから、今回のテーマに対しても、あまりきっちりした仕様ではなく、たとえばVTRをインテリジェント化し、制御用コードをテープに入れるという場合も、単に入れ方だけを決めておき、利用法や制御する中身については、アイディア次第でどんなものでもできるようなものとすることが重要ではないだろうか。


講演資料(93/08)



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